恋の積載

真花

恋の積載

 夜の会議室は光の箱のようで、寒くもなく暑くもなく、静物画の緊張と洞窟の静謐さを併せ持っていた。僕を先導する加賀かがさんは入室してそのまま窓際に向かい、ブラインドをゆっくりと引き上げた。僕はドアを音の出ないように閉めて、箱を完成させる。箱になりつつも、ブラインドが上がった窓はまるで穴で、ピンホールカメラのように外の景色が投影される。加賀さんは窓の外をじっと見入って、だが同時に拳をギュッと握り締めていた。加賀さんが僕の部下になって一年が経つ。僕より四つ年下の二十七歳で、元々ギャルか何かだったであろう雰囲気を力技で押し殺して、殺し切れずに漏れている。今も、外を覗くことに興味の全てがあるように圧力をかけているが、それではないことに心が行っていることが漏れている。僕は入り口に立ったまま、外に眼を向ける加賀さんを見ている。ここに呼び出したのは加賀さんで、相談があるとのことだった。残務もあるし、話すなら話して欲しい。外ばかり見ていないで。加賀さんがくるりと振り向く。

「ここからの夜景って、意外と綺麗なんですよ」

 僕は、そうなんだ、と言って、窓の前まで移動する。確かに綺麗だった。近くのビルで区切られてはいるものの、大地に星が埋まっているような、光の芽が生えているような光景が広がっていた。それは朝になれば消えてしまう、儚い美しさではあるが、僕にとってはその儚さよりも一桁早く、興味を失うものでしかない。グランドキャニオンも、ナイアガラも、登山して山頂から見る景色も、どれも五秒で飽きた。僕は景色に興味がない。この夜景への関心の寿命ももう終わった。まさかこれを見せるために呼んだのではあるまい。

「相談って、何?」

 加賀さんはブラインドを閉める。蛇が木から降りるみたいなスピードだ。下ろし切ったら僕を見る。そして僕の目を見る。その表情は真剣そのもので、紙を当てればスッパリと切れそうなくらいだ。隠して漏れている加賀さんではない、生の加賀さんがそこにはいて、呼吸が荒くて、全身に力が入っている。殴って来るのかも知れない。そんなことはあり得ないと頭の中では考えていても、対峙することで伝わって来る気配は、戦闘の覚悟だった。これは厄介な相談が来る。だがもう後には引けない。僕は腹に力を込めて加賀さんの言葉を待つ。

 二人の間を緊張が通る。それはたわむことなくきりきりと張って、僕達の内容を少しずつ、着実に、接近させようとする。僕はそれに抗い身体と内容を同じ場所に保つが、加賀さんは違った。体を置き去りにしたまま、加賀さんの内容は二人の間にある境界に迫って行く。境界に近付くにつれてその速度が下がって行く。それでもついに境界に触れた。それを合図にするように加賀さんが唇を開く。

田上たがみさん、実はここに来てもらったのは、相談じゃないんです」

 相談でも十分厄介な可能性があるのに、そうでもないとなると、ひどく厄介なものを押し付けられるのかも知れない。それとも何かいいことがあるのだろうか。加賀さんは言った切り黙って、ずっと僕の目を見ている。体から飛び出した加賀さんの内容も僕を見ている。僕はその厄介から逃れられないことを、この部屋に入る前からもう受け入れている。部下が相談があると言って、それを無下にすることは出来ない。だからこれは職務上の相談だ。だが、相談ではないのなら、僕はここにいなくてもいいのではないか。……今この状況で、じゃあ、それなら帰るわ、と言える胆力はない。僕は既に加賀さんの張った蜘蛛の糸に捉えられている。何をされるのであっても、とりあえずは受けるしかない。

「じゃあ、何?」

 加賀さんは一歩僕に近付いた。いや、そう感じた。圧力が強く、それには必死さの成分が含まれていて、顔が赤くなっている。沈黙がきんと鳴る。僕は圧迫に負けたくなくて、足を踏ん張る。どの道受けなくてはならないなら、しっかりと受けて立とう。プロレスラーのように。加賀さんの何かが駆動しているのが分かる。あの、と始める。

「好きです」

 僕は好きではない。部下として人としては好きだが、女性としては見ていない。つまりこれから僕は断るのだが、その後のことを考える。気まずいのを隠して、不必要な軽口を叩いたりしながら、気を遣いながら業務をしなくてはならない。告白するのは加賀さんの勝手なのに、そこから派生する面倒事の半分を僕が引き受けなくてはいけない。一方的なのに……まるで告白は暴力だ。もし告白の後に関わりがないのなら全然いい。だが加賀さんは部下なのだ。これからも毎日顔を合わせる。しかも、加賀さんの恋愛観なんて全然知らない。興味もない。だが、それによって僕の気の遣い方は影響を受ける。受けた打撃が胸をへこませていく。緩慢に、プレス機のように、非情に、まるでそこに悪意があるかのように。だが、加賀さんにそんな意図がないことも同時に分かっている。精一杯の勇気を出して言ったということが伝わって来る。もしかしたら何よりも純粋なものを僕に投げかけたのかも知れない。それはとても誠実だと言えよう。適当に応じていいものではない。だからこそ、この胸の重みが直に僕を擦り潰そうとする。それに抗いながら、僕も加賀さんと同程度の誠実さを絞り出す。

「ごめんなさい」

 加賀さんは息を呑んで、視線を逸らした。ブラインド越しに大地の光の芽を探しているようだった。会議室の白さがさっきよりもずいぶん弱々しくなっている。このままだと部屋が窓から外に吸い出されてしまいそうだ。その関所になっているのは加賀さんで、僕ではなくて、加賀さんが諦めたら部屋はなくなり、僕も一緒に外に捨てられる。僕のことではない。僕を手に入れないままに進む人生を諦めなければ、部屋も僕も保たれる。僕は強制的にこんなスリリングな場面に巻き込まれている。手をこまねいて待っていてはいけない。横顔の加賀さんに、僕はやさしさと断固としたものを半々でこねた声をかける。

「だから、明日からも、これまでと同じようにして欲しい」

 ぴく、と加賀さんの肩が動く。その小さな波動が増幅されて僕の鼻に当たる。言葉が届いている実感になる。加賀さんの中では、断られて傷付いたプライドと恋心と、打ち壊された未来と、これからの日々に対する打算が渦を作っているはずだ。そこに僕の言葉が一つの道筋を示した。ただの渦から考える基準が生まれた。そうする、か、そうしないか、無視するか、また別の考えを述べるか、圧力がかかった。だから肩が動いた。加賀さんは顔を真っ赤にしている。きっと、断られるとは思っていなかったのだ。だが、現実は今ここにある。加賀さんは何かを言わなくてはならない。こっちを向く。目が真っ赤になっている。

「分かりました。明日からも、よろしくお願いします」

 加賀さんは頭を深々と下げて、とろけるような香りがふわ、と届く、それから僕をもう見ないで会議室から出て行った。この香りが僕のものになっていたかも知れなかったと思うと、少し惜しい気がした。だが、香りと付き合う訳じゃない。僕はブラインドをゆっくり開ける。そこには部屋を飲み込もうとしていた銀河が地表を這っていた。明日からのことを考えると、負担が、不必要な負担が増えることに胸が押し潰れそうになる。振り返れば加賀さんが出て行った後のドアがしっかりと閉まっている。もう一度窓を見る。もう部屋が窓から流れ出ることはないだろう。逆に、外が部屋の中に流入しようとしている。僕が諦めなければ僕が関所となって止めることが出来るだろう。告白がなかったかのように日常業務を行うことを諦めなければ。

 この会議室を出たら装うことを開始しなくてはならない。加賀さんだってオフィスにはいるだろう。僕の腹の底からため息が溢れ出す。加賀さんだけじゃない。今月に入ってあと二人から告白をされて、断って、表面上普通の付き合いをしている。神経が既に擦り切れそうなのに、もう一人分増えるのだ。全身がため息になる。それでもここで働くためにはやらなくてはならない。生き残るために抱えなくてはならない負荷を、告白は無責任に載せて来る。それがどれくらいなのかを今一度確かめて、二人分と三人分はかなり違う、もう一度ため息になって、首を振ったら覚悟を決めて、会議室のドアを開けた。


(了)

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