第7話 再び本能寺

 信長は小姓の森成利もりなりとしを連れて、金堂の奥に退いた。本尊のちょうど裏側に当たる部分に隠れ部屋のような小部屋がある。信長は廊下に成利を残して、一人でその小部屋に入った。


 信長はフーと荒い息を吐いた。肩と背と腰に大きな刀傷を負い、着物は血に染まっていた。小部屋の隅にあった灯明に火を灯し、ふすまを閉めると、明智の軍勢が挙げる声や、敵味方の刀が打ち合う音が急に小さくなった。


 ふすまの中から、信長は部屋の外にいる成利に声を掛けた。信長は彼を『お乱』と呼んでいた。その『乱』の字から、森成利は、後世の軍記物で『森蘭丸』として語られるようになる。


 「お乱。この部屋に明智の雑兵、一人たりとも通すな。わしの首を光秀に渡すでないぞ」

  

 ふすまの向こうから、成利の声が聞こえた。


 「心得て候」


 信長は、部屋の中ほどに胡坐をかいて座った。着物をめくって、腹を出した。持っていた太刀を握りしめると、苦々しげに呟いた。


 「光秀め。わしを裏切りおって・・」


 そのとき、ふすまの外で声がした。刀のぶつかる音が聞こえた。誰かが激しくふすまにぶつかって、ふすまが大きく揺れた。すると、急にふすまが開いた。森成利が立っていた。刀から血が滴っている。成利が言った。

 

 「殿。お急ぎくだされ。明智の奴らが、ここまでやって来ましたぞ」


 信長の眼に、成利の後ろから誰かが成利に切りかかるのが見えた。成利が身体を半身に開いて、その太刀をかわすと、そのまま相手を袈裟懸けに斬って捨てた。絶叫が飛んで、重たいものが廊下に倒れる音がした。


 成利がもう一度言った。


 「殿。ささ、お急ぎくだされ」


 そう言うと、友成が後ろ手にふすまを閉めた。廊下で再び太刀がぶつかる音がして、もう一度、重たいものが廊下に倒れる音が響いた。


 信長は黙って太刀を抜いた。太刀が小部屋の灯明を反射して、三日月形の光を放った。


 そのときだ。信長の懐から黒い棒のようなものが畳に転がり落ちた。


 信長はその棒を見た。縦1尺、幅1寸ほどの細長い筒だった。ひどく重要なもののような気がしたが・・・思い出せなかった。


 そのとき、再び、ふすまがバンと大きく鳴って・・・揺れた。廊下で太刀が打ち合う音が聞こえた。信長は咄嗟にふすまの外に向かって叫んだ。


 「お乱。今少し、持ちこたえよ」


 その言葉が成利の耳に届いたかどうかは分からなかった。が、次の瞬間、成利が大声で「殿はこちらじゃ。殿はこちらにおわすぞ」と叫びながら、廊下を向こうへ駆けていく音が聞こえた。続いて、その音を追うように、何人もの武者の鎧の音と足音が、成利が駆けて行った方向に消えていった。遠くで誰かが「信長がいたぞ」と叫ぶ声が聞こえたが、すぐに絶叫に変わった。


 一瞬の静寂が信長を取り巻いた。


 信長は部屋の灯明を倒して、部屋に火を放った。そして、自分の腹に太刀を突き立てた。


 ・・・・・


 天正10年6月2日、明智光秀が織田信長を討った。しかし、その光秀の天下も長くは続かなかった。光秀も6月13日の山崎の戦いで、備中びっちゅう高松城から取って返した羽柴秀吉に敗れて命を落としたのだ。


 後世の人はこれを『光秀の三日天下』と呼んだ。


 天下は秀吉のものとなった。


                        了

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小説・本能寺 永嶋良一 @azuki-takuan

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