本編 隅田川テラス


真夏の昼下がり。

川のほとりをひとり歩く。

見渡す限り誰もいない。


隅田川の周囲には「隅田川テラス」と名づけられた遊歩道が設けられ都民の憩いの場となっている。ふだんは犬の散歩やジョギングをする人も多く、誰もいないのは珍しい。皆さすがに暑気を避けているようだ。

かく言う私も日射しの強さを覚悟して出かけてきたのだが、実際に土手を下りてみるとそれほどでもない。

さすがは人気のリバーサイド、周囲のマンションなども高層な建物ばかり。おかげで日陰があちこちにできていて、暑いは暑いが、我慢できないほどでない。

私は景色を楽しみながら下流に向かってゆっくりと歩いた。ときどき気まぐれに立ち止っては、飲み物を飲んだり汗を拭いたりする。


遊歩道から見る隅田川の水はかなり近い。

覗き込むと、墨色の流れの底は暗く、表面は青いのが分かる。

川面は乱反射する太陽の光で忙しい。

ときどき川筋に沿ってザアッと風が吹く。


遊歩道に巡らせたフェンスは腰ほどの高さもなくて、ちょっと身を乗り出しただけで簡単に飛び込めてしまいそうだ。

うっかり転がり落ちるお調子者や粗忽者のためなのか、あるいは単にメンテナンス用なのかもしれないが、護岸壁には川から上がる梯子と救助用の浮き輪とがセットになってところどころに備え付けられている。

日曜日、船の行き来はほとんどない。水上バスも日に一度往復するだけだ。

もしもここから落ちたら自力で助かる自信がない。泳ぎは不得意ではないが、着衣で泳いだことはないし、隅田川の流れは意外と速く複雑そうだ。

落ちる瞬間に気づかれず、助けてくれる人もなく、ひとり流されて水死する。

そんなことを妄想したら、なんだか寂しくなってきた。

振り返り、見上げてもみたが、遊歩道、土手の上にも、人影はない。マンションの窓さえすべて閉まっていて、住人は出掛けているか、閉め切ってクーラーの効いた心地よい部屋に籠っているのだろう。



そこはかとない孤独感に浸っていると、川岸の反対側に人影を見つけた。

炎天下、外をウロつく酔狂な人間が自分の他にもいると知って、やけに嬉しくなる。


対岸にいるその人は長い棒のようなものを持っている。

釣り竿だろうか。

禁漁区ではないので釣り人がいてもおかしくはない。

いったい何が釣れるのだろう。

川の色は暗く魚影は見えない。

私はやらないので詳しくないが、以前バスやハゼなどが釣れると聞いた気がする。


しばらく眺めていたせいか、対岸の人がこちらの方に顔を上げた。

なんの気なく片手をあげて挨拶すると、あちらも同じように片手を上げて返してきた。

かつては大川と呼ばれていただけあって、それなりに川幅がある隅田川。対岸にいる人の姿は見えるが、その大きさはちっぽけで、表情まではハッキリしない。

せっかくなので釣果を聞いてみたいと思ったが、声をかけるには遠すぎる。大声を出せば届くだろうが、そこまでの事ではない。



すると向こう岸から、

「釣れますかー?」

聞こえた気がした。


かすかな、ひどくかすれた声だった。



あれ?


私は戸惑った。

言葉にしていない台詞をやまびこのように返されたと感じたからだ。


まさかな。


頭の中の声を聞かれたはずもない。

それに釣りをしているのは私じゃなくて、あちらのほうだ。

こちらから言うならともかく、向こうから「釣れますか?」と聞かれるのはおかしい。


そもそも。

それは私にかけられた言葉だったのだろうか。

他の人の会話がたまたま耳に入っただけなのでは?

そう思い、あらためて辺りを見回してみたが、誰もいない。

こちら側には私。

あちら側にはその人ひとり。


空耳?

少し歩きすぎて疲れたのかもしれない。熱中症になる前にそろそろどこか屋内に入って涼もうか。



思った瞬間、もう一度、


「釣れますかー?」


聞こえた。


幻聴ではない。

かすれてはいるが、確かに聞こえた。


私に向かって。


あんなに遠くから?



怪訝に思い、目をこらしてその人を見た。


途端に違和感を覚える。

対比するものがないので断言できないのだが、やけに大きく見える。

ものすごく太った人なのだろうか。あるいは服がブカブカなのかもしれない。そんな気もする。

赤黒い斑の焼死体にも見える、その色も。近くで見たらなんてことはない服装なのだろう。

対岸のこちら側から見たら奇怪に見えるというだけで。



でも、ひとつ。

それとは別に気づいてしまったことがある。

対岸の人が持っていた長いもの。場所柄、思い込んでしまっていたが、あれは釣り竿とは違う。

ゴルフクラブだ。


静かに釣り糸を垂らしているのならともかく、遊歩道でゴルフの練習をするなんて。

非常識な話だ。

人がいないからと油断して、もしも誰かが通ったら事故が起こらないとも限らない。

そういう危険な輩とは、たとえ川越しにでも関わり合いになりたくない。


軽く憤り、同時に私は気味悪かった。

私にはあのゴルフクラブが5番アイアンだと分かる、そのことが。

ゴルフクラブの種類なんて、これだけ遠ければ見分けられるはずがないのに。

何故だかはっきり分かるのだ。


なにかがおかしい。



私はゆっくりと歩き出した。

対岸の声は無視することに決めた。

声をかけられたのに気づかなかったとしても不自然ではないだけの距離があることだし、立ち去ったとしても非礼には当たらないだろう。


すると、どうしたことか対岸の人も私についてくる。

最初は偶然だと思ったが、私が歩き始めたタイミングで歩き始め、方角、歩調、寸分違わず、どう見てもこちらにあわせて歩いている。

どうしてついて来るんだろう。

直接危害を与えられるような距離ではないので、それほど切迫した感じはない。

が、気分は良くない。



「釣れますかー?」



対岸から、また声が聞こえた。




「釣れますかー?」



返事をするまで問い続けるつもりだろうか。



「釣れますかー?」



声と一緒に。


ザアアアアァッ、と川面を走る風。

プン、と何かが焦げる匂いがした。



瞬間、何故か。

ぞおおおぉ、っと鳥肌がたった。



私は歩く速度をあげた。


すると対岸の人も同じように速度を早くする。



「釣れますかー?」



しだいに明瞭になってくる声。



「釣れますかー?」



ザザアァッ……

風が追いかけてくる。



たまらず走りだした。

見れば、対岸のその人も私にあわせて走っている。


よく分からなかったが、とにかく怖い。



遊歩道は一本道で、抜けるためには土手の上にあがる必要がある。

先まで行けば階段があるのは分かっている。早く遊歩道から抜け出したいが、問題はその階段がどれくらい先にあるのか私が知らないということだ。

だったらさっき降りてきた階段のある場所まで戻ったほうが確実かもしれない。

判断した私はくるりと反転し、そのまま走った。


対岸のその人もあたりまえのように方向転換している。

つまり私と対岸の人は隅田川を挟んで伴走していた。

川の流れに逆らうように。



「釣れますかー?」



走りながらチラリと目をやって、思わず私はぎょっとした。

対岸の人が遊歩道のフェンスをゴルフクラブで叩いている。


答えなければ、おまえを殴ってやるぞ、と言わんばかりに。


無差別に暴力をふるう、話の通じない、通り魔のような、異常者。

そういう人間は社会に一定数いると聞く。

が、これまで私はそういう者に遭遇したことがなかった。



ここに隅田川があってよかった。

流れの広さのぶんだけ、安全だと思える。


それでも、怖いものは怖い。


理屈ではない。

怖いから走る。

走る。


私が走れば対岸の人も走る。

ガンガン、フェンスを叩きながら。



必死に走り、ようやく階段までたどり着いた。

体力は限界を越えている。急な階段。肩で息をしながら懸命に重い足をあげ、一秒でも早くと上り続ける。


あと三段、というところで。



ポシャッ



背後で水の音がした。

そんな気がして。


足を止めた。



……その時考えたことは、こうだ。

あの人は対岸を私と同じように走っていた。

下流を目指せば下流に向かって。

上流を目指せば上流に向かって。

だったら、私が階段を上がるために右側に行ったら?

対岸にいたあの人も右側に寄っただろうか?

私の右側は土手だが、対岸の右側は隅田川だ。

そのまま右に寄ったとしたら?

フェンスは大人の腰丈よりも低いのだ。

つまり……。


川に落ちた?


私は階段の途中でおそるおそる振り返ってみた。



対岸には誰もいない。

隅田川は何事もなかったかのように流れている。


誰かが溺れている様子はない。


水中に沈んで見えないのだとしても、もしも人ひとり落ちたとしたら、落水時の波紋や巻き込まれた空気の泡、何らかの形跡は残るだろう。

そういうものが、なにもない。

下流のほうに目をやったが、やはり、同じだ。


暗く沈んだ川の色。水面のきらめきに乱れは見えない。


私はほっとした。

もしも対岸の人が川に落ちたとしたら、それは私のせいではないけれど、私のせいのようなものだ。

寝覚めが悪いし、それ以前に救助要請をする必要がある。

でも、その心配はなさそうだ。



が。

だったらどこに行ったんだ?


対岸にいた人の姿がどこにもない。


遊歩道は対岸からでも見通しがよく、たとえ素早く遠くに行っても後ろ姿ぐらいは見えるはず。

こちらの階段の真正面、対岸側の土手には階段はないが、もしも無理やり上ってもそんなに早くは上れないだろうし、少なくとも土手の上に姿がないのはおかしい。

地上から消えたとしか思えない。しかし川に落ちた様子もない。



混乱してきた。



私は残りの階段を上りきって土手に上がり、対岸を見やり、もう一度視線を落として隅田川を見た。

その表情は変わらない。

川は流れているだけだ。



そこから先はもう振り返らなかった。


きっと私は白昼夢を見ただけ。

実際には何も起こらなかったのかもしれない。

たぶんそうだ。

それとも。

そう、あれがヒトでなく、幽霊かなにかであったなら?

だからキレイさっぱり消えてしまったのだ。

そう思う方が、変質者とはいえ事故にあった人間を放置して死なせてしまったかもしれないと考えるよりはマシな気がした。

そう思ったのだ、その時は。


土手を下り、大通りに出たところですぐバスに乗った。それからわざと遠回りの地下鉄に乗って家に帰った。



変に疲れた気がして、その夜は早めに床についた。

嫌な夢にうなされた気がする。


夢の途中、なにかの拍子に目が覚めた。


まだ暗い。

時計を見ると午前2時。

もう一度寝なおそう、と目をつぶった途端。



ピンポーン



チャイムが鳴った。



こんな真夜中になんだろう?


非常識な来客に苛立つよりも、厭な予感が先にたつ。

と同時に、目覚めたのはチャイムのせいだったと気づく。


こんな時間、予告もなく訪れてくる知り合いはいない。

念のため、枕もとを探ってスマホを確かめるが、やはり特別な連絡は入っていない。




ピンポーン



火急の用だろうか。

近所でなにかあったとか。

気乗りはしないが、確かめなくては。

私はしぶしぶ布団から出る。



ピンポーン


ドアの前にはまだ誰かがいるようだ。

チャイムの音に続いて、


ドン!



ドアを叩く音がした。



玄関口まで来ていた私は、その音の激さに驚いて立ち尽くした。

ノックだなんて生やさしい音じゃない。

なにかを叩きつけたような。

あるいは、なにかで殴りつけたような、音。



ピンポーン


ドン!


ドン!



いったい何で叩いたらそんな音になるのだろう。

ドアが壊れてしまうんじゃないかと思うほどの。



ピンポーン


ドン!


ドン!



なにかが匂う。

焦げ臭い。



……最初から、なんとなく疑ってはいたのだ。

そう思いたくなかっただけで。

でも。

分かってしまった。

ドアの向こうに誰がいるのか。



ピンポンピンポンピンポーン



せっかちにチャイムが鳴らされる。


鳴らしているのは隅田川の対岸にいた、あの人だ。

焼け爛れて赤黒い顔。大きく膨れ上がった灰色の体。

手には5番アイアン。

おそらく、それで、



ガッ!


ガッ!


ドアを叩いている。



「釣れますかー?」



隅田川を渡り、護岸壁を乗り越えて。

どうやって私の家を見つけたのだろう。



ピンポンピンポンピンポーン


ガッ!


ガッ!


「釣れますかー?」




ピンポンピンポンピンポーン


ガッ!


ガッ!


「釣れますかー?」




川はしばしば境目となる。

だが、いったん川を越えてしまえば。

私と誰かを隔てるものは薄いドアが一枚あるだけ。

それも、今、破られようとしている。


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「釣れますか?」 暗い流れの向こうから エモリモエ @emorimoe

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