声をかけろ少年

秋犬

声をかけろ少年

 ボクには三分以内にやらなければならないことがあった。


(次の駅まであと三分。いや、今すぐにでもしないといけないんだ)


 ボクはちらりと目をあげる。目のやり場に困るような女の人が立っている。女の人を直視できずに、ボクはうつむいて鞄を持つ手を握りしめる。


(なんだって、ボクの前にやってきたんだよ)


 もう一度女の人を見る。目の前の女の人は大変美しい。美しいからきっと選ばれて、それで何の因果かボクの前にやってきてしまったんだ。


(もう少しズレてもよかったのに……)


 鞄を持つ手に更に力が入る。なんだか震えているような気もする。


(声をかけるだけ、かけるだけなのに……それだけでいいのに)


 いざ声を出そうとすると、どうしても体全体が固くなって震えてしまう。いつもこうだ。国語の時間は大嫌いだ。算数だって理科だってなんだって大嫌いだ。声なんて出そうとするだけで疲れるっていうのに、さらにみんなの前で声を出すなんてボクには無理なんだ。


 慣れた教室や友達でもいまだに緊張するっていうのに、知らない人ばかりが乗っている電車の中なんかで知らない女の人に声をかけるなんて、ボクには絶対できない。きっとみんながボクを見るだろう。それを想像するだけで頭がぎゅうっと痛くなる。無理だ無理、絶対無理!!


(でも、やらなきゃいけないんだ)


 ボクは電車の中をそっと見渡す。隣に座っているのは杖を持ったおばあさん。反対隣に座っているのは眠っている化粧臭い女の人。そして一見健康そうな男子学生のボク。


(もうボクしか声をかける人がいないじゃないか!)


 声をかけるのも嫌だけど、声をかけないことで周囲から白い目で見られているような気もする。どっちにしろ地獄だ。


(あー、なんでボクなんだよ! ボクじゃなくてもう少しいい奴のところにいけばよかったのに! ボクなんかの前に来なきゃよかったのに!)


 そう思っても電車は止まらないし、ボクは決断を迫られ続ける。


(ボクなんかより、もっといい奴はいっぱいいるのに、ボクなんか何もできないグズなのに、こんなこともできないなんて、ますますグズになるんだろうな……)


 そう考えるとボクはますます自分が嫌になってきた。


(次の駅まで三分。それまで気まずいのを耐えて駅に着いたら降りるふりして席を譲るのが一番いいのかもしれないけど、それってやっぱりダサいよな)


 いろんなことを考える。多分、本当は数十秒くらいしか経っていないんだけどボクには何分もすぎたような感じがする。


(頑張れ、ボク。変な声を出すより、声をかけるほうが何倍も注目されるけど、きっと周囲だって別に何か思ったりしないよ、当たり前だし褒められることだろ、きっとそうに違いない、頑張るぞ、ボク)


 もう一度ボクは女の人を見上げる。すると、女の人と目が合ってしまった。


(まずい、もう後には引けないぞ。頑張れ、ボク、頑張るんだ!)


「あ、ああああの……」


 ボクは思い切って声を出す。


「あの、よよ、かったら、座ってください!」


 上ずった声で叫ぶように声を出すと、頑張って勢いよく立ち上がる。


「どうもありがとう……よいしょっと」


 お腹の大きな女の人はにっこり笑って、ボクの座っていた席に腰を下ろす。最初はデブかと思ったけど、ピンクの妊婦マークを持っていたのですぐに妊婦だとわかった。あのお腹の中に赤ちゃんがいるのかと思うと、女の人ってすごいなと心から思った。


「あらあら、何か月ですの?」


 ボクの隣に座っていたおばあさんが尋ねる。


「来週で八か月なんです」

「そうですか、それじゃあ楽しみでしょう。あんたも偉かったねえ」


 おばあさんも女の人もにこにこ笑っていた。ボクも一緒に笑っていいんだと思うと、なんだか誇らしかった。


 それからすぐに電車が駅についた。

 ボクは降りるふりをしなくてもよかった。

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声をかけろ少年 秋犬 @Anoni

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