首にかかる紐

 小説を書いている間、わたしの首にはいつも一本の紐がかかっている。
 絞首刑の縄ではない。
 第二次世界大戦中、それで吊るともっとも長く苦しむと云われ、ナチスに盾ついた者への処刑に使われてきたピアノ線だ。

 べつに絞まってくるわけではない。
 ピアノ線はただわたしの首の周囲を一周して、余った端が、肩のあたりにだらしなく垂れているだけだ。

 PVゼロ、星ゼロ、ハートだけを付けて立ち去る人多数。

 これがわたしの常態で、もうずっとそうだ。
 あまりにも長年こうなので、これが当たり前になってしまった。

 そこから自主企画に出したり、人の作品を読んでコメントを残していくことで、ニ十人に一人くらいは奇跡的に読み返してくれる。
 そうやって細々と、営業活動と呼ばれる顔売りをやっているうちに、
「あなたの作風、とても好きです」
 そんな人が現れてくれて、常連さんになってくれる。

 さらに、立ち寄ってくれた方がコメントレビューを寄せてくれると、「読んでみようか」と振り返ってくれる人も増える。

 それでも毎回想う。
 わたしの頭は、おかしいんだなと。

 小説なんかを書かない人たちからしたら、到底耐えられないような状態を、ずっと続けている。
 こちらの文中でも云っているが、何百時間もかけて精魂を傾け、気力体力をそそいだ作品であっても、片手間にさらっと書いたX(Twitter)の呟きのごとき作品が常にランキングトップを占め、三桁四桁の星を軽々と稼ぎ、「なんと素晴らしい才能なのだ」と云われているのを星一桁のまま、ずっと見ていなければならない。

 この方が指摘しているとおり、小説投稿サイトとはそういう処なのだ。
 七割の書き手は、わたしと同じように星の数0~9地帯にいて、硝子の天井を破れないこのしんどさに筆を折ったり、毎日溜息をついている。

 星を稼ぐ方法というのはある。
 あらゆる創作論で提唱されていることだから割愛するが、わたしも中途半端にその方法に乗っている。
 星というのは増えれば増えるほど、「これだけ星があるのだから、きっと文才のある人なのだ」という付加価値がつく。
 このからくりは皆が知るところなので、「これで……」そんな白い目を有名税のようにして忍従するのならば、読者を増やすには簡単で確実だ。


 現状の投稿サイトと、どうやって付き合うかは、自分で決めなければならない。
 暗いことを書いたが、仲良くなった方とお喋りしているだけでもわたしは楽しいので、わりといい感じで利用している方だろう。
 読者が数えられるほどしかいない。
 こんな状態をずっと続けているのは完全に頭がおかしいなと我ながら想うが、かといって爆発的に読者が増え、書くもの書くものすぐに三桁に乗る夢のような状況になったとて、わたしの首の紐は外れることはないだろう。
 それはプロでも同じで、スタジアムがプロ用に移っただけで、多くの書き手の首には同様の紐がかかっているのだ。

 その首の紐はどこに繋がっているのかというと、目先のPVや星、プロなら売り上げ部数ではなく、良い作品を生み出したいという物書きの業だ。
 それが私たちの首枷だ。


 わたしの読者は何処にいるのだろう。

 このネットの海の中、星の数一桁の誰もが、こんな孤独に苛まれる。
 気の遠くなるような絶望感だ。
 しかし可能性はゼロではない。
 中学生の頃に書いたものが母校に残っており、数年後、在校生の女の子が他県に転居していたわたしを探し出し、思いの丈をつづった手紙をくれたことがある。
 あなたのような作品が書きたいと云ってくれた。
 また、道端の石ころのようなわたしに、わたしが『読み専の神さま』と呼んでいる恩人が足をとめ、熱烈なファンになってくれたことも過去にある。

 投稿サイトとは、いかに楽々と有名になり、トップ層に入り、固定の人気者となって余禄を手にするかが、勝ち組として尊ばれる処だ。
 それでも、いつか出逢える新しい読者のために、その人の心に残るものを一作でも書きたい。
 それは狙っては駄目で、凡作駄作を積み上げていった上に、修練の成果として想わぬかたちで実を結び、想わぬかたちで『読み専の神さま』のような人に巡り合わせてくれる。
 それが小説を書くということなのだ。

 わたしがそう願うように、多くの人が同じように願って小説を書いている。
 首に紐がかかっている人を見かけると、「ああ、あなたもなのですね」と眼を逸らし、そしてわたしの口許には笑みが浮かぶ。