幕の裏のMake up

佐倉伸哉

本編

 プロ野球選手・藤原には三分以内にやらなければならないことがあった。

 突然起きたアクシデントに対応する為、大急ぎでマウンドに立つ準備を整える必要がある。


 2020年、夏。横浜。

 東京オリンピックで種目に復活した、野球。自国開催で金メダル獲得を目指す日本はメジャーリーガーの参戦こそ適わなかったものの、日本プロ野球界のトッププロが集うドリームチームを結成。国民の期待と声援を追い風に日本は予選ラウンドを全勝で首位突破し、上位8ヶ国によるトーナメントも危なげなく勝ち進み、遂に決勝の日を迎えた。

 対戦相手は、中南米のクーバー共和国。アマチュア野球界では名の知れたカリブ海の強豪で、破壊力抜群な打撃陣を軸に勝ち上がってきた。クーバーもアマチュアながら国内プロの選手で統一したチームを編成しており、相手にとって不足なしだ。

 決勝戦が行われるスタジアムには優勝の瞬間を一目見ようと満員のファンで埋め尽くされた。8割方日本のチームカラーである青で染まっているが、一塁側内野スタンドには遠く離れたクーバーから駆け付けた熱狂的なファンによってチームカラーの赤色一色になっている。

 先攻日本・後攻クーバーで始まった決勝戦。初回、クーバー先発ゴンザレスはボールがストライクゾーンに集まる不安定な立ち上がりで、その隙を突いて連打で作ったチャンスを活かした日本チームは1点の先制に成功。追加点こそ挙げられなかったものの上々の滑り出しとなった。

 日本チーム投手陣は初回からエンジン全開の投球で三者凡退に抑えると、ペース配分などお構いなしに全力投球でクーバー打線を封じる。90球の球数制限が近付き4回から第二先発へスイッチ、先発の好投に負けじと2回1安打1四球の危なげない投球でバトンを中継ぎ投手へ繋いだ。一方、クーバー投手陣もその後は安定感を取り戻し、150キロを超えてベース手前で微妙に動くストレートを駆使して日本打線から凡打の山を築いた。

 試合は中盤から終盤へ差し掛かり、日本は逃げ切りを図るべく継投に入る。しかし、1点を追うクーバーは是が非でも同点にすべく日本投手陣に襲い掛かる。7回、2アウトからツーベースを打たれると、日本監督の島田は投手を思い切って交代。後続を抑えた。続く8回も1アウトから四球を出すと投手を交代、続くバッターをセカンドゴロでゲッツーに抑え、辛くも抑え切った。

(……よし)

 ブルペンに備え付けられているモニターを見つめ、安堵の溜め息を漏らす一人の男。大阪に本拠地を置く“なにわクラウンズ”の投手・藤原だ。プロ入り17年目を数えるベテラン左腕で、今年35歳になる。これは野手を含めてチーム最年長だった。

「おう、お疲れさん」

 不意に、声が掛けられる。ブルペン捕手の相田さんだ。普段はなにわクラウンズと同じリーグで仙台に本拠地を置く“みちのくシャークス”の二軍でブルペン捕手を務めているが、日本チーム編成に際し島田監督の要請を受けてスタッフ入りしていた。歳は藤原より二つ上の37歳でチームスタッフの中では若手に入るが、早くに引退してブルペン捕手へ転向していたので経験は豊富だった。

「クールダウン、付き合うか?」

「えぇ。お願いします」

 相田の提案に応じる藤原。

 万一の登板に備えて6回から肩を温めていた藤原だが、8回を終了した時点で自分の出番はほぼ消滅したと言っても良かった。9回からは藤原の隣で肩を急ピッチで仕上げているクローザーの小宮がマウンドに上がる。今大会4試合に登板して2セーブを挙げ、失点はゼロ。最終回に小宮が上がれば試合を締めてくれることだろう。言い換えれば、小宮にアクシデントでも起きない限り藤原の出る幕はない。

 自分の仕事は終わったと確信した藤原は、相田を相手にキャッチボールを始める。登板に備えてウォームアップをしていた状態のまま体を動かすのを急に止めるとケガに繋がる恐れがある。その為、運動の負荷を少しずつ減らしながら体を慣らす必要がある。

 藤原はプロ入りから一貫して中継ぎを専門とするリリーバーだ。事前に登板日が決まっている事が多い先発や3点差以内のリード時の最終回に登板するクローザーとは違い、いつ出番があるか分からない。そして、出番に備えて準備万端待機していても登板しない事だって珍しくない。ぞんざいな扱いをされる割に評価も待遇も低い事については不満もあるけれど、好きな事を仕事にしていて17年間選手生命に関わるような大ケガや故障とは無縁だった事を考えれば十分幸せだと思っている。陽の目を浴びないポジションで日の丸を背負える日が来るなんて、想像もしていなかった。

 クールダウンをしている途中で、味方の9回の攻撃は三者凡退で終了した。本当なら小宮の為に追加点を取って欲しかったが、相手も国の威信を賭けて戦っているのだからそう簡単に打てないか。

 小宮は少量の水を口に含むと、グラウンドへ向けて力強い足取りで歩き出した。その背中を鼓舞するように、控え投手やスタッフが拍手や声掛けで送り出す。その中には藤原や相田も含まれる。

 ブルペンに備え付けられているテレビには、マウンドで投球練習をする小宮の姿が映し出されている。カメラが切り替わり、金メダルの瞬間を今か今かと期胸を高鳴らせているファンの姿が流れる。その熱気はカメラ越しにブルペンにも感じ取れた。

 マウンドへ送り出されたのを見届けた藤原は、クールダウンを再開する。仕事は終わったと思いながらも、試合の展開はどうしても気になる。ボールから視線を離さないようにしながらも、意識はついついテレビの方へ向いてしまう。

「おいおい、やっぱり投げたかったんじゃないか?」

「いや~、勘弁してほしいっスね」

 揶揄からかうような口振りで相田が投げ掛けてきたが、藤原はすぐに否定する。日本国民全員の期待を一身に背負って投げるなんて、ペナントレースとは比べ物にならないくらいプレッシャーだ。もし万一失敗しようものなら、全国民からバッシングを浴びてしまう。胴上げ投手になるほまれは何物にも替え難いけど、そんなハイリスクは死んでも御免だった。

 他愛たわい無い軽口を叩いていたら、テレビから歓声が沸き起こった。先頭打者が四球で塁に出たのを受け、クーバー応援団が上がったのだ。初っ端からランナーを出してしまい、ブルペンの空気もやや重たくなる。

 ノーアウトでランナーを出したクーバーの9番打者が打席に入る。バッターは送りバントの構え。まずは同点に追いつく事を最優先にする考えのようだ。日本の内野陣もやや前進しバント警戒の守備隊形をるが、初球をサード手前へ転がして送りバント成功。1アウトと引き換えにランナーは2塁へ進まれた。

 得点圏にランナーを背負った状況に、ブルペンの中は一気に水を打ったように静まり返った。誰もが画面を食い入るように見つめている。藤原もクールダウンの作業を一旦止めて、祈るような思いでテレビを見ている。

 打順は1番に戻り、ここから上位打線へと回っていく。一打同点のピンチでキャッチャーの浜田は一旦間合いを取るべくマウンドへ向かい、小宮に声を掛ける。嫌な空気を変えたかったが、小宮は金メダルのプレッシャーに飲み込まれているのか制球が定まらない。明らかなボール球が4つ続いて、フォアボールを出してしまった。一塁が埋まった事でゲッツーに取れる状況となったが、逆転のランナーを出してしまったのはかなり痛い。

 長打が出れば一転サヨナラの大ピンチを背負った小宮だが、続く2番バッターを2ボール2ストライクから空振り三振に切って取った。流石は日本の守護神を任されているだけはある。これで2アウト、悲願の金メダルまであとアウト1つだ。

 相手のバットが空を切った瞬間、ブルペンに居る人々から一斉に拍手が沸いた。ややボールが荒れているのは不安材料ながら、悪いなりに抑えるすべを知っている。

 緊張した空気が少しずつ弛緩しかんしていくのが、肌で感じ取れる。待望の瞬間がもうすぐそこまで迫り、期待と高揚感で気持ちがたかぶってくるのを藤原は感じていた。あと1アウトまでこぎ着けた事から、藤原は出番が無い事を確信してブルペンのベンチに腰を下ろして優勝の瞬間を見届けようとしていた。

 球場内から湧き起こる手拍子。一塁側内野スタンドからは逆転を信じ声をらして応援するクーバーファン。スタジアムは熱狂の坩堝るつぼと化していた。

 現地のみならずテレビの向こう側に居る何千何万の視聴者も決着の行方を固唾かたずを呑んで見守る中――次のバッターの初球、高めに浮いたストレートを捉えた打球は、なんとマウンド上の小宮の右手を直撃したのだ!!

 ブルペンに備え付けられているテレビにマウンド上でうずくまる小宮の姿が映し出された瞬間、藤原は反射的に立ち上がった。画面には転がった白球をサードが捕った光景が流れているが、藤原は構うことなくグラブを手に取って歩き出す。それと同時に相田も一度脱いでいたレガースを装着し直す。

 プレイが一旦止まり、騒然とするスタジアム。観客だけでなく両チームの選手スタッフもマウンドで蹲る小宮に視線を向ける中、藤原は相田を相手にキャッチボールを始めていた。ブルペン内に乾いたミットの音が響く中、藤原も相田も無言でウォームアップ作業を続ける。

 誰かに言われるまでもなく、自分のやるべき事は分かっていた。誰もこんなアクシデントがあるとは予想していない。けれど、不測の事態が起きてしまった以上は誰かが対応しなければならない。藤原はすぐに頭を切り替え、動き出していた。

 小宮が負傷退場した場合、ベンチ入りした投手の中から誰かが登板しないといけない。しかし、ここまで既に7人の投手が登板していて残りは藤原を含めて3人だけ。但し、内訳はロングリリーフ要員と延長戦があった事を想定したリリーフで、この二人はウォームアップすら始めていない。こうした状況で、誰が指名されるかはおのずと見えてくる。

 幸か不幸か、藤原は場数を踏んでいるだけに突発的な登板は慣れていた。在籍するチームは投手力が弱く、出番が無いと思っていたら登板した選手が打ち込まれたり逃げ切りを図ったつもりが同点に追いつかれて延長戦に突入したりしてお鉢が回ってくる事がシーズン中に一回二回ある。そうした緊急事態に大概たいがい任されるのは藤原で、これは信頼されている裏返しなのか便利屋扱いされているだけなのか判断に迷うところだ。しかし、そうした経験がまさかこういう機会で活かされるとは夢にも思っていなかった。

(五分、いや三分か……)

 藤原は頭の中で計算する。野球はスポーツであるのと同時に興行こうぎょうでもある。突発的なアクシデントがあったからと言って悠長ゆうちょうに支度をしていては観客も飽きてしまう。試合再開前の投球練習は通常時と比べて多めの球数が認められているが、グラウンドに出るまで残された時間は三分が限度といったところか。

 肩は温まったところで、藤原は相田を相手に軽めの投球動作に移る。画面では担架に乗せられた小宮が運ばれていく姿が映し出されているが、今はそれどころではない。途中まで肩を温めていたお蔭か、思っていた以上に仕上がりは早かった。

 突如、ブルペンに備え付けられていた電話が鳴る。ブルペンコーチが受話器を取り、藤原の方に視線を送りながら一言二言交わす。受話器を置くと、コーチは藤原の方に向いた。

「藤原、行けるか」

 本番を想定して投球動作へと移っていた藤原は、七割方の力でボールを投げる。18.44メートル先で座る相田が構えたミットへ、ボールは吸い込まれていった。

「えぇ。行けます」

 欲を言えばもう少し投げ込みたかったが、致し方ない。これ以上試合を止める訳にもいかなかった。あとは出たトコ勝負だ。

 スタッフの一人が水の入ったコップを持ってくる。相撲すもうで言えば力水ちからみずといったところか。それを口に含んだ藤原は息を一つ吐く。既に勝負師の顔になっていた。

「よし! 行ってこい!」

 相田の声掛けと共に、ブルペン内に居る人々から拍手が沸き上がる。その声援に背中を押され、藤原はグラウンドへと歩き出す。小宮の負傷から二分三十五秒、日本の運命は藤原に託された。

 後日、日本プロ野球界で『藤原の七球』と呼ばれる名勝負の幕が、今上がろうとしていた――。

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