化け物とムダ毛のための鎮魂歌
しぇもんご
Ich liebe dich
俺には三分以内にやらなければならないことがあった。
あと三分でこの変身は解けてしまう。そうなれば、残るのは疲れ果て、上半身の服が消し飛んだ生身の体だけだ。ここは異世界とはいえゲームやマンガの世界ではない。失った命にリセットが効かないように、消し飛んだ服も元には戻らない。
だが、そんなことはどうでもいい。問題は乳首の毛だ。この戦いが終われば、なんやかんやでアンナとハイタッチをすることになるだろう。そのとき俺は半裸だ。アンナは相手の視線や重心のわずかなズレから、次の行動を読むことができる。その優れた洞察力をもってすれば確実に気づくはずだ、この右乳首に生えた三センチの
どうすればいい?
アンナが乳首毛フェチである可能性に賭けるか。いや、無謀すぎる。そんな女性がいるなど聞いたことがない。前の世界でこっそり読んだアン○ンのフェチ特集にも書いていなかった。
ならば、やはりこの戦いの最中に処理するべきだ。俺の【ミネラルバッサー(ミネラルウォーター)】なら、おそらくアンナにも気づかれることなく切断することが可能だろう。だが、しかし……。
もったいない。
三センチだぞ!? 髪の毛とは訳が違うのだ。まずもって生えてきたことが奇跡。それを大切に大切に育ててきたのだ。この世界の昆布っぽいやつも大量に摂取した。それを、こんな形で失うのはあんまりだ。せめてもう少し時間があれば心の準備ができたかもしれない。だが三分は、あまりにも短い……。
いや、それより、もっと切実な問題に目を向けるべきか。今の俺は上半身がブロッコリーなのだ。俺の乳首と乳首に生えた毛がブロッコリーのどこに対応するのか、まるで見当がつかない。これでは【ミネラルバッサー(ミネラルウォーター)】で乳首そのものを切断しかねない。男の乳首など実際にはなんの役にも立っていないそうだ。そのうち進化の過程で消滅するとまで言われている。
だが、今じゃない。
いかん、もう二分を切った。苦戦している演技も、もはや限界だ。キレの悪いブロッコリーパンチを心配してアンナが近づいてきてしまった。
「調子が悪そうね。いいわ、今日は私がフォローしてあげる。なんとか隙を作るから、タイミングを合わせて貴方の【イッヒ ビン シュトゥデンティン(私は女学生です)】でとどめをさしてちょうだい」
正気か!?
すでに【イッヒ レアネン ドイチェ(私はドイツ語を勉強します)】を使ってブロッコリー化しているのだぞ!? そこに奥義である【イッヒ ビン シュトゥデンティン(私は女学生です)】を使えばこの周辺一帯が吹き飛びかねない。そうなってしまえば、乳首の毛とリンクしているかもしれないブロッコリーの毛先もタダではすまない。
くそっ、なにを言っているのかわからなくなってきた。ブロッコリーの毛先ってどこだ!
とりあえず、この作戦は中止だ。俺は平静を装ってアンナに伝える。
「ぶぶ」
だからブロッコリーは嫌いなんだ。すべての言葉が「ぶぶ」になってしまう。
「ふふ、いい返事ね!」
どこがだ!? おい、やめろ! 私はわかってるわよって顔をするな!
ちくしょう、行ってしまった。やるしかないのか? ダメだ、ブロッコリーでは思考がままならない。もう一分を切った。
隠すか。
変身が解けた瞬間に乳首を隠す。多少カッコ悪いが、やむを得ない。だがアンナの洞察力を考えると、片方だけ隠すのはおそらく悪手。やるなら両方だ。いっそクロスの法則を使ってもいいかもしれない。対角線を意識することで所作に艶が出るというアレだ。つまり右手で左乳首を、そして左手で本命の右乳首を隠すのだ。
いや待て、なぜ所作に艶を出す必要がある!? そもそも両手が乳首で塞がれて、ハイタッチができない!
くそっ! もう時間がない。
こうなったら賭けるしかない、アンナの母性に。
いや、そうだ、はじめからそうするべきだったんだ。アンナなら、俺のすべてを理解し受け入れてくれるはずだ。それこそが、俺たちの求めた理想のパートナーのあり方だ!
俺は、空を自在に飛びながら敵を翻弄するアンナに向かって声を上げる。
「ぶぶ(アンナ、信じてるぜ)」
「はっ! なに謝ってんのよ、調子狂うわね! そんなのお互い様でしょ!」
お前には何て聞こえてるんだよ。
ダメだ、やっぱりイマイチ信用できない。だけどもう【イッヒ ビン シュトゥデンティン(私は女学生です)】はキャンセルできない。やるしかない!
音が消え、世界が白に染まる。
やがて光が収まると、そこには抉れた大地と、調子外れの青空だけが残っていた。
巨大なクレーターの縁に立つ半裸の俺。その左隣にアンナがそっと着地する。過剰なまでの破壊の跡を見つめながら、俺たちはそれぞれ片手をあげる。俺は左手を、アンナは右手を。
パチン。
静かな大地に響く乾いた音が、巨大な穴の中で木霊する。それはさながら化け物たちに捧げる
いい感じだ。なんか思ったより威力が出たせいで有耶無耶にできそうだ。チラッと確認したが、右の乳首から伸びる三センチも健在だ。埃っぽい風に乗って、気持ちよさそうに泳いでいる。
ゴン。
なっ! どういうことだ。いい感じだったのに、いきなりアンナが俺の胸に頭ゴンしてきやがった。
「……もう、こんな無茶はやめて」
まずい、センチメンタル劇場の開幕だ。アンナの身長は俺の顎より少し低い。俺の胸に頭を預けている今の状態だと、彼女の頭頂部がちょうど俺の乳首と重なる。つまり、まだ気づかれてはいない。だが、
「貴方の体が
やめろ! それっぽいことを言いながら頭で乳首をグリグリするな! 抜けたらどうするんだ! だいたいブロッコリー化に代償なんかあるわけないだろ。もう支払ってるんだよ、変身先がブロッコリーであるという特大の代償を。
「……ふふ、力強い鼓動。貴方もドキドキするのね」
情緒どうなってんだよ。ジェットコースターか。
こっちは気が気じゃないんだよ、俺の大事な三センチがお前の絹のような滑らかな髪に溺れて一人で哭いてるんだよ。
俺がどうすることもできずに口を噤んでいると、やがてアンナがゆっくりと俺の胸から頭を離す。
そして、その視線の先についにソレを捉える。乳首から伸びた孤独な毛先を見つめるときでさえ、彼女の顔は美しい。だがそこに僅かな戸惑いと憐憫の色が浮かんでいたのを俺は見逃さなかった……もう嫌な予感しかしない。
「……なるほど。敵ながら、敬意を抱かずにはいられないわね。彼らはたとえ毛の一本になっても貴方に食らいついた。そういうことね?」
違う。そういうことじゃない。それは俺の乳首毛だ。
「いいわ。その執念を讃えて……私が送ってあげる」
言うが早いか、俺の乳首の先でアンナの人差し指に炎が点る。強い意志を宿した小さな炎。俺の乳首毛は、まるで
「……儚い、わね」
俺は何も言うことができなかった。乳首の先がとても熱かったが、それさえも飲み込んだ。
俺の目尻から零れた雫をアンナの指先が掬う。炎を宿し、すべてを終わらせた美しい指先。
「貴方でも、泣くことがあるのね」
「……そう、だな」
見上げた空に、もう煙の跡はない。抱いた理想は儚く散っていった。
化け物とムダ毛のための鎮魂歌 しぇもんご @shemoshemo1118
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます