氷雨

トム

氷雨



 ――さぁぁぁ。


 それは音にしてみればこんな音でもするのだろうか……。


 住宅街の一角に、その小さな児童公園はある。小さな砂場とブランコが二つだけ。後は日除けの付いた東屋のようなコンクリートで出来たテーブルとベンチが備え付けてあり、後はぐるりを低木が囲んでるだけだ。



 東屋のベンチに腰掛け、傘をテーブルに引っ掛けたまま、ぼうっと砂場を眺めていると、誰かが忘れたのか、壊れたので捨てていったのか分からないスコップが、半分土から顔を出して、プラスティックの柄の部分が濡れるのを嫌がっているようだった。


 ――平日の昼を過ぎ、冷たい雨が降る小さな公園。


 コンビニで買ったおにぎり二つと、ホットスナックコーナーで見つけた唐揚げが串に刺さった物を取り出し、ペットボトルのキャップを捻る。オレンジ色のキャップは少しの抵抗を見せるが、パキリと断末魔を聞かせてすぐに抵抗を諦めると、少しの湯気と共にお茶の香りを鼻腔に漂わせた。


 二月にしては暖かい日が続いた後。寒の戻りか、気温が下がってそれでなくとも寒いのに、雨まで降っているこんな日に。わざわざコンビニに出掛け、弁当持参で人気の全くない公園に何故? 気分転換? 風邪でも引きたいのか? 独りになりたいのか? ……いや、独居だろうに。




 ――気が狂いそうだったんだ――。




 学校を卒業してから数十年。仕事に恋に邁進し、結婚して子供も作り、順風満帆だと思っていた。このまま年を取って何時か購入した一軒家で、ゆっくりと余生を妻と……。


 病がそれをぶち壊した。


 自営業のリスクは解っていたつもりだった。


 保険にも入り、貯金もしていたのに……。



 ――それでも妻は納得しなかった。


 ――私は家政婦じゃない、子供は私の実家で育てます。養育費だけは送って――。




 購入した家は手放し、離婚届に判を押した時、悔しくて溢れそうになる涙を、唇を噛んで抑え込んだ。独り、小さなマンションを借りてそこに荷物を運んだ後、そのまま病院での入院生活が始まった。二月ほどを病院で過ごし、退院後も月イチの通院生活が決まると、友人に土下座をして彼の会社に勤めさせてもらった。



 ――総てが一変した生活。一人暮らしなど、就職したてに少し経験した程度。食事などはほぼ外食で、自炊したことなどまったくなかったのに……。


 カロリー計算して食事を作る日々が数ヶ月で慣れはじめ、会社と自宅の往復にも慣れだした頃、病魔が再発。



 ……やっと職場の人間関係も上手く回り始めたところだったのに。この病気のせいで結局休職する羽目になってしまった……一体俺が何をしたっていうんだ?! 何故、こんなオヤジになってから……嫌がらせかよ!


 危うく握ったおにぎりを潰しかけた所で、丁度俺の隣あたりの視界に動くものが目に入る。


「……ん? 野良猫か?」


 いつの間にか、そこにはちょこんと座った茶トラの猫が、こちらをじっと見つめている。腹でも空いているのかと、おにぎりの中に入っている、鮭のほぐし身を少し指で摘んでそれの鼻先に持っていくと、スンスンと匂いを少し嗅いでから、ザラリとした舌でペロペロと舐め取った。


 ふとその猫をよく見てみると、やせ細り、目の周りはヤニが目立っている。毛づくろいもきちんとしていないのか、ボサボサとなっていて、かなり、汚れていた。俺の指に残った鮭がなくなると、またこちらを見上げたので、次の分をとおにぎりを触ろうとした所で、突然ベンチの下から別の声が聞こえた。


「にゃぁぁ!」


 か細く聞こえた声に気が付き、振り返るように覗き込むと、そこにはベンチに座る猫と同じような模様をした、だけどかなり小さい茶トラの猫がベンチによじ登ろうと必死に前足をカリカリとやっている。必死なその表情を見ていると、ベンチに座った猫も気がついたのか、すっと子猫の傍に降りると、子猫の毛づくろいを始めた。子猫はされるがままに親猫の腹にしがみつき、必死に空腹を満たそうと乳房を探して頭を突っ込んでいた。


「……お前達、親子だったのか」


 その様子に飯を食うのも忘れ、つい見入っていると寂寥感を覚え、自身の孤独を強く意識してしまった時、ふと親猫と視線がぶつかった。



 ――私はもう永く有りません。この子をお願いできますか――。


「……え? は?」


 その言葉はやけにはっきりと、俺の頭の中に響いた。……が、同時に少し混乱してしまう。当然だ、眼の前に居るのは人ではない。幻聴だとしてもタイミング的におかしい。俺が頭の上にはてなマークと感嘆符を並べていると、視線を動かさずに居たその猫から今度ははっきりと声がする。


 ――アナタは孤独……なのでしょう。私はこの子を残して逝かなければなりません。……なのでどうか、どうかこの子と共に、これからを生きてもらえませんか――。


 当然だが彼女の口が動いているわけじゃない。ウニャウニャ喋っているわけでもない。ただはっきりと、思念とでも言うのだろうか、それを具現化した言語が俺の脳に直接響いて来たのだ。


「……逝くって。いや、大体この子はまだ乳飲み子なのだろう? そんな――!」


 そこまで声に出して気がついた。……その二匹の猫の一方、親猫の形を象る影が……ない。


 ――私の体は既に、その草むらの下で朽ちています。どうか、どうか、お願いです。これが最後と残り全てを使い、ここまでこの子を連れてきました。どうか――。


 そこまでが限界だったのだろう、彼女の言葉は理解不能になり、今まで見えていたその身体自体が透けて行く。その下で子猫は乳房を見つけられなかったのか、それとも体力の限界に来たのか、蹲り、浅い呼吸を繰り返している。


「おい! 駄目だ!」


 ぐったりした子猫を拾い上げると、雨で濡れた身体は冷え切っており、氷を持ったかと思うほど。どうしようかと悩んだ挙げ句、ダウンジャケットの前を開け、抱えるように子猫をそこへ放り込み、広げた食事を適当にコンビニの袋に詰め込んで、傘もささずに自宅への短い距離を、我を忘れて走っていった。



 自宅へ戻ったはいいが、今まで動物なんて飼ったことがない。兎に角冷え切った体を温めなければと、バスタオルで子猫を包み、こたつのスイッチを入れて中に突っ込んだ。エアコンの暖房も入れたが、こちらの方が早いと思ったからだ。ファンヒーターやストーブはこのマンションでは使えない為、置いていなかった。スマホを取り出し、猫を飼っている友人に電話をかけると、すぐに迎えに来てくれ、その足で動物病院へ向かった。病院ではすぐに処置が行われ、少しの間入院となってしまったが、命の危機は何とか去ってくれたようで、安堵した。



「急に電話がかかってきてびっくりしたわよ。……で、あの子どうするの? ってか、田辺さん動物飼ったことなんてあるの?」


 友人の坂井さんにそう聞かれ、どう答えようかと考えた結果、無難に公園を通った際に雨に濡れて憔悴した子猫を見つけたとだけ答える。動物は飼ったことはないが、これもなにかの縁と言って、その場は何とか切り抜けた。



~*~*~*~*~*~*~



「にゃぁ」


 てしてし。……てしてし。


 んんぅ。何が――はっ!


「おき――ぐあっ!」


 鼻先を気持ちよく噛まれ、悶絶しながら目を開くと、『マロン』がこちらを凝視しながら「早く起きて私のご飯!」と告げている。「いま起きようとしたじゃんか」と小さく愚痴を零しながら、布団をめくった瞬間、その寒さに身体が一瞬硬直し、ブルリと震えて「うお! さっむ!」と声を上げてしまう。枕元においたフリースを羽織り、靴下を履いてようやく布団から這い出ると、閉じていたカーテンを開けてその寒さの原因に気がついた。


「……雨か。この時期の雨は寒さが身に染みるよ」


 あの日から数年。子猫だった『マロン』もすくすく育ち、既に片手で抱っこなど出来なくなった。不妊手術をし、毎年の予防接種のお陰で病気一つする事もなく、ただただ元気にふてぶてしく育っている。……おやつを言われるがまま与えたせいか、若干……いや、かなり……大きいかなと思わなくもないが。そんな彼女は俺が布団から出るのを確認すると、さっさとキッチンへ向かい、自分の餌皿を前に微動だにしない。まるで殿様のような威厳で上げ膳を待つその姿、一体どうしてこうなってしまったんだろうと少し首をひねりながら、彼女の横を通り過ぎると、その鋭い視線が俺に突き刺さり「はいはい、すぐにご用意いたします」と棚のドアを開ける。



「……氷雨、か。だから、あの時の事を――」


 夢に見たのか、までは言い切らなかった。一心不乱に皿をカチャカチャ言わせている彼女を見て、何故か言葉を憚られてしまった。無言で朝食を頬張り、インスタントコーヒーを流し込んで席を立つと、彼女も丁度食事が終わったのか、毛づくろいの真っ最中。シンクに洗い物を置いて洗面所に向かい、支度を済ませてリビングを覗くと、既に定位置になっているこたつの隣で彼女は丸まっていた。


「マロンさん、家主は社会の歯車になってきますので、自宅警備の方はお任せしますね」


 聞き届けてくれたのかは分からないが、ゆらりと大きな尻尾が見えた。


「……行ってきます」


 そっけない態度にほんのちょっぴり不満顔を見せながら、出掛けの声を掛けて自宅を出る。途端、肌寒い風と共に冷たい雨粒が廊下に降り注いで顔をしかめるが、よし! と心の中で喝を入れ、会社に向かい足を踏み出す――。



~*~*~*~*~*~



 あれから何度も季節は過ぎて――。


 

「……外は雨か」


 病室の窓についた雨だれを眺めながら、起き上がることも出来なくなった身体を若干もどかしく思いつつ、テレビ台に飾った写真立てに目を向ける。


「マロン……」


 そこにはふてぶてしくこちらを睨みつける茶トラの大きなにゃんこが写っている。彼女は写真を撮られるのが嫌いで、かなり苦労したことを思い出し、苦笑いをしていると、傍で体を拭いてくれるヘルパーさんが声を掛けてきた。


「田辺さん、どうかしたの?」

「……いや、ちょっと思い出してねぇ」

「……あぁ、そのおデブ猫ちゃんの事?」

「うん……。写真撮られるのは嫌いで、これ撮るの大変だったんだよ」

「へぇ~……。でも、ちゃんと写ってるし、可愛いじゃない」

「お菓子、あげ過ぎちゃったから、こんなになっちゃったけどね」

「アハハハ。それはダメだね――」



 歳を重ね、結局病魔には勝てず、最終的に病院で過ごす日々。……ただ、彼女と過ごす間だけはずっと入院などはせずにきちんと最期まで彼女の面倒をみる事が出来た。十三年は俺には短かったけれど、猫としては平均だと無理やり納得した。彼女との思い出がある限り、俺は自己嫌悪に陥る事もなく、何とか頑張ってきたけれど。


 ――そろそろ疲れたかな。



 消灯時間を過ぎ、ベッドの上で虫食い天井をぼんやり眺めていると、不意にお腹のあたりに重みを感じ、目線をそちらにずらすと茶色いお餅が乗っかっている。


「……相変わらず失礼な家主ね。そんなに鼻を齧り取って欲しいのかしら」

「ははは、それは勘弁願いたいかな。久しぶりだね『マロン』」

「……えぇ、そうね」


 腹の上に乗った餅がのそりと頭を上げると、物騒な物言いを言いながら、こちらをチラと流し視る。途端にじわりと身体が暖かくなり、手足に血が巡っていくような気がした。


「……お久しぶりです」


 声に気が付き横を向くと、痩せこけ、目やにの酷い茶トラの猫が枕元にちょこんと座ってこちらを見下ろしている。


「あぁキミか、随分久しぶりだね。……一応、あの後キミの亡骸もきちんと埋葬したんだけれど」

「お陰様で、こうしてお迎えにあがることが出来ました。……娘のこと、改めてお礼申し上げます」

「こちらこそだよ。……おかげで楽しく過ごせる事が出来ました。……もう、思い残すことは――」

「嘘つきは嫌いだよ」


 何故だか最後の言葉を言い切る前に、マロンがそう言って口を挟んでくる。「何が嘘なんだ」と聞くと「私らに心の中、わからないと思ってるの?」ときつい吊り目を更に釣り上げて、まるで威嚇でもするかのようにフゥーと声を漏らす。


「……お子さんの事。ずっと心の奥にいるでしょう」


 ――ズキリと心が痛む音がした。


 それはとうの昔に忘れようとした事。


 忘れて、無かった事にして、マロンと一緒に生きたはず。


 はずなのに、心の一番奥の底。


 そこにはずっと、残っていた。


 この世でたった一人、俺の血を半分受け継いだ人。


「……伸二……」


 不意に溢れた息子の名。気づけば止まらぬ涙のせいで、嗚咽が止まらず、心電図が喧しい。


「同じ親ですから……我が子の事、忘れられるわけ無いでしょう」


 ピーピーと煩い警報音で、バタバタと病室の外が騒がしい。どうやらナースが気づいたようだ。最期の最期に心残りが暴発するなどと、まさか思っても見なかった。あぁ、そうだ。一目……たったひと目だけでイイ、息子に逢いたい。逢って不甲斐なかった事を謝りた――。



「……父さん」


 声の方に意識を向けると、逆光になってその表情までは見えないが、ナースや医師に混じって一人、青年がそこに立っている。よく見ると影に隠れては居るが他にも女性が一人ドアのところに伺えた。


「田辺さん! 聞こえますか? 息子さんがいらっしゃいましたよ。頑張って!」


 ほとんど聞こえなくなった耳にナースの声が響いてくる。もう身体の自由は全くきかず、指一本動かすことも出来ないが、視線だけを必死に巡らせると、そこには青年となり、背も伸び成長した我が子、伸二がそこに居た。


「息子さん、お父さんの手を握ってあげて」


 ナースに促され、傍まで来た彼が恐る恐るといった感じで枯れ木のようになってしまった俺の腕を取る。掌に俺の手を乗せると「……こんなに細くなって」と割れ物を触るようにそっと持ち上げて、ゆっくりその手を擦ってくれる。彼の後ろからゆっくりと近づいてきた元妻は、目に一杯の涙を堪え「……坂井さんから連絡もらって」と鼻声で話し「伸二とずっと逢ってなかったから」と言い訳のようなことを言い続ける。



「……良かったわね家主。ちゃんと想いはじゃない」


 相変わらず腹の上で、ふてぶてしくこちらを見下ろして、嫌味のような口ぶりで話すマロンの目には猫だと言うのに涙が光って見える。


 薄れて消えていく意識の中、誰かが俺の名を呼んでいるが、それに答えることはなく、唯自分の想いだけを吐き出して、最期は笑っていたと思う。



 ――あぁ、ありがとう。こんなに嬉しい事はない。また二人に逢えるなんて――。




 完

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氷雨 トム @tompsun50

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