隠せ!
ニル
隠せ!
五年二組には三分以内にやらなければならないことがあった。
あと三分でチャイムが鳴る。朝の会五分前のチャイムだ。二人一組、五組一列の机が並ぶこの教室で、級友二十五名のうち二十三名が集い、三月のうららかな朝に似合わないひりついた空気がただよっていた。
「やっぱ先生に言った方がいいよ。うちらだけじゃどうにもなんない」
眉を下げてそう言ったのは、クラスで一番成績優秀でしっかり者の
「ダメだよぉ。中原は石頭なんだから、いくら理由話したって絶対あたしたちの味方してくんないじゃん」
最近メイクをしたり髪を染めたりして学校に来るようになった
「じゃあ、桃ちゃんと雪ちゃん、どうすんの」
花梨が焦りで少し泣きそうになりながら、足元で横たわる彼女たちに目を落とした。すると「ねえ」とサッカー部の
「俺たちがさっと学校出て捨てるのは?」
「ばか、可哀想じゃん」
「運んでる時に見つかったらどうすんの」
「可哀想って、しょうがないだろ」
「匂いで人に気づかれちゃうでしょ」
女子たちが口々に反論して、理音は拗ねたように首を竦めて口をへの字に曲げた。他の男子は閉口している。女子には逆らわない方がいい。小学五年生男子、それが分かる年ごろだ。
「てか、床掃除しないとバレるんじゃない?」
女子バレー部の
「ぞうきんに血がついたらバレるんじゃね」
しかし、理音がさっきのおかえしとばかりに反論すると、さらに瑠衣が重ねて
「いや、とりあえずだよ。中原先生、いちいちぞうきんなんて見ないじゃん」
また口負けた理音が苦い顔で、しかし「確かに……」と素直に納得すると、空気を読んだ二、三人の気の利く女子がばたばたと掃除道具入れのロッカーからぞうきんを取り出し、水道に急いだ。
「ねえあと一分でチャイム鳴るよ」
ずっと黙って本を読んでいた
「あいついっつもチャイムと同時に入って来るよな、朝の会まであと五分あんのに」
「わあああ……どうしようどうしよう、あああ……」
どうにかしなきゃ、という責任感ばかりが突っ走って、花梨の目がみるみる真っ赤に潤んでいく。それを見ていた蓮矢が机からぴょんと飛び降りた。
「……俺ちょっと時間稼いでくる」
ぼそりと呟いた蓮也に、理音が「何すんの?」と尋ねれば、彼は「廊下出てスマホ見てる」とずかずか教室を出ていこうとした。無届け欠席・遅刻・サボりの常連で、先生に目を付けられるのに慣れている背中がやけに頼もしい。
蓮也と花梨を何度か交互に見て何かを感づいた理音は、隣に座っている部活仲間の
「えー何それウケる。あたしも一緒行く!」
ひたすら派手なことが好きな美湖もまた、蓮也の背を追って教室を出て行った。
数十秒もしないうちに「こら!」中原先生の甲高い声が廊下の踊り場に響きわたって、それを妨げるようにチャイムが鳴った。きゃはははは、ともっと甲高い美湖の高笑いも混じっていてとても騒々しい。
「あと三分は廊下で説教だな」
中原先生の早口に耳を澄ませて、理音がぼそりと呟いた。
「じゃ、じゃあ、どうしよっか、桃ちゃんと雪ちゃんどこに隠したらいいかな」
「てかさっきから匂いやばいって、早く隠して匂いもごまかした方がいいよ」
「特に桃ちゃんやばい。血っぽい匂いもするし」
「あたし濡れティッシュ持ってるよ。これでふいたら臭くなくなるんじゃない?」
「ベランダに置いとく?」
「向かいの校舎から気付かれない?」
「中原が窓の外見たらばれるだろ」
「えーじゃあどうすんの」
みんなが口々に言い合って収集がつかなくなってきたころ、再び読書に熱中していた綾音がまた、顔を上げた。
「バラバラにして隠したら?」
「でも綾音ちゃん、どこに……」
「ランドセルとか、引き出しの中とか」
いかにも適当と言った感じで綾音が提案したが、女子も男子も口々に「えー」と微妙な反応だった。
「誰のランドセル?」
「汚れるじゃん」
「俺もちょっと……」
「バレた時、そのランドセルの人が一番怒られるやつじゃん」
ざわつくクラスメイトたちに、綾音はさほど気にする様子もなく「あっそ」と我関せずと言わんばかりに読書に戻った。
「ねーえー! もう教室入るの中原あ!」
注意報みたいな美湖の大声で、五年二組一同ははっとして廊下を見た。
「やばいやばい!」
「一旦どうする?」
「ロッカーでいいよ」
「入れろ入れろ」
「入んない!」
「適当でいいから!」
理音と花梨を中心に、何人かが掃除用具入れにわらわら集って、大慌てで彼女たちを中へと押し込み扉を閉めた。みんなして散り散りに自分たちの席に滑り込む。僅か二、三秒のうちに、
「はい、日直さん号令」
といつもの調子で……否、仏頂面で両手を美湖と蓮也の肩に置いた中年の女性教師、担任の中原先生が教室に入った。
蓮也と理音の目が合う。理音が小さく頷いて見せると、蓮矢が手を下ろしたままそっと親指を立てて笑った。
「はい蓮也さん理音さん、ふざけない!」
すぐにばれて、中原先生が鋭く注意を飛ばした。蓮也と美湖の一芝居ですこぶる機嫌が悪そうだ。こんな状態の担任教師に彼女たちのことを知られるわけにはいかない。うつむく者、じっと中原先生の挙動を見る者、ちらちらとロッカーを気にする者。五年二組の面々はそれぞれに緊張していた。
ぴりりとした空気の中、それでも朝の会はどうにか始まった。点呼と欠席者の連絡を終え、日直の瑠衣が一分間スピーチを始めようとしたところで、中原先生が「あら」と理音と秀馬の方を見た。
「そこ、席が近いですよ」
さっき崩していた机の列の乱れが、まだ残っていたのだ。通り道を阻むように雑にくっつけられた理音と秀馬の席を発見して、中原先生がつかつかと彼らの席まで向かう。理音の下まぶたがぴくりとして、彼の方を振り返った花梨が目を見開いてあからさまに動揺した。あそこは、彼女たちを横たえていた場所だ。
「い、いいよお、ほらもう机離したから、こっち来んなって」
ぎぎぎぎ、と床に引きずって理音と秀馬が列を元に戻しても、「なんですか、その言い方は」と中原先生はま眉をつり上げるばかりだ。
「いいですか、あなたたちも、蓮也さんも美湖さんもぉっ!?」
お説教モードに入りかけた中原先生が、きゅっと音をたててその場にひっくり返った。わあっ、とクラス一同が驚きに声を上げる。花梨が「大丈夫ですかっ!?」と慌てて声をかけ、美湖と蓮也はげらげら笑った。
「なんですか、どうしてここだけ濡れているんですかっ」
少し恥ずかしそうに、中原先生は捲し立てた。途端に、教室の雰囲気がぎくりと凍る。
「ええっとお、俺があ……あっ、水筒のお茶こぼした!」
いや今思いついただろ、と言いたげにクラスメイトが理音に注目する。中原先生は眉をひそめて、「本当に?」と疑わしげに理音をにらんだ。しかし、理音がぶんぶん首を縦に振ると、呆れた様子でため息をついただけでそれ以上は何も聞かなかった。
「全く、ちゃんと拭きなさい、もう」
皆んながそれに安堵したのも束の間、中原先生が掃除道具入れに目を走らせる。
「あっ、あとでやるから!」
「そう言って理音さん、放ったらかしにするでしょう。朝読書の前にちゃんと掃除しなさい」
ぽん、と理音の肩に手を置いて、それから中原先生が机の列の間を抜けた。教室の隅っこにひっそり立っているロッカーまで、あと数歩。
「あっ、じゃあ俺自分でとるから!」
二歩。
「せっ、先生、あの、ほんとは————!」
隠し事に限界を感じた花梨がほとんど悲鳴を上げる勢いで告白しかけた時。
がったん。
たてつけの悪い、金属製の古いロッカーを中原先生は開けてしまった。
「———きゃああっ!」
中原先生、本日二度目の尻もちであった。
「だっ、誰ですかこんなことしたのは!」
中原先生は、そう言って彼女たちをロッカーから出した。先生の腕の中、正確には腕の中の段ボール箱の中で、彼女たちがヒャア、と弱々しく鳴いた。箱の側面には、ダブルクリップで留められた彼女たちの写真が一枚ずつと、それぞれにピンクの油性ペンで書かれた「桃」、「雪」の文字。
段ボール箱の中の彼女たち——二匹のみすぼらしい子猫は、カラスにでもいじめられたのか、耳や足にけがをしていて、流行りのマスコットキャラのハンカチをハサミで切った布切れで不器用な手当をされていた。
「け、けど、可愛いからいいじゃん……」
おずおずと、それでもこの後に及んで理音が茶化したことを言うと、中原先生は眉間のしわを深くした。
「あなたですか、理音さん」
「ち、違うし!」
「じゃあ誰ですか、この子たちを学校に連れてきたのは」
「…………」
皆んなが口を閉じて中原先生から目を逸らした。
それから、中原先生は教室の前に戻ると、パイプ椅子に座って教卓の上で手を組んだ。長いお説教の姿勢だ。段ボール箱は、教卓の足元に置かれている。
「いいですか、動物を拾ってはいけませんと言っているわけではありません。小さな命を助けようとする優しさを、先生は否定しているわけではありません。けれども、こうして学校に持ち込んだり、みんなで口裏を合わせて先生に隠し事をしようとすることは、正しいことでしょうか。あなたたちは、もうすぐ六年生です。最上級生の自覚を持って————」
朝読書の時間はとっくに過ぎて、一限目開始のチャイムまであと三分。
五年二組の朝の会はまだまだ続きそうだ。
隠せ! ニル @HerSun
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