暇を持て余した皇帝の遊び
笛吹ヒサコ
本当に泣きたい
ギルには三分以内にやらなければならないことがあった。皇帝陛下への謝罪である。
「わしに謝罪せよ」
いつものようになんの前触れもなく足元に召喚したギルに、皇帝は鉄の声で命じた。
今日も今日とて、白髪金眼の皇帝は神々しい美しい肢体を惜しげもなく晒している。つまり、ギルに言わせれば、どんな男娼も裸足で逃げる破廉恥な腰布一枚の半裸姿。性的な接触を激しく拒絶するほど嫌悪感を抱いているくせに、嫌らしいくらい御身の美しさを見せつけてくるのだから、ギルには理解不能だ。皇帝が破廉恥な服の趣味をやめない限り、宮殿は常に人手不足だろう。
皇帝のためなら祖国を滅ぼすことも厭わないほどの忠誠を誓っている忠臣ギルであっても、あまりにも理不尽な命令だった。なぜなら、まったく心当たりがないからだ。皇帝の機嫌を損ねることは、一切していない。断言できる。
よくぞ「はぁ?」という声を飲み込んだと、自分を褒めてやった。
顔にありありと「意味がわからん」「理不尽」「なぜっ?!」と書いてあるお気に入りの側近に、秀眉を跳ね上げた。
まずいと、ギルは肝を冷やす。
「わしに謝罪したくないようだな」
しかたないと言わんばかりの鷹揚な動きで、右の人差し指を軽く曲げてギルの眼前に懐中時計を召喚する。
「三分だ。三分以内に、わしに謝罪しろ。できなければ、そうだな……まるまると肥えた豚にして、屠殺場に放り込んでやろう」
「……」
冗談ではない。
ガエルにされて、大通りに放り出されて人に踏み潰されないように必死で生き延びた三日三晩よりも、最悪の罰ではないか。
実は皇帝がギルに理不尽な命令を下すことは、時折あった。お気に入りのギル限定だからか、被害のない人は暇を持て余した皇帝の遊びだと言うのだった。生死もかかった理不尽に晒されるギルにしてみれば、遊びなんて軽く言ってほしくないのだけれども。
皇帝は、やるといったらやる。皇帝にできないことは、皆無に等しいのだから。
「申し訳ございませんでしたッ!!」
豚を全力で回避するためギルがまっさきにしたことは、額を床に叩きつけながら。
プライドをかなぐり捨てた全力の土下座だった。
「それは、何に対する謝罪だ?」
「…………」
案の定というべきか、皇帝は納得していない。
床に額を押し付けたまま、ギルは恐る恐る尋ねる。
「わたくしめは、陛下に謝罪しなければならいことをしてしまったのでしょうか?」
「いや、まったくしていない。そなたがそのようなことをするはずがない」
即答した皇帝に(ですよねぇえええ知ってたぁあああああ)と、心の中で叫ぶ。理不尽すぎて泣きたい。
皇帝が白だといえば黒でも白。皇帝が鹿を指して馬といえば、馬。
神ごとき皇帝は、存在そのものが絶対だ。広大な帝国をすべてを見通す太陽ごとき金色の瞳で繁栄をもたらす神の代理人なのだから、当然だ。民を思う御心には、崇拝の念を抱かずにいられない。
そんな素晴らしい大変素晴らしい麗しの皇帝であるけれども、時折こうしてお気に入りのギルに理不尽の限りを尽くし弄ぶのだった。
理不尽とはいえ、一度はなった言葉を反故にすることはない。つまり、美味しそうな豚にされて屠殺場に放り込まれるのを回避するためには、皇帝に満足いただける謝罪をするしかない。
しかし、謝罪する理由がないのにどうやって?
切れ者と称賛される頭で、回避策を必死で考える。脂汗が止まらない。カチカチという音が右の耳元から聞こえてくる。床に額を押し付けたままでも、皇帝が懐中時計を近づけたのだとわかる。どう考えても、嫌がらせでしかない。
そんなに、この有能な忠臣を豚にしたいのか。理不尽すぎて泣きたい。泣いて喚いたところで回避できないから、泣かないけれども。泣いている暇があったら、死ぬ気で回避策を考えに考えに考える。豚にされて屠殺場に放り込まるなんて、死刑宣告と変わらないのだから、死ぬ気で回避策も大げさではない。
覚悟を決めて顔を上げながら横目で残り時間を確認すれば、残り一分ほど。
皇帝はどうする気だと意地の悪い期待に唇を歪める。こんなときでも、少しも美しさは損なわれることはない。イラッとしたなんてことは、絶対にない。多分。
額を赤いままギルは、神妙な顔で口を開いた。
「この世でもっとも尊い皇帝陛下おそれながら謝罪するいわれもないのに謝罪せねば死にも等しい罰を与えるとおっしゃるのは理不尽というよりほかありません神の代理人のなさることではでしょう神と敬い称える民がこのような理不尽を知ったらと考えただけでわたくしめは嘆かわしくいわたくしめがこのようなことを申し上げるのは大変心苦しいですがどうか今一度御身の行いを顧みていただきたい」
一気に早口で話す間に、辺りの空気が凍りついたけれども、気にしていられなかった。言い切った彼は、再度額を床に叩きつける。残り一〇秒。
「卑しいわたくしめが出すぎたことを、大変申し訳ございませんでしたッッ!!」
謝罪する理由がないなら作るしかない。
しばしの沈黙が永遠のようだった。
皇帝に死ねと言われれば、喜んで死ねる。けれども、豚になって死ぬなんて絶対に嫌だった。
「チッ」
舌打ちが聞こえた気がした。空耳に決まってる。
「……面を上げよ」
「はっ」
心の底からつまらなそうに命じられ額の痛みを堪えながら上体を起こすと、皇帝ははやりつまらなそうに尋ねる。
「そなたは、そこまで豚になりたくなかったのか?」
「はい。人知れず豚のまま捌かれるのは、さすがに」
「そなたのことだ、望まぬ無様な死を死ぬ気で回避するだろうに」
「……」
豚になったギルが屠殺場で死にものぐるいで逃げ回る光景を楽しみたかったのだろうか。理不尽すぎる。
理不尽すぎる命令をやり遂げたと確信したところで、ギルは居住まいを正す。
「ところで陛下、こたびはどのようなことで弟君に頭を悩ませるのでしょうか?」
暇を持て余した皇帝の遊びだと、人は言う。けれども、ギルは知っていた。退屈しのぎではなく、憂さ晴らしであることを。神ごとき皇帝の憂いとなるのは、唯一人の肉親である最愛の弟のことのみであることも。
あれほどの理不尽に晒された直後に、忠誠心を示してくる。
これだから、やめられない。
ギルほどの忠臣はあとにも先にもいないだろう。弄び甲斐のあるやつも。ゆえに、屠殺場に放り込んでも死ぬことは決してなかった。死んでもらって一番困るのは、皇帝なのだから。
さて、どうしたものか。
ギルが言った通り、きっかけは弟との諍いだ。けれども、そんな些末なことはどうでもいい。
さて、次はどうやって弄んでやろうか。
神ごとき皇帝は、残酷に笑った。
暇を持て余した皇帝の遊び 笛吹ヒサコ @rosemary_h
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