その群れはすべてを無に帰す

曇戸晴維

その群れはすべてを無に帰す

 男には三分以内にやらなければならないことがあった。

 

 朝から男のスマートフォンにはLINEの通知が鳴り止まず、それのほとんどは恋人からの連絡であった。

 寝ぼけ眼のまま開いて見てみれば、おはようから始まった連絡は徐々に心配を伝える文章になっていた。

 

 そこで気付いた。

 寝坊したのだ。

 束の間、電話が鳴り響く。

 バイト先からだった。

 

 瞬時に考える。

 電車の時刻、準備時間、LINEの返信、バイト先への言い訳。

 寝坊してバイトに遅刻しても早く着くに越したことはない、と思った。


 バイト先ではどうせ作業服に着替える。

 洗顔と寝癖を整えさえすれば、あとはその辺に投げてあるものを着て上着を羽織ればいい。

 LINEの返信は音声入力を駆使すればすぐ終わる。

 次の電車は十一分後。

 駅までは走れば五分あればいい。


 三分。

 三分だ。

 それらを三分で終わらせれば、次の電車には余裕をもって間に合う。

 

 寝坊して遅刻している時点で余裕も何もないのだが、そう判断した。

 

 そうと決まれば、と洗面所へ走った。

 顔を洗い、歯を磨く。

 

 口を濯ぎ、音声入力を起動し返信しようとする。


「寝坊した!返信できなくてごめ「宅急便でーす!」ん!」


 安アパートの玄関を貫通して鳴り響く声。

 それは音声入力にまで反映されていた。

 男は舌打ちをしながら文面を編集する。

 そして大声で


「置いておいてください!」


 と返すと服を着替え始めた。


 靴下を履きジーンズに足を通す。

 着古したパーカーを着て上着を羽織る。


「よし!」


 間に合った、と玄関に手を掛けたその時、立ち止まった。


 響き渡る腹の音。

 爆音だった。


 耐えられなかった。


 男の心は折れた。

 今さっき履いたジーンズを脱ぎながら、トイレへと向かう。

 生まれたての子鹿のように震えながら。

 かろうじて便座に座ると現れたのは、全てを破壊しながら突き進むバッファローの群れだった。

 それは男の焦りですら、無に帰しながら進んでいった。


 スマートフォンから着信音だけが、虚しく鳴り響いていた。

 

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その群れはすべてを無に帰す 曇戸晴維 @donot_harry

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