懐いた後輩は、常に俺の隣にいる

進道 拓真

「懐いた後輩は、常に俺の隣にいる」


 キーン、コーン、カーン………


 四限の授業の終わりを告げるチャイムが鳴り響き、眠気さえ感じられていた時間からようやく解放されると多くの生徒が息を吐く。

 先ほどまで数学の授業を行っていた教師からは、次の授業までにやっておく課題の説明がされているが、正直そこまで身が入らない。


 現在高校二年真っただ中の俺───篠村しのむら宗二そうじは、授業についていくこともできているし、客観的に見ても成績は優秀な部類に入るので、勉学に関してはそこまで騒ぎ立てずとも問題もない。

 さすがに授業をさぼりまくっていれば教師からの評価も危うくなっていくだろうが、そんな危険を冒すつもりはない。なので真面目にこなしていくつもりではあるが、与えられた課題に対して喜んで取り組むかと言われれば首を横に振らざるを得ないだろう。

 むしろそんなやつの方が少数派であることは明らかだ。


 まぁせいぜいが、将来のことを考えて計画を立てておけば今から楽にはなるだろうなくらいのものだ。苦痛とまではいかないが、歓迎もしていない。

 予習復習を人並みにこなしていけば大抵の内容は理解できるし、定期的に行われるテストだってきちんと努力すれば点数は取れる。

 …ただ、こんな考え方をしているやつの方が少数派であることは理解している。もうすぐ進路のことを考え始める高校の二年と言えど、そんな先のことまで見通して行動に移している者の方が稀なのだから。


 今は未来のことよりも現在の方が大事だ。それは間違いない。

 ていうかもう昼飯の時間だし、どうしようかな。今日は弁当持ってきてないし、購買で適当になんか買ってきて………


 そこまで考えたあたりで、妙な音が俺の耳に届いてきた。

 授業終わりということも相まって騒がしいはずのクラスの喧騒を貫通してまで響く音など信じられないが、確かにこの音は響き渡っておりそれは段々と近づいてきている。


 タッタッタッタッ………


 軽快にも感じられるその音は、例えるようなら足音のようでもあり……そして、宗二の教室の目の前で静止した。


(……また来たのか。……)


 そして彼の脳内では、確かにその足音の正体に心当たりがあった。というより、この二年に上がってからこんなものには、以外に当てはまる存在などいるはずもなかった。

 そうして何秒が経過したのか。数秒か、数瞬かは分からないがピッチリと閉ざされていた教室の扉が勢いよく開け放たれ、そのはつらつとした声をこの空間に響き渡らせていた。


「せんぱーい! いますかー!? お昼ご飯一緒に食べましょうよー!」

「そんな走ってまで来なくてもいいだろ………朱伊あかい


 小声でうちの教室にやってきた人物の名を口にしながら、憂鬱な気分にならざるを得ない。


 いきなり現れたことでクラス中の視線を集めたことも厭わず、そいつは一心に俺めがけてやってくる。

 彼女の名前は朱伊あかい梨沙りさ。少し色素の薄い茶髪はこいつの活発さをよく表しており、校内でも屈指の人気者である朱伊のシンボルといっても過言ではないだろう。

 身長は少し小柄だが、その分出るところは出ており、引っ込むところは引っ込んでいるというまさに男にとっての理想のような容姿を体現した女子がやってきたのだから、当然クラスの連中も色めき立つ。


「梨沙ちゃん、よく来たね! よかったらこの俺と……」

「あ、あなたは大丈夫です。私は先輩とお昼を共にしたくてここに来ただけですので。先輩、早く来てくださいよー!」

「…………」


 せっかく俺のクラスメイトが声を掛けたというのに、あいつは一瞥もせずに会話を打ち切り再び俺の方に向かってくる。

 …あんなにも堂々と話しかけたというのに、そのお誘いをぶつ切りされた彼が不憫でならない。確か名前は……白鷺しろさぎ秀一しゅういち、だったっけ? 相変わらず関わりの薄い相手の名前を覚えるのが苦手なもんで、確証はないけどそんな感じだったはず。

 彼も別に愛想が悪いとか、周囲に疎まれているとかそんなことはない。どちらかと言えば優れている部類に入る人間だ。


 着飾らなくとも発せられている人の目を引き付ける容姿は、不愛想な俺から見ても整っていると感じられるし、全身からあふれ出ているオーラは否応にも周りから関心を寄せている。

 そんな彼だって学校では知らない者はいないほどの人気者であり、風の噂で朱伊に気があるのではないかという話も聞いたことがある。


 だが当の本人である朱伊は、そんな人気者であるはずの白鷺には目もくれず、ただ真っすぐに目的の人物の場所へとやってくる。───ちょうど、俺の机の前に。


「先輩、何やってるんですか!? せっかく私が来ても反応はないし、なんか変な人に絡まれるし……見ていたんなら助けてくださいよ!」

「それよりお前、授業が終わると同時にここに来るのをやめろよ……。うちのやつらに変な目で見られるし、お前もクラスメイトと食べて来いよ」

「え? 先輩と食べたいからここまで来たのに……。先輩思いの愛しい後輩にそんな言葉をかけるんですね………。私は傷つきました。これは昼休みを一緒に過ごしてくれないと機嫌も直りませんよ!」

「どう見ても元気だろうが。……まぁいい。ほれ、さっさといくぞ」


 このまま不毛な押し問答を続けていても、こちらが不利になることは目に見えている。だったら少しでもこいつの要求を汲んでやってマシな選択肢を取った方がいいというものだ。

 なのでとっとと教室を出ようとしたら、いつの間にか機嫌を回復させていた朱伊ににやにやとした笑みを浮かべられている。


「やっぱり先輩は優しいですよね~。それに私は教室でお昼を食べてもよかったのに、わざわざ外で食べようとするなんて……。そんなに可愛い後輩と一緒にいたいんですか?」

「うるせぇな。食べるもんがないから買いに行くだけだ。来るんならさっさとついてこい」

「はーい。……そういうところが良いんですよね」

「なんか言ったか?」

「いーえ、何でも!」


 朱伊が小声でつぶやいた言葉は聞き取れなかったが、聞いたところで答えてくれないことは分かっている。

 特に追求することもなく教室を出ようとした時、複数人の女子から声が掛けられた。…俺ではなく、朱伊の方に。


「梨沙ちゃん、今日も可愛いねぇ。まーた篠村君のところまで走ってきたんでしょ?」

「こんないい子に健気な子に思われ続けて、幸せな男子もいたもんだ……。ほら、周りの男どもとか血涙流してるよ?」

「も、もぉ~。そんなにいい子だなんて言わないでくださいよ! 私はただ先輩のところに行きたいだけなんですから!」


 褒められたことが気恥ずかしくなったのか。頬に両手を当ててその赤くなった肌を隠そうとしているが、そんな姿でさえ一つの風景美であるかのように思えてくるほど様になっており、可愛らしさを引き出している。

 その証拠に周囲の男どもからは「ぐはっ!?」という声と共に血を吐き出しながら倒れ込むやつらまでいる始末。……あいつらに関しては、ほんとに何やってんだ?


 だがいつまでも朱伊による愛らしさで犠牲者を出すわけにもいかないので、早々にここから出ていった方が賢明だろう。


「来ないんなら俺、先に行ってるけどいいか? 購買向かってるぞ」

「あ、待ってくださいよ先輩! 今行きますからー!」


 そんな言葉を背中で聞きながら、追いかけてくる梨沙を廊下で待ってやる。教室からは「頑張ってねー」だったり「楽しんできな!」なんていう声も聞こえてくる。


 前々から思ってたけど、随分馴染んだよな、あいつ。二年に上がったばかりの頃は朱伊が来るってだけで教室は大騒ぎだったし、俺も色々と聞き出される羽目になったし……。

 今でこそクラスの連中も慣れてきたが、最初は本当に大変だった。



 そもそも入学式の段階で、一年にとんでもなく可愛い子が入ってきた!なんて噂をされるくらいだったのだ。そんな可愛い子が、入学式から数日経った頃にいきなり教室に飛び込んできて、容姿も地味な俺のもとまでやってきて……


『宗二先輩、ですよね! お昼一緒に食べませんか?』


 なんて爆弾発言を下ろしてきたのだから、そこからは阿鼻叫喚の地獄だ。

 俺は詳しい事情を聞かせろと言って聞かないやつらに話したこともない後輩との逢瀬を延々と説明される羽目になったし、納得されるまでに莫大な時間がかかってしまった。

 朱伊の方は、そっちもそっちで大変だったらしいが、案外すんなりと事態は落ち着いたと聞いている。…というより、無理やり納得せざるを得なかった、という表現の方が正しいが。


 何度事情を聞いても、『あの人が先輩だったから!』としか話してくれない上に、俺のことを少し地味じゃないか?と批評したやつのことは完全に無視を決め込んだらしい。

 俺自身もその評価は正しいものだと思ってるし、百人に俺の外見的特徴を聞けば百人は『地味だ』と答えるだろう。しかし朱伊の方は、その立場ではなかったようで明らかに不機嫌になったのだとか。

 学校でも屈指の美少女である朱伊から無視なんてされてはたまらないと、その場ではそれ以上の追求はなかったようだが、その負債はこちらに回ってきてしまった。


 同級生、後輩、先輩。最初の一週間は好奇の視線に晒され続け、肩身の狭い思いをし続けたが……人というのは慣れるものだ。二週間も経過する頃には俺と朱伊が行動を共にすることに不満を持つものこそいたが、疑問を投げかけられることは減っていった。

 周りのやつらも、『釣り合わないけど何かがあるんだろう』と思ってくれたようで、俺の生活にもようやく安寧が戻ってきた。



 ちなみに、俺のことを地味だと評した者のことだが、その後できちんと誠意を込めて謝罪をしたことで何とか許しはもらえたらしい。人気者の朱伊からの評判を損ねてしまったとなれば学校での居心地は悪化していく一方だったのだから必死になるのは当然だ。

 ただ、許しをもらうことはできたが、その後の朱伊の反応は淡々としたもののようで、密かに恋心を育んでいたそいつの恋路に限っては閉ざされてしまったと見ていいだろう。


 まぁそんなこんなで、朱伊が俺のいる教室にやってくることはもはや慣れ親しんだ光景となり、俺の日常の中の一コマと化してきている。

 本来ならば恵まれたこの状況に感謝すべきなんだろうけど……何でかこいつには雑な反応になってしまうんだよな。なぜだ?


「もう、先輩歩くの早い! 愛しい後輩を待ってあげようとは思わないんですか!?」

「ちゃんと待ってやっただろ? …教室から出てくるまで」

「教室から出たら速攻で歩き始めましたよね!? あの反応は割とショックだったんですけど!?」

「わ、悪かったって。お詫びに飲み物でも奢ってやるから」

「え、本当ですか? やった! 先輩からの贈り物をもらえるなんて、今日はついてますね!」

「贈り物ってほど立派なもんでもないと思うんだが……いいや。そろそろ行かないとほんとに目ぼしいものがなくなっちまう」


 授業が終わってから約五分。さすがに売り切れるようなことはないだろうが、購買が混みあってくる頃だ。

 昼の食糧調達に無駄な時間がかかってしまうのは本意ではないので、さっさと向かってしまわなければ。


 次は文句を言われないようにと歩幅を隣で歩いている朱伊に合わせてやれば、それに気が付いたのかこちらに嬉しそうな笑みを返してくる。

 少しだらしない、けれどどこまでも自然で緩んだ感情が乗せられたその表情は、思わず俺の胸にも届くほど魅力的なものだった。

 そんな感情を誤魔化すように浮かべられた笑みからは目を逸らし、人混みで溢れた廊下を歩いていけば、それに続いて朱伊も楽しそうに後を追ってくる。



 これは、なぜか後輩に懐かれた俺と、その後を追いかけてくる後輩との日常の物語だ。





    ◆





「先輩、そんな量で足りるんですか? 少なくありません?」


 常日頃から行われている購買でのデッドヒートを制し、無事に昼食をゲットすることができた俺は朱伊と共に、今は使われていない空き教室へと移動していた。

 ここも去年までは他の学年の教室として扱われていたはずだが、何やら学年人数の縮小やらという話から使われなくなり、半分物置きとなっている。

 俺も元々は教室で昼を過ごしていたのだが、隣にいる朱伊がやってきてからは余計な視線に晒されることに耐え切れなかったため、誰もいないであろうこの場に逃げ込んできたのだ。


「少ないって……そりゃ、平均的な男子高校生と比較すれば少ないかもしれんが」

「絶対少ないですよ! 必要な栄養は取らないと体がもたないんですからね?」

「お前は母親か?」


 俺が購買で買ってきたのは、カレーパンにコロッケパンの二つ。他人から見れば確かに少なすぎるかもしれないが、俺にとってはこれくらいがちょうどいいんだ。

 小食というのもあるが、昼で足りない栄養は夜に補うという持論があるため、まだいい方だと思っているのだが、彼女はそうではないらしい。


「だめですよ? ちゃんと朝昼夜でバランスよく食べないと……。そうだ! 私のお弁当分けてあげましょうか?」

「そこまでしなくていいよ。俺に分けたりしたらそれこそ、お前の分の栄養が足りなくなるだろ」

「…むぅ。自然な流れでお弁当の共有に持ち込めると思ったのに。胃袋をつかむ作戦をかわすとは、なかなかやりますね……」

「今なんか恐ろしいこと言わなかったか?」


 ぶつぶつとつぶやいていたせいで全ては聞き取れなかったが、何やら俺の腹をつかみに行くだの、とんでもない作戦が聞こえてきた気がするが気のせいだと思いたい。理由はわからないが、懐いてくれている後輩が知らぬ間に自分の胃袋を狙っているなど考えたくはない。

 今のつぶやきは記憶から消しておこう。友人との交友関係全てが打算抜きだとは言うつもりもないが、日常のあらゆる場所から狙われ続けていると思うとうっかり気が抜けなくなってしまう。

 全て忘れる。それが一番丸く収まるはずだ。


「いやいや、何でもないですよ! それよりも先輩、後輩の手作りのお弁当を食べてみたいとは思いませんか?」

「だからそれはいいってさっき言っただろ? 無理すんな」

「そんなこと言わずに、さぁ!」

「さぁって……って、押し強っ!?」


 いつの間にか正面に立っていた朱伊は、手に持っていた箸で弁当に入れられていた卵焼きを一つ手に取り、こちらに向けてくる。強烈すぎる弁当の押し付けに圧倒されながらも、俺は彼女の手元の弁当箱を見た。

 少し小さめの小ぶりな弁当箱には、白飯とおかずがちょうどいい割合で盛られており、そのおかずもパッと見ただけで美味しそうだと分かる出来栄えをしている。


 焦げ目一つない卵焼きはその黄色のフォルムから完璧な完成度を見せつけてくるようであり、その隣に添えられたミニトマトによって色合いも考えられている。

 脇に添えられたミニハンバーグとハムのアスパラ巻きも栄養バランスを考えて作られたことが一目で伝わってくるし、彼女の手際と抜かりのなさを感じさせてくる。


 見るからに美味しいと分かる弁当。食べたくないなんて言えば嘘になる。

 だがこの状況……。俺が食べようとするのなら、どこかから箸なりなんなり持ってくるのが筋だと思うのだが、こいつは自分の使っていた箸をそのまま使わせようとしている。

 これで俺が口にしてしまえば間接キスになってしまうのだが……絶対にこいつはそのことを理解していない。


 おおよそ自分の料理の評価がいまいちわからないから、手ごろな先輩にあたる自分に食べさせて反応を見ようとか、俺のことを少しいじって面白がっているとかそんなところだろう。

 だが、それならば尚更口にしてしまうことは避けるべきだろう。

 いくら顔見知りとはいえ男が一度使った箸なんて彼女も使いたくはないだろうし、俺もそんな中で広がる微妙な空気は味わいたくはない。


 だからこそ朱伊の猛攻にも必死に耐えようとしているのだが……こいつはそんな俺の葛藤などつゆ知らず、相変わらずおかずをねじ込もうとしている。

 まずい……! このままでは本当に食べさせられてしまう……!


「先輩も強情なんですから…! いいから食べてください…よ!」

「むぐっ!?」


 だが抵抗も虚しく、朱伊の押しに呆気なく敗北してしまった俺は自分の口に入ってきた卵焼きを半ば無意識に咀嚼していた。

 口の中に広がるほのかな甘み。どうやら塩胡椒で味付けをしたのではなく、砂糖が入れられているようだ。個人的にはしょっぱい卵焼きよりもこういった甘みが感じられる方が好きなので、俺としてはうれしいのだが……。


「ふっふっふ……。やはり先輩も、私の料理の腕前を目にしたら言葉も出せなくなるようですね。どうですか? お味の方は」

「……すっげぇ美味いよ。味も俺好みのものだったし、ありがとな」

「んふふ~。先輩が素直に感謝してくるとは、早起きして作ってきた甲斐もありますね!」


 弁当に対して嘘をつく理由もないので素直に賞賛していると、よほど嬉しかったのか隠し切れないほどに口角を上げている。

 俺の感想なんて大した価値があるとは思えないが、朱伊からすれば違うのだろうか?

 よくわからんが、この程度で喜んでもらえたのならあの卵焼きに対する礼の足しくらいにはなってくれただろう。

 …あと残っている問題といえば。


「なぁ、朱伊。お前その箸……」

「ふぇ? なんれふか、しぇんぱい?」


 俺が口を付けてしまった箸の処遇、と言おうとしたのだが、それよりも先に朱伊が自身の弁当を食べ進めてしまっていた。

 その顔は俺が気にかけていることなど全く気にしないといった様子で、こちらがいちいちやきもきしているのが何だか馬鹿らしくなってくるようだ。


(…こいつが気にすることもないのなら別にいいか。こっちが色々と言っても煩わしいだけだろうしな)


 勝手に余計なことに気をかけて、勝手に慌てていれば世話もない。張本人が何も言ってこなければそれでいいではないか。

 そう結論付けて、俺も自分の昼飯の残りに手をつける。昼休みの時間はまだ残っているが、のんびりしすぎれば授業に遅れる可能性も出てくる。


 優等生……と言われるレベルではないが、教師陣から真面目という評価を頂いている宗二の身からすれば、遅刻は避けたいところだ。

 早く食べ終わってしまうに越したことはない。手に持っていたカレーパンにかぶりつき、とっとと腹の中に収めていくのだった。


 ───隣の少女の、赤く染まった耳には気づくこともなく。




 自分でも懐いている、というよりはよく構っている先輩の隣で弁当に手を付けながら、梨沙の脳内ではとてつもない速度で思考が加速していた。

 その原因は、己が今もなお手に持っている箸だ。いや、箸が直接の原因というわけではないが……その過程が問題だった。

 梨沙本人の頭の中では本来、弁当を宗二に食べさせその腕前をアピールし、少しでも自分に対する意識を変えておこうという程度の作戦だった。


 実際それはおおむね上手くいったし、彼から賞賛の声ももらえて大満足の結果で終えることができた。……そう、そこまでは。

 彼から褒められ、気分も舞い上がっていた梨沙は特に疑問を抱くこともなくそのまま米を取り、口に運び───そこでふと思い出ししまった。


(あれ? 先輩に食べさせるのに夢中で気づかなかったけど……私、どの箸で食べさせてあげたっけ?)


 梨沙は家を出る前、しっかりと予備の食器を準備してから出かけていた。そうでなければ使えるものが一つしかなくなってしまうし、そうとなれば必然的に……間接キスをしてしまうことになる。

 だが、いざ宗二に食べてもらおうとなった時にその予備と入れ替えた記憶がない。用意は整えた。そのための計画も完璧だった。ただ……肝心の実践で、うっかりしたミスをしてしまった。


 そうなれば当然、今使っている箸が先ほど宗二の口に触れたものということであり───


(───────……っ!!)


 その事実に気が付いた途端、全身が燃えるように熱くなるのを感じた。ぼふっ、という音が聞こえてきそうなほどに高まっていった熱は全身を赤く染めていき、梨沙の思考からも冷静さを失わせていった。

 やってしまった。どうしよう。でも今更取り換えても……


 そんな考えが頭の中をぐるぐると巡り続け、答えなんて出てこない無限ループのような脳内に時間を費やしていると、気が付けば弁当も食べ終わっていた。


「あ……もう食べ終わってましたね。あっはは…」

「ならそろそろ教室に戻るか。時間もちょうどいい頃合いだろう」

「そ、そうですね! 授業の準備もありますし、早く戻った方がいいですね!」

「…? なんか変じゃないか、お前?」


 まだ赤らみが収まらず、熱の抜けきらない顔を誤魔化すように手で扇ぐが、逆にその言動で不審に思われてしまったようだ。

 普段の朱伊であれば、そろそろ戻ろうなんて言われた暁にはまだ戻りたくないと駄々をこねるのが目に見えているので、仕方のないことだったが……。

 現状に限っては、その対応はまずかった。


「なんか顔も赤いし……熱でもあるのか?」

「ね、熱なんてありませんよ! 体調は万全。元気はつらつな梨沙ちゃんですから!」

「何言ってんだよ。ほれ、ちょっとこっち来い。熱は……あっつ!?」

「そ、そんないきなり手を───っ!!」


 朱伊の額に手を当ててみれば、それは尋常でないくらいに熱が高まっていた。原因はひとえに彼女自身の羞恥心によるものなのだが、彼がそんなことを知るはずもない。

 唐突に接触されたことによって、さらに体温を高めていく彼女の様子にさすがに心配になってくるが、彼女からすればそれどころではない。


 急すぎる展開に理解が追い付けず、思考と同時に目まで回ってきたように思える。この異常事態に彼女がとった行動は……。


「わ、私………先に戻ってます!!」

「あ、おい!? ちゃんと熱冷まさないとだめだぞ!」


 …全力で彼を振り切ることだった。


 置いていかれた宗二が的外れなアドバイスを投げかけるが、それに反応する暇もなく。教室のドアを開け放ち、走り去っていく彼女の後ろ姿を見ていることしかできなかった彼は……とりあえず、部屋の片づけを始めた。


「…俺も戻るか。もう授業始まるし」


 何だか腑に落ちないことが多かった昼食だったが、それにかまけて授業に遅れては元も子もないので、あらかたゴミの片づけを終えると自分の教室へと戻っていった。




「よーっす! ギリギリだったじゃんか。まーた愛しの朱伊ちゃんとイチャコラしてきたのか、おめぇは?」

「…イチャコラなんてしてねぇし、どっちかといえば付きまとわれてるのは俺だからな?」


 教室へと戻ってきた俺に気さくに話しかけてきたのは、クラスメイトの遠藤えんどう健一けんいち。少し気崩された制服からはおちゃらけた雰囲気を感じさせるが、そんなこともなく普通にいいやつだ。一言で表すならば爽やか系のイケメンで、何かと話しかけてきてくれる。

 俺と健一は一年の頃からの付き合いであり、趣味も合ったのでこうして絡んでいることも多い。二年に上がってからもこうして同じクラスになれたのは僥倖という他ないだろう。


「そーいやそうだったな。…にしても不思議だよなぁ。あんな可愛い子が、お前みたいなやつに構ってくるなんて」

「みたいなとは何だ。言いたいことはわかるけど、俺にもわからないことなんだから答えようもないんだよ」

「わーってるって。でなきゃもっと根掘り葉掘り聞きだしまくってるからな」

「そんなことしようとしてたのか……」


 思いがけないところで友人の噂好きな一面を見てしまったが、以前はこいつに助けられた場面も大きかった。

 かつて学校中から朱伊との仲について質問攻めにされかけていた時、防波堤のように立ち構えてくれていた健一の存在が無ければ、俺は今よりもはるかにひどい状況に陥っていただろう。

 そんなこともあって、こいつには何だかんだで感謝しているし、向こうも会話の中で踏み込んでいいものかどうかというギリギリのラインを見極めるのが上手いので、普段の日常生活の中でも気楽につるんでいられる。


「まぁお前が事情を知らなくても、あの子にとっては何かしらの事情あるってことは間違いないだろう。でなきゃ、普段の生活でも部活でも関わりようがないんだから」

「…そうなんだけどさ、こっちが一方的に何も理解できてないっていうのも結構怖いんだぞ? 俺だって何度人違いだと思ったことか……」

「お前なぁ……。でもその可能性も、向こうに潰されてるんだろ?」

「…そうだよ」


 朱伊に構われるようになって間もない頃。俺は何度となく人違いじゃないか?とあいつに聞いてみた。俺の方には面識がなくて、彼女の方が知っているだなんて明らかにおかしいのだからまずはその可能性を疑うのは当然のことだった。

 だが、何度となく聞いても返ってくる答えは『間違いありません!』の一点張り。あまりにもその意見を固持してくるので、いつの間にかこちらの方が折れざるを得なくなってしまった。

 一体彼女の何がそこまで駆り立てているのか。皆目見当もつかないが……もし、もしも俺の方に忘れていることがあるとすれば……。


「ほれ、もうすぐ授業始まんだから用意して来いよ」

「あ、そうだったな。次って山吹先生だっけか? …うっかり寝過ごしたりしたらあとが怖すぎるな」

「あの先生サボりに対してだけは異常に反応するからな……。気合入れなおしておこうぜ」


 俺たちの学年でも屈指の厳しさを誇る教師が担当の授業ということも相まって、やる気のゲージが一気に落ちていきそうだが根性で耐え抜くしかあるまい。

 昼食後すぐということもあって眠気も降りかかり始めているが、この山場は何とか乗り越えて見せよう。




「はぁ……恥ずかしかった」


 自分の教室に走って戻った梨沙は、机に突っ伏しながら赤くなった顔を必死で冷ましていた。予想外のアクシデントによって羞恥心が限界を超え、宗二を置いてきてしまったが……あれは仕方のないことだった。

 そもそも間接キスまではするつもりはなかったのだ。そういうことは、もう少し仲が深まった後で………って、何を考えてるの私は!


 もちろん先輩とそういう関係になりたいかって聞かれれば、それはそうだけど……。でも私がしたいことは、どっちかっていうと恩返しだし!

 …先輩、全然気づいてないよね。多分覚えてないんだろうけど、と雰囲気も何も変わってないしかっこいいところもそのままだけど。


 そうして体の熱を必死に逃がしていると、近づいてきた女の子が私に話しかけてきてくれた。


「えっと……梨沙? なんかだるそうだけど、大丈夫?」

「ん? あ、瑠璃! 全然へーき。ただちょっと熱いだけだから!」

「それならいいんだけど……苦しかったらちゃんと言ってね?」

「うん、ありがとね!」


 声を掛けてきてくれたのは、私の友達の西原さいばら瑠璃るり。髪は黒髪のストレートにしていて眼鏡をかけている、私の親友ともいえる大事な友達だ。

 それと彼女は、唯一私の方から声を掛けて友人になってくれた子でもある。

私は自分で言うのもなんだけど容姿が優れていると思うし、客観的に見てもそれは揺るぎない事実だ。

 もちろん生まれついてのものだけじゃなくて努力で磨き上げてきたものも多いけど……それは今は置いておく。


 そんな優れた容姿を持っている私は、とにかく周囲の人に話しかけられることが多い。同級生はもちろんのこと、上級生の人たちや果ては他校の人にも絡まれることだってあった。

 話しかけてもらえることは嬉しい。それは間違いない。

 だけどそれによって、私は私自身が話してみたいと思った人に近寄りづらくなってしまった。どうしても目立ってしまう私がみんなの輪から外れて行動していれば、その話し相手の人だって目立ってしまうし、それを不快に感じる人だっているだろう。


 なので中学の頃から、あまり自分から積極的にコミュニケーションを取るということは少なくなってしまったのだが……瑠璃だけは、どこか違うと感じたのだ。

 他のクラスメイトが何かと梨沙に構おうとしている時にも、その流れに加わることもなく一人で黙々と読書をしている姿をよく目にしていた。

 梨沙本人も、その容姿から勘違いされがちだが本人にしてみればアウトドアよりもインドア派である。外で動くことも嫌いではないが、自宅でゆっくりと本を読んだり勉強の復習をしたりと……そういったことの方が性に合っているのだ。

 だからこそ、読書をしている瑠璃には興味を引かれていたし、お互いの趣味なんかもゆっくりと話し合ってみたかった。


 そうして入学式も無事に終わり、クラス内でも少しずつなんとなくのグループができていくという空気の中、梨沙は活発とした女子たちによく話しかけられており、瑠璃は相変わらず一人で本を読み続けていた。

 そんな様子に、私は思わずかっこいいと思ってしまった。今もこうして周囲に流されながら学校生活を送ってしまっている私なんかと比べて、あの子はしっかりとした自分の世界を持っている。

 確固たる意識。容姿や振る舞いなんかではなく、誰よりも自分らしく動いている彼女を見た時、とても自分が恥ずかしくなったのだ。


 彼女は周りの目なんて全く気にすることなく行動しているというのに、自分は何だ?

 全てを周囲の意見に合わせて、流れに身を任せて、そんな薄っぺらい人間になった覚えなんてない。それにこんなザマでは……いつかに会った時、きっと後悔することになってしまう。それだけは嫌だ!

 己を鼓舞するように、何よりも心が弱いままでは彼の前でも顔向けなんてできるわけがない。そう決意して、私は彼女に話しかけたんだ。


『ね、ねぇ! それって何て言う本なの?』


 少し声が上擦っていたかな。慣れないことに緊張してしまっていた私の声かけに、彼女は呆気にとられたような顔をしていたけれど、今と変わらない優しい言葉で返してくれた。


『…えぇっと、これは普通の文庫本だけど。…朱伊さんも好きなの? 本』

『っ、うん! 実は私もよく本読んだりしてるんだ!』


 いきなり話しかけてきた私に対して、今より少し他人行儀ではあったけれど、瑠璃は丁寧に会話をしてくれた。

 思っていたよりも声は高くて、どこか淡々とした口調だったけど……その雰囲気は、どこまでも優しいもので。こうして話していなければ、そんな些細なことにも気が付けなかっただろう。

 そういった過程を経て、私たちは友達になったんだ。



「それにしても、あの時は驚いたよ。梨沙が教室飛び出していったかと思えば、二年生のクラスに突撃して行っちゃったんだから」

「うっ…。で、でもあれは! 先輩がいるってわかったから気が動転しちゃった結果だし……」

「そうだとしても、あんな形で行ったら誰だって驚くよ。私でさえそうだったんだから」

「はい……」


 窘められるように言われてしまえば、返す言葉もない。

 実際あの時の私は、自分でもどうかしていたと思う。教室を移動するために廊下を歩いていた時、私はずっと探していたあの先輩を見つけてしまった。

 そこからの行動といえばすごかった。先輩本人には絶対に気づかれないように後をつけ、所属しているクラスを割り出していった。

 …見ようによってはストーカーでしかなかったよね。よかった、通報とかされなくて。

 ちなみに、その際に一緒にいた瑠璃には若干引かれていた。完全に自業自得でしかないが、わずか数日でせっかくできた友達を失うところだった。危ない。


 なんにせよ、この学校に先輩がいるということが分かってからは皆の知っている通りだ。を返すため、そして何より、先輩のそばにいたいと常々思っていたからこそ、ああして傍に付きまとっているのだ。


「せっかく再会できた人とまた仲良くしたいっていうのは理解できるけど……くれぐれもストーカーにはならないでね? 私も友達が法を犯す姿は見たくないし……」

「しないからね!? ストーカーなんて………うん、多分……しないはず」

「そこは断言してくれない? ほら、私の目を見て言ってごらん!」

「………シマセン」

「すっごいカタコトだし、全然目線合ってないんですけど?」


 いくら何でも、ストーカー行為まではしない。…以前に一度前科があったような気がしないでもないけど。何なら先輩の近況を調べまくりたいとは思っているけど。それでも………さすがに超えてはいけない一線くらいは分かっている、はずだ!

 うん。この話はここでおしまい。そうでなければ瑠璃からのジト目がすごいことになりそうだし、早々に打ち切るに限る。


「あと先輩に会えるタイミングは放課後くらいかなー。早く支度しないとすぐにいなくなっちゃいそうだし、なるべく急がないとね!」

「その支度に巻き込まれる身にもなってほしいな……。梨沙、ありえないくらいのスピードで走っていくんだもん」


 瑠璃が何かぼやいている気がするが、気にしない。今日の残された勝負は放課後。それまでは気合を入れて授業に臨まねば!


「絶対私の話聞いてないよね? 先輩一筋なのはいいけど、友人のことも気遣ってくれると嬉しいんだけどなー」


 …うん、ごめんって。苦労かけちゃってることは謝るから、許して?





     ◆





 キーン、コーン、カーン、コーン……


「よーし、それじゃ今日はここまで。お前らちゃんと課題やってこいよー」

「ぐあぁ……。終わったぁー……」

「お疲れさん。今日はまた一段と指されまくってたな」


 今日一日の授業も全て終わり、ひと時の解放感に満たされながら友人をねぎらう。健一ってその見た目のせいからか、なぜか教師の目に留まりやすいんだよな。

 そのせいで授業の中でも当てられることが多いし、その度にこちらに助けを求めてくるのだから世話もない。


「先に帰りの支度だけ済ませておくか。とっとと帰りたいし」

「相変わらずの準備の良さだよな……。けどどれだけ準備してても、多分朱伊ちゃん来るんじゃないのか?」

「……多分な」


 俺は特に部活動にも入っていないので、一通りの授業さえ終わってしまえばあとは帰宅するだけだ。それ自体は今までと何も変わっていないし、変える予定もない。

 ただ一つ変わったことがあるとすれば、それは帰宅しようとしたタイミングで朱伊が駆けつけてくるようになったことか。

 一人で帰ることにこだわりがあるわけでもないのでついてくること自体は構わないのだが、俺の教室まで全力疾走してくるのはいかがなものか。


 明らかに乱した呼吸で、「まっ、間に合いましたね…。い、一緒に帰りませんか…?」なんて言われてしまえばこっちの方が申し訳なくなってくる。

 なのでいつも、とりあえず待っておくから焦らずに来いと言っているのだが、毎回走ってここまでやってくる。

 あれは何だ? 俺の言葉に信用がないということなのだろうか。

 …確かに10分ほど経っても来なければそのまま帰っている可能性もなくはないが……そんなに全力で走ってこなくてもいいだろうに。


 ひとまず今日も、教室で待機することになる。そうでもしなければ、明日会った時に何を言われるか分かったものではないし、それを考えれば少し待つくらいどうってこともない。




「…連絡は以上だ。もう帰っていいぞー」


 担任からの事務連絡も滞りなく済み、ホームルームも終わった。これでようやく帰路にもつける。


「どんくらいで来るかね、朱伊ちゃんは」

「そんなことは俺にもわからん……って、お前部活行かないのか?」

「今日は時間にも余裕あるしな。そっちを見送ってから行くことにするわ」

「そうか……。見せ物でもないんだが」

「そんなこと言うなって。あんだけ振り回されてるお前って超おもしろ……見ごたえがあるんだぞ?」

「今面白いって言いかけたし、言い換えても大して変わってないからな?」


 何を考えてるんだか……。理由もわからずに懐かれている俺の様子なんて見ても面白いとは思えないんだけどな。


「まぁまぁ。どちらにせよ、今まで全く女っ気のなかったお前が誰かに好かれてるっていうのは良いことだと思うし、その行く末は気になるところなんだよ」

「そういうものかねぇ……。ただ少なくとも朱伊の好意はお前の考えてるもんとは別物だろうし、今後もそういった関係になることはないだろうよ。一時の勘違いかなんかだろうしな」

「本気で言ってんだとしたら、お前の正気を疑うぞ」

「何がだ」


 「わかってねぇな……」といった風貌で肩をすくめている様子にイラっと来たので、頭を一発はたいておいた。

 こいつの言ってることなんてあてにならないし、まずそういった関係になることはありえない。俺に懐いてくれていることは嬉しくは思うが……少なくともそこ止まりなんだ。

 それに……記憶のどこかで引っ掛かっているのことを思えば、申し訳なくさえ思えてきてしまうんだ。


 まぁこの奇妙な関係もそう長続きはしないということだ。いずれは自然と忘れ去られていくものなのだから、その時までは穏便に過ごしていればいい。

 そこまで考えたところで、教室の外から聞き覚えのある足音が聞こえてくる。このタイミングで廊下から響き渡る正体なんて一つしか思い当たらず、それと同時に扉が開かれた。


「せっ、せんぱ…い。はぁ…。か、帰りましょう……」

「…お前ってやつは、走ってこなくていいって言ったのに……」

「そ、そんなこと…してられませんよ…! 前に一度先に帰られた時のこと、忘れてませんからね……!」

「…よく覚えてんな」


 やってきたのは、予想に漏れず朱伊だった。今回も言いつけを守らず走ってきたようで、息は荒い。

 彼女が恨みがましく告げてきたことは事実であり、俺は一度彼女のことを待たずに帰ったことがある。いつまで経っても来なかったのでもういいかと思っての判断だったのだが……。

 後にその時のことについて聞いたところ、なんと別の男子から告白を受けていた最中だったそうだ。さすがにそれを無視して教室まで来ることはできず、急いで駆けつけた時にはもぬけの殻だったそうで。


 未だにそのことをつつかれているのだが、勘弁してほしい。告白してきた男子を無視して来いだなんて心無いことは言えるはずもないし、どれだけ時間がかかるのかもわからなかったので、早々に帰宅をしただけだ。

 俺は悪くない。それが事実だ。


「先輩も開き直ってるし……。まぁいいです。とにかく帰りま……」

「り、梨沙…。待ってって言ってるのに……」

「あ…ごめんね、瑠璃。うっかり忘れちゃってた…」


 「うっかりじゃないよ…」と愚痴をこぼしながら後ろから現れたのは、梨沙の友人で…西原、だったか。

 よく朱伊と一緒にいるところを目撃しているので、半ば知り合いのようになってしまったが、常に彼女の暴走に巻き込まれている光景しか見たことが無いのだが気のせいだろうか。

 仲が良いことは間違いないのだろうが、彼女も彼女で苦労していることがあるのだと思うと同情の念が湧きあがってくるようだった。


「やっとそろったか。なら俺もそろそろ部活に向かうとするかね」

「あ、遠藤先輩。こんにちはー」

「や、相変わらず全力疾走だったな。どうだ? 梨沙ちゃんも陸上部に入らない?」

「あっはは……遠慮しておきます。まだ部活動の見学もまだですし」

「そっか。振られちまったのは残念だけど、気になったら活動だけでも見に来てくれな」

「はい、その時は行かせてもらいます」


 この学校で陸上部に所属している健一だが、冗談まじりのように言った勧誘はすげなく断られてしまった。それはそうだろう。一年生の部活見学期間はまだ始まっていないし、その前に判断を迫られても困惑するだけだ。

 それと、意外にも俺以外の上級生にはあまり話しかけない朱伊だが、健一に対してはフランクに喋ることが多い。こいつの放つ物腰の柔らかさがそうさせているのか、不思議なもんだが仲が良好ならそれに越したことはない。


「とにかく昇降口行こうぜ。もう教室に留まってる意味もないだろ」

「そういやそうだな。さっさと向かっちまうか」

「そうですね。もう特別用事もないですし」


 まだ教室内に残っており生徒はちらほらといるが、俺たちは居残りをするほどの用事もない。

 もう帰ってしまってもいい頃合いだし、早く帰って今日の分の疲労を回復させたい気分だ。

 …少し髪も伸びてきたし、切りに行ってもいいかもな。気分的にさっぱりさせたい気分だし、そうするか。


 軽く今後の予定を頭の中で組み上げながら教室を出ていくと、後ろから途切れ途切れの声が響いてきた。


「す、少し待ってもらってもいいですか…? 私、まだ…体力が……」


 …あ、西原さんのことを忘れてた。

 走ってきた朱伊についてきたことで体力を削り取られていた西原さんは、床に手をつきながら呼吸を整えている最中だった。

 何でこう、苦労人みたいな役回りなんだろうな、この子。




 西原さんの体力が戻ったことを確認し、再び昇降口まで歩き出した俺たちは、そのまま正面玄関から外に出た。

 そこから少し見えてくるグラウンドでは運動部が活動しており、気合の入った声まで聞こえてくるようだった。


「んじゃ、俺は部活行ってくっから。また明日な!」

「おう、頑張って来いよー」


 陸上部の練習はグラウンドで行われる。なので練習のために校庭に走っていった健一を見送り、俺たちの方もそのまま帰路に付くことにする。

 そこで瑠璃が俺たちとは違う方角に進もうとしていたため、思わず声を掛けてしまった。


「あれ? 西原さんって帰り逆の方向なのか?」

「えぇ、そうなんです。一緒に帰りたいのは山々なんですけど、そっちだとどうしても遠回りになってしまうので……」

「方向が同じだったらもっと一緒にいれたけど……こればかりは仕方ないですからね」


 俺と朱伊が出る方向は正門側からなので同じだということは分かっていたが、どうやら西原さんは裏門側から帰っているようで、見事に俺たちとは真逆の方向だった。

 朱伊の言う通り、これに関してはどうしようもないことだろう。無理を言って正門から共に帰ったとしても一方的に彼女に負担を押し付けてしまうし、それはどちらにとっても本意ではないはずだ。


「そうか……なら、ここでお別れだな。気を付けてな」

「はい。篠村先輩も、梨沙のことをお願いしますね?」

「もう! そんなこと言わなくてもいいから! …また明日ね!」

「はいはい、また明日ね」


 柔和な笑みを浮かべながら手を振り、お互いに別れを告げてそれぞれの帰り道を歩いていく。

 …やっぱり、まだ部活動に所属していない一年生が多いからか普段よりも帰宅する生徒の人数が多い気がする。いずれ時間が解決することではあるだろうが、それまでこの混雑した道が続くのかと思うと気が滅入ってしまいそうだ。

 そしてそれに伴って、周囲からの目線も痛い。いつも傍にいるため忘れそうになってしまうが隣にいる朱伊は相当な美少女だし、その噂は学校中に広まっているのだから注目を集めるのは当然だ。


 そんな中で、その隣に立っている俺にも疑問の目が飛び掛かってくるのがよくわかる。今でこそ直接問いただされることは減ったが、まだ朱伊が俺に構っていることを快く思っていないやつらはいるだろうし、そんな連中からすればこの状況が面白くないことは明白だ。

 少しずつそんな視線にも慣れてきてはいるが、やはり気持ちのいい類のものではない。


「…何だか失礼な目線を感じますね。直接言ってきましょうか?」

「いいから、あんま刺激すんな。俺の方も特に何かをされたわけではないし」

「……でも」


 確かに気持ちのいいものでもないことはそうだが、これに関しては彼女一人の責任というわけでもないのだ。この異様な光景が物珍しいことは理解できるが、それ以上に他人のことをジロジロと見ることは失礼にあたるものだ。

 そのモラルを無視して、観察するような視線を向けてくるような者達に非があるのだから、朱伊が気にするようなことではない。


「お前のせいで迷惑被ったって思ってたら、その時に言ってるよ。そうでないならお前に文句言うのは筋違いだし、そんな顔にしわ寄せ無くてもいいんだ」

「…分かりました。今はそれで納得してあげます。命拾いしましたね、あの人たちは」

「俺が止めなかったら何するつもりだったんだよ…」


 俺は朱伊の機嫌を直すと同時に、傍観者の命まで救っていたらしい。万が一止めなかったら恐ろしい事態に発展していたかもしれないので、ここで言及しておいて本当によかった。

 それと、周りのやつらに非があると思ったのもそうだが、何より朱伊にそんな険しい表情をしていてほしくなかったというのもある。

 本人に言えば調子に乗るため口には出さないが、笑顔の似合う彼女が顔をしかめているというのは、俺にとっても嬉しいことではなかった。


なのでこのようなことを口にして無理やりにも話題を締め切ったのだが……何やら隣にいる朱伊がにやにやし始めたのを見て、嫌な予感しかしない。


「まぁでも、考えようによっては悪くもないですよね! こうして私と先輩の仲を見せつけてやれるんですから!」

「調子に乗るな」

「辛辣!?」


 何やらおかしな方向に思考の舵を切り替えだしたこいつの戯言を切り捨てて、先に進んでいく。

 慌てた様子で後を追ってくる変わらない彼女の様子を見て、こちらも思わず苦笑を浮かべてしまった。


「だから先に行かないでくださいよ! 何でそんなに歩くの早いんですか!?」

「悪かったよ。ていうか俺自転車取りに行かなきゃだし、ちょっと待ってろ」

「いいえ、ここまで来たら一緒についていきますからね! 覚悟してくださいよ!」

「何の覚悟だよ……。いいや、来るんなら来い」

「はーい。…なんだかんだ言って、許してくれるところが甘いんですよね~」

「そんなこと言ってると置いてくぞ」

「ちょっ!? 待って!」


 俺は普段から自転車通学のため、駐輪場に自転車を停めている。対して朱伊は電車通学なので、正直一緒に帰るには非効率なのだが……可愛い後輩の頼み、ということで押し切られてしまっている。

 『先輩と一緒に帰りたいんです! …駄目ですか?』なんて上目遣いまで駆使されて頼まれた日には、俺に断るなんて選択肢ははなから存在していなかった。

 朱伊が乗る電車の駅もちょうど俺が通りがかる道沿いにあるので、そこまでなら……ということで了承を出してしまったのだ。


 その時の喜びようといったら、嬉しそうなんてものではなかった。両手を合わせてはにかむ様な表情を浮かべ、俺以外の周囲の目線を独占してしまうほどだった。

 いつものような活発な言動がなりを潜めた静かな喜びようは、彼女の本当の顔を表していたのかもしれない。

 今となっては確かめようのないことだが、柄にもなく……もう一度見てみたいと思ってしまうほどに魅力的な空気を醸し出していた。



「…よっし。それじゃ帰るか」

「はい! 途中までですけど、行きましょう!」


 駐輪場から自転車を運び出し、それを押しながら歩く。…やっぱり二人乗りとかできないもんかね。そうすればもっと早く移動できそうなもんだが。

 そんなことを考えていると、思考を見透かしたかのように隣の彼女がジト目で見つめてきていた。


「…先輩? まさか二人乗りならもっと早く帰れるとか思ってませんよね?」

「…なんでわかるんだよ」

「そりゃあ先輩のことですからね! いけませんよ? 先生に見つかったら、何を言われるか分かったものではないんですから!」

「それは理解してるけどさ。でもやっぱり考えちまうんだよ」

「そもそも愛しの後輩と一緒に帰っているというのに、何でそんな早く帰ろうとするんですかねぇ?」


 愛しのは余計だ、と言おうとしたがその直前で口をつぐむ。帰りの途中で通りがかる道の横に存在している公園が見えてきたからだ。

 …公園が苦手というわけではないけど、ここを見ると昔のことを思い出すから複雑なんだよな。

 敷地内では何人かの子供たちが遊んでおり、その周辺を保護者と見られる女性複数人が見守りながらおしゃべりをしている。どこにでもありふれた、なんてことはない光景だ。


 ただ、この何でもない光景が、俺の中の苦い記憶を彷彿とさせてしまう。


「…どうしたんですか。さっきから黙っちゃって」

「……いや、何でもない」

「絶対何でもなくないですよね? あの公園を見てぼーっとしてるし……悩みでもあるんなら、私に話してみてくださいよ。些細なことでも聞きますんで、ほらほら」


 どこか待ち構えるように、心配するように俺の返答を待っている朱伊。いつの間にかその姿に心を許し始めているからだろうか? 気づけば俺は、少し遠い記憶の話をしていた。


「なんてことはないよ。ただ昔にちょっとな……。仲のいい女の子がいたんだけど、その子と公園で微妙な別れ方をしたことがあるってだけだ」


「………っ、それって……」

「……おい、何か反応はくれよ」


 せっかく人が話したというのに、何も反応が無いというのはさすがに居心地が悪くなる。なので朱伊の方を見ると……なぜか彼女は、呆然と俺の方を見つめていた。

 昼の体調不良がここにきて響いたのかと思い、心配の声を掛けるがそれも無視されてしまった。…いくら俺と言っても、何もされなかったら傷はつくんだからな?


「おーい! どうしたんだよ、急に立ち止まったりして」

「……あ。い、いえ! 何も問題ないですよ!? ただちょっと…私も、昔を思い出してただけですから!」

「昔って……。一体何を思い出してたって…」

「あーっと!! 急がないと電車に乗り遅れてしまいますよ! 急ぎましょう、先輩!」

「いや急に走り出すな! 危ねぇぞ!」


 まるでその口からこぼれかけた言葉を飲み込むように、誤魔化すように振り切られたテンションは、数秒前までの思い出話など俺の頭から消し飛ばしていた。




 急に走り出した朱伊を追いかけて、ようやくその隣に追いつくことができた。だが問題はそこからであり、何かを話していてもどこか上の空になってしまった彼女の様子に、俺は困惑するばかりだった。

 返事自体は返してくれるのだが、そこに感情がこもっていないというか、集中していないというか……。

 そんなこんなをしている間に駅にも到着し、やっとそのことに気が付いたらしい朱伊が思わずといった感じに声を出す。


「あっ……もう駅…」

「お前、ずっと意識が浮ついてたけど大丈夫か? 何かあるんだったら我慢せずに言った方がいいぞ?」

「ふぇっ? い、いえ! なにもないですから大丈夫ですよ! そんな心配してくれるなんて、まさか梨沙ちゃんに惚れちゃいましたか!」

「…そんだけ言えるなら問題なさそうだな。けどほんと、我慢せずに誰かに相談するくらいはしろよ」

「先輩の方こそ、体調管理はしっかりしないと駄目ですからね? この時季は特に体調崩しやすいんですから!」

「だから母親かって……。もう電車も来るだろうし、俺も行くぞ。また明日な」

「はーい、また明日!」


 元気よく階段を駆け上がっていく姿を確認してから、俺も自転車にまたがってペダルをこいでゆく。駅からなら自宅まで20分程度の距離だし、もうひと踏ん張り頑張るとしよう。

 …それにしても、朱伊のやつ。俺の話を聞いてから途端に口数が減っていったけど、何かあったのかね。俺の言ったことなんてそう大したことでもないだろうに、引っ掛かることでもあったのか?





     ◆





 ──…ガッタン、ゴットン、ガッタン………


 乗り込んだ電車にその身を揺られながら、梨沙は自身の鞄に顔をうずめていた。電車内はちょうど学生の帰宅時間ということも相まってそれなりに混雑しており、同乗している者の中には梨沙の整った容姿に見惚れている者もいるが、彼女がそれを気にかけることはない。

 なぜなら、そんなことに意識を割く余裕なんてないくらいに、今の彼女の心の内には歓喜の感情が溢れていたから。


(…覚えてた。覚えててくれたんだ……! 先輩も、忘れずにいてくれていたんだ!)


 胸中に広がる、思わず舞い踊りそうになってしまいそうになるような強い感情。言葉で言い表すことも難しいくらいのそれは、今までの苦悩を全て吹き飛ばししまうほどに強烈なものだった。

 あの時、宗二の口からもたらされた言葉を聞いて梨沙は一瞬、この事実を把握できなかった。それほどの衝撃を受けていたとも言えるし、自らが信じてきたことは間違っていなかったのだと確信させてくれたのだ。

 これを喜ぶなという方が無理がある。


 …自分だけだと思っていた。あんな遠い過去のことをいつまでも引きずって、未来に踏み切れていない自分なんて間違っているんじゃないかと。

 いくら信じていると思っていても、年月を経るごとに増していったその不安感は重くのしかかり、彼女の心に暗雲をかけていく。

 …でも、今日。宗二からそんなことはなかったという事実を再確認できたことで、そんな不安は消し去った。


(先輩の方は多分、詳しいことまでは覚えてないんだろうけど……。それでもいい。これはただの恩返しで……私がやりたいから、やってるだけ)


 宗二の話を聞いた限りでは、おそらく気が付いていないのだろう。だが構わない。もともと彼にしてあげたかったことはそのままでも問題はないし、それで満足……。いや、これも言い訳だ。

 本音では気が付いてほしいし、それを自分の口から伝えてあげたい。だけど、それはしたくないという矛盾した考えが頭を巡る。


 多分、私の方から言ったところで先輩には何の冗談だとあしらわれてしまうだけだし、私個人としてもこのことは、彼の方から気が付いてもらいたい。

 どこかわがままで、自分勝手な考えばかり浮かび上がってくることに少しばかりの申し訳なさが浮かんでくるが……そんな思いとは裏腹に、己の表情は笑顔を隠しきれていない。


(それでもいいよね。だって、気が付かせるためなら先輩の近くにいればいいだけだし……これからも隣に居続ければ、いずれは分かってもらえるだろうし)


 まるで宗二と自分が永遠に共にいるかのようなことを前提としたことだが……そんなことは、今の彼女にとってさして重要なことではない。

 彼女の方から距離を置くことなんてありえないし、彼の方から遠ざかって行ってしまうことなんてないということもわかっている。

 彼は甘い。口ではなんて言っていようと、心から不快に思っている相手ならば最初の時点で引きはがされているだろうし、そうならなかった時点で許容されていることは明白なのだ。

 まるで優しさに付けこむようなことをしているようだが……まぁ、悪い女に引っ掛かってしまったと思って諦めてもらうほかない。


(たとえ気づかれなかったとしても、それは仕方がない。もちろん全力で傍には居座るつもりだけど……その点は先輩次第でしかないんだから)


 顔をうずめていた鞄から顔を離し、閉ざしていたチャックを開けていく。中身は筆記用具、教科書、ノートなど様々に入っているが、その中から生徒手帳を取り出す。

 自身が在学していることを証明する生徒手帳。そこから校訓や規則が述べられているページを開く……わけでもなく、そこに収められていた一枚の写真を眺める。


(覚悟しておいてくださいよ、先輩? なんせ、こーんな後輩に…懐かれちゃったんですから)



 年季の入ったように変色しかけている写真。

 そこには、満面の笑みを浮かべてピースサインを向けている黒髪の幼き男児と、緊張したようにうつむきながら、頬を赤らめて並んでいる茶髪の少女の姿が映されているのだった。

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懐いた後輩は、常に俺の隣にいる 進道 拓真 @hopestep

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