下
――――腕の中の確かな温もりに安堵し、寝惚けた日和は名を囁いた。
「くーちゃん……」
日和がゆっくりと目を開くと、端整な美貌が目の前にあり、愛おしげに日和を見つめていた。
「起きたか?」
九能に添い寝されていたのだと理解が追いつき、日和は驚いて飛び起きる。
「きゃわひゃふんっ!?」
「なんだその鳴き声は? ……ふっ、はははは」
一瞬、妙ちくりんな日和の声にきょとんとした九能だったが、吹き出して愉快そうに笑う。
(いくらふわふわで気持ち良かったからって、くーちゃんと九能様を間違えるなんてどうかしてる……くーちゃんは灰色の仔犬で尻尾だって小さいの一つで、九能様は白狐で立派な九尾を持っていらっしゃるのに、毛並みだって全然違う……なのに、どうしてこんなに懐かしく感じてしまうんだろう?)
日和がチラリと九能の様子を窺うと、じっと見つめていた九能と目が合う。
(そ、それより、寝顔をずっと見られていたなんて、恥ずかしい……)
羞恥心でポッポッと日和の顔が熱くなる。そんな日和の顔を、首を傾げて九能が覗き込む。
「うむ。よく眠れたようだな、顔色が良い」
納得したように頷き、九能は笑う。
「さて、腹が減ったぞ。朝餉にしよう」
「え、あ、わぁっ!?」
またしても日和は抱き上げられ、九能が歩きだす。
「じ、自分で歩けますからっ」
「すぐそこだから気にするな。ふふふ」
満面の笑みを浮かべる九能は、日和を降ろす気がないようだ。
(なんでそんなに嬉しそうなんですか? 情けない姿ばかり見せている期待外れな花嫁の筈なのに……もしや! 朝餉って、私が美味しく食べられてしまうなんてことは――)
◆
「それ、日和。あー」
「あーん、もぐもぐもぐ、ごっくん」
(――ありませんでした! ほかほかの出来立てご飯、とっても美味しいです!!)
食事の仕度がされた広間に抱えらていった日和は、九能に手づから朝餉を食べさせられていた。
「あの、九能様……私は何故、また食べさせられているのでしょう? それも膝の上で……」
「夫婦というのは、お互いの世話を焼くものだろう? ならば、我が日和の世話をするのは当然のことだ。ほれ、あー」
日和は躊躇するも、目前のほっこり湯気を立てている白米に屈する。
「ぐっ! ぱくっ、もぐもぐもぐ、ごっくん。美味しすぎるのがいけません!!」
そんな夫婦の姿を微笑ましく眺め、少し離れた所で妖狐達が話している。
「これはまた、ご満悦ですね主様」
「あんな幸せそうなお顔、初めて見ました」
「巫女様の胃袋を掴む気満々ですよアレは――」
妖狐達は夫婦に詰め寄っていき、主である九能に訴える。
「――で・す・が! 巫女様に尽くせと仰ったのは主様です。わたくし共にもお世話させてください!」
「そうですそうです。主様が全部お世話してしまったら、わたくし共の仕事がなくなってしまいます!」
「わたくし共も可憐な巫女様のお世話をしてイチャイチャ――こほん、こんこん。仲良くしたいです! 主様ばかりズルいです!!」
妖狐達の勢いに押されてたじろいだ九能は、日和をひしと抱きしめて負けじと言う。
「なっ、なんだお前達、新婚夫婦の間に割って入るんじゃない! それに何か変な願望が混ざっていなかったか? 日和は我の花嫁ぞ? 日和の世話も我のものぞ!!」
「えぇえ!?」
やんややんやと日和は取り合われながら、九能と妖狐達に世話を焼かれた。
怖しい想像とはまったく違った、和やかな時が過ぎていったのである。
◆
――数刻後。
片時も花嫁を手放そうとしない九能の溺愛ぶりに、日和は困惑していた。
「あの、九能様……私は何故、離してもらえないのでしょう? ずっと膝の上なのですが……」
城下を見渡せる御殿の最上階。
見晴らしの良いその場所で、九能は日和を膝に抱えていた。
「共に生きると言ったからな」
「え……?」
夜景を眺めながら、九能は語って聞かせる。
「昔、雨乞いの巫女に我は救われた。それから巫女を守る為、人に仇なす妖を退け、我は戦い続けた。やがて数多の妖を従える頭領となり、人の国々をも治める国主となり、人と和平を結んだのは、すべては雨乞いの巫女である日和と共に生きる為だ」
日和は九能の想いを知り、胸が詰まった。
一瞬、仔犬との思い出が脳裏をよぎったが、そんな筈はないと思い直す。
(弥生様とそんな話をしていたなんて……弥生様は覚えていないようだったけど、きっと巫女の雨が九能様を救ったんだろう。九能様は救われた恩義を忘れず、今まで尽力してきたんだ。そんな強い想いで、巫女を花嫁として迎えたのに……それなのに、嫁いできたのは、身代わりの私だなんて……)
九能は困ったように笑い、日和を見つめて希う。
「度が過ぎているのは分っているのだが、これまで離れていた分、どうしても離れ難い。もう少し、今しばらくは、こうして触れ合える喜びを噛み締めさせてくれ……頼む」
そう言うと、九能は日和に腕を回し抱きしめて、柔らかい九尾で覆った。
(この温もりも優しさも、本物の雨乞いの巫女に向けられるべきもの……私が九能様の望む巫女だったら、どんなに良かったか……私は望まれた花嫁じゃない、偽物の巫女……ごめんなさい、九能様……)
九能から大事にされればされるほど、日和の胸は切なく痛んだ。
◆
――暫しの月日が経過し、日和は九能の愛情深さに惹かれ、想いを寄せるようになっていた。
(一緒に過ごせば過ごすほど、離れ難くなっているのは私の方……本来は弥生様に向けられるべき、九能様の一途な想いが、優しい温もりが、愛おしくて苦しい……)
九能から笑いかけられる度に、日和は胸が絞めつけられ、愛しさと切なさが込み上げるのだ。
(九能様の幸福を真に願うのなら、本当のことを告げるべき、弥生様と引き合わせるべきなのに……弥生様だって、これだけ大事に愛されるのなら、嫌ではない筈だから……それなのに、私はずっと真実を打ち明けられずにいる。偽物の巫女だと知られ、九能様に嫌われることが、何よりも怖いから……)
九能は日毎に元気がなくなっている日和を心配していた。
花を見せに庭園へ連れてきても日和の表情は浮かばれず、九能は尋ねる。
「どうした、日和? 近頃、よく気落ちしていないか?」
「なんでもありません。少し考え事をしていただけです」
日和は心配をかけまいと、精一杯に微笑んで見せる。
だが、その姿はとても儚げで、目にする者の心を奪う。
(このまま夫婦でいられたら、ずっと九能様の側にいられたら、どんなにいいか……ああ、私はなんて卑しい女なのだろう……本当の私を知ったら、九能様はどんな目で私を見るのか……それを考えただけで、怖くて……怖くて仕方がない……)
微かに震える日和を、九能はそっと抱き寄せ、九尾で覆い隠した。
「何か悩んでいるのか? なんでも話して欲しい……我に言えんことか?」
「いえ……里の人達は今頃どうしてるかと思っただけですから」
いつかは手放さなければと思いつつ、日和は九能の優しい温もりに浸る。
◆
庭園の散歩を再開すると、騒々しい声が聞こえてくる。
夫婦が様子を見に行けば、多くの人が集まっていた。
「何事だ?」
「これは、主様……それが、人里の者が押しかけてきて、巫女様に会わせろと言って聞かないのです」
「どうか雨乞いの巫女様に会わせてください! お願いします!!」
集まった人々の中には日和の見知った顔もあった。
神社周辺の里に住む村人達だ。
「……どうされたんですか?」
日和が前へと出て行くと、村人達が必死に訴える。
「雨乞いの巫女様、お助けください! お力をお貸しください!!」
「雨乞いの巫女様が嫁いでから、神社周辺の里にはまったく雨が降っておらず、水が枯渇して飲み水にすら困っている状態です。土地は荒れ果て本当に酷い有様なのです。どうか雨をお恵みください!」
「そんなことが?!」
まさかの事態に驚き、日和は考え込む。
(弥生様がいれば、神社の周りが水不足になることはない筈、なのにどうしてそんなことに……?)
巫女に縋り付こうとする手を九能が威圧感で制し、日和に問う。
「どうする? 無理に雨乞いなどしてやる必要はないが……」
集まった人々と九能を見つめ、日和は考える。
(困っている里の人達を放っておくことはできない。なんとかして救わないと……それに、これはきっと、九能様と弥生様を引き合わせられる機会。たとえ、九能様から嫌悪の目を向けられることになっても、九能様の幸福を真に願うのなら、私は行かなければならない……)
日和は決意し、真っ直ぐに前を見据えて告げる。
「水に飢える人を放ってはおけません。神社へ行きましょう」
日和の凛とした清麗な姿に誰もが息を呑む。
九能は頷き承諾する。
「そうか……分かった。日和が望むなら、そうしよう」
「おお! ありがとうございます、雨乞いの巫女様! 国主様!!」
村人達が感謝する中、夫婦は早々に神社へと向かっていく。
また、村人達の一部は感謝しつつも首を傾げ、小声で話していた。
「……なあ、おい。雨乞いの巫女様はあんなに可憐なお方だったか? 前にお会いした時はもっとこう、なんと言うか、お顔がまったく違ったような……」
「……ああ、やっぱりそうだよな? 俺も別人のような気がしたんだが……しかし、国主様に嫁いだのはあのお方だろう? あのお方で間違いない筈……」
夫婦の後を追って、村人達も神社へと向かったのだった。
◆
村人達の訴え通り、神社周辺の里は干上がり、悲惨な状況だった。
「これは……ひどい荒れよう……」
神社も境内も手入れがされた形跡はなく、荒れ放題だった。
「九能様、家の者に話を聞いて参ります。少しお待ちください」
「……分かった」
日和は九能をその場に残し、人の気配のある屋敷へと入っていく。
散らかった部屋を進んでいくと、弥生と神主の姿を見つける。
「日和?!」
「どうしてお前がここにいるんだ?!」
神主親子は散財しているのが見て取れる、豪華な着物や宝飾品を身に纏い、御馳走を頬張っていた。
「里の人から雨が降らないと訴えがありました。何故そのようなことに?」
「もぐもぐ……別に。あんたの嫁入りの支度金がたんまりあったから、供物を貢がせる為に雨乞いをする必要がなかっただけよ」
「もうそろそろ支度金も底を突くから、また雨乞いで貢がせなければならん。飢えさせておくくらいで丁度いいんだ」
「貢がせる為?! そんな理由で……里の人達は飲み水にも困っているんですよ!」
日和が訴えると、弥生は値踏みするように日和を眺めて言う。
「わたくしに口答えするなんて、随分偉そうになったわね。そんな上等な着物を着て、良い暮らしをしてそうじゃない。妖に食い殺されるかと思っていたけど、そんなこともなかったようね」
九能が誤解されるのは嫌だと思い、日和は事実を述べる。
「九能様は……国主様の花嫁として、大変大事にしていただいております。何一つ不自由などございません」
「ふうん、そう。なら、やっぱりわたくしが国主様の花嫁になるわ。あんたはもう、わたくしのふりをしなくいいわ」
「っ!?」
日和は逡巡するが、意を決して告げる。
「今後、必ず雨乞いの巫女としての務めを果たすと、約束してくださるのであれば、私は従います」
「ええ、勿論。わたくしは慈悲深い雨乞いの巫女ですから、憐れな人に雨を恵んでさしあげますとも」
日和は苦渋の決断で頷いた。
◆
「国主様。わたくしが本物の雨乞いの巫女です。どうぞ、わたくしを花嫁として迎えてください」
突然、迫ってきた弥生に面喰い、九能は目を眇めて日和に訊く。
「……何を戯けたことを言っているんだ、この女は?」
「九能様……弥生様が本物の雨乞いの巫女なのです」
「日和まで、何を言っている?」
九能が困惑した表情を浮かべ、周りに集まっていた村人達も混乱する。
「雨乞いの巫女様が二人?」
「どちらが本物なんだ?」
九能は皆の前ではっきりと明言する。
「雨乞いの巫女は日和で間違いない。我の花嫁は日和だけだ」
「九能様、違うのです……」
九能が見つめる先、首を横に振る日和の前に弥生が身を乗り出し、八花鏡を掲げて見せる。
「この鏡こそが、わたくしが雨乞いの巫女である証です!」
それは確かに本物の八花鏡――日和の母の形見だった。
九能は険しい目で弥生を睨み、低く重い声で命じる。
「世迷言を……そこまで宣うのであれば、本物である力を示せ。雨を降らせて見せるが良い」
「ええ、勿論。わたくしが雨を降らせてご覧に入れます」
胸を張る弥生は意気揚々を答え、鏡を掲げて祈り口上を述べる。
「雨を司る天の神よ、巫女の願いを聞き届け、この者達に恵みの雨を与えたまえ」
しかし、いくら待っても雨は一向に降らない。
「え……? そんな筈は……? どうして降らないの……?」
「ふん、当然だ」
狼狽える弥生を鼻で笑い、九能は日和に寄り添い、優しく助言して雨乞いを促す。
「気負わずにありのまま思うことを祈ればいい。そうすれば天が応える。それが雨乞いの巫女の力だ」
「私が思うこと……」
日和は思うがままに祈る。
「誰も飢えぬよう、苦しまぬよう、恵みの雨が与えられますように。大切な人が幸福になれますように」
日和が祈れば、大気が揺れ――
ぽたり……ぽつり、ぽつり……ぱらぱら、ぱらぱらぱらぱら。
――雨は降る。
「雨だー! 恵みの雨だー!!」
村人が歓声を上げ日和を称える。
本当の雨乞いの巫女は日和だったのだ。
「こ、この鏡には何の効力もなかったってこと? そんな馬鹿な……」
思い違いに気付いた弥生は絶望し、その場に崩れ落ちて膝を突く。
屈辱の怒りに震え、八花鏡を叩き割ろうと振り上げる。
「何よっ、こんなもの!」
「やめてっ!!」
日和が叫ぶよりも早く、九能の影が伸びて弥生の動きを封じた。
「日和の血縁だからと大目に見てやれば、どこまでも付け上がりおって……怒りに駆られて八つ裂きにしてしまいそうだ」
恐ろしい形相の九能に締め上げられ、神主親子は命乞いする。
「ひぃっ!? ごめんなさい、ごめんなさいっ!!」
「命ばかりはお助けを! どうかお慈悲を!!」
「命が惜しくば身の程を知り、分を弁えることだな。痴れ者が!」
九能が神主親子を放り捨てると、村人達が親子を取り囲んで睨み付ける。
九能は手に持つ八花鏡を日和の首にかけてやる。
「そら、大事な母の形見だろう。やはり、持つべき日和が持つからこそ、この鏡は輝く」
天の光を返して、鏡は眩く煌めいていた。
日和の口から疑問がこぼれる。
「どうして、九能様がお母様の形見だと知って……?」
「幼い頃、肌身離さず持っていただろう」
それを知る者はいない筈だった――唯一の存在を除いて。
「もしかして……くーちゃん?」
「もしかしなくても、そうだが。……なんだ、気付いていなかったのか? 褥で愛称を呟くから、気付いていると思っていたぞ」
まさかの事実を知り、夢のような話に日和は混乱して質問する。
「くーちゃんが九能様で、九能様がくーちゃんで……ずっと私を想っていてくれたんですか? ずっと頑張っていてくれたんですか? 私が子供の頃に言ったことを叶える為に?」
「そうだ。執念深い男に捕まったと思って観念するんだな。もう手放すつもりはないぞ」
不敵に笑う、けれど確かな愛情を感じる笑みを向けられ、日和は九能への想いが募っていく。
「嬉しい……九能様と離れなくていいんだって思ったら、すごく嬉しくて仕方ないです……」
胸がいっぱいになり、溢れた想いが雫となって日和の目からこぼれ落ちる。
ワッと声が上がり見れば、日和の気持ちを代弁するような、明るい日差しが射す雨空に大きな虹がかかっていた。
「虹……綺麗な天気雨。『狐の嫁入り』ですね」
泣き笑いして囁く可憐な花嫁を、九能は愛おしげに抱き寄せる。
「我に嫁入りしたのは日和だ。幼い頃の約束通り、これからはずっと共にいる」
「はい、ずっと一緒です。九能様、心からお慕いしております」
憂うことのない、偽りのない、心からの想いを告げ、日和も九能を抱きしめ返した。
◆
日和は本当の雨乞いの巫女として多くの者達から感謝され、人からも妖からも称えられ慕われた。
その反対に、偽りを騙っていた痴れ者と知れ渡った弥生親子は、疎まれ肩身の狭い思いをする。
日和と九能は時折、水に困る人を救う為に雨乞いをしながら各地を巡る旅をした。
それにより、方々の国は益々豊かに栄え、飢えることも争うこともなく、人と妖が共に暮らせる平穏な時代が訪れる。
そんな時代を築いた二人は、これ以上ない素晴らしい夫婦と称えられ、皆から祝福されて、いつまでも仲睦まじく暮らしていく。
――虹のかかる『
生贄の花嫁のはずが、九尾の旦那様に溺愛されています ~雨乞い巫女の身代わり婚~ 胡蝶乃夢 @33himawari
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