海の無慈悲な女神サマ
天柳李海
第1話
俺には3分以内にやらねばならないことがあった。
「総員退船せよ! 船が沈むぞ!!」
そんなのわかってる。俺は辺りを見回したが、びょうびょうと吹きすさぶ風と横殴りの雨のせいで海上は大荒れだ。嵐で視界が効かなくなったせいで、俺の乗る商船――ギアロス号は、暗礁に乗り上げぶつかってしまったのだ。
穴が開いた船底からは、ごおごおと大量の海水が流れ込んでいる。いや、すでに舳先は海の中に突っ込んでいて、マストにしがみついている俺を道連れに、本当にあと三分で沈んでしまう。
雨と強風で視界が効かない海上へ俺は目を凝らした。
みんな船から脱出できただろうか。積載されていた小型ボートの姿は見えなかった。それも僅かな間――巨大な三角波が押し寄せてきて白い牙を向きながら俺を船ごと頭から飲み込んだ。
おい。あと三分、船は浮かんでいられたはずだったのに!
俺はどうやら間に合いそうにない。
すまない――みんな。
こうなったのは俺のせいなんだ。
凍えるような冷たい海水に俺の体は包まれて、間もなく意識が遠くなった。
そして。
――ふっと目が覚めた。
「気づきましたか?」
頭上から声がする。小鳥のように軽やかで……でも少しだけ不安が滲むように小さなそれが。
目を開くと、真珠色に輝く滑らかな岩肌の天井が見えて、青髪を肩口からゆるく伸ばしたぐらいの女性が俺の顔を覗き込んでいた。ここは洞窟のような所だろうか。つやつやとした岩のせいか、彼女の後ろから光が差していてちょっと眩しい。
「海で死んだものには救済が与えられます」
青髪の女性――いや、少女か。あどけなさを残す見た目は十代の彼女が、微笑みながら口を開いた。髪には様々な色に輝く沢山の真珠で飾られていて、耳飾りの珊瑚と同じ色をしたつややかな唇はぷっくりとして可愛らしい。
「……なんだよ、それ」
漠然と海に沈んだことは覚えている。ぶっきらぼうにつぶやくと、目の前の青髪の美少女が瑠璃色の瞳をまんまるにして付け加えた。
「ぜっ、全員ではありませんが」
「全員じゃないのかよ!!」
俺は思わず飛び起きた。体の痛みとかそんなものはなにもない。ただ海に飲まれたせいでシャツが脱げて上半身は何も着ていないが、ズボンと愛用のブーツだけは無事だった。
俺は目にかかる長い銀色の前髪を手で振り払った。しまった。お守りの飾り布はなくしちまったか。うっとおしいが仕方がない。
「私は海の女神――青の女王になるため、見習い中の身です。あなたは不慮の事故で死んでしまいましたが、生き返ってやりなおす機会が与えられました」
「見習い……海の女神の?」
「えっ、気になる所はそこですか?」
「青の女王はどうしたんだよ。船乗りの守り神は、俺を、いや、俺達を助けてはくれないのかよ」
少し幼さの感じられる瑠璃色の瞳が俺をじっと見つめた。
「ごっ、ごめんなさい! 実はあなたにお詫びしないといけないことが。私がクジラの子をびっくりさせたせいで、あなたの乗っていた船に突進してしまったのです」
「なんだって? じゃあ船は暗礁に乗り上げたんじゃなくって……」
「そうなります」
しょげかえる自称・海の女神の見習い。
「ふふーん。なるほど。青の女王が俺を迎えにこなかった理由はそれか」
「わわっ! すみませんごめんなさい。わざとではなかったのです。そこであなたにこちらをお渡しします。お好きな方をお選び下さい」
「ええっ?」
眼の前には小さな丸い二つの宝玉が現れた。ぷかぷかと海の女神の見習いの掌に浮いている。
「右手の
俺は思案した。3分だけ先の未来を知ることと、3分だけ過去に戻ることができる力。
「両方もらうことは?」
見習い女神は目元を細め、可愛らしく小首をかしげながらつぶやいた。
「意外と強欲ですね」
「当然だろう。俺の船が沈んで船員が死んじまったのはあんたのせいなんだぜ?」
「ううっ……!!」
「神様といえど、過失で人間を死なせたんだ。救済というのなら、手段は複数あったほうがいいに決まっている」
「わかり……ました」
「よし、じゃあ俺は、これでもう一度やり直せるんだな?」
「はい。ですが」
見習い女神が念を押すようにじっと俺をみつめた。
「その力を使うことができるのはどちらも『一回だけ』です。忘れないでくださいね」
視界が急に真っ白な光に包まれた。
意識が遠くなる。
◆◆◆
ごおごおという風の音。
視界がきかないと報告する仲間の航海士の声。
俺は上半身裸ではなく、白いシャツに赤皮のベストを着ていることを確認した。前髪が目に入らないように頭に巻き付けている、お守りの飾り布も確かにちゃんとある。
あの見習い女神サマ。本物だったか。
ということは、ここは海に沈む前の商船ギアロス号か。俺は今、舵輪を握りしめて嵐と戦っている。軽々と船を持ち上げる横波をその操船術で躱して乗り切っていく。
俺はそう、雇われの操舵手だ。だが舵を取る俺のせいで、船が暗礁に乗り上げて海に沈むことになった。
いや違う。俺のせいじゃなかった!
あの見習い女神様が、あろうことか子クジラを脅かしたせいで、ギアロス号にぶつかったのが真相だ。
それにしてもおかしいとは思ったんだ。大海のど真ん中で暗礁に乗り上げるはずがないんだよ。
しかも俺は舵取りにかけては、20年のキャリアをもった超ベテランなんだ。
俺は今二十歳だ。世間では若造と思われる年だけど、実はおふくろが船長をしていた船で生まれたんだ。赤子の頃から船に乗っていて、船が家だったんだぜ。
今は理由あって雇われ航海士として、こんなしけた商船の舵取りをやっているけど。
そうだ――。
俺はズボンのポケットの右側に手をすべらせた。
硬い手触り。指でつまんで取り出す。
こっちは「3分先の未来を知ることができる」藍宝石の宝玉。
さすが海とゆかりのある石だ。売っても良い値になりそうな気がする。
そして、左側のポケットに手を入れてみるとこちらにも確かに丸い玉が入っている。
そっと取り出してみると鮮やかな緑色が美しい「3分前の過去に戻ることができる」緑柱石の宝珠があった。
俺はふと思った。
結果として、この玉の力は同じことじゃないか?
俺は船が沈む前の状況に戻った。つまり、3分先の未来はもう知っている。
あのふざけた海の女神見習いサマが、クジラの子を驚かせて俺の船にぶつけてしまったのだ。船が沈む未来を変えるためには、3分前の過去に戻って船の進むコースを避ければ良い。
「おおっ!?」
なんだなんだ。大きな衝撃がしたぞ。おい、もう船が暗礁――いやクジラの子がぶつかったのかよ。10分以内にこの船は海底に沈む。
俺は3分だけ過去に戻れる玉――緑柱石の宝珠を取り出し祈った。
◇◇◇
ごうごう。風の音が俺の銀髪をそよがせて通り過ぎていく。
よし、過去に戻った。今度こそ船を、みんなを守ってみせる。
俺は風が強まることを理由に、帆を下ろして船の速度を落とすことにした。
あの海域に入らなければ子クジラを避けることができるはずだからだ。
仲間の水夫たちがマストに上げた帆をおろしたので、船の進みが遅くなった。激しかった横揺れもおさまっている。
これでいい。これで子クジラとの衝突は避けられる。
すると俺が舵取りをしている後方の船長室の扉が急に開いた。酒を飲んでやがったのか、船長が顔を真っ赤にして出てきた。こっちは嵐の海と格闘しているっていうのに。いいご身分だぜ。
「おい! 誰が帆を降ろせと言った!」
「船長、すいません。航海長の俺です。風が強いんで帆がもっていかれそうだったんですよ。舵もきかなくなるし」
「馬鹿野郎! 船の針路を決めるのは船長の俺だ。舵取り風情が口を出すな」
「しかし――」
船長の太い腕がのびてきて、俺のシャツの首元をぐいと掴んだ。
「荷の到着が一時間遅れるたびに、報酬金額も減っていくんだぞ! 『一番茶』が最高値で付くんだ。二番目じゃ意味がねえんだ! この大馬鹿野郎が!」
船長の罵声とともにパアンと銃声がして、俺は天を仰いでいた。
震える手で胸に当ててみると真っ赤な血が溢れていた。
見習い女神サマよ……こっちの選択も詰みじゃねえか……。
俺は咳き込んで喉に溢れた血を吐いた。
こうなるなら、もう一つの珠の力、『3分先の未来』も見ておけばよかったなあ。そうしたらあの人殺し船長を怒らせずに済んだかもしれない。
ああ、目の前が暗くなってきた。もう遅いか。
過去に戻れる玉の力は使っちまったから、やり直しはできない。
死んじまうのかな?
再び船は帆を張ったようだ。ミシミシとマストが軋む音がする。
欲張り船長が。あんたはそのせいですべてを失っちまうんだ。馬鹿野郎はお前の方だ。
俺はもう一つの玉――3分だけ先を知ることができる力を持っている宝珠をぐっと握りしめた。
死ぬ俺にはもう無意味だけどよ。
教えてくれ。この船は、俺はどうなっちまうのか。
『あらあら。また来てしまったのですね。仕方がありません。私が子クジラをびっくりさせて、あなたの船と衝突してしまったんですもの』
青髪の見習い女神がやさしく微笑んでいた。
そうか、またあんたに会えるのか。
暗くなる視界の中で、船が何かにぶつかる衝撃音が響いたが、俺の心はとても穏やかだった。
次の選択は間違えない。
だから、待ってろよ。
「……」
「………」
「…………」
見習い女神サマ?
どうした。
俺はまた海に沈んだぞ。
あんたが驚かせてしまった子クジラが船に衝突して。
「私は海の守り神――青の女王。海で死んだものは救済が与えられます」
おお、きた来た――!!
「ですが、全員ではありません」
(終わり)
※お題によっては続くかも?
海の無慈悲な女神サマ 天柳李海 @shipswheel
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