珍世界より

不二原光菓

珍世界より

 日が高く昇って、周囲がぽかぽかと暖かくなってきた。

 ペソはわらを掻き分けて寝たまま手を伸ばすと枕もとにある食べかけの果物をつかむ。


「昼だよ。起きて!」


 声とともに手からかじりかけの果物が取り上げられた。藁が剥ぎ取られ、丸まったペソの姿があらわになる。


「まだ、いいじゃないか、ツム」恨めしそうな目つきでペソが呟いた。


「もう外の世界では皆ひと仕事終わってる頃だよ」


「食べ物が無くなったら、働く。それまではのんびりごろごろ、これが昔からのわしらの伝統的な暮らし方だ」


「皆わかってないんだ、これは病気なんだよ。花糞かふん症なんだ」


「かふんでもはなくそでもいいじゃないか、ツム」


 藁にもぐりこもうとするペソの身体が、ずずと引きずり出された。


「父さん達は、花糞の毒に頭をやられて、怠惰になっているんだ」


 目を吊り上げている息子を見ながらペソは首を振った。


「こんなになるんだったらお前を外になんてやるんじゃなかった」


 窓辺から差し込む強烈な光に目をしょぼしょぼさせながら、ペソはのろのろと立ち上がった。


「十年前は、お前もまともな怠け者だったのになあ。あの洞窟に迷い込むまでは」


「あのおかげで、僕は正気になったんだよ。だから外の世界に勉強に行きたいって父さんを説き伏せたんだ」


「大風で、禁断の洞窟の柵が壊れてさえいなければ……」


「いいから、父さんこれを飲んで」


 息子が差し出す木の器には、鼻を刺す臭いの液体が波打っていた。


「とうとうできたんだ、解毒剤だよ。あの洞窟に生えていたきのこの胞子から僕が開発したんだ」


 しぶしぶ飲み込むペソを満足そうに見上げながらツムは微笑んだ。


「効きゃあしないさ、わしには」


 ペソは窓の外を見ながら呟いた。


「黄金色の女神様がいる限り、な」


 父親の視線を追ったツムは唇を噛み締めた。


「確かに。根源を断たなければいくら薬を飲んでもいたちごっこだ」


 目の前にはツムの胴体よりも太い茎を持った、木と言っていいほど背の高い大きな花が何本もすっくと立っていた。茎の先端には両手を広げたぐらいの大きな金色の花びらが何枚も放射線状に広がり、ばたばたと風にひるがえっている。


 だが諸悪の根源は、地面からすぐの所にあった。茎の一部が瘤のように膨れあがっており、そこを良く見ると定期的に瘤に孔が開き金色の花糞が間歇泉のように勢い良く吹き上げられている。ペソの故郷に林立するこの花は、産生した花粉を茎を伝わせて根元に近い瘤に集め噴出させることによって、散布していた。


「僕が帰って来たからには……あ、だめだ父さん」


 飲み干した後も寝床に向かおうとする父親の上着を引っ張って、息子は有無を言わさず布で出来た大きな袋の束を握らせた。


「なんだこりゃあ」


「今から、この世界を救いに行くんだ。父さんと一緒に」








「正午から3時間だけ、この花は花糞を出さない」


 ツムは高さが自分の2倍はある金色の花達を見上げた。


「この地図に花のある場所を書き込んである。手分けしてこの噴出孔に蓋をしていくんだ。さあ、急がなきゃ。噴出が始まった時にこの孔に顔を近づけていたらすべて水の泡。高濃度の花糞に暴露されたら、解毒剤なんかひとたまりも無い。一瞬で使命そっちのけになってしまうからね」


 ペソは頷くと、袋を孔の開いている瘤にかぶせてぐいぐいと縄で縛っていった。


 住民達はまだ寝ているのか、誰一人出て来ない。


「父さん、もしかして解毒剤が効いてきたのかなあ」


 黙々と働くペソを見ながらツムは呟いた。


 3時間後。


 計算どおり袋の中に花糞が噴出された。花糞はわずかに漏れるもののほとんどが無事袋の中に納まっている。


「この袋は明日回収して、また新しい袋に付け替えるんだ」


 成功に顔を紅潮させて、ツムは花達を見渡した。孔を塞がれて便秘状態のせいか、心なしか茎の艶が悪い。


「明日から飛散する花糞の量が減ってくる、その時ダメ押しで僕の薬を配ってやれば、この怠惰な世界を救うことができるんだ」


「ところでツム、なんで怠けていてはだめなんだい」


 殊勝にも袋を縫いながらポツリとペソが尋ねた。


「未開の文明のままでのんびり暮らしていてはだめなんだ。外の人々に馬鹿にされて、出し抜かれて負けちゃうよ。そして大国の言いなりになるんだ」


 外の世界の世知辛さを目一杯味わったのだろう、ツムの瞳に暗い影が走った。


「人を出し抜こうなんて競争心は、本当の幸せに繋がらないよ」


「わかってないよ、父さん。こんな生活いつかバチがあたるんだ」


 声を荒げるツムを見て、ペソは首を振った。


「楽しく生きて何がバチだい? そもそも何のために生きてるんだい」


「子孫を沢山作って、子孫に今以上の繁栄を……」


「なんで、子孫を残さなきゃいけない? なんで今以上の幸せが必要だい? 楽しく生きて、静かに死ねるのが一番の幸せじゃないのかい」


「だって、僕の生きている意味をこの世界に残さなきゃ」


「死んだ後に、その意味がお前に何かしてくれるのかい」


 言葉に詰まったツムの瞳を覗き込んで、父親は言った。


「わしらはこういう生き方をしてきた。みんな、怠惰で、みんな幸せ。だめかい?」


 日差しが花びらに反射して柔らかな金色の光がツムの目の中一杯に差し込んだ。


 きらきらと光る世界。


 目の中には、温和な父の顔。


 このままのほうが幸せなのだろうか、自分のやっていることは間違いなのか。


 一瞬ツムの心がぐらりと揺れた。


 しかし。


「いや、ダメなんだよ」


 まなじりを決してツムは叫んだ。


「僕は決して花糞に屈しない。幸せは勤勉な者に訪れるんだ」


「だから、そんな怖い顔するなよ」


「これが正しいんだ、父さん」


 この珍世界は魅力的な世界ではあるけれど、この幸せに埋没するには僕は知恵がつきすぎてしまった。記憶の中には毒々しいような地位への憧れや、欲望を刺激する輝かしい富が刻まれている。ツムはため息をついた。


「この金の粉はビジネスに使える。ストレスやイライラがつのる外の世界で気分を安定させる薬として売れば富が……」


「許せ、息子よ」


 ペソは花糞の詰まった袋を瘤からはずして振り上げた。と、同時にツムの頭の上から金の粉が滝のように落ちてきた。


「やっぱり、解毒剤が効いてなかった……」


 絶望の目つきでペソを見ながら、ツムは崩れるように座り込んだ。


「いいや、わしはずっと正気だったんじゃよ。ツム」


 皺に縁取られた目が優しく細められた。


「あの日、洞窟からお前を助けたのはわしだ。あれからわしは、花糞の毒が効かない身体になってしまった。誰も入らないように洞窟の柵を作り直して、お前を外の世界に出した」


 ペソはふう、とため息をついた。


「わからなくなったからだ。わしも、な」


 堰をきったように噴出する金色の粉を載せて風が舞う。


「この文明はこれでいいのか。この酔っ払ったような愛すべき珍世界はこのままでいいのか、そうさツム、お前が問うたように」


 息子は何も言わず座り込んだまま、定まらない目を虚空に向けていた。


「正気のままでお前を待っていたんだ。何か、答えを持って帰ってくれるかってね」


 ペソはおもむろに、花糞の袋を手に持った。


「生き方に正解はないのかなあ、ツム」


 ペソは、目を瞑って大量の花糞の中に顔を突っ込んだ。


 そして大きく息を吸い込んだ。








 日が高く上って、ぽかぽか周囲が暖かくなってきた。ツムは藁を掻き分けて寝たまま手を伸ばすと枕元にある食べかけの果実を掴もうとした。


 が、あるはずの果物が無い。


 またペソに先を越された、とツムは舌打ちした。


 かみさんのいびきと、子供達の泣き声がする。


 ツムはのろのろと藁を掻き分けて、果物を拾うために外に出て行った。


 金色の花糞の降り注ぐ中に。


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