ダーティ・ダディ・クライシス

ハヤシダノリカズ

In the chamber

板谷大樹いたやだいきには三分以内にやらなければならないことがあった。三分というのは目の前のカップラーメンをじっと眺めて待っている分には長く、モンハンに没頭している分には一瞬だ』

 オレは現実逃避の常套手段である三人称の独り言を頭に浮かべた。頭の中にはそんなどうでもいい文章が浮かび、額には脂汗が浮かんでいる。いや、待て。脳のリソースをそこに割いている場合じゃないぞ、今は。

 もう、三分が二分五十秒くらいに目減りしている。オレは目の前のスマートフォンを睨みながら画面を操作し、先方に送るメールの文言にもっと良いものがないかと頭を捻る。入力済みの文章を読み返し、添付したファイルのファイル名を確認し、当たり障りのないビジネス用語に物足りなさを覚え、『あの人にはこういう固い文章だけじゃ足りないんだよな』と、メール送信先の工場長の顔を思い浮かべる。


 どうだ、あと二分三十秒程か?膝に立てた肘の先の両手で支えられたスマートフォンの画面はさっきから何も変わらない。ただ、フリック入力の半画面を出したり消したりしているだけだ。脂汗はずっと滲んでいる。あぁ、面倒ごとを先送りにしていたツケがこういうカタチで襲って来るとは。オレは視線を一度画面から外し、目の前のドアを見る。素っ気ない白いドア。おそらくはドアの向こうに怒りに燃えている見知らぬ誰かがいるハズだ。さっきから何度もノックされている。


 分かっている。あなたに迷惑をかけている事は分かっている。コンビニのトイレを占拠している人間は憎いだろう。下半身の限界を感じている時の使用中の赤色は絶望的だっただろう。二分も待てば開くハズの天国のドアが閉まりっぱなしなのは腹が立つだろう。『中でスマホ触りながらのんびりしてんじゃねーよ!』と想像で怒りを増幅させているかもしれない。事実、オレはスマートフォンと睨めっこしている。だが、のんびりしている訳じゃない。オレは現在格闘中なんだ。先方へ向けたメールの文章と戦い、腹の中の災厄と戦っているのだ。


 今、オレの腹の中では、全てを破壊しながら突き進むバッファローの群れが暴走している。額の脂汗の原因の八割はヤツラのせいで、二割は工場長だ。しかし、バッファローの群れはいずれ沈静化する瞬間的な災厄でしかない。時間厳守を生活信条としている岩尾工場長との約束を破ってしまう事は継続的な災厄を呼び込む行為だ。あと一分。メール送信ボタンをタップするそのワンアクション、本当にこれでいいのか?


 ――


「ふぅ」

 営業車の運転席に着いたオレはため息をつく。

 オレの腹の中のバッファローが過ぎ去るまでを待ってくれていたドアの向こうの他生の縁の人は、怒りに震えるオッサンだったが、オレと揉める時間も惜しいと肩をぶつけるように個室に入って行った。悪い事をしたな。大物との格闘を終えたオレの頭の中にはクエストクリア時のファンファーレが鳴り響いていた。それが故にオレはゆったりと個室を出たのだが、それが彼の逆鱗に触れたのかも知れない。達成感と生き延びた実感に満たされたオレと地獄の淵にいた彼との邂逅は、圧倒的に彼の方が不利で、彼はオレを睨みつける位しかできなかった。本当に悪い事をした。すまない、オレもピンチだったんだ。


 営業車の中でタバコを咥え、火を点けようとしたその時、胸ポケットの中のスマートフォンが鳴動した。取り出すと、画面には岩尾工場長と出ている。

「もしもし」

 オレの声に反応して、通話がオンになる。

「やぁ、板谷くん。キミのメールはいつもギリギリだが、約束を守るトコロはいいね」

 イヤフォンから穏やかな工場長の声が聞こえてくる。

「いつも、スミマセン。約束の期日ギリギリまでクオリティを上げる事がクセになっていまして……」

 オレはテキトーな相槌を打つ。

「しかし、今回の君のメールにはよく分からない箇所がある」

「え?何かおかしかったですか?」

「あぁ。イテェバッカヤロウとはなんの事だ? 脈絡なくイテェバッカヤロウというテキストがいくつか紛れている」

「え!」

「もしかするとあれかい?キミ達本社の人間から、私はイテェバカヤロウと呼ばれているのかい?」

 マジか。そんな事書く訳がない。そんな事実もない。

「そ、そ、そんな事書いた覚えは……」

 そう言えば、スマートフォンの音声入力はオンになっていなかったか? 腹の中の災厄との最終局面で『イテェ』とか『バッファロー』とか呟いてなかったか? ……呟いていた気がする。それがメールの文面に紛れた? まさかバッファローがバカヤロウに?

「ギリギリまでクォリティを上げるという君の姿勢は良いものだと思うが、その末にイテェバカヤロウなんてものが入るのはどういう事かね?」


 これは……、この誤解を解くのは大変だぞ……。異常に穏やかに話す時の岩尾工場長ほど怖いものはない。『岩尾さんはいい人だけど、ちょっと腹黒なトコロがあるよね』同僚とのそんな会話が思い出される。


 引いた脂汗が再び額に滲む。何を言うべきかを考えようと視線をあちこちに走らせていると、コンビニの自動ドアが開き、さっきのオッサンが出て来た。彼はオレに気付くとこちらに足を向けてきた。文句の一つも言ってやろうという顔だ。もしかすると彼はパンツを汚したのかも知れない。


 怒れるオッサン二人を同時に相手をせねばならないのか。


 あぁ、腹が痛い。


 イマジナリーバッファローよりも強大な敵だ。


 かなり、ヤバい。


 ――終――

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