㊙︎8 『眼鏡』


 オタク・タク・タクティスには三分以内にやらなければならないことがあった。脱出だ。脱出である。すでに天井壁床がガタガタと軋み出している。

 冒険というのは得てしてひょんなできごと、できごころから始まる――たとえば、談話室に置き忘れた眼鏡を取りに行ったりしたことなどから。


 いつもは夜遅くまでガリ勉している友人も今日はそわそわと用があるとかでおらず、彼も今日は早めによいしょと布団を被ってから、忘れ物に気づいた。ひっそりと、二段ベットの上段から抜け出す。蝋燭の灯りはもう消えている。しかしヒトより夜目のきく彼は、星あかりのほの暗さで十分だった。

 そうして無事黒縁の丸眼鏡を取り戻したときに彼は気づいた。同じテーブルにちょこんと、見覚えのある小さな箱が乗っている。これはソニム・ドムス〈夢の家〉だ。しかも形状が変化していたから——ほんの好奇心で、彼はその家に入ってしまったのだ。


 そこは豪奢な調度品に溢れた異国情緒漂う宮殿のようだった。もし色が付くなら赤や金銀の極彩色に彩られているのではないだろうか。そうして広間の奥に空の玉座を見た時、その家の滞在期限を告げる振動が始まった。ここで焦ったのは、入ってきたときと同様に「玄関扉」から出なければならないのか、という疑問である。できるならそうすれば間違いないだろうが、宮殿である。間に合わなかった場合、閉じ込められることはありうるか? ありうる。往々にして魔法道具は親切でない。使うものの自業自得なのだ。ということでとりあえず、彼は全速力で走ることにした。およそ三分・それが前回の経験からの時間目安だった。


 結果として彼はすんでのところで——

 間に合わなかった。


 バチンッと弾かれ宙を舞う。ドンッと床に尻もちをついたそこはけれど寮室のようで、〈夢の家〉設計者の良心に彼は感謝した。もしかしたらドアノブに手をかけていたためのサービスかもしれないが。

 そうして胸を撫でおろしたのも束の間、圧倒的な違和感に気づく。まずそこは元の談話室ではなく個人室だった。そんなことより、でかい。すべてのものが数倍のサイズ――まるで自分が小さくなったように。この感覚に覚えはあり、彼はおそるおそる自分の体を見下ろした。毛皮。赤銅色にふさふさとしていて毛並みは流れるようにつややか。手触りはさぞいいだろう—という、場合ではない。イタチのように体躯は長く手足は短い。これは彼の“胴体”だった。

 

 身の安全と引き換えに魔力が徴収されたのか? しばらく変化へんげできそうにないほど魔力は枯渇していた。

「あら?」    

 彼はその声の主に思わず目を瞑った。この個室はよりにもよって……


「獣くさいと思ったら、躾の足りないペットが紛れ込んだようね」


 “太陽の姫” ヴィヴィ・ヴィ―・ヴィシュラのものだった。

 あの宮殿は彼女のものか? 最後の使用者に戻る仕組みなのか? そんなことは今どうでもいい。彼は鈍感な友人と違って彼女の猫かぶりには気づいていた。というか結構大多数が気づいている。そもそも隠しているかもあやしい。彼女が〈かぶる〉のは、ルキウス王子を筆頭に賢者達、一部の有力貴族の子弟のみで、他は目にも入っていないように口すらきかない。ここまであからさまだとかえって陰口の立つ隙間もないようで、誰も彼女を害せず害されるような真似もしなかった。触らぬ神に祟りなし、の方針で遠巻きながらも彼女のする爪の染色ネイルが流行るなど、女子一定層の崇拝を獲得していさえいた。


 無論、彼は逃げた。〈下層〉への容赦は期待できない。言いぶりからして、いたぶり踏みつぶすことは十分ありえた。

「ヴェニレ・来なさい」

 呆気なくしかし彼は捉えられる。もののようにびゅんと飛ぶと首根っこを掴まれ収まった。 ぶらんぶらん

「ふうん いい毛皮ね」

 毛皮って言った! 皮を剥がして鞣すつもりだ。

「ナッツを食べるかしら」

 存外機嫌はいいのか笑みを浮かべている。しかし緋色の大きな瞳に縦寄りの瞳孔とあいまりまるで蛇がチロリと舌なめずりしたように彼は感じた。ぶるぶるっと震える。どの道逃げられそうにないので、彼は油断を誘う方向に切り替えることにした。

 大人しく机の上に置かれたままでいると、書きかけらしい日記が目に入る。


〈  ささくれを見つけると無性に腹立たしい。あの鷹男のせい。未熟だからとあげつらい返したいのに、ランチで手袋を外している時にきれいだったのは余計腹立たしかった。王子はよく連れ添わせているけど、無粋さが移らないか心配。〉


 インクの乾きと共に文字が消えていくが、思わず読んでしまった。

(“ヴィシュラ様”でもこんな普通の悪口みたいなこと書くんだ……)

 減らない課題と真逆の甘い飲み物を横に友達に話してしまう代わりに、彼女はこうして消していっているのかもしれない。少なくとも表面上は気取れるように。彼もこのことだけは、友人に話さないでおこうと自分に誓った。


「ほら、食べなさい」

 と手に差し出された乾燥ナッツを彼は罪悪感も手伝い大人しくかじることにした。

「目の回りに黒いブチがあって眼鏡みたいね」ギクっと身をこわばらせてごまかすように下を向き懸命にたべた。コリコリ。

「私も食べるんだから、上質でしょ。飼い主に飽きたらまたあげてもいいわ」

 ふふん、と機嫌を上向かせることには成功したようだ。しかしそれが功を奏したかは分からない。すっかり餌付けられたと思われたのか、肩に乗せて部屋を出ていく。

「冬になったら襟巻きにするのも良さそうね……冗談よ」

 くす、と笑えない冗談に愛想笑いを返す必要もなくだんだんなるがままに任せていた。

(そんなに敬遠するほどのヒトじゃなさそうだけど、自分から遠ざけているような感じもするよなァ)

 おそらくヒト型だったら絶対に態度は異なり、見下し切ったに違いない。

  

 どこに向かうのか、寮を出てひとけのない方へ歩いていく。警戒する気はそれていた。よく晴れた夜空で、南から吹く風は夏の訪れをひと足先に運ぶように暖かかった。

 果たして立ち止まったとき、目的の場所には先客がいるようだった。

「何でここに……」

 不快気な視線の先には、“王子”、“英雄”、そして友人の三人の姿があった。そこは今は誰にも使われていない、三つの寮をつなぐ〈星間橋〉。橋の中央に並んで夜空を向き、こちらには気づいていない。オタクもオタクで、ちくりとささくれほどの痛みめいたものを感じた。

(話してくれるくらいは、いいじゃないか)

 ――自分は隠しごとがありながら、と言えない口をつぐんで。


 そんな静寂は続かずに、「わぁ、」と響いた声に顔を上げる。

 紺碧の空一斉に、無数の銀の矢が放たれていた。

 数多の星々が駆け抜けていく、流星群。

 累々と瞬いて瞬いて、まるで世界が巡るのを早送りで呆然と眺めるように。

 せめて数歩を置いていかれまいと無為に走り出したくなるような。


 橋の端に立ち止まったまま、の肩からするりと降りた。

「お前もあっちへいくのね」


〈来たらいいよ〉


 キキ、と振り返ってはじめて真っすぐみつめる。

 話したいのも行きたいのも。

 魔法使いは望みを叶える。


 遠くでルキウス王子が手を上げた。つられて他の二人も振り向く。


「……早く行きなさい。ペットを追いかけないといけないから」


(まったく、)


 オタクはちょっと笑って、それでも橋へと走り出した。

 たとえば眼鏡を忘れただけで、未来が変わることもあるのかもしれない。

 そんな星降る夜の、“小さな”冒険だった。 




――――㊙︎8『眼鏡』☆終わり☆



  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

ご主人様はひそかに愛でたい -チラ裏にKAC- る。 @RU-K

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ