良いコにするのも限界がある

凪野海里

良いコにするのも限界がある

 珊瑚には三分以内にやらなければならないことがあった。だがそれはカップラーメンを作ることでもなければ、世界の平和を守ることでもない。

 そもそも珊瑚は世界平和なんてムズかしいことはよくわからなかったし、カップラーメンの作り方だって知らない。究極の箱入り娘だ。その証拠に、誰かと一緒じゃないと外に出ることも許されない。

 愛するママが帰ってくるまで、もうそれほど時間は残されていない。今こうやってどこから手をつければ良いか悩んでいるあいだにも、タイムリミットは刻一刻と迫ってきている。あの長い針が「12」を差したら終わりだ。早くなんとかしなければ。

 ああ、いっそ。大きな怪獣が暴れまわったことにしてしまおうか。そうすれば、このひっくり返ってしまったイスも、破れてしまったカーテンも、綿が半分以上飛び出している無残なぬいぐるみも、何もかもその説明だけで事足りる気がする。


 果たしてママが愛する娘の言い分に耳を貸すかはともかくとして。


 だってしょうがないじゃない。珊瑚は思わずむくれてしまう。現状をどうにかしなければという焦りはそのまま、ママに対する怒りと悲しみに湧いた。

 ママのことは大好きだ。世界一愛しているといっても過言ではない。きっと自分以上に彼女に愛情を持っている者はこの世のどこにもいないのだ。でも、ともかく。そういうの抜きにしても、ママに対して許せないという気持ちが珊瑚にはたしかにあった。そういった気持ちを珊瑚はいつも「モヤモヤする」って言ってる。

 今日も愛するママから、「1日、お留守番よろしくね」と言われた。ママは最近、とっても忙しいみたい。だから言いつけ通りに、白い壁に覆われた世界で、1日留守番をする。ママの言う「留守番」が「良い子にしててね」という意味を持っていることも知っていたから、あまり部屋も散らかさずにおいたのだ(少なくとも昨日までは)。珊瑚はまだ3つになったばかりだけど、言葉に隠された意味をとれるほど、とても聡明なコなのだ。

 それで1日「良い子」に「留守番」してたら、窓の外はあっという間に真っ暗になるから、珊瑚はいつも玄関へ向かうのだ。まもなくしてママが帰ってくると、珊瑚は飛び跳ねんばかりに嬉しかった。でも、前に飛び跳ねすぎてママを押し倒しちゃったことがあって、そしたらママ。すっごく「モヤモヤした」顔して(ママでもそういう顔するんだって思った)、「やめて」っておっきな声で言ってきた。以来、珊瑚は飛び跳ねるのをグッと我慢している。控えめに喜びを表して、ママの足に頬を摺り寄せる程度で済ませて、それからお気に入りのぬいぐるみを持ってきて、早速「遊ぼ」って誘うのだ。

 でもママはすっごく疲れた顔をしながら、「ごめんね、あとでね」って言ってくる。そんな、この世の悪いことが全部自分に降りかかっているみたいな顔して言われたら、珊瑚だって無理に誘えない。仕方なく、独りでぬいぐるみを振り回したりするしかなかった。

 ママが悲しいと、珊瑚だって悲しいんだよ。本当だよ。でも、そう訴えても、現状は何も変わらなかった。だってどんなにそう思って、言葉をかけ続けても、ママの悲しみや苦しみを肩代わりすることはできないから。

 なんて無力なんだろうって思う。もしも珊瑚がもうちょっとお利巧だったら、ママは珊瑚をもうちょっと頼ってくれるのかもしれない。ごめんね、ママ。珊瑚はとっても悪いコです。

 やっぱり大好きなママにこの胸のうちに湧きあがる「モヤモヤした」気持ちをぶつけるのは、間違ってるよね。そしたらきっと、ママ。また倒れちゃうよね。「モヤモヤ」しちゃうよね。


 そのとき、玄関の方でカタリ、と音が聞こえた。小さな小さな、ちいっさな音。でも珊瑚にはわかった。時計を見れば、長い針が「12」を少し過ぎている。ああ、まずい。あの音はママだ。ママが帰ってきてしまった。焦る気持ちばかりが先走って、部屋のなかをうろうろするしかない。

 ママはこの部屋を見たとき、どう思うだろう。何を考えるだろう。いつも良いコで過ごしてる珊瑚がこんなことしたら、疲れているママはもっと疲れるんだ。きっと口を利いてくれなくなるかもしれない。

 でも、仕方ないんだ。だって珊瑚が悪いコだから。

「ただいまぁ」

 ほら、ママが帰って来た。






「あ、珊瑚ちゃん。ごめんね、遅くなって」


 玄関を開けると、出迎えてくれた柴犬の珊瑚に私はそう声をかけた。でも、あれ? いつも私が帰ってくると、すっごく喜んで丸めた尻尾なんて千切れちゃうってくらい、ブンブン振ってるっていうのに。今日は股のあいだにはさんで、びくびくしてる。

 ああ、前にもこういうことがあったっけ。やっぱり今日みたいに仕事ですっごく疲れていた。まるで鉛を肩や頭や胸にズシンと乗っけられたくらいの気持ちで玄関を開けたら、いきなり珊瑚に飛び掛かられて、驚いて尻餅をついてしまった。ちょっとカチンときて、思わず怒鳴ったら珊瑚はそれ以来飛び掛からなくなった。

 あのときは本当にごめん。別に飛び掛かってきても良いのに。苛立ちをそのまま彼女にぶつけてしまった。犬が飼い主に飛びかかるってことが、犬が人間に対してする、愛情表現の1つだって知っていたはずなのに。

 玄関で靴を脱いで、その頭を撫でてようやく珊瑚は尻尾を控えめにチョロチョロ動かした。本当にどうしちゃったんだろう。そういえば、いつもは口にくわえている、ウサギのぬいぐるみもいない。

 ここ最近、まともに構ってやれてないから、きっと寂しかったんだ。本当にごめんね、人間の勝手で。

 もう少し私が容量良くて、与えられた仕事もテキパキこなして、「私、失敗しないので」なんてかっこいいこと言えるような、某ドラマの女医さんみたいな人だったら、きっとみんなが私を頼りにするし、私を見る目だって変わっていただろう。今日も些細なミスをして、上司に雷を落とされてしまった。


 ふと、珊瑚が私の服の袖をぐいぐい引っ張っていることに気づいた。ちょっと、急にどうしたっていうの。これニットだからあんまり引っ張られるとぼろぼろになっちゃう。仕方なく私は、疲労の蓄積されている足腰によいしょと気合を入れて立ち上がり、珊瑚が引っ張るままに部屋に入って、――あぜんとした。

 まるで大きな怪獣が暴れたあと、とでも言おうか。部屋のなかはとにかくメッチャメチャだった。ひっくり返った状態のダイニングの椅子、お気に入りの空色のカーテンなんか、食いちぎられてボロボロ、珊瑚の大好きなウサギのぬいぐるみは、長い耳や腹がやぶけて、中の綿がぶちまけられ、空色の布と合わさってまるで雲のよう。どうりで珊瑚がくわえていないわけだわ。

 もちろん、SFじゃあるまいし、大きな怪獣なんているわけがない。私は額に手をあて、現状から目をそらしつつ、その端でチラッと珊瑚を見た。

 我が家の小さな怪獣は首をすくめながら、私に怒られるのを今か今かと待っている。いつもこちらを見てくる愛くるしいほどの茶色の瞳は悲しみに染まって、ピンとたっているはずの茶色の耳はペタンとしている。心なしか、プルプル震えているようにも見える。


「珊瑚ちゃん」


 名前を呼ぶと、珊瑚はびくびくしながら私を見た。全く、駄目な奴だ。もちろん珊瑚ではない。私のほうだ。最近仕事の忙しさにかまけて、すっかり珊瑚と遊ぶ機会を減らしてしまっていた。珊瑚は良いコで、無駄吠えもしないし、聞き訳も良いから私はすっかり珊瑚のそんな「良いコ」の部分に甘えてしまっていたのだ。

 もちろん、悪戯が癖になってしまったら困るから今日はちゃんと叱る。でもこれは私の責任でもあるから、私も珊瑚に叱られなければならない。これからふたりで一緒に反省会をしようね。私はそういう気持ちを込めて、珊瑚の頭を優しく撫でた。

 とりあえず、明日は有休をとろう。そして珊瑚とめいいっぱい遊ぶんだ。

 私はポケットからスマホを取り出して、すぐさま会社に連絡を入れた。

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