刻むのは心臓の音だけではない
とは
刻むのは心臓の音だけではない
「無理です! 私に、そんなことは出来ません」
希美の声は震えている。
当然だ、こんなことになるなど、誰が想像できよう。
「どうしてですか? 同意してあなたはこの場にいるはずなのに」
目の前の女性は穏やかに笑い、小型包丁を差し出してきた。
「これから流れてくる、三分ごとの指示を聞いて行動するだけ。それであなたの願いが成就する。何を戸惑うことがありましょう」
部屋の上部にあるスピーカーを見上げ、女性は不思議そうに尋ねてくる。
「マズハ、ハイデイキマショウ。カゲンニキヲツケナイト、アナタガ、ケガヲスルコトニナリマス」
スピーカーからは、抑揚のないコンピュータの合成音が聞こえてくる。
「一番の存在になりたい。それが望みだったから、あなたはここに来たのでしょう?」
ここから早く逃げ出したい。
そのためには……。
指示に従い、解放されるしかない。
その考えに支配され、希美は包丁の刃先をゆっくりと滑らせていく。
「あら、包丁の使い方がお上手。この工程は三分もかからなさそうね。あぁ、
女性の言葉に、希美は一瞬手を止める。
ごくりとつばを飲み込み、包丁を脇に置くと、ゆっくりと丁寧に
「サイタトコロカラ、ヒラキマショウ。テガヨゴレナイヨウニ、キヲツケテ」
指がうまく動かせないのは緊張のためか、あるいは……。
「第一段階は完了ですね。では次は
先程までの穏やかな仮面を捨て、興奮気味に女性が話しかけてくる。
その変貌に希美は驚き、指先が開いた内部へと触れてしまう。
柔らかな『それ』が、にちゃりという音と共に、指先を汚していく。
おもわず後ろへ下がり、
「テガヨゴレテイマス。アラウジカンハ、ヒツヨウデスカ?」
希美は首を横に振ると、再び包丁を手にする。
「いずれ汚れるのだからこのまま。早く片付けたい、次の指示を」
「キザミマショウ、アナタノツヨイツヨイ、ソノカンジョウヲコメテ」
一度、覚悟を決めてしまえば、なんてことはない。
リズムよく、包丁が鳴る音が響いていく。
そう、思いを込めて。
今までの弱気な自分と決別し、新しい自分を歩き出すために。
まるで過去の自分を消し去るように、細かく刻み、元あった形を消し去っていく。
そうして、何度かの三分が繰り返された希美の口から、絞りだすような声がこぼれた。
「……でっ、出来た!」
「よく頑張りましたね。とてもいい香りです」
傍らにやってきた女性が、再び穏やかな笑顔を希美へと向けている。
「ありがとうございます! 始まりはすごく脅迫っぽくて怖かったですけれど」
同じく希美も、笑顔をみせる。
「弱気な自分には、やはりこれくらい背中を押してもらわないとだめだ。それがわかりました」
希美の言葉に、女性は満足そうに頷いている。
「お客様の願いを確実に叶える。それが弊社のモットーですから。打木様のご希望に沿ったプランの『ドキッ! 驚きだらけの三分クッキング、生チョコを作ってみよう』。依頼完了できて何よりです」
「はい! これをあの人に渡して告白してきます。ここでの体験で、思い切って挑戦するという気持ちを得ることが出来ました。弱虫の自分とはここでお別れして、彼にアタックしてきます!」
友人から紹介され、たどりついたサイト。
ここで希美は依頼を出したのだ。
お菓子を作り、好きな相手に告白したいという事。
せっかくだから、某料理番組風にお菓子を作ってみたい。
そして、大人しい自分との決別を。
そんな条件を出してはいたが、まさかこんな展開になろうとは。
「驚くかもしれないけど、あの会社の仕事は確実だから」
今なら友人の言っていた意味がわかる。
予想外ではあったが、見事にこの会社はやってのけたのだから。
最初はチョコの包装紙を「
だが、この得体のしれない経験は、希美の心を確実に変えた。
今ならきっと、物怖じなどせずに告白が出来る。
「よし、あとはこれを……、きゃあっ!」
終わったという、気のゆるみがあったのは否めない。
あろうことか希美は、生チョコを載せたバットを持ったまま転倒してしまった。
床に散らばったチョコに、希美は震える手を伸ばす。
「そんな、せっかく完成したのに……」
自分の仕事の都合もあり、彼に渡せるチャンスは今日だけ。
全てがだめになってしまったというショックから、希美はうつむいたまま動けずにいた。
どれほどそうしていただろう。
コツコツと靴音が近づき、希美の肩に手が乗せられる。
見上げれば、ずっと付き添ってくれていた女性が、笑顔でこちらを見つめていた。
「ご安心ください。こんなこともあろうかと」
彼女は机を指さす。
「同じものを準備しておきました。こちらをお持ちください」
信じられないことに、机の上には生チョコが載ったバットが置かれている。
「あ、こちらも某番組風に言わせてくださいね『出来上がったのが、こちらになります』」
「なにそれすごい!」
お客様の願いをかなえる。
そのために、ここまで準備しているとは。
「ちなみにこのチョコは、打木様の動きを弊社スタッフが別室にてトレースして作ったものです。寸分たがわぬ出来だと、自負しております」
「なにそれこわい!」
「ちなみに追加料金になりますが、『彼の心を確実に射止める』もございますよ」
「なにそれもこわい! ちなみにおいくらですか!」
「ふふっ、打木様もすっかり積極的になられて。弊社としても喜ばしい限りです」
女性は計算機と『打木様用 追加見積書』と書かれた用紙を机から取り出す。
そう、机からだ。
どれほどの準備を、この会社はしているというのだろう。
財布の中のお金は、どれだけ残っていただろうか。
そんなことを考えながら、希美は渡された見積書を広げ、相談を始めていくのだった。
刻むのは心臓の音だけではない とは @toha108
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