後編

 振り向くと、スーツを着崩きくずした痩躯そうくの男が立っていた。しゅっとした顔つきをしているが、気だるげで、あまりやる気のなさそうな感じがする。


「えっと、だ、誰ですか?」


 俺が尋ねると、男はさも当たり前のように答えた。


「客だけど」


 確かにそれはその通りだが、もう一つ聞きづてならないことがあった。


「あの、問題に答えると言ったような気がしたのですが……」

「ああ。近くに座っていて聞こえたものでね」

「まさか、フェイさんとデートするのをねらっているんですか……?」


 俺が警戒しながら尋ねると、男はちょっと目を丸くして「デート? あんた、この坊ちゃんとそんな約束をしているのかい?」と言って、俺の隣に座るフェイさんに尋ねた。すると彼女は、ただ目を細め、にこりと笑う。

 男はそれだけで彼女の言いたいことが分かったのか、「ふーん」と言って、話を続けた。


「君は、デートのことを気にしているようだけど、俺はそういうのには興味ないんだ。どちらかというと、思考の近い人間と深い話をしたい……ただそれだけさ」


 するとフェイさんは、テーブルにひじをついてふふっと楽しそうに笑う。


「あら、それは面白そう。興味あるわ。あなたの答えを聞かせて」

「ちょっ、フェイさん! まさか、この人が答えたらデートをするつもりですか?」

「デートはしたくないとおっしゃっていたけど?」

「だからそれは興味ないって言っているだろう。その代わり、面白い話をしようじゃないか」

「あなたの答えが私が納得できるものだったら、そうしましょう」

「よしきた」


 すると、男は俺の隣に座り、持っていたグラスをカウンターに置いた。どうやらウイスキーをロックで飲んでいたらしい。


「それで、あなたの答えは?」

「『全てを破壊しながら突き進むバッファローの群れについてどう思うか』だろ? 『そんなことはあり得ない』。それが俺の答えさ」


 俺はその答えに文句を言おうとしたが、その前にフェイさんが反応した。


「どうしてそう思うの?」


 驚いてフェイさんのほうを見ると、瞳の奥が楽しそうに笑っている。

 俺が問題をくときの目とは違う。だが、女の目というのでもない。

 男の口から、どんな話が出てくるのか、本当に面白がっているようだった。


「そもそも状況がつかめない。『全てを破壊しながら突き進む』ということは、彼らは何か破壊できるものの上か、もしくは中を走っていることになる。だけど、バッファローは本当にそんなことをすると思うか?」

「そんなの分からないじゃないですか」


 俺がむっとして尋ねる。だが、男は風に揺れる草木のように、全く気にした風もなく答えた。


「そうかな? そういえば知っているかな。バッファローというのは、水牛かアメリカバイソンのことを指すんだよ。多くの人は、ヨーロッパバイソンやアフリカバイソンも、その部類に入ると思っているようだけどね。それと水牛のほうは、東南アジアのこと。彼らは家畜として、人々の生活を支えている」


「じゃあ、水牛のほうが暴走して、群れで人間の住処すみかを全てを破壊しながら突き進んでいるんじゃないんですか?」


 俺がそう言うと、男はちびちびとウイスキーを飲んでから答えた。


「問題には『人間の住処を全て破壊する』とは書いていないだろう?」

「そうかもしれませんが、『バッファローが何を破壊しているのか』を考えなくてはならないでしょう。だとしたら『人の生活に馴染なじんでいる水牛が、人間の家を破壊している』と考えたほうがいい。違いますか?」

「そんなことにはならないさ」


 男はそう言ってわずかに笑う。


「どうしてです?」


 余裕を見せつけられ、俺は思わずむきになって尋ねた。


「今まで、『飼っている水牛が群れを成して全てを破壊しながら進んだ』なんて聞いたことがあるか?」

「聞いたことはないですけど、知らないだけであったかもしれないじゃないですか」


「じゃあ、もう少し分かりやすく言おう。雄が興奮して暴れることはあっても、群れ全体がそんなことをすることはない。家畜だから群れを成すことはほとんどないからだ。仮にそう状況があったとしても、群れで何かを破壊しながら進んでいったら、仲間全員が傷つくだろう。そうなったらどうなる? 彼らは自分たちの子孫を残すために、仲間どうして助け合って生きているのに、そんなことをしたら元も子もないだろう」


「……」


 言われてみればその通りである。

 俺は反論の言葉を考えていたが、中々思いつかず結局開いた口を閉じた。


「人間は生き物のことを勘違いしている。彼らが強力な力を発揮し、暴走しているように見えるときは、それなりの理由がある。そして群れで動いているというときは、破壊が目的じゃなく、己の種をできうる限り残すための手段として行っているから、あり得ないと俺は答えたんだ」


「でも、もしかするとあるかもしれないじゃないですか……」


 俺はこの男に言いくるめられたような感じがするのが悔しくて、悪あがきをした。すると男はちょっと笑って、小さくため息をついた。


「そのときは、バッファローが人間に対して復讐心ふくしゅうしんを抱いたときか、薬か何かで興奮させられて、人間の都合のいいように動かされるときだろうよ。……まあ、俺の考えだがね」

「……」


 俺はうつむいて、目の前にあるワイングラスを見た。

 フェイさんがついでくれたときから半分減ったそれだが、何だか自分に見合わぬものを出されているようで、「お前にはまだ早い」と言われているような気がした。


「さ、どうかな? 俺の答えは」


 男は声の調子を変え、俺をはさんだ先にいるフェイさんに尋ねた。


「楽しませてもらったわ。今夜はあなたのお話に付き合ってあげましょう」


 顔は見なかったが、彼女が満足そうな表情をしているのは声だけで分かった。

 ああ、すごく悔しい。

 だが、どうやってもこの男に勝てる気がしない。


「それは光栄だね。では、認めてもらったことを記念して。乾杯」

「乾杯」


 俺がいるせいで、男とフェイさんのグラスがぶつかることはなかったけれど、彼らは間違いなく、心の中でグラスをぶつけ、カチンと音を立てていた。

 俺はそれを聞きながら、フェイさんの問題を解くのは、もっと自分を磨いてからではないと無理なのだと思うのだった。


(完)

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