三分間の奇跡

八万

三分間の奇跡


 俺には三分以内にやらなければならないことがあった。


 絶対に反対側のドアに辿り着かなければならないのだ。


 ここは、満員電車の中。


 俺はしがないサラリーマンだ。


 いつもは二本早い電車に乗っているのだが、今日に限って寝坊してしまったのだ。


 昨日吞み過ぎたのがまずかったようだ。


 俺はドア側に位置しており、ガラス窓に顔をぎゅうっと押しつけられている。


 今朝の通勤ラッシュはいつにも増して、サバ寿司状態であった。


 次の駅を逃せば、もう後は無い。


 俺の腹はもう限界を迎えようとしている。


 その次の駅は終点で、二十分後となってしまう。


 だから、後三分以内に少しでも反対側のドアに近付いておきたい。


 次の駅は人気にんきが無く、つまり降りる人間が少ないのだ。


 へたすると、着いた途端に人が乗り込んできてしまう。


 そうなればもう、万事休すだ。


 俺の人生が終わる。


 しかしながら、満員電車内で移動することがほぼ不可能なことは、十分承知している。


 だが、諦めたらそこで終わりだ。


 俺は少ない可能性に賭ける。


 反対側のドアに近付くにはどうするか。


 まずは、スペースを見つける必要がある。


 横は当然、ぎゅうぎゅうで隙間など殆ど無い。


 なら、上か下かだ。


 上の場合、上手く行けば、ロックバンドのコンサートでダイブするアーチストのように、泳いで反対側のドアまで辿り着けるかもしれない。


 下の場合、無数の足が密集しているが、頭の幅さえ確保できれば身体を横に倒し、股抜きの要領でギリギリ行けそうな気もする。


 誰だ? 


 きもっ、と思ったやつ。


 出てこいや。


 あ、いや、これは独り言だ。


 幸い俺は、やせ型の男だ。体重も成人男性のそれよりやや少ない。


 つまり、上も下も移動することは不可能ではないということだ。


 俺がどちらを選ぶかって?


 答えは下だ。


 上は目立つからな。


 アーチストでもないのにワッショイされるのは恥ずかしい。


 俺は目立つのが嫌いなんだ。


 それに、どさくさに紛れて変なトコを触ってくる奴もいるかもしれない。


 というわけで、俺は身体を少しずつ下へとずらしていく作戦を開始した。


 ドアに押しつけられた顔が歪んで痛いが、我慢して腰を落としていき、なんとか電車の床に横になることができた。


 冷静に考えると、ドアの下部に背中を押しつけた状態で、棒の様になっている俺はいったい何なのだろう。


 だが、先程とは全く違った景色がそこには広がっていたのは大発見だ。


 目の前には、足、足、足、足がいっぱいだ。


 まるでビルが乱立する東京シティのようで感動すら覚える。


 それはさておき、色んな足というか硬い脛が横になった俺の顔やら身体をグイグイ押してくるのが、地味に痛くて苦しい。


 抗議の声をあげようと見上げると、OLらしき人の脛から膝の辺りだけが見えて、後は良く見えないが、脚がプルプルと震えているのが分かった。


 想像するに、俺がドア下部に寝転がっているので、足を後ろに残し胸を反った状態でドアに押しつけられているのだろう。


 かわいそうに。


 満員電車ではよくあるんだよね。


 無理な姿勢で立っていなくちゃならない事が。


 そんな事より、俺にはやらなきゃならない事があるんだった。


 よし、まずはこのOLさんのゲートをくぐらせて貰おう。


 俺は肩幅に開いたOLさんのゲートを悪戦苦闘しながら、くぐろうとすると「きゃっ」と声を殺した悲鳴が電車内に漏れる。


 しかし、気にしてはいられない。


 俺はもう後には引けないのだ。


 構わず、鰻の様にグイグイと身体を前に押し込んでいく。


 その後、少しずつ乱立する足の間を前進する度に、色々な靴に身体中を踏まれては傷つき、悲鳴やら怒声にまた、メンタルが傷ついた。


 特に酷かったのはローファーからの攻撃で、無抵抗の俺を何度も何度も力任せに踏みつけてくるのだ。


 日本の未来は大丈夫なのだろうか。


 そんな困難にも負けず、死地をくぐり抜け、駅に到着する前に反対側のドアまで辿り着く事ができたのは、正に奇跡と言えるだろう。


 三分の奇跡。


 今の俺は人生で最も濃厚で貴重な成功体験をしたと自信を持って言える。


 電車は減速し、静かに停車した。


 俺は伏せたまま、いつでも飛び出せる心の準備をする。


 さあ、開け。


 待ちに待ったドアの開く音が聞こえた。


 後ろの方で……。


「な……ん……だと!?」


 俺の今までの血反吐を吐くような努力は何だったんだ……。


 無情にも、俺が最初に居たドアは殆ど乗降客も無く、再び閉じてしまう。


「……」


 電車は静かに発車した。


 そして、俺は盛大に発射した。


 その後、電車内は異臭が立ち込め、乗客たちは一時パニックに陥った。


 窓を全部開け放つ事でどうにかパニックがおさまったが、次の駅まで乗客はあまり息をしないようにしていたようだ。


 俺はというと、ずっと電車の硬く冷たい床に顔を押しつけて、声を殺しながら泣いていた。


 終点の駅に到着し、俺の目の前のドアが開くと、一斉に乗客が我先にと駆け出していく。


 それはまるで、全てを破壊しながら突き進むバッファローの群れのようであった。


 電車内に残ったのは、開いたドアの前で乗客達に踏まれ、ボロボロとなった俺だけであった。


 見ると、駅のホームには、そんな俺を遠巻きにヒソヒソと話す乗客が沢山。


 俺は袖に顔を突っ伏し、つぶやいた。


「クソが……」



 後日俺は、人気の無い駅ホームの改装により、丁度その日から電車ドアの開閉が逆側になったと知った。



 

 完


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三分間の奇跡 八万 @itou999

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