〖KAC20241:3分間〗扉が閉まる前に――sideA

月波結

電車が遅延しなければ

 わたし、斎藤理世さいとうりせには3分以内にやらなければならないことがあった。


 ポケットにはSuica、電車はさっきホームに入ったところ、目の前に停車。

 プシューっとドアが開いて、ラッキー、ドア脇の席が空いてる。

 あとは自動改札を抜けるだけ――。


「ふぅー、ラッキー」

 改札をなんとか抜けて閉まる寸前のドアに滑り込んだ。

 遅刻はヤバい。今日は結婚相手の両親との初めての顔みせだから。

 ドア脇の席に座る。

 隣の席の男の子は大学生くらい。サラサラの黒髪で細い黒縁の眼鏡。綺麗な顔をしている。

 いつから若い子を見ると「かわいいなぁ」と思うようになったのか。まだ二十代なのに我ながら呆れる。

 ガタガタと電車は郊外の住宅地を抜けて、すぐ畑の中を走り始める。電車の揺れが心地いい。うとうとしてくる。


 ――と。

 ガタン、とすごい勢いで電車が停車し、わたしはイスから滑り落ちた!

 隣の男の子が「大丈夫ですか?」と声をかけてくれて引っ張りあげてくれる。

「ありがとう、助かりました」

「緊急停止したみたいですね。きっと電気系統のトラブルですよ。すぐ動きます」

 彼はにっこり微笑んだ。

 わたしは急いで龍明りゅうめいにLINEする。

『電車が緊急停止したのでどれくらいに着くのかわかりません。ごめんなさい』

 隣の男の子はこんなことは慣れっこなのか、落ち着いて座っている。

 電車の中では彼の言う通りのアナウンスが流れてざわっとする。

『なんとかなんないの?』

『なんとかって?』

『そこで降りてタクシーとか』

『降りられないし、きっとすぐ動くと思うよ』

 龍明はせっかちだ。今もイライラしてる。目の前にその様子が手に取るように見える。


「大丈夫ですか?」

「え?」

「閉所恐怖症の人ってこういう状況に弱いんです。普段は気づかなくてもほら、ほかの人たちもピリピリし始めてるし、顔色悪いです」

「ああ、大事な約束があるんです」

「それは気になりますね。でも何時間も待ったりしませんよ、大丈夫です」

 ところが電車は10分経っても動き出さなくて、アナウンスは「ご迷惑おかけします。もう少々お待ちください」を繰り返すばかり。

 みんながソワソワし始めて、隣の男の子は親子連れの子供に席を譲った。わたしもあわててお母さんに席を譲る。

「まだ顔色悪いじゃないですか。子供は母親の膝の上に乗れるから席を替わらなくても」

「大丈夫です。大人ですから」


 15分経った。電車はなかなか動かない。車内のみんなは焦りを感じ始めてる。


 20分経った。車内の空調が止まっていて、むっとした空気が充満してる。このままここで降ろされるのかもしれない。


 25分――。

「大変長らくお待たせしました」

 あ! やっと動く。

 待ってる間に龍明からのLINEはなぜか無くて、ご両親の手前、大人しくしているのかもしれなかった。

 これなら大丈夫かもしれない。


「良かったですね。僕もこんなに待たされたのは初めてですよ」

「珍しかったんですね」

「待ち合わせの相手の方にもそう言えばいいと思いますよ」

 あ、『大事な用』って言ったから気にしてくれてたんだ⋯⋯。気の利く人だな、と思う。なんとはなしに見上げていると、彼はにこりと笑った。

「僕は学生なんで、遅延があった方がラッキーなんですよ。暢気でしょう?」

「確かに学生時代はわたしもそうでした。ふふ、そういうって忘れるんですね」

 電車はその後、遅延に遅延を重ね、彼はわたしと同じ駅で降りた。

「じゃあ、また縁があったら」

「いろいろありがとうございました」

 ぺこっと深くお辞儀をした。物怖じをしない背中が遠ざかって行く――。


 感傷に浸ってる間はなく、龍明に電話する。LINEの返事は電車の中であの後、一度もなかった。すべてグズグズだ。上手くいくとは到底思えなかった。

『もしもし龍明?』

『遅延、ご苦労様』

『だから、そのことについてはごめんなさい⋯⋯』

『謝ったってなんの意味もないよ。もう親、帰ったから』

『え!? 普通そんなに待てないでしょう。俺も帰るとこだから。今日は顔みたくない。それじゃ』

『待って! 次は?』

『⋯⋯次のことなんて今は考えられないことくらいわかるだろ?』


 龍明は医者の卵だった。

 看護学科に進んだ時、知人の紹介で知り合った。

 わたしは最初、そういうつもりじゃなかったのに、彼はわたしを彼女として扱った。

 いつでもプライドに満ちていて、いつでも傲慢。それが龍明だ。悪い人ではない。だからこそここまで別れることなく付き合ってしまったのだけど⋯⋯。

 涙がポタッと頬に落ちた。前に、人影を感じた。

「まだ改札前にいたんですね? 僕の方は休講の知らせが入って、帰るところです」

 彼は人のよさそうな、照れた顔で笑った。俯いていたわたしは涙を見せまいと手の甲で涙を拭った。丁寧に仕上げてきたアイラインが茶色いラインを手の甲に描く。

「あの、お茶でもしませんか?」

 どうとでもなれ、だ!


 ほぉぉ、と周りの女の子の視線を感じる。わたしに、じゃなく彼に、だ。

 あのパニックでよく見てなかったけど、彼は麗しの美青年だった。そう、メガネカフェ。メイドじゃなくてメガネ男子がいるメガネカフェにいそうな、落ち着いた佇まい。

 そしてわたしは知ってる。見た目だけじゃなく、彼がすごく気が利くということを。

「なんかこのお店、女の人ばかりですね」

「ごめんなさい、ここのケーキがすきで」

「美味しそうなベリーのタルトですね」

 嘘をついてしまった。別にここじゃなきゃいけない理由はなかったんだけど、オシャレなお店に連れて来たかった。要するに見栄を張った。


「こういうところはあんまり来たことがないんですけど⋯⋯食器も落ち着いていて店内も居心地になっているんですね。僕はちょっと、小心者なので落ち着かないですけど」と言って彼は苦笑した。わたしはいたたまれなくなって「選択ミスでした」と正直に告白した。

「僕は仁科と言います」

「あ、斎藤です。挨拶もしないで、やだ」

 恥ずかしくて顔を伏せる。

 大人なのにまったく恥ずかしい。

「斎藤さんは社会人ですよね? 僕はさっき話した通り、学生なんです。あの、看護学科に通ってます」

「ああ、どおりで周りのことにすぐ気が付くんですね! 看護師志望なら納得です」

「⋯⋯笑わないんですね?」

「え? なにをですか?」

「僕⋯⋯医学部二浪で」

「医師になりたいんですか? それなら諦めないで⋯⋯」

「いや、そんなに時間をかけられません。今は看護師でいいと思ってます」

 彼の言葉になんだかムカムカしてくる。彼はなにか思い違いをしている。


「あのね、医師も看護師も命を救う助けをするという意味では変わりません。それから恥ずかしく思うのもやめてください。わたし、看護師です。現場に男の人が入って、すごく助かってます。わたしたちだけじゃ難しいこともたくさんあるんで。もっと、誇りを持ってください! 看護師だって誰でもなれるわけじゃないし、看護学科に誰でも入れるわけじゃないですよ! とにかく自信を持って!」

 ハッと正気に戻ると一気にまくし立ててしまったことに気づく。

 周りを見ると、女の子たちは知らないふりをしていた。⋯⋯冷や汗をかく。

「あの、生意気なことを」

「いや、まさか斎藤さんがここまで熱い方だと」

「⋯⋯ですよねぇ。すみません、あのぉ、実は同じ大学だと思うんです。わたしは入るの、すごく難しかったです⋯⋯。すんなり入れただけ、うらやましい」


 そしてその医学部にすんなり入ってしまったのが龍明だ。親は個人病院を経営していて、本人もすんなり医者になるつもりだろう。

 今、インターン中だけど、きっとすいすいと名医になるだろう。野心家で自信家。間違いなんてないと思ってる。


「そうでしたか。斎藤さん! 失礼なことを言ってすみませんでした!」

「いや、そういうのはナシで!」

「⋯⋯先輩なんですね。偶然ってすごいなぁ」

「そうですか?」

「あの⋯⋯僕、今のままでいいのかずっと迷ってたんです。医学部落ちて、医者になれなくて情けなくて、そんな気持ちで看護師になるなんて」

「ですから」

「はい」

「看護師がいないと医師は十分に働けません! 看護師は看護師。医師と切り離して考えて」

 仁科さんは俯いて話を聞いていたので、言い過ぎてしまったかしらと心配したけど、真っ直ぐこっちを向いた。

 その目は清明だった――。

「僕は斎藤さんみたいなプライドある看護師になりたい」

「え、いえ、そんなんじゃないです」

「よろしくお願いします、先輩」

 かわいいな、と思った男の子は後輩になった。


 ◇


「この間は俺が悪かったよ」

 たまたま病院ですれ違った時、龍明に肩を叩かれた······。いつも高飛車な龍明から謝ってくるなんて、余程の覚悟が必要だったに違いない。

「電車の遅延はわたしにはどうにもできなかったけど、わたしの誠意は足りなかったかもしれない。こんなことでダメになってたら、この先ずっとやっていけないよね」

「俺、短気だから」

「わたしも早とちりだから。龍明とはもうダメかと思ったぁ。よかった!」

 廊下の真ん中で抱きしめられるようなロマンティックな展開はなかった。でも彼は、人目を恐れずに、頭をポンとしてくれた。不器用な愛情表現は、わたしをしあわせな気持ちにさせた。

「親も実は怒ってるわけじゃないんだ。俺ひとりだけ怒ってて。だからさ、やり直さないか? 親も理世に早く会ってみたいって」

「⋯⋯バカ。どんなに悩んだか」

「ごめんな」

 龍明はふいと向きを変えて行ってしまった。仕事中の医師ドクターは本当に忙しい。それなのにわざわざ時間を割いてくれて⋯⋯。

 わたしはしあわせな気持ちに浸った。


 ◇


「その顔だと上手く行ったみたいですね」

「仁科さん!」

「実習終わったとこで」

「わたしも上がりなの」

 一瞬、考える。こういうのはまずいかなって。

 でも方向も一緒だし、電車の便も悪いし。

「わたし、普段は車通勤なの。よかったら乗っていって。この時間、電車混むでしょう?」


「どうしてあの日は電車だったんですか? 車なら遅延しなかったのに」

「電車の方が時間に正確かなと思ったの。ほら、車は時間によって混むからと言いつつ、今日も道路は混雑気味だ。

 それでも車内は気まずい空気が漂ったりしなかった。わたしはすっかり仁科さんに慣れていた。

「じゃあ本当に運が悪かったんですね、あの日は」

「仕方ないよ、誰にも電車の遅延は予想できないもん。怒ってたのは龍明だけで」

 わたしは苦笑した。

「斎藤さん、連絡先だけでも交換してもらえませんか?」

 ドキッとする。この人、本気なんだ――。まだ何回も会ってないのに。

「したいところだけど、わたしもうすぐ『斎藤』じゃなくなるよ」

 カーラジオはわたしたちが付き合い始めた頃に流行っていたラブソングを流し始めた。ラジオは「ずっとそばにいたいよ」と繰り返した。


 ウインカーを右に。

 高速道路に入る。

 いつもは下道で帰るんだけど、やっぱりこの混雑の中、狭い車内でふたりきりは長時間、厳しい。と、思った。

 それに龍明に対して、なんだかやましいことをしているような気持ちが、どんどん積もってきた。

「さっきの曲、いい曲ですよね」

「うん、すきなんだ」

「僕にもいつか、ずっとそばにいたい人ができるかな、なんて、ほんとは期待してたんですけど⋯⋯運命は予想通りの展開には――」

 え? と頬が赤くなった瞬間、一瞬わたしは仁科さんを見た。彼は気まずそうにわたしを見て――。瞬間、鋭い衝撃を感じる。シートベルトは羽交い締めするようにわたしを強く締め付けて。


 後ろから、無理にわたしたちの乗った車を追い抜こうとした車が抜けきれず、わたしの車の右斜め後ろに衝突した。

 わたしたちの車は大きく左側に進路が滑り⋯⋯。

「しっかりしてください! 聞こえますかー?

 聞こえますかー? ⋯⋯」

 聞こえない。

 なにも、聞こえない⋯⋯。

 龍明の声が、遙か遠くでかすかにわたしの名を呼んだ気がした。

「理世! 理世! 患者、目を開きました!」

 わたしはストレッチャーに乗せられ、病院の廊下を走っていた。

「大丈夫、俺が助けるから。頼む! そのまま意識を保って」

「りゅ⋯⋯」

「俺の名前は?」

「りゅ、うめい」

「俺の名前、教えて?」

「りゅうめい」

「お前の名前は?」

「理世⋯⋯斎藤理世」

「よし、よくできた」

 龍明の笑顔は何物にも代えがたいほど眩しかった――。


 ◇


 仁科さんのご両親はわたしに会いたがらなかった。

 それはそうだ。わたしの車にあの時こんなことにならなかったんだから。

 わたしたちは運命に弄ばれた。

 あの時、誘わなければ、あの時、高速道路を選ばなければ、あの時、――。もう、会えない。

「サヨナラ」の一言もいえず、わたしは連絡先も知らない男性ひとのことを思い、病室のベッドで独り泣いた。


(了)




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