未然ダモクレス

鳥辺野九

未然ダモクレス


 勝山かつやまには三分以内にやらなければならないことがあった。

 この耳障りな警報音を停止させる。それだけだ。

 震える手に握られたスマートフォンが不安を煽る警報音を喚き立てて、予知された悲劇的な未来が最速で三分後に訪れるだろうと通知していた。




 勝山が所属する開発チームはその未然危機通知アプリを『未来予知警報器』と名付けて呼んでいた。

 『未来予知警報器』とは非局所実在性SNSの急速な世界的拡散と量子コンピュータの革新的発達によって読み解かれたバタフライエフェクト関数を採用したスマートフォンアプリケーションである。

 チーフエンジニアである勝山は無関係と思われるSNS人間相関図が無意識に展開される非局所性を関連付けることをアプリ運用に利用した。どこか遠くに実在する人物の何気ない行動が連続した実在性関係を構築し、多数の人間の行動を介して幾度となく分岐と集約を繰り返し、いずれ一人の対象者に訪れる約束された未来を予知するのだ。

 未然危機通知アプリは直近の未来をバタフライエフェクト関数を用いて速やかに演算する。その範囲が対象者によって設定されたおおよそ好ましくない未来と予知された時、耳障りな警報がけたたましく鳴り響くのだ。

 勝山にとって未然危機通知アプリは非局所実在性SNSを通じて未来予知風のノーティスを受け取るジョークアプリ、のつもりだった。

 未然危機通知アプリ試運転の日。

 チーフとして責任持って自らのスマートフォンに通知設定し、うやうやしくアプリ試験起動。即、未然の危機を通知する警報音が勝山のスマートフォンから奏でられた。

 勝山は慌ててゲーミングチェアから跳ね起きてスマホを睨んだ。

 スマホの画面には『未然危機99.9%』という文字列が赤く震えていた。警報音の不協和音は最高潮。危険度マックスの未然の危機がすぐそこまで迫っていることを現している。その猶予は最大で三分間。

 きっちり五秒間、勝山はスマホの画面を見つめた。残り時間二分五十五秒で生命の危険レベルの未然の危機がやってくる。

 どうする? どうするって、何を? 勝山の頭の中で反響する自問自答。それと心を掻き乱す不協和音。本当に何秒後かに未然の危機がやってくるのか。警報は続いている。何が起きるのか。止まる気配がない。システムは正常に作動しているのか。検証する時間もない。バタフライエフェクトは現在進行中だ。どこかに実在する誰かの行動が巡り巡って望まざる未来へと変化する。通知システムの再起動が必要か。未然の危機はすぐそこまで来ている。そもそもアプリは正常に未然の危機を予知しているのか。残り時間は?

 膠着した勝山と同様に『未来予知警報器』の画面を注視する開発スタッフの声がようやく彼の耳に届く。


「何らかの論理的なバグでは?」


 無論その可能性も考えられる。だがしかし、それをチェックする時間はもうない。あと二分十五秒。今までどれだけの時間と労力をかけて開発したシステムだと思う? システムを破壊すれば予知も止まるだろう。しかしながらそんな悲劇的なことはできない。開発チームの皆の顔が脳裏に浮かぶ。このまま時間が過ぎるのを待つか。アプリの実用性が試される。アプリが正しく動作していれば勝山の身に生命の危険レベルの破滅的事象が発生する。未来予知警報そのものが、アプリの論理バグが原因であるならば社運を賭けたこのアプリは大失敗だ。背中に開発チームの部下たちの視線を痛いほど感じる。開発のために再びプライベートを犠牲にした残業生活が始まるのか。

 運命の時まで、残り一分四十秒。

 勝山の脳内に展開するバタフライエフェクト。そうか。未来予知の結果は自分の行動がもたらすものだ。


「誰か、SNSで俺に対して負の感情をぶちまけたヤツはいないか?」


 勝山の声に、一人の開発スタッフがすっと顔を背けた。勝山はそれを見逃さなかった。

 ある一人のささやかな負の感情が、大勢の人間関係の海を巡り巡って、大渦となって勝山の未来を飲み込もうとしている。


「それはいい。表現の自由は誰にでもある。このアプリ開発が成功すれば、臨時ボーナスと特別休暇を申請しよう。みんな、もう残業しなくてもいいんだ。だから早く、SNSに書き込んでくれ」


 残り一分二十秒。顔を背けたまま、若いスタッフは小さな声で言った。


「何て、書き込めばいいんですか?」


「『休める。やったぜ』ってそれだけでいい。頼む」


 言われるままに非局所実在性SNSに書き込む若い開発スタッフ。連日のアプリ開発残業に疲れ切った顔で、打ち込む指にも力が失われて見えた。

 残り時間一分。


「本当に、休んでもいいんですか?」


 残り時間五十四秒。


「ああ。俺も休みたいと思っていたところだ。みんな、臨時ボーナスに値する働きをしたんだ。もう、帰ろう」


 四十七秒。


「……はい。帰りましょう」


 四十二秒。

 開発スタッフの一人、チーム最年少の山和さんわは弱々しく、しかし希望に満ちた書き込みを綴った。


『やったぜ。帰れるぜ。眠れるぜ。クソ部長の顔なんてもう見たくねえよ』


 悲劇的な未来まであと三十秒。警報の不協和音が鳴り止んだ。

 勝山はようやくひと呼吸できた気がした。硬く冷え切った開発室の空気も春の陽気に当てられて緩んだように思える。

 人は常に誰かを思っている。それが正か負か、陽か陰か、その程度しか違いなどないのだろう。人の思いは巡り巡って誰かに通じている。世界とはそういう風にできている。

 勝山はゲーミングチェアに深く沈み込んだ。このまま海に潜るように眠れたらどんなに気が楽になるか。いや、気を緩めている場合ではない。勇気ある告発をしてくれた山和に労いの一言を与えなくては。チーフとしての責任を果たす時だ。


「山和。今日はもう帰ろうか」


「はい……!」


 と、いつのまにか開発室に顔を出していた開発部部長と勝山の目が合った。その手にはスマートフォンが握られている。画面がちらりと見える。非局所実在性SNSの特徴的な画面枠が見て取れた。

 勝山のスマホがけたたましく不協和音を奏でた。未然の危機を予知した警報音だ。

 再び、勝山には三分以内にやらなければならないことがあった。

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