第32章 忌ノ扉

 衣川は、かっと眼を見開くと、突然大きく口を開けた。

 異様な光景だった。口角が裂けんばかりに開かれた口は、ありえない程の暗い深淵を覗かせている。

「やめなさい! それをやれば、あなたはもう人ではなくなる。後戻りできなくなりますよっ! 」

 四方が叫んだ。哀れみを湛えた彼女の悲しげな眼が、諭すように衣川を見据える。

 四方は察していたのだ。これから衣川が始めようとしている究極の呪詛――風の祀りの最終形態を。

 だが衣川に、四方の忠告に耳を傾けようとする素振りはない。彼女は仄かな笑みを

浮かべると、口角から夥しい涎を垂れ流しながら、口を開き続けた。


 ひゅううううう


 衣川の喉がなる。

 吸い込んでいる。

 呼吸を繰り返しているのではない。

 ただただ一方的に吸い続けているのだ。

 同じタイミングで、鬼達にも動きが生じた。

 奴らは四方達への進撃を止めると、衣川の周囲に集結し始めた。

 鬼達の身体が、急速に輪郭を失い、黒い霧状のシルエット化していく。


 轟

 

 凄まじい気流が丘の頂上を中心に渦巻く。

 霧状化した鬼は、渦巻きながら衣川を包み込んだ。

 そして、次から次へと衣川の口の中へと吸い込まれていく。

 衣川の身体に変化が生じた。

 鬼を吸い込んだ分だけ、大きくなっていた。

 頭が、胴が、腕が、脚が、見る見るうちに膨れ上がり、巨大化していく。

 全ての鬼を吸収し尽くした時、彼女の身体はタワーマンション並にまで巨大化していた。

 鬼は口角を吊り上げた。

 野太い唸り声が、夜気をびりびりと震わせる。

 歓喜の叫びだった。

 無敵の力を手に入れた喜びが無限の快楽を生み、鬼は永久の絶頂に酔いしれていた。

 歓喜にむせぶ鬼の視界にに、小さな影が対峙する。

 四方だ。

 中空を駆る四方の身体は、地上より遥か上空の鬼の眼前にまで達していた。

 鬼が、その存在に気付いた瞬間、四方は大きく手刀を薙いだ。

 清廉された波動が半月を描きながら、鬼の顔を裂く――刹那。

 鬼は消えた。

 身を反転し、背後を振り向く四方。

 同時に、彼女の眼には勝ち誇った笑みを浮かべる鬼の顔が映る。

 鬼の剛腕が白い雲を引きながら、四方を払い除ける。

 四方の身体が無力なフィギィアの様にぶっ飛んでいく。

 轟音と共に大きな砂煙が地表で巻き上がる。

 立ち込める土埃。

 だが、その中に、ふらりと立ち上がる人影があった。

 四方だ。

 明らかに分が悪いにもかかわらず、彼女はいつもと変わらぬ涼しげな表情で、夜気と土煙が拮抗する修羅の時空に佇んでいた。

 鬼は訝し気に目を細めると首を傾げた。。

 見る限り、四方のダメージはゼロ。

 常人なら、鬼が触れた瞬間にその身体は柘榴のように弾け、臓物を丘陵にまき散らしていたはずなのだ。

 攻撃を受けても四散しないところを見ると、人形ヒトガタでも無い様だ。

 だが、鬼は迷い悩むより即座の行動を選択した。

 超巨躯とは思えない軽快な足取りで一気に四方との間合いを詰める。

 大きく跳躍。

 両足で、四方が佇む空間の真上から着地。

 鬼の足が、丘陵に深く喰い込む。

 鬼は足元を見た。

 四方の姿は無い。

 顔を上げる。

 奴の目の前に四方の姿が。

 鬼の瞳が究極にまで絞り込み、ターゲットを追う。

 その焦点が合うよりも早く、四方の右腕が動いた。

 鬼の額に掌底を撃ち込む。

 消えた。

 四方の背後に、鬼が像を結ぶ。

 鬼は一瞬にして、再び四方の背後を取ると、間髪を入れずに拳を彼女に叩き込む。

 が、四方は拳の風圧を交わしながら大きく身を翻す。

 と、彼女は中空に止まった拳の上に、ふわりと降り立った。

 そのまま腕の上を駆け上がり、眼前に跳躍。

 右掌底を、奴の眉間に容赦なくぶち込む。

 が、四方の掌は何も無い空間を突く。

 また消えた。

 同時に、四方の身体は地面へと落下する。

 だが彼女は、落ち着き払った仕草で左手を軽く薙いだ。

 彼女の掌が無数の白い人形ヒトガタを生み出す。

 白い人形ヒトガタは、すぐさま自由落下中の彼女の身体を支えると、重量の干渉を断ち切った。

 再び鬼が彼女の前に姿を現す。

 それも、真正面。

 式神がフォローしているとは言え、四方の体勢が不安定なのを鬼は見逃さなかった。

 間髪を入れずに、鬼の鋭い爪が四方を襲う。

 不意を突かれ、四方の表情が強張る。

 鬼の爪が、彼女の白いブラウスを鮮血で染める。

 否。

 白い人形ヒトガタが四散しただけ。

 四方は?

 いた。

 鬼の頭上を越えた遥か上空に。

 鬼が、他時空からこちらに戻ると同時に、式神でダミーを成し、自分は上空に跳んだのだ。

 鬼の反応が、コンマ一秒遅れる。

 その瞬間を、四方は逃がさない。

 四方は大きく振りかぶった手刀を、鬼の頭頂部に振り下ろす。

 鬼の頭蓋が、鈍い悲鳴を上げる。

 巻き上がる砂煙。

 巨大な鬼の身体が、腰まで地面に埋まる。

 奴の表情が強張る。

 鬼自身、四方の存在は、今まで対峙してきた経験から只者ではない事は重々感じ取っていた。負の気を集結させた今も、その警戒は解いてはいない。

 だが、四方の実力は、奴の想定を遥かに超えていた。

 自分よりも遥かに矮小で華奢な体躯であるにも関わらず、防御力だけでなく其の攻撃力の凄まじさに戦慄を覚えざるを得なかった。

「観念するかい」

 四方が、鬼に問い掛けた。

 鬼の闘気に迷いが生じているのを、四方は見抜いていたのだ。

 だが、鬼は笑った。

 まるで四方を嘲るかのように、鬼は口角を上げて四方を見下ろした。

 鬼が消える。

 が、奴の姿はすぐ真上にあった。

 奴は愕然とした表情で、中空に停止していた。

 四方が、大きく跳躍。

 鬼の無防備な水月に掌底を叩き込む。

 鬼は体をくの字に折り曲げると、黒い気を激しく口から吐き出した。

 さっき吸い込んだ、鬼達のなれの果てだった。

 鬼の身体はそのまま落下すると、大地に叩きつけられた。

「無理だよ。お前は逃げられない。この結界の外へはね」

 着地した四方が、静かに鬼に語り掛けた。

 鬼は忌々し気に丘陵の裾で布陣を組む紗代達を睨みつけた。

 鬼が消える。

 次の瞬間、奴は紗代達の前に像を結んだ。

 間髪を入れずに漆黒の鉤爪が祈りを捧げる紗代を襲う。

 凄まじい閃光。

 鬼の身体が後方に吹っ飛ぶ。

 紗代目掛けて振り下ろした奴の爪は、収集と黒い煙を上げながら焼けただれていた。

「無理だと言ったろ」

 四方の声が間近迫る。

 鬼に眉間に迫る拳。

 刹那、鬼は消えた。

 同時に重低音緒地響きと共に土埃が空を舞う。

 四方は忌々し気に天を仰いだ。

 直径百メートル近くのクレーターが、彼女のそばに出現していた。

 今の攻撃が、彼女にとって会心の一撃であった事を何気に物語っている。

 四方は頭上を見上げた。

 迫り来る鬼の足裏。

 大きく横にスライドしてそれを躱す。

 着地した刹那、四方は妙な違和感を覚えた。 

 足が捉えた感触が、土のそれとは違う。

 視界に入る5本の指。大樹の幹の様なそれが、彼女を握りつぶそうと一斉に閉じようとする。

 奴の掌だ。

 上へ逃げる――否。 

 横だ。

 四方は僅かな指と指の間をぬい、側方へ逃れた。 

 同時に、上方から忽然と現れたもう一方の手が、その手に蔽いかぶさるように合わさった。

 体の部位を、それぞればらばらに異なった時空の裂け目から出現させたのだ。

「奴なりの頭脳プレイか」

 四方は、再び頭上に現れた巨大な足裏を見上げながら、後方に跳んだ。

 刹那、下方から黒い影が迫る。

 鬼の足だ。

 避けようがない。

 鬼の爪先が、四方の身体を捉える。

 四方はかろうじてそれを足裏で受ける。

 四肢が消し飛ぶかのような衝撃が、彼女を襲う。

 四方の身体が空高く舞い上がる。

 「次はどう来る? 」

 四方は冷静な眼差しで鬼の動向を追った。

 彼女の意識はこと切れていなかった。

 鬼の蹴りをまともに受け、誰もが致命的なダメージを負ったと思ったに違いない。

 だが、四方の体躯や四肢に目立った外傷はなく、それどころか、鬼の動きを探る知的な輝きまでもが眼に宿っている。

 上昇し続けていた四方の身体が止まった。

 式神が彼女を支えている訳ではない。

 彼女の身体から迸る夥しい闘気が、重力の理を断ち切っていた。

 信じ難い事に、鬼の攻撃を受ける程に、彼女が纏う気の鎧は覇力を高めているのだ。

 まるで、彼女の中のリミッターが、少しずつ解除されているかのように。

 鬼は、丘頂に姿を現せた。

 奴は怒りにたけ狂っていた。 

 最強の禁忌の力をもってしてでも四方を倒せない苛立ちが、奴の感情を激しく逆なでしているようだった。

 鬼の右腕が、静かに上がる。

 鋭利な鉤爪を蓄えた鬼の人差し指が、四方を指差した。

 鬼の指先に、奴の頭程の真っ黒な球体が生じた。

 悍ましい忌気と瘴気を孕んだ球体は更にその濃度を凝縮させていく。

 鬼は四方を睨みつけると、激昂の叫びを上げた。

 刹那、黒い球体は真っ直ぐ四方に向かって空を駆る。

 四方は素早く呪詛を唱えると、鋭い眼光を宿した眼でそれを凝視した。

 迫り来る球体。

 四方は手刀を構え、それと対峙する。

 接触。

 



 

 

 

 

 

 


 

 

 


 


 

 



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四方備忘録~風ノ祀リ しろめしめじ @shiromeshimeji

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