博士の朝飯前の挑戦

春成 源貴

 

 茂呂博士には三分以内にやらなければならないことがあった。

 二〇一五年七月一日午前八時五七分。

 博士は古びたビルにある小さな研究室で、コンピュータの前に座ったまま、ただひたすらにキーボードを叩き続けている。三十年以上稼働し続けている巨大なクーラーが低い音を立てながら冷風を吐き出し、博士の座る机の上の書類を軽やかに震わせていた。

 博士は額に汗を滲ませながら、必死に脳を回転させ、プログラムを紡ぎ出し、この部屋で唯一最新鋭の新型コンピュータに入力し続けている。

 時間との闘いだ。

 大げさに聞こえるかもしれないが、あと約三分。午前九時を迎えると、世界は大混乱に包まれ、下手をすると人類が滅ぶかもしれないのだ。

 

 事の発端は本当にバカバカしい。

 某国の国家首脳が日本が誇る某インスタント食品を食べようとして、カップにお湯を入れた。

 このインスタント食品は蓋を半分開けるタイプなのだが、お湯を入れて蓋をしたものの、なかなかきちんと閉まらない。テープやシールの類いは近くに見当たらない。そこでその首脳は、手元にあったスマートフォンを重し代わりにカップの蓋の上にのせた……と思ったら、国家機密の端末だった。

 元来おっちょこちょいで失言の多かった首脳だけに、ポケットの中に端末を入れていたのはいけなかった。もちろん、確かめないのもいけない。おまけに、あろうことか、世界に向けて最大戦力を撃ち出すスイッチの着いた端末を、スイッチを下にして置いてしまったのである。

 もちろん、何重にもセキュリティーの設定された端末のスイッチが起動するはずはない。

 ないはずだった。

 インスタント食品に使うお湯は、熱いほどいいものだ。

 湯気の熱と湿気は、繊細な端末を故障せしめ、本来は複数の承認はプロセスを経て実行される発射命令が、一瞬のうちに発令された。

 不幸中の幸いは、本日の朝九時になると同時に実行されるようにセットされ、時間的余裕が少しだけあったことだ。何度か行われた試験訓練後に、ズボラな首脳が、設定をリセットしなかったことが功を奏したらしい。

 この国が滅びるのは、その首脳を選んだ国民の責任であって、勝手にすればいいのだが、世界に迷惑がかかるとなれば話は別だ。

 というか、迷惑で済むレベルではない。

 あちらこちらに向けて連絡が行われた結果、友好国の国民であり、その端末の開発にも少しだけ助力した茂呂博士にも、命令解除をするために力を貸して欲しいと連絡があった。 

 それがほんの三〇分前。


 寝起きだった博士は、せっかく入れた熱いコーヒーに氷を放り込むと、それを一気に飲み干し、コンピュータの前に陣取った。すぐに某国の軍事ネットワーク網へアクセスし、件のシステムを取り込むと、取消命令を組み込むためにプログラムを書き始める。

 おそらくは世界中で同じことが行われているのだろうが、とにかく、一刻も早く修正プログラムを確定させなければならない。博士は頭の中でプログラムを描きながら、同時に時間を計算する。

「後九十秒」

 博士は呟いた。残りの行程を考えると、三秒ほど余裕はある。

 だが突然、低く唸るような音を立てていたクーラーがバチンと音を立てた。何かが詰まったような音がして、ファンが止まる。

 普段であればなんということのない、ただの故障だが、集中に集中を重ねた博士には、世界が壊れるような轟音に聞こえ、一瞬、思考が停止してキーを打ち損ねた。

 慌てて文字を消し、すぐに続きを打ち始めるが、わずかに時間をロスする。時間を再計算。

「……一秒……足りないか?」

 画面の左には大きく今の時刻が表示されている。


『午前八時五九分五〇秒』


 一秒ずつカウントされ、残り時間が減っていく。


『午前八時五九分五九秒』


 最後の部分を打ち終わり、決定キーに手を伸ばした瞬間、さら表示が変わった。

「しまった!」

 茂呂博士の脳裏に失敗の二文字が浮かぶ。決定キーが叩かれた。その瞬間に画面に最後の瞬間の時間が表示される。


『午前八時五九分秒』


『送信』の文字が大きく画面に現れ、時計を隠す。

「あ……そうか……間に合ったのか……」

 そのまま呆然としたように博士は固まっている。机の脇に置いてあった電話が鳴り出し、博士はゆったりと受話器を取った。

「もしもし……ええ……はい。ええ……はい。よかったです。もちろん、他言はしませんよ……はい……では詳しいことは後ほど」

 博士は静かに受話器を置いて、両手を上げて伸びをする。それから、カレンダーを見て、頭を振って苦笑いを浮かべた。

 七月一日に赤い丸と『閏秒』の文字。

 世界を救ったのは、人間の発明だった。数年に一度、原子時計との時間調節のために一秒だけ差し込まれる閏秒。

 博士は大きくため息をつく。そして、朝ご飯がまだだったことを思い出す。といっても買い物をサボっていたため、カップ麺くらいしか残っていない。

 博士は大きくため息をつくと、お湯を沸かすために部屋を出て行くのだった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

博士の朝飯前の挑戦 春成 源貴 @Yotarou2019

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ