ハートにさざめき溢れて、春

銀色小鳩

ハートにさざめき溢れて、春

 叶内かのうちトマには三分以内にやらなければならないことがあった。


 鏡の前で、化粧水と美容液をたっぷりとつけ、目じりにできた深い皺にクリームを塗りこみ、日焼け止めを付けて眉毛を描く。これでもう一分すぎてしまった。あと二分しかない。


 お隣に住む松本まつもと清子きよこは、たいてい八時ぴったりに玄関先に出てくる。「ゴミ出しは八時まで」のルールに従い、ギリギリに出てくるのだ。そこから徒歩十秒、角の電信柱前にゴミを出したあと、朝の散歩に出かける。彼女は五年ほどその習慣を崩さない。八時に家を出て、健康のためのウォーキングとして、そのまま四十分ほど歩いた先にあるスーパーへ向かう。スーパーが開くのが九時三十分だから、それまでスーパーの前にあるコンビニでコーヒーを買ってイートインでぼうっとするのである。夏はアイスコーヒーで涼み、冬はホットコーヒーで温まる。

 彼女とたまたま、行く方向と行動が合ってしまうには……トマ子はあと二分で帽子をかぶり、ウォーキングシューズを履いて玄関を出なければならない。


 問題はゴミの量だ。なるべく家にあるゴミをかき集めたいが、時間に遅れるわけにはいかない。今日は瓶と缶の日。テーブルの上に転がっている缶はいつもより多く、トマ子はこの日の朝、体中がだるかった。

 ビールが好きだった夫と飲んでいた頃は、小さなコップに少し分けてもらって飲む事しかなかったのに、夫に先立たれてからは好きなものを買うようになった。そのせいで時々アルコールが含まれていることを忘れてしまうことがある。この年でこれだけ飲めること自体が、稀なことではあるのだろうが。

 髪を少しだけでも小綺麗になるように纏めて、チューハイの空き缶をスーパーの袋に突っ込み、ふと時計を見るともうあと三十秒で八時だった。残りの缶は来週出せばいいから諦めよう……、シューズを履いて玄関を出る。


 ちょうど隣から、松本清子が出てくるところだった。

「あら、こんにちは」

 彼女は朗らかに言った。今朝も笑顔がまぶしい。

 いつもの水色のスニーカーに、いつもの小さなリュック、歩きやすいパンツルック。今日はカットソーの上から白いシャツを羽織っている。仕事があるわけでもないのに、アイロンのかかった白いシャツなどというものを羽織る清子は、たぶん丁寧に生活している。衣類そのものが好きなのであろう。同居の孫の七音ドレミちゃんの服も、たまに縫っているようだ。どちらが保育園の手提げを縫うかで嫁と喧嘩したとも言っていた。どちらもそういう手作業が好きなのだろう。

 小さなビニール袋を手に持っている。今日のゴミはそれだけのようだ。

「ほんと毎朝のように会うわねぇ。万が一、ひとり暮らしでも、ポックリ逝ったらトマ子さんには気づいて貰えそう」

 清子がくすりと笑って見せる。

「それじゃ、清子さんが一人になったら、気にしておく。出てこなかったら家に突撃するわ」

「お願いね」

「お互いね」

 一緒にゴミを出し、ゆっくりと歩く。清子の膝に負荷がかかりすぎない速度で歩くために、トマ子の歩幅も小さくなる。本当はもっと速く歩けるのだけど。

 そういえば、亡くなった彼女の夫も、亡くなるまではゆっくりとしたペースで一緒に散歩をしていた。ふんわりと笑う人で、いつのまにかふんわりといなくなってしまった。十年ほど前だっただろうか。清子はしばらく沈んでいた、ウォーキングにいそしんでいる今の方が、その頃よりも雰囲気が若々しくなっていると思う。

 ゴミの日のウォーキングを日課にしていなかったら、トマ子より八歳年上の清子の足腰はとうに衰えていたのかもしれない。


 早朝に雨が降ったらしく、水の染みたコンクリートは朝日を浴びて白く眩い光を反射し、草木は水分を多くふくんで満足げだ。凍てついていた土はやわらぎ、少しずつ生き物の気配が増えていく。清子とトマ子は、開き始めた花を指さしては、黙って微笑む。いつも見守っている花が昨日よりも開いていっていることを二人で見て確認しあう。言葉にしなくても、まだまだね、もうすぐね、の違いをお互いに表情から読み取れるようになっている。

 もうそろそろコンビニに着く……。屋根のある店外のイートインのベンチとテーブルは、濡れていないようだった。今日は空気が澄んでいる。

「気持ちがいいわね。ホットコーヒーを選べば、外でもいけるかしらね」

 清子が以心伝心のように呟く。

 二人でホットコーヒーを買い、テーブルに着くと、トマ子は指先をカップの熱で温めた。チョコレートを思い起こさせる香ばしい豆の香りを嗅ぎながら、そよぐ風を感じる。空気が温かくなってきているとはいえ、四十分のウォーキング後でなかったら、おそらくまだ寒いと感じただろう。桜が咲くにはまだ早い。


「ところでね。私、ウォーキングを週三回しているじゃない? 残りの二日もあなたとのウォーキングに充てるか、趣味で何か始められればと思っているのだけど、」

 あなたとのウォーキング……いつの間にか「あなたとの」という言葉が出るほどになっていることを、トマ子は内心でくすぐったく感じた。特に約束して家を出ているわけでもなく、ただ時間が合うだけのその行程を、「あなたとのウォーキング」と言ってくれた。そのくらい、トマ子のゴミ出しの日の行動もパターン化してしまっている。

「あなた、小物づくりとかはお好きじゃないでしょ。どこか週の一日だけ、一緒にピアノのお教室に通わない? グループレッスンができるところがあるの」

「ピアノ……?」


 ピアノ。

 そういえば、七音ちゃんがピアノを習うことになったのだった。アップライトピアノを庭から入れたのよ、と清子は前に話していた。

 トマ子はふと指を見る。自分の細くなってしまった指を。ピアノをやめて、何十年経ったのだろう。この前、駅前の大きな商業施設で久しぶりにヘッドホンをつけて試し弾きをさせてもらったら、周りに聴こえないのをいいことに夢中になってしまった、練習をしていないせいで、ところどころ忘れてしまった曲を、記憶を辿って何度も弾いた。

 久しぶりに弾いたら指が痛くなってしまい、病院で診てもらったところ、老化のせいです、良くはならない、とトマ子は言われてしまった。老化といっても、同じ年齢でずっと弾き続けていた友人から指の老化で弾けなくなったという話は聞かない。毎日弾いていればこの年になっても弾けたに違いない、急にたくさん弾くのではなく少しずつ弾く時間を増やすのなら、指を傷めなくてすむのではないか、とトマ子は内心で考えていた。それを、清子に話したような気がする。

 すでに痛みは引いている。


「どうしてピアノ?」

「指を動かすから、ボケ防止にいいんですって。それはまぁいいわ。昔から、弾いてみたかったの、ピアノ」


 少女のように恥ずかしそうに、そしてその恥ずかしさを吹っ切るように。弾いてみたかったの、なんて。きゅうに胸がきゅんとして、笑っている清子に見とれてしまう。この年で、憧れていた何かを始めることを、そんなに自然に。

 ピアノを弾こうとして楽しむ清子が見たい。

 弾く前からBGMでも流れ出したように感じられるほど、トマ子はうっとりとした表情になった。

 この人と一緒に同じ音楽のなかにいられたら、どんなに……。


「トマ子さん、とてもいい顔してる」

「ピアノ、いいわね。そういう清子さん、好き。本当に好き。好きなこと、しましょ?」

 思わず口走ってしまった言葉を、清子はうんうんと優しく頷いて聞いてくれる。その手がホットコーヒーのカップを自分の皺深い頬に当てる仕草が、トマ子は本当に好きだった。清子の白い肌はカップの熱を移し、淡いピンク色がさしている。

「そうね。もう、老い先も短いでしょ。やりたくないことをやっている時間はないのよ。好きなことをしようと思うの」

「清子さん、すぐに始めないといけないんじゃない? すぐよすぐ。もうこの年になると、三分後には逝っているかもしれないわ!」

 おどけて言った言葉に、メッ、というように清子が諫め顔をしてみせる。

「ひとを三分後には逝くお婆さん扱いして。あなたももういい年でしょ!」

「折り返し地点はだいぶ前に過ぎてるものねぇ」

 二人して、クックッと声を上げて笑いあう。

 そうなのだ。折り返し地点をとうに過ぎて、人生の大半を終えた。そんな季節に咲き始めた花を、いつのまにかトマ子は永遠に焼き付けておきたいと感じ始めている。その気持ちを清子がわからないままでも、それでも良いと感じている。

「もう、過ごしたい人と過ごして、やりたいことをやるの。あと、言いたいことも言うわね」

「言いたいこと……」

「トマ子さん。あなた、デートとしてのウォーキングを前提に、私とお付き合いしてくれない? 恋愛として、という意味なのだけど」

 トマ子の手からコーヒーのカップが落ちた。

 蓋つきの紙カップは、運よく蓋が外れず、吸い口から少しだけテーブルにコーヒーをこぼしただけで済んだ。

「あら、危ない」

 清子が急いで倒れたカップを置きなおし、リュックから出したティッシュでテーブルのコーヒーを拭き取った。清子はそのままトマ子の手を取り、袖を汚してしまっていないかを見て、大丈夫だとわかると、

「あ、ごめんなさいね」

 そう言ってそのままトマ子の手をテーブルに戻した。

 ドクン、ドクン。体に致死性の甘い何かが注ぎ込まれていくような気がする。強烈な、気付け薬のような何かが。動けなくなってしまっているトマ子に、清子はしょうがないというように微笑んだ。

「断られるのはわかってるの。ちょっと甘いものを追加で買ってくるから、ここで待っていて。すぐ戻って来るから。三分以内にお返事をちょうだい。老人の心臓、こんな気持ちじゃ三分ももたないから。人に、こういうことを言うのは、生まれてはじめてなの」

 胸を押さえて清子は言い、ポケットの中で鳴り出した携帯をとった。

「あ、たける? コンビニよ。スーパーの前の。来なくていいわよ。来なくていい、ああ、迎えにね、本当にいいのに。来ないでね。ええ――選ぶの? なんでもいいわよ。――寄るのね。わかった」

 電話を切ると、少し困ったように清子は首をかしげた。

「ごめんなさいね。息子、三分以内に車で寄るって。ウォーキングしている間、私を探していたみたいなの。玄関につけるステップを私が選ばないといけないんですって。今日はお返事聞いたらそのまま、たけるの車に乗るわね。あなたが嫌でなければ、一緒に息子の車に乗って帰りましょう……でも、スーパーに寄るのよね?」

 清子は苦笑して、少し間を置いた。

「ごめんなさいね」

 柔らかい声で言うと、立ち上がって店内に向かって行った。

 清子は今日三回も「ごめんなさいね」という単語を発した。そのごめんなさいに、特に最後のごめんなさいに、いくつもの意味が含まれていることを想像できないトマ子ではなかった。話の途中でごめんなさい、関係が終わるかもしれないことを切り出して、ごめんなさい。あなたの気持ちを考えずに、ごめんなさい。

 ――老人の心臓、こんな気持ちじゃ三分ももたないから。




 叶内トマ子には三分以内にやらなければならないことがあった。


 トマ子は右手の指先五本と、左手の指先五本とをくっつけ、指のトレーニングの為に少しだけ力を入れた。指が丸く円を保てるように――。プルプルと震える指に、肩に力が入っていてはいけないという、かつての先生の声を思い出し、力を抜く。力を抜いたとたんに気付いたのは、反対から見たらそれがハートマークになっていることだった。

 

 恥ずかしい。こんなことを思いつくなんて、少女に戻っちゃったみたい。


 ハートマークがどうなんて、口には出さずに、この手をそのまま見せながら返事をしてみよう。ピアノの返事と告白の返事、どちらもきちんと伝えるために。

 こんな悪戯を心の隅に置いておかなくては、身の内側から春の気配が溢れだしてしまいそうなのだ。

 トマ子は待ち遠しくて首を伸ばす。清子はまだレジ前で大福を持って並んでいる。大福とコーヒーの組み合わせが、清子は好きなのだ。豆の香りが増えると言っていつも喜んでいる。

 伝えよう。肩の力を抜いて、もちろん、真剣に、本当の気持ちを。三分以内で。


 どうやら、トマ子の心臓も、三分以内に伝えなければもちそうにないのだった。


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