人魚の涙
藤泉都理
人魚の涙
人魚には三分以内にやらなければならないことがあった。
涙を止めることだ。
この家の主が帰って来るまで、あと、三分。
風呂場に設置された時計の秒針は規則通り動いている。
止まりはしないか、あの時計が止まりさえすれば、世界の時も止まってくれないか、そうすれば時間が稼げるのに。
止まれ、止まれ、止まれ。
そう念じたところで、止まるはずがなく。
そして、涙も止まらない。
やばい。
玉ねぎの威力がこれほどとは思いもしなんだ。
人魚は顔面蒼白になるも、血流が止まりそうになるも、涙は止まってはくれない。
そうだ、シャワーを浴び続ければいいのではないか。
どうせ、閏年の今日、二月二十九日だけに起こる奇跡なのだ。
明日、三月一日を迎えるまでシャワーを浴び続ければ、この涙は誤魔化せる。
今日は具合が悪くて、全面的に水に浸かっていないとダメみたいだとしおらしい態度で言えば、家主もきっと、しょうがないなと見逃してくれるはず。
よしよし。
ほくそ笑んだ人魚が浴槽から手を伸ばして、シャワーを自身に向けて、水を放とうとした時だった。
ただいま。
くそばかでかい声が聞こえた。
家主だ。
帰って来たのだ。
くう、予告通りに帰らずとも、どこぞで飲み明かせばいいものの。
恨み言を心中で呟きつつ、シャワーから水を放出、したところで、はたと、失態に気付く。
包丁とまな板と玉ねぎが、風呂場にあるのは、おかしい。
しまった、どうする、どうするか。
「おーい。シャワーの水音がずっと聞こえてくるんだけどよどっか調子でも「ああ、悪い!調子がとっても悪い!浴槽の水に浸かって、なおかつ、シャワーの水を浴び続けなければ、とっても今日という日を生きてはいけない。かつ!まな板と包丁と切った玉ねぎもなければ生きてはいけないのだ!」
人魚は家主の言葉を遮って、力強く言い放ってしまった。
しまった、しおらしい態度を取るつもりだったのに。
誤魔化すべく、咳を連打。
上目遣いで家主を、見れ、ば。
「ほほおう。調子が悪いって?」
「そ。そう。とっても悪いのだ」
「それで、浴槽いっぱいに水を溜めて、かつ、シャワーの水も浴びて、かつ、まな板と包丁と切った玉ねぎも必要で」
「そ、そうそう。どれも欠かせぬ」
「で。四年に一度、閏年の今日、二月二十九日にしか、具現化できない、人魚の涙に囲まれていなければ、生きていけない。と?」
にっこり。
家主は笑った。
それはそれは素敵な笑みだった。
にっこり。
人魚も笑った。
とってもとっても、弱弱しく笑った。
「えへ。そう。人魚の涙に囲まれていないと。私。生きていけないの」
人魚は言った。
怒られると知りながらも、言い切った。
素敵な笑みを浮かべていた家主は、三分間。その笑みを持続させたのち、おもむろにシャワーの水を止めて、そして、瞬く間に般若へと変化。人魚に雷を直撃させた。
「お、ま、え、は!人魚の涙が大金に化けるからって、無理に涙を流すなって何度言えば気が済むんだっ!涙も血なんだよっ!おまえは血を垂れ流しまくってるんだよっ!そんなもんで金を稼ぐんじゃねえ!稼ぐなら、汗を垂れ流しまくれっ!」
「うえ~ん。だって、だって!稼いでも稼いでも、どんどん放出していくじゃないか!残らないじゃないか!金!将来不安だって、酒で酔った時によく愚痴を溢しているから!だから!家に置いてもらっている礼に!何とか大金を作っておまえに渡したかったんだよ!」
「あ!り!が!と!お!その気持ちだけ受け取っておくから!もう無理に涙を流そうとか考えんな!」
「だ………ごめんなさい」
「本当だよ。まったく。ほんと。勘弁してくれ。おまえが涙を流すの見んの、本当。嫌なんだよ」
気付いているのだろうか。
知っているのだろうか。
涙を流すほどに、元々透き通るような身体をしているのに、ますます、透明度が強くなっていくことを。
どんどん、透明度が増して。
消滅してしまうのではないかと。
(怖いんだよ)
家主は短く強い息を吐き出してのち、調子は悪いのかと人魚に尋ねた。
「………少し。調子は悪い。が。水炊きを食べたら。よくなりそう。な、気もする」
「………わかった。用意するからそこにいろ。居間で食えるか?」
「うん」
「………ビニールプールも用意する。少し待ってろ」
「………ごめんなさい。ありがとう。ございます」
「どういたしまして」
人魚はゆっくり立ち去って行く家主の背中を見送ってのち、深い呼吸を吐いて、浴槽の縁に頭を乗せ、ようとしたが、硬い物体が頭に当たったので、頭を起こして、見た。
人魚の涙だ。
玉ねぎの威力のおかげで、あちらこちらに落ちている。
「血。か」
人差し指と親指に挟まれた人魚の涙を、まさか、血と表現するなんて。
(まあ。痛くない。わけではないが)
それでも。
「ほれ。行くぞ」
「ああ」
ビニールプールを抱えて来た家主の姿を見た人魚は、噴き出しそうになるのを必死に堪えて、その中に入ったのであった。
(2024.2.29)
人魚の涙 藤泉都理 @fujitori
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