我が良き友へこの幕を張れ

尾八原ジュージ

三分以内に張れ。

 おれには三分以内にやらなければならないことがあった。

 三分後、向こうに見える陸橋を汽車が通過する。その汽車に乗って遠い遠い街へ向かう友だちに見えるよう、皆で作った横断幕を高所に張らねばならない。

 無理である。

 正気の沙汰ではない。なぜ「一人でできる」と言ってしまったのか、そしてなぜ誰も止めなかったのか。何もかもわからなかったが、ただあの瞬間ものすごくハイになっていたということだけは覚えていた。それと、おれは何しろ木登りだけは超得意だということも確かだった。

 陸橋に汽車がやってくるまであと二分五十秒。おれは一応、地上三十メートル地点にいた。この辺りで一番高い木の頂点である。もちろん、横断幕もちゃんと背負っている。白字に赤で大きく「がんばれ」と書いた周りに、みんなのメッセージがごちゃごちゃ書いてあるやつだ。「がんばれ」はともかく、寄せ書きの方はこんな遠くから読めるわけがないのだが、でも込められた気持ちが重くて、そのへんにほっといたら祟られそうだった。友だちは人気者だったのだ。おれと違って。

 おれは横断幕を背中から降ろし、しかしそのまま動けなくなっていた。一刻も早く枝に横断幕の一端を結び、木を降り、それから別の木に登って、あらかじめ結びつけておいた紐を手繰り、横断幕を張らねばならないのに。

 なぜ動けないのか?

 その答えはバッファローである。バッファローの群れが、眼下の川に憩っていた。このバッファロー共は人間を憎んでおり、おれが地上に下りれば――否、この木の上にいることを悟れば、いちどきに立ち上がって突進してくるに違いなかった。バッファローの群れはあらゆるものを破壊しながらまっすぐに進むため、川に至るまでの道筋には巨人が指で抉ったような跡がついていた。

 あと二分。

 ここからどうやって横断幕を張るというのだ。無理だ。詰んでいる。どうしようもなく詰んでいる。

 おれは最善手を思った。つまり横断幕を張るのは諦めるということだ。このまま汽車の通過を見送り、バッファローどもが移動するのを待って木を降り、村に帰るのだ。

 と、どうなるか? 皆が「横断幕張れた?」などと聞くだろう。おれは嘘をつくのがものすごく下手だから、「チャントハッタヨ」と言えば一発で張れなかったことがばれるだろう。そして軽蔑される。昨日あれほどでかい口を叩いたのに? 「無理だろ」と止めた村人を煽り散らしていたのに? おれは昨日の自分を初めて省み、そして後悔した。

 いやしかし、今日は仕方がない。何しろバッファローの群れがいたのだ。荒々しく、ひとたび立てばすべてを破壊しながら進むバッファローの群れがいたのだから、これはもう仕方がない。不幸な事故である。責められるようなことではない。だから村八分だけはどうか。おお。

 あと一分。

 このまま何もせずに汽車の通過を見逃せば、村内でのおれの立ち位置は地に落ちるに違いない。が死ぬよりはマシだろう。つまり今は、こうして地上三十メートルのところで幕を持ってガタガタ震えているのが最もよい。

 しかし手汗がすごい。何かで拭きたいが、ハンカチなどという洒落たものは持っていなかった。着ている服も汗で湿っており、手近な乾いた布といえばこの横断幕である。どうせもう張らないのだから、手汗くらい拭ったっていいだろう。

 おれは脇に抱えていた布を手にとった。そのとき、ポォーッという大きな音が辺りに響き渡った。汽笛だ。それに気をとられた次の瞬間、くるくると巻いておいた横断幕がずるりと下に落ちた。

 慌てて持ち直したが、遅かった。横断幕はたちまちのうちに、下に向かってほどけていく。「がんばれ」というゴシック体が露わになる。それはバッファローたちにとって突然の異物の出現に違いなく、群れには明らかな動揺が走った。

 次の瞬間、バッファローの群れは立った。黒い小山の群れが一斉に動くかのようだった。バッファロー共はあっという間に木々をなぎ倒し、森を蹂躙しながら、おれが死に物狂いでひっついている三十メートルの木へと肉薄した。物凄い力が巨木を押し倒そうとする――が、そのとき木は折れず、大きくしなった。そして元に戻ろうとする反動をもって、バッファロー共を押し返したのである。木の先端にいたおれにとっては、このとき巨木は巨大な発射台であった。

 気がつくと、おれは横断幕の一端を掴んだまま、空中を高く舞っていた。

 汽車はまさに陸橋の上、蒸気をあげてシュッシュッと凄まじい音をたて、遠い街へ向けてそこを通過する途中であった。横断幕の端っこを持って落下していくおれはそのとき、汽車の窓越しに友だちの顔を発見していた。驚いて大きく両目を見開いた彼と、確かに目が合った。

 おれは大声で「がんばれ」と叫んだ。おそらく聞こえなかっただろう。しかし口の動きはわかったはずだ。横断幕も見えたはずだ。友だちは大きく頷いてサムズアップし、そして通り過ぎた。

 おれは横断幕を持ったまま川に落ちた。ボロボロだったが、奇跡的に生きていた。命からがら水面から顔を出し、遠ざかってゆく汽車の最後尾を見守った。

 さようなら友よ。おお、きみはもう帰ってくるまい。こんな危険なバッファロー共のたむろする、ドのつく田舎には。そしておれは曲りなりにも目的を達したのではないか。横断幕を張ることはできなかったが、しかし彼に見せることはできた。それで十分ではないか。

 地面が揺れ、凄まじい音が耳をつんざいた。おれと横断幕を追って、バッファロー共がこちらに進路を変えていた。十秒以内に遠くまで逃げねばなるまいと思ったが、すでに満身創痍だった。

 おれは目を閉じた。遠くでもう一度汽笛が聞こえたような気がした。

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