〆切のためなら悪魔に魂を売ったっていい

冬野瞠

23:57

 秦野はたのには三分以内にやらなければならないことがあった。同人誌の入稿である。

 秦野は限界同人オタクであった。身を磨り減らしながら労働で得た給金は、同人誌を刷り、また同好の志が生み出した同人誌と交換するのに費やしていた。秦野が生きていると実感できるのは、好きなアニメや漫画や二次創作の小説などを摂取している時と、労働で疲弊した身に鞭打って原稿に取り組んでいるときのみと言ってもよかった。

 現在、時計の短針はほぼ午前零時を指し、長針もあと三分でいただきに届こうとしている。秦野は連続二十四時間以上連続稼働して煮えている脳をなんとかなだめすかしながら原稿の最終チェックをおこなっていた。暗がりに沈んだ部屋でPCの液晶にかじりつく姿は妖怪じみている。次に参加するイベントの最終入稿〆切は本日二十三時五十九分五十九秒。これを過ぎてしまうと新刊は当日に間に合わない。つまり、落とすことになる。

 秦野はほとんど肩で息をしながら、血走ったまなこをぎろぎろ動かして活字を追った。

 ちなみに、秦野が生きていると実感しているとき、傍目はためには彼女が死にかけているように見えることに当人は気づいていない。


「成人向けマークはちゃんと入ってるし……台詞は一応全部確認したし……奥付も漏れてる項目はなし。よし、あとは入稿するだけ……!」


 原稿のアップロードは三分あれば充分終わるはず。秦野がボタンをクリックしようとした瞬間、目の前が真っ青に染まった。

 PCのブルースクリーンであった。

 はへ、と秦野の唇から弱々しい声が吐息とともに漏れる。


「うっ、嘘嘘嘘、なんでこのタイミングで、最悪、ちょっとやめてよ、嘘でしょ」


 マウスを無闇矢鱈とクリックするが、普段から挙動が怪しくなっていたPCはうんともすんとも言わなかった。嘘ではなく、現実である。

 刻限は無慈悲に近づいていた。一秒、二秒、三秒。それは秦野にとってまさしく死神の近づく足音に等しかった。

 秦野は泣きながら(オタクにありがちな誇張表現ではなく、本当に滂沱ぼうだの涙を流していた)イベントのことを思った。自分のスペースに「新刊落としました」と書いたスケッチブックを立て、その後ろに罪人のごとくちょこんと座り続ける己の姿を。

 どうしてこんな、ギリギリの入稿になってしまったのか。何が悪かったのか。秦野の脳裏をイベントに申し込んでからの日々が走馬灯のように流れる。イベントのふた月前、まだまだ気持ちには余裕があった。ひと月前、そろそろネームを切るかと考えるものの労働の疲れでPCに向かうのが億劫だった。ま、私は言うても短期決戦型だからな、などと原稿に対して舐め腐った態度を取っていた。三週間前、インフルエンザにかかってイベント前の貴重な数日をフイにした。体力はすぐには回復せず、過去の自分への呪詛を延々と吐きながら原稿に取り組んだものの、進捗の遅れはもはや如何いかんともしがたく、大事な睡眠時間を削った挙げ句にこうして呆然と青い画面を見つめているのだ。

 救いがたいのは、こういった破綻したスケジュールをイベント前に何度も経験していることだった。ギリギリ入稿の成功体験が、秦野に誤った自信をつけていたともいえる。

 秦野は絶望しながら祈った。

 ――神様仏様何でもいいからすべてのありがたい存在の皆様、誰かどうか助けて下さい! 二度と限界入稿はしませんから!


「その祈り、まことだな?」


 深く心に染み入るような男の声が部屋に響き、秦野ははっと涙でぐじゃぐじゃの顔を上げた。

 視線の先に長身の若者がいる。髪も服も真っ暗で、肌は青白く生気に乏しいが、恐ろしいほどに整った顔立ちをしている。そして、癖のある髪のあわいから突き出した山羊に似た立派な角。

 やべえ。限界極めて幻覚が見えてる。秦野はまずそう直感した。


「失礼な奴だな。私はお前が見ている幻覚などではないぞ」


 つかつかと歩み寄ってきた相手が、秦野の思考を読んだようにうっすら笑って言い放つ。


「えっあの、じゃあ、どちら様……?」


 いざとなれば通報できるように横目でスマホを探した秦野は驚愕した。視界に入った、机の上のアナログ時計の針が止まっている。一個が壊れたとき用の予備の時計もだ。安物とはいえ針が同時に停止するなどそうそう考えられない。もしかして今、時が止まっているのでは。非現実的な考えが胸の内をよぎる。

 突然部屋に出現した男は妙に上品な一礼を見せた。


「私は同人誌の悪魔。初めまして、ねぎま塵取ちりとりさん」

「ギャーッ! その名前で呼ばないで!」


 素性不明だが見目麗しい異性にペンネームで呼ばれて秦野は悶絶した。二次創作者にとって予期せぬタイミングで筆名を呼ばれることほど恥ずかしいことはない。適当に思いついた単語を組み合わせただけの名前ならなおさらである。秦野は特にねぎまが好物ではなく、つくねやぼんじりの方が好きだ。

 秦野は突っ込むところがそれ以外にもあることに遅れて気づく。


「あなた悪魔って言った? 本当に? というか同人誌の悪魔なんているんだ」

「正確には、同人誌を愛する〝時間の悪魔〟だがな」

「省略するところおかしいと思うんですけど……」


 あまりにも現実離れした状況に、秦野は逆に冷静になっていた。秦野の同人用のペンネームを知っていること、時計の針が止まっていることから、どうも相手の話は本当のことらしい。そう秦野は結論づけた。おそらく充分な休息を取っていたら見ず知らずの男の主張など鵜呑みにはしなかったろうが、今の秦野の判断能力は酩酊時を遥かに下回っている。


「あのー、それで何か用ですか」


 秦野が恐るおそるたずねると、悪魔を自称する男はさも可笑しそうにははっ!と一笑した。犬歯が獣みたいに尖っていて恐ろしかった。


「用があるのはお前の方だろう。助けてほしいと自分で願ったのを忘れたのか?」

「あ……」秦野は我に返る。じわじわと絶望感が戻ってくる。「あなたがこのパソコンを直してくれるってこと?」


 しかし悪魔は呆れたように眉をひそめた。


「悪魔に何をさせようとしているんだ、お前は。私は時間の悪魔だぞ。お前がイベントに申し込んだ直後に時を戻してやる。原稿をどうにかするのはお前自身だし、どうにかなるかはお前次第だ」


 秦野がごくりと唾を飲み込む音が、いやに大きく響いた。

 時を戻す。そんな物理法則に背くことが、本当に可能なのか。いやそもそも、目の前の存在がことわりに背いている。

 新刊が無事に出せる、秦野にはそれ以上に大切なことなどないのだった。

 悪魔の申し出を受ける前に、秦野にはひとつ聞いておかねばならない事柄があった。


「ええと……悪魔に願いを叶えてもらうときって、代償が必要なんですよね」

「ほお、よく知っているな。そのとおりだ。私がお前に望むのは――」


 悪魔はそれこそ悪魔的な凄みのある笑みを浮かべる。秦野の背すじに冷たいものが走った。悪魔が欲するものの代表といえば魂だ。一冊の新刊のために魂を差し出す度胸が自分にあるのか、秦野は自問した。

 悪魔はおもむろに、秦野が今までに一度も聞いた覚えのない文字列を口にした。


「私が今言ったのは、来期から始まるアニメの名だ。お前はそのアニメを観る。それが代償だ」

「アニメを……観る? それだけでいいの?」


 代償とは名ばかり、交換条件にしても釣り合っていない要求に、秦野は目をしばたたかせるばかり。対して悪魔は、ああ、と深くうなずく。


「納得できたなら、時を戻してもよいか? しっかり計画に原稿を進めて、私に新刊を見せてくれよ」

「あっ、うん。え、ちょっと待って。まさか私の同人誌、今まで出したのも読んで――」


 言い終わらぬうちに、秦野の意識は遠のいていった。



 申し込んだばかりのイベントに向けて、秦野は原稿作業にさっそく取りかかった。

 今日は疲れてるから原稿はいいかな、まだまだ時間はあるし、と考えるたびに、「原稿をどうにかするのはお前自身だし、どうにかなるかはお前次第だ」というが耳に蘇った。

 秦野はくたくたになった後でも、一日にネームやコマ割り、ペン入れやトーン貼りをひとコマだけでもと少しずつ進めていった。いざ作業を始めると、意外と集中してしまって一気に工程が進むこともままあった。

 結局、秦野は最終〆切まで二週間以上を残して脱稿することができた。人生初の優良入稿だった。

 時はそれから少し先へ進む。悪魔から提示された〝代償〟に従ってアニメを視聴した秦野は、たちまちそのアニメにハマった。次の新刊はこれっきゃない。秦野は目をぎらつかせながら確信した。

 秦野はすっかり優良入稿が身についていた。おのが身から溢れるパッションとリビドーを原稿にぶつけ、早々に入稿へと進む。印刷所から印刷がスタートした旨の連絡を受けてから、秦野は忌まわしいブルースクリーンの記憶を呼び起こして悪魔に祈った。

 悪魔はすんなりと来た。呼び出された悪魔は、秦野にじっとりした訝しげな視線を向けていた。


「一体どうしたんだ、ねぎま塵取。また新刊を落としそうなのか? 悪いが、また時を戻してほしいなら今度こそお前の魂を――」

「違います~、もう入稿完了してますう。祝・脱稿! へへん」


 秦野は締まりのない顔で悪魔の言葉尻を奪い、ダブルピースをしてみせた。完全なる脱稿ハイである。


「脱稿ハイの人間は鬱陶しいものだな……」

「なんか言った?」

「いや。〆切が無事なら何の用だ? この前の新刊なら読んだがとても良かった。特に五ページと十七ページの――」

「ちょちょちょ、待ってー! 感想は心の準備をしてないと嬉しくてスライムになっちゃうから別のときに……」


 秦野は両手をぶんぶん振って悪魔を制止した。相手は「スライムって何だ?」という表情をしてはいたが、脱稿ハイの人間を刺激しては面倒だと思ったのか、口をつぐんで秦野の出方をうかがった。


「今回呼んだのは、ひとつ訊きたいことがあったからで。前にアニメを観ることが代償って言ったの、もしかしてあれは私に本を作ってほしかった、から?」


 秦野におずおずと訊ねられ、悪魔はなんだそんなことかと鼻を鳴らした。


「そういうことだ。アニメを観て同人誌を作れと要求するのは主義に反するからな。同人誌はやはり、各々おのおのが各々の湧き出るエネルギーに従って自発的に作るものであらねばならない。私はお前の作る本が好きだから、お前の好きなように描いた本が読みたかったのだ」


 えっこの悪魔、もしかしてツンデレなのかな。秦野は目を細めて相手の彫りの深い顔を見つめた。


「ねえねえ、時間あるなら作品アニメについて語り合わない?」

「私は時間の悪魔だぞ。時間なら腐るほどある」

「あはは、確かに。……あのアニメ勧めたってことは、あなたも観てるんでしょ? 今まで観たことないジャンルのアニメだったけどすごくハマっちゃってさあ……! 語り合いたいこといっぱいあるんだよね」

「ふむ。もしかするとそちらが本題なのでは?」


 秦野は図星であったので、ギクッという顔をした。


「うっ、だって今までとジャンル違いすぎて気軽に通話誘えるオタ友もいないし……」

「悪魔をオタ友扱いする人間は初めて会ったよ。そういうことなら、悲壮感を漂わせて願わなくとも、語りたいから来てと言葉にすれば駆けつけるぞ。私もアニメ語りをする相手には飢えているからな」

「えーっ、そうなの? だったら先に言ってくれればいいのに」


 秦野はむすっとしてわざと頬を膨らませたが、悪魔がぷっと噴き出したのに釣られてからからと笑いだした。愉快な笑い声の二重奏はしばらくやまなかった。



 限界同人オタクの秦野に変な友人ができた。秦野は友と語り合う中で新たな視点を見つけ、作品への解釈を深めていく。

 弱小だった秦野のサークルがやがて誕席に配置されるようになり、いずれ壁サーに成長していくことは、同人誌を愛する時間の悪魔だけが知っている。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

〆切のためなら悪魔に魂を売ったっていい 冬野瞠 @HARU_fuyuno

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ