アイアイ傘
樹村 連
アイアイ傘
「こんにちは。アイアイです」
しとしとと冷たい雨が降る日。俺は、1人で傘を差しながらずぶ濡れの道を歩いていた。そんな時にそいつは現れた。
「あ…アイアイ?」
「そうです。アイアイです」
アイアイといえば、大抵の人は『アイアイ』の歌、童謡を連想するだろう。どうやらそのアイアイとやらは猿らしいのだが、動物図鑑でその実際の姿を確認してみるとまあなんということか。顔はリスのようだが愛嬌などなく、がっと見開かれた丸いギョロ目が終始睨みつけている。体は粗く真っ黒い毛皮を纏い、なんといってもかぎ爪がついた指がやたら長い。それも中指が。これは木の中に住む芋虫なんかを引っ張り出して食べるためにそう発達したらしいが…なんとも奇怪である(指を使って木々を打診し、芋虫を探すこともできるらしい)。一応は霊長類であって猿の仲間、広く捉えれば人間の『いくらか遠い親戚』みたいなものだ。こいつはマダガスカル島に住んでいるらしい。同じくマダガスカル島に住むキツネザルを恐ろしく改造したような見た目なのだ、アイアイというのは。島の現地人に伝わっている伝承では『この動物は悪魔の使いであり、目が合ってしまうとそのかぎ爪で引き裂かれる』という。呑気に童謡なんか歌っている場合ではない。
前置きが長くなった。ともかく、俺の目の前にアイアイが現れた。しかも、日本語を喋って。首から上は動物図鑑で見たアイアイの顔そのものだ。だが、首から下は人間の胴体、四肢を備えている。アイアイ…というか、アイアイ人間?いや、人間アイアイ?
「こんな雨の日に出歩くなんて、大変ですねえ」
「…そういうあんたも出歩いてるじゃないか。いや、てか何者だよ」
間違いない、こいつは明らかに言葉を喋った。このアイアイは上下(人間の胴体と四肢の部分のこと)を黒いスーツで固めている。まるで葬式に行く時の格好だ。右手には、黒い傘。まあ雨が降っているから普通だが…そうは言ってもひどく不気味に見える。
「さきほど言ったとおりです。アイアイですよ。ほら、有名な童謡の。ア〜イアイ…」
「お猿さ〜んだよ…の、アイアイ?」
「そうです。一応、皆さん童謡を知ってくださるだけありがたいもんです」
「…何用だよ。俺は急いでるんだ」
「この傘を、あなたに貸したいんです」
「は?俺は既に傘を握っているじゃないか」
「いやいや。実はこの傘はですね、『アイアイ傘』なんです。この傘を使って誰かと相合い傘をすると、永遠に結ばれる。これを是非ともあなたに貸したい。孤独で、異性に恵まれず、1人寂しく…」
「うるせえな!なんだよ、女と相合い傘すればいいのかよ」
「その通り。ですがね、最低限の注意事項がありまして」
アイアイはその傘を持ったまま話し始めた。ざっとまとめると、以下のような事を彼は述べた。
・男女のペアがこのアイアイ傘で相合い傘をすれば、お互いがお互いを好きになる。
・雨の日でないと効果はない。晴れた日に使っても、単なる日傘である。
・使用するには特定の手順を踏まなければならない。↓
その1、雨の降る日に男がアイアイ傘を持って、傘がなくて困っているまたは軒下などで雨宿りしている女を探し、見つける。
その2、男の方から声をかけ、女に傘に入ってもらう。この時に傘の持ち手を女に触らせてはいけない。
その3、男女2人で相合い傘をする。そして一歩踏み出せば、永遠に結ばれる。
・1人だけ傘に入っている場合は普通の傘として機能する。
・3人以上入った場合は相合い傘の条件を満たせない。
・女の方から相合い傘に誘った場合は、同じ手順で両思いになれる。
・男と男、女と女の場合(同性)も同じような手順を踏めば両思いになれる。
・折り畳む事はできない。
・強靭かつ衝撃に強いため、台風の日に使っても壊れない。
「あと、このアイアイ傘ですが。これは私、アイアイの持ち物です。今からあなたに貸しますが、あなたが借りている間は絶対に他の人に貸さないでください。できるだけ他人に触らせないように。これだけは守ってくださいよ?」
「ああ、わかった。じゃあ、まあ、試してみる」
俺がその傘に視線を落とした一瞬の間に、アイアイはもういなくなっていた。雨の降る夕暮れに、俺と俺の傘と、そしてアイアイ傘が残された。
アイアイ傘は見た感じでは至って普通の黒い傘だ。アイアイのストラップとかが付いているわけでもないし、『アイアイ』と名前が書いてもいない。ともかく、俺は次に雨降りになるまで、このアイアイ傘を手元に置いて待つことにした。
アイアイに会ってから1週間経とうかという日、ついに雨が降った。俺は、アイアイ傘を差して目的の場所へ向かった。これでも俺は学生で、男女共学の私立高校に通っている。俺が密かに好意を寄せている女性もそこに通っているのだ。ちょうど、下校の時間。今まで目を見て彼女と話すことすら緊張でろくにできなかったが…このアイアイ傘さえあれば…一発逆転だ。
ところが、彼女は傘を既に持参していた。ベージュ色の、大人なデザインの傘。小柄な女性用の小さめのサイズの。そして、俺がポカンとしている間にさっさと校門を出てその小さな傘と共に行ってしまった。しまった。相合い傘をするのに、男女の両方が傘を持ってたら話にならないじゃないか。
「ああ、それを忘れていましたね。女性なら誰でもいいというわけではなかったんですか」
「そうだよ(憤慨)少なくとも、譲れない嗜好は誰にでもあるだろ」
失敗してから3日後に俺は、アイアイと偶然に会って話していた。この日も雨降りだったが例の彼女はやはり傘を差していた。俺はどうも納得いかない。
「なあ、このアイアイ傘は本当に効果あるのか?」
いつのまにか俺はアイアイ傘を普通に自分用の傘として使っていた。アイアイの方は、雨ガッパを纏っている。フードの部分からアイアイの獣の顔がぽっかりのぞいている。
「じゃ、証明してみますか。濡れてしまいますが一旦、アイアイ傘を返してください。そしてちょっと移動します」
時刻は午後7時。雨が降っているが駅前の繁華街は人が行き交って賑やかだ。俺はコンビニの狭い軒下で待機している。アイアイ傘の効果を確認するためだ。アイアイはというと、雨ガッパ姿でアイアイ傘を差して周囲を見回している。誰かを実験台にして相合い傘をさせるという。
「…アイアイ傘を使いませんか。これで女性と相合い傘をすれば…できますよ」
街の喧騒と雨音で、アイアイの声は聞き取りづらい。だが、1人の中年男性がアイアイに声をかけられ、傘を勧められたかと思いきやそいつはアイアイ傘をひったくるように取った。そして雨宿りしている女を探し始めた。アイアイは俺に手招きで合図する。
「傘をあの男に貸しました、尾行しますよ」
中年男性は飲屋街の片隅で、すっかり酔ってしまっている若いOLを見つけて相合い傘を迫った。へべれけになった女を抱えるようにして相合い傘を作った。数秒後、抱えられていたOLが逆に中年男に抱きついた。何か言っていたが、聞き取らなくても良かったと思う。俺は濡れネズミになりながらも、アイアイ傘で相合い傘をする男女をアイアイと共に追った。最終的に中年男とOLはラブホテルに滑り込むようにして入っていた…。
アイアイは俺をラブホの外で待たせ、ラブホの入り口に入り、数分してアイアイ傘を持って戻ってきた。
「見ましたか?」
「ああ…」
「ま、差はありますがあんな感じで事は進みます。あなたの場合、問題なのは女性側が雨天が予測されれば傘を常に持参するほど几帳面なことですが」
「それは俺でなんとかする。しかし、アイアイ傘の効果は本当だったんだな…」
また1週間経った。久しぶりに朝っぱらから雨が降り、傘を忘れるのがあり得ないほど傘の使用者が増える日になった。で、彼女だが、やはりあのベージュ色の傘を使っていた。俺はアイアイ傘を使っている。さてどうするか。
俺は、彼女の傘を奪い、どこかに隠してしまうような卑怯な事はしない。だから、彼女の方から傘を手放させることにした。昼休みの間に、美術室にあったラッカースプレーを使いそのベージュ色の傘を見つけて真っ黒に染め上げた。黒い傘を使う人なんてこの学校にいるやつだけでも何十といる。彼女には悪いが、これで傘を無くしたと思うはずだ。
下校の時間になった。やはり雨は降り続いている。皆、其々に傘を差して帰っていく。しかし俺にとっては下校時間ではない、人生で最も重要な時間だ。
傘はわざわざ教室まで持ち込み、自分の机の横に引っ掛けておいた。しかしそれでも絶対に触らせたくなかったので授業中も、移動教室の際も、どこへ行くにしても手放さない。皆は『こいつ、屋根の下でも傘をさす気か?』と思っていただろう。とにかく時間が来た。俺はアイアイ傘を携え、昇降口へ向かった…
昇降口は殺人的な混み具合だった。雨の日特有の、準備に手間取るやつが起きるからだろう。誰も彼も転んだり、膝をついたり、ぶつかったりしている。俺は彼女が傘をなくして絶望しているところに現れた救世主となるため真っ先に外へ出て待とうとし、全力で出ようとした。押すなよ、危ないぞ、などと声を飛ばされる。声に意識が一瞬向いてその時、俺は転んだ。アイアイ傘が手から離れた。皆の急ぐ足が、床に落ちた傘を蹴り飛ばしていき俺の手の届かない場所まで追いやってしまう。誰かの手がアイアイ傘を取った。自分の傘と間違えた、馬鹿野郎だ。よく考えるとアイアイ傘も多くの人が使いがちな黒い色の傘だった。俺は大声を出したがまるで聞こえていないか声がかき消されたかのように傘を取ったやつは無言で去っていき…アイアイ傘も見失った。
慌てふためいて、傘もないまま雨降る外へ出た。アイアイ傘はどこへ行った?いや、それより傘を無くしているはずの彼女は?そんな事を考えながら彷徨いていると、ふと視界に俺がいつも意識を集中させている存在が映った。
彼女だ。
別の男の傘に入っている。相合い傘だ。楽しそうに語り合っている。
俺は体が空っぽになったかのようになって、濡れながら歩いてた。いつのまにか、顔面もずぶ濡れ。雨を浴びたからなのか、それとも知らぬ間に泣いていたからなのかはわからない。やるせなさ、自責の念、空虚感…それらがどっとものすごい勢いで俺を囲んでいた。
「ダメだったようですね」
聞き覚えのある声。振り向くと、アイアイがいた。だが雨ガッパは着ておらず、最初に会った時の黒いスーツ姿。俺と同じように雨を浴びて濡れている。しかしなぜか俺の目には彼の体は全く濡れていないように見えた。しかも、その表情は険しい。獣が威嚇しているような…激昂しているような…
「目的を果たせなかったばかりか、アイアイ傘を他人に渡してしまうとは。言ったはずです、『絶対にアイアイ傘を他人に貸すな、渡すな』と」
「そ、それは」
「アイアイ傘の効果は本当です。しかし、人間の関係性というのはアイアイ傘のようなずるいアイテム無しで、人と人との純真な心が向き合って作っていくものであるはず。私は期待したんですよ、あなたならアイアイ傘を使わないで例の女性と結ばれるだろうと」
「…」
「これだから人間はダメなんだ。動物を支配して地球と自然を全部手に入れたのに、人間自身が人間の心そのものを我がものとして上手く扱うことができない。猿がちょっと賢くなったのが人間だというけど、これではむしろ猿の方がもっと理想的な文明を築けるんじゃないか?」
いつのまにか、アイアイの会話は恭しい敬語から、タメ口に変わっていた。
「ま、とにかくお前は約束を守ってくれなかった。アイアイ傘はどっかへ行ってしまった…もちろんすぐに私の手元にもどってくるけどな。こうするつもりは無いんだが、この世界のルール上他に手はない。悪いな、恨むなよ」
アイアイはそう言うと、その長い指を露わにした。かぎ爪がギラリと光る。俺は…意識を失った。
ア〜イアイ ア〜イアイ ア〜イアイ ア〜イアイ お去るさ〜んだよ♩
ア〜イアイ ア〜イアイ ア〜イアイ ア〜イアイ お去るさ〜んだよ♩
※補足。童謡の『アイアイ』の作詞者は、アイアイという動物の姿を動物図鑑で確認して作詞したものの、野生のアイアイがどのような生活をしているのかという事、マダガスカル島でアイアイが不気味な動物だとされている事は知らなかったらしい。図鑑の出来が悪かったからこそ、アイアイという恐ろしい生き物が陽気な童謡のテーマに昇華できたとも考えられる。アイアイの本当の姿が明らかに掲載された図鑑をもとに作詞されていたなら『アイアイ』は童謡ではなくサイケデリック・ロックかデスメタルとして作られた曲になったかもしれない。
アイアイ傘 樹村 連 @dotrine
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