バッファローは止まらない!
汐良 雨
幕は上がった
我々には三分以内にやらなければならないことがあった。
幕が上がってしまえば、役者がセリフを飛ばそうが、宙吊りの舞台装置が落ちてこようが、誰にも止めることができない。そういったアクシデントも含めて、全く同じものは一度きりしか見られない事こそが舞台の醍醐味でもあり、客はその場限りのエンターテイメントを楽しみに来ているのだ。
公演初日、必要な準備は全て終え、役者の体調を含め万全の状態で幕を開けた。初日ということもあり、客席はほとんど見知った顔で埋まっている。客の反応は上々、確かな手応えを感じ、役者達のテンションも上がっていた。いや、上がりすぎていたのかもしれない。
「あれは!全てを破壊するバッファローの群れだ!」
なんて?
舞台裏、次の場転に備えて大道具のセットを運んでいる最中だった。耳に飛び込んできた主演の衝撃的な一言に、見えもしない舞台上を思わず二度見する。
ザラザラとした質感を含んだ、色気のある中音域のハスキーボイス。上下の音幅が極端に狭い、悪く言えば「棒読み」と呼ばれる話し方。私の胸中に浮かんだのは、舞台の進行に対する不安や焦りではなく、彼に対する「またやりやがった」という怒りだった。
彼との付き合いは長いが、私は彼の芝居を上手いと思ったことは一度もない。というか、芝居自体は誰がどう見ても下手なのだ。ルックスは悪くないにも関わらず、こんな場末の小劇団で燻っているのが何よりの証拠だろう。それでも彼が主演に起用され続けるのは、彼の「ザ・陽キャ」といった愛嬌のある人柄と、彼のこの舞台に上げると何をしでかすかわからないところをうちの舞監が気に入ってしまったからだ。
舞台袖に回り、客席後方に座る舞監をちらりと見やる。案の定、ご満悦といった表情である。毎度振り回されるこちらのことなど少しも気にしていない様子だ。本当に腹が立つ。沸々と湧き上がる怒りに、ちらりとでも舞監の顔を見てしまったことを後悔する。
「げっ……!なんだあれ!!!」
「おいおい、こっちに向かってきてないか!?」
「あのスピードだと、奴らがここを通るまで三分もないぞ!」
おい誰だ今三分って言ったやつ。対応しきれないから具体的な数字はあげるなと何度も言っているだろう。
テンションの上がりきった役者達は、次々と台本にないセリフを展開させる。こうなってしまってはもう誰にも止められない。この舞台において、三分後に全てを破壊するバッファローの群れがここを通り過ぎることは確定事項なのだ。我々が今すべきこと、それは三分後にバッファローの群れを通過させる方法を、三分以内に考えること。
繰り返すようだが、一度幕が上がってしまえば、舞台は止めることができない。役者がセリフを飛ばそうが、宙吊りの舞台装置が落ちてこようが、全てを破壊するバッファローの群れが三分後に舞台上を通り過ぎる設定が急に生えようが、幕が下りるまでは誰にも止めることはできないのだ。
幸いなことに、この戯曲には演出上「牛」が多く登場する。舞台セットの転換も多く、現在舞台裏に待機している大道具班の人員も多い。あとは音響照明とコンタクトをとって、適当な演出をつければバッファローの群に見えなくもない……はずだ。大丈夫、急な演出変更には慣れている。あの舞監と主演のせいで。
ここからでは見えない舞台上に恨めしい視線を送り、周囲の大道具班の仲間達とアイコンタクトをする。全員「わかっている」とでも言うように重々しい表情のまま黙って頷く。
「おい、どうする!?立ち向かうか!?」
「無理だろ、目視できるだけで数百匹は居るぞ」
はい、詰んだ。十数匹の群れならなんとかなったかもしれないが、数百匹は演出で誤魔化せる数ではない。
今からそれらしいセットを作る時間はない。大きめの布でもあればなんとかなるかもしれないが、ここからでは最寄りの店に向かっても片道で十五分はかかる。とてもじゃないが三分後に間に合わせることは不可能だ。さて、どうしたものか。
「クソッ、あのエクスカリバーさえ引き抜ければ……!」
そうか、その手があった。今回使用している戯曲はアーサー王伝説をモチーフにしたもの。舞台の真ん中にはあれが聳え立っているのだ、そう、
主演であるアーサー王が剣を抜くのは戯曲上ではもう少し先の話だが、タイミングとして今なら問題はないだろう。何せ、民を救うための闘いだ。相手が敵国ではなくバッファローの群れになるだけで、アーサー王の威厳が損なわれることなどない。
頼む、抜いてくれ。と、もはや祈るような気持ちで舞台の方に視線を向ける。
「仕方ねぇ!やってやるよ!」
聞き慣れた棒読みのハスキーボイス。アーサー王役、主演の彼だ。
「うおおおおおおおおおお」
相変わらず起伏のない雄叫びが場内にこだまする。頼むぞ、ここで剣を抜かなければ、ただ中途半端に臨場感の無い叫びを披露しただけになってしまう。その剣を抜いて、バッファローの群れを薙ぎ払ってくれ。
「くそっ、ダメだ!」
ダメだじゃねえよ。お前が抜かなきゃ誰がそれを抜くんだよ。
知っていたはずだ、彼がこういう奴だと言うことは。一瞬でも期待した自分が馬鹿らしい。
がくりと肩を落とし舞台の方に視線を向けると、ニヤリと口角を上げてこちらを見る主演と目が合った。まるで、ついて来いとでも言うようだった。その顔を見た瞬間、私の中で何かが途切れた。もういいや、どうとでもなれ。
彼らが提示した三分後が間も無くやってくる。私が選んだ結論は、「何もしない」こと。
これまでなんだかんだ言いながらやれてきたから、私ならやれると勘違いされていたのだろう。違う、私はあなた達とは違う。なんとか頑張ってしがみついてきただけで、必死に耐えてきただけで、自分のキャパシティなんてとうの昔に超えていた。私は、あなた達が期待するような、そちら側の人間では無いのだと、急に突き付けてやりたくなった。
「あの……」
急に立ち止まった私を見て、大道具班の仲間が心配そうに声をかけてくる。
「いいのよ、これで。私たちは良くやったわ」
私のその言葉を聞いて、彼等は憑き物が落ちたかのように安堵した顔を見せる。なんだ、みんなギリギリだったんだ。
重すぎた肩の荷を下ろして見る舞台は、心なしかいつもより輝いて見えた。アーサー王の面を被った彼だけが、キラキラと輝く舞台の中央で酷く狼狽した表情を見せていた。
「おい、どうするんだ!」
「もうここまで来ちまうぞ……!」
ホールの中に地響きのような音が響く。音響の彼女は真面目だから、きっと最後まで彼等に付き合うのだろう。
音があれば、役者の腕次第でバッファローの群れくらい作れるだろう。なんて、無責任な事を考える。彼等にその腕が無いことは、長年一緒にやってきた私が一番よく知っている。
客席をチラリと見やると、最前列に常連の老夫婦の姿が見えた。旗揚げの頃から公演の度に必ず足を運んでくれていた。
--ここの演劇は何度見ても新鮮な気持ちになれるのよ。
たまたま話をした時に、ご婦人がそう言っているのを聞いた。彼女をガッカリさせてしまうかもしれない事だけが、唯一心残りだった。
与えられた役割を放棄したのだ、きっともうここに立つ事はない。袖から輝かしい舞台上を見る。少しだけ、その光景が名残惜しくなった。
瞬間、ズドンという音とともに地面が消える。いや、その表現は正しくないかもしれない。しかし、消えたと言う以外に形容できない、そう錯覚するほどに大きな揺れがホール全体を包む。
慌てて近くにあった大道具に手を伸ばす。緊急事態でもなお、自分の身よりも舞台セットを案じる自分の職業病に嫌気がさす。
「うわああぁぁぁああああぁぁッッッ!!!!!」
主演のハスキーボイスが響く。なんだ、臨場感のある叫びもできるんじゃないか。と、彼に対する評価を改めた瞬間だった。
メきょ
聞いたことのない音が身体の中を駆け巡る。状況を把握する暇も無く、全身を物理的な衝撃が蹂躙する。
「へ」
次に気がついたとき、私の身体は宙を舞っていた。ほんのりと湿度を含んだ梅雨入り前の晴れた空。木屑と共に舞うザラついたカビ臭さの奥から、新緑の爽やかな香りが漂ってくる。視線を地面の方へと向けると、ホールのあったはずの場所はすっかりと土埃に埋まっていた。
蹂躙されるホールを見下ろしながら思い出したのは主演の顔だった。
「せめてあそこからどう着地するのか、見届けたかったなぁ」
自分で言って笑ってしまった。自分は勝手に諦めておいて、物語のその後が見たかったなど、あまりにも都合が良い。彼に着いていくことがしんどくて匙を投げたはずだった。諦めたのは他でもない、私自身なのだ。
「そうか、私が諦めたから」
何度も言うが、一度幕があがってしまえば何があろうと舞台が止まる事はない。たかだか大道具の、たかだか一人が諦めたところで、全てを破壊するバッファローの群れがあの場所を駆け抜けるという設定が消えて無くなるわけじゃない。
私が諦めてしまったから、その設定がただの舞台上の演出ではなく、現実で起こる事象になってしまったのだと。
重力に引かれ落ちていく中で、脳内を駆け巡るのは走馬灯。どれも、これまでに打った舞台のものだった。
何度も辞めたいと思った。公演が終わる度に、「もう二度とやるか」と思った。それなのに、そんな感情を抱えながらも、十五年も一緒に舞台を作ってきた。それは多分……。
「多分、好きだったんだ。彼らの作る舞台が」
摩訶不思議で、意味不明で、台本通りになんて進みやしない。幕が上がる度に物語が変わって、同じ舞台は二度と見られない。そんな彼らの舞台が好きで、一緒に作るのが楽しかったのだ。
「今更気づいたってねぇ」
フッと息を漏らし、口角を上げる。今更何を思っても、幕の上がった舞台と同じく、落ちていく体が止まる事はない。身体は段々と加速しながら地面へと向かう。私はまもなく襲い来るであろう衝撃に備え、ゆっくりと瞳を閉じた。
♢♢♢
ふわり、と、地面と衝突したにしてはいささか柔らかい感触が背中を包む。全身がやけに暖かいその感覚に、私は思い当たるものがあった。
目を開けると、真っ白な天井。見知った丸いシーリングライトが部屋を照らす。
「はは、夢かぁ」
夢ですら仕事だなんて、とんだワーカーホリックだと、自嘲気味に笑みを漏らす。
外はまだ薄暗いが、二度寝をキメるにはすっかり目が覚めてしまった。観念して立ち上がり、棚に並んだ缶のうちの一つを取る。「マチネ」と名前をつけた、爽やかな酸味とまろやかな甘味が全面に出るようにブレンドしたコーヒー豆。
ゴリゴリとコーヒーミルのハンドルを回していると、「ティロリン」とベッドの上のスマホが軽やかな通知音を奏でる。
『次の戯曲が決まったぜ!アーサー王だ!』
その文面に、思わず吹き出しそうになる。と、同時に私の中を満たすのは高揚感。
「バッファローの群れも出てくる?」
今度こそ、最後まで見届けよう。彼らの作る物語を。
バッファローは止まらない! 汐良 雨 @hanameeen
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます