EX. 新生
ウラノは膝をつき、平伏していた。
命令されたわけではない。顔を上げられないのである。
「よく手入れされていますね……」
目の前ではアルタナディアが抜き身のレイピアを眺めている。
ウラノは一人、アルタナディアに呼び出されていたのだが、その場所は今は亡き王妃・マリアンナの部屋だった。ガルノス王によりそのまま残されており、午前中にメイドが掃除をすれば誰も入ってくることはない。無人とはいえ、アルタナディア以外に自由に立ち入ることを許されない聖域の一つなのである。そこにたった一人、剣を持って呼び出された意味を、ウラノは薄々感づいていた。
ウラノは独自のルートからエレステルにおける反乱とその結末を一早く知っていた。イオンハブスは形の上ではエレステルに軍事協力したことになっているが、戦線にたった数名参加しただけではその効果を示すには不十分だろう。さらにキャンプ地を狙い撃ちされて兵を悉く失い、アルタナディア自身も人質にされている。結論から言えば、全てはアルタナディアの認識不足が招いたものであり、王としての見識を疑われても仕方のない有様だった。お気に入りのカリアが無事だったことこそ不幸中の幸い、とはいえ、さぞアルタナディアは打ちひしがれて帰ってくるものだとウラノは思っていた。
ところが―――フィノマニア城に帰還したアルタナディアはまるで違った。自ら馬に跨って隊列の先頭を行き、まるで完全勝利を収めたような顔で凱旋したのである。これには事態を伝え聞いていた重臣たちも目を丸くした。
そして一目見て、ウラノは気付いた。このアルタナディアは何かが違う。バレーナに傷つけられた時とも、決闘して血塗れになっていた時とも違い――――怖ろしい。何かは判然としないが、安易に踏み込むのを許さない威圧感のようなものを、瞳の奥底に秘めていたのだ。
「ウラノ」
アルタナディアの足音がゆっくり近づいてくる……。南向きのこの部屋は、昼過ぎになると部屋の三分の一まで強い陽光が入ってくる。ウラノから見て窓際に立つアルタナディアの顔は逆光で見えず、かといって床を見下ろしても、迫り寄る影が自分を捉えている……。
脂汗が、止まらない……。
「顔を上げなさい、ウラノ」
タン、タン…と掌をレイピアの刃で叩く音が聞こえる。抜き身の剣を持っているのは脅しではない……ともすれば、斬るつもりだ。ここで。迷いなく。殺気も何も感じられないのにそれが明確に伝わってくる。だからこそ恐怖する。命を賭けた決闘ですら躊躇いを見せていたアルタナディアが、無慈悲に人を処断できる人間になっている――――大義名分のために人を殺せる王になっている。人間観察と分析を生業とするジレンゆえに、絶体絶命だと理解できてしまう。もはやまな板の上の鯉なのだ。
それでもウラノは恐る恐る首を上げようとした。ジレンの……いや、ウラノ自身のプライドによるものか。
だが、それすら見越したようにアルタナディアは目線を下げる。屈んだアルタナディアの顔が、ウラノのすぐ目の前にある。瞬きできず、視線も落としたまま、ウラノは息を呑んだ。
「ウラノ……あなたはエレステルのジレン一族だそうですね」
ジレンのことも知っている……。
「どこからそのことを…………バレーナ様、ですか?」
「いいえ。ご当主の屋敷を訊ねた時に気付きました。私の世話をしてくれた少女の所作が、あなたによく似ていましたから。もっとも、あなたがどこからか送り込まれたスパイだということは、もう大分前に察していましたが」
ウラノの顔からサッと血の気が引いていく。ダメだ、もう何も誤魔化せない。女王は白状するのを待っている。口を開こうとすると歯がカチカチと鳴った。
「…私は、かつてグロニア城で働きながらジレンの任を務めていましたが、その素性をバレーナ様に見抜かれ………バレーナ様の命により、フィノマニア城に入り込み、アルタナディア様を観察して所見を報告していたのです…」
「なるほど…。私を通してイオンハブスの内情を推し量っていたのですね」
特に驚く様子もなく、淡々と受け入れるアルタナディアの表情は普段と変わらない。それが、どうしてこんなにも―――
「ウラノ。私はあなたを買っています。私の部下になりなさい」
「え…っ!?」
予想外の言葉だった。ジレンについて知っているなら、ウラノがフィノマニア城にやってきた経緯を知ったなら、むしろ劣等の烙印を押されて然るべきである。
しかしアルタナディアは続ける。ウラノの耳元で、囁くように。
「ジレンのご当主は仰っていました。ウラノはジレンには向いていない……ジレンの枠に収まらない者だと。ですが、私はあなたがジレンであろうとしたからこそ逸材に成りえたのだと思っています。それを踏まえたうえで―――私はあなたが欲しいのです」
あなたが欲しい―――それはウラノが最も待ち望んでいた言葉だった。ジレンとして落第したが、誰よりも優秀であり、誰よりも誇り高いと認められたかった。他人からの評価を欲することがジレンとして最大の欠点であるとも気付いていたが、アルタナディアはそれを認め、買ってくれるというのだ。これほど無上の喜びはない。
だが―――
「それは、エレステルを……ジレンを捨てろということですか…」
「そうです」
アルタナディアの返答が重い。受諾すればジレンではなくなり、拒否すれば……。どちらにせよ、ウラノという女の根源は、死ぬ。
「………で、できません」
声が震えているのがウラノ自身にもわかる。
「なぜ?」
「陛下が欲するウラノは、ジレンである故に認められる力を持つのです。ジレンの名を失えば、何者でもないただの女です…」
「ではあなたに『カルティ』という新しい隠し名を与えます。これには私の一部が含まれています……その意味がわかりますね?」
「KALTY」―――この中の「ALT」はアルタナディアのスペルの一部。すなわち、名実ともにアルタナディアのものになれということだ。
ウラノの心は大きく動いた。隠し名とはいえ、主君の名を頂くことがどれほどの栄誉であるか! それは己の魂を分け与えるのに等しい! 名に拘るウラノだからこそ、これ以上の誉れは在りえない。この人はどれだけ甘い餌を垂らして私を釣ろうとするのか―――!
だが―――それでも……。
「…できませんか?」
「…………私、には…私の身体に流れる一族の血には、先祖より受け継がれてきた誇りがあるのです。そのような……言葉遊びで……!」
「……そうですか」
床に伏せていたアルタナディアの右手のレイピアが鎌首をもたげるように揺れ動く。
ああ…死ぬ―――。
それでいい。最後までジレンとして在り続けられるのなら本望である。せめて、当主には意地を見せつけられるだろう……そう、死を覚悟した。
アルタナディアの白刃がウラノの顎に添えられ、くっ…と持ち上げられる。目を閉じてその瞬間を堪えようとしたそのとき―――剣が、掌を切り裂いた。
「!?」
アルタナディアの左の掌から赤い血が流れ落ちる。かなり深く切ってしまっている。
「な、なにを―――うむっ!!?」
疑問は声ごとかき消された。ウラノの口にアルタナディアの傷付いた左手の指が捻じ込まれたのだ!
ウラノの舌に、鉄の味が広がっていく……。
「ジレンの血が妨げるというのなら、私に染まるまでこの血を吸いなさい」
「―――!!」
なんと怖ろしいことを言うのか。なんと怖ろしいことをするのか!
ウラノはアルタナディアを振り払って逃げ出そうとするが、二歩と踏み出せぬうちに引き倒される。力づくで仰向けにされたウラノの身体に、アルタナディアが覆いかぶさるように馬乗りになり……不覚にもその媚態に見惚れてしまった。そしてウラノの思考の空隙を狙うようにアルタナディアの指が口内に侵入してくる。
「カルティ……『カルタ』は、シロモリの祖先の国の言葉で切り札を意味するそうです。ウラノ……カリアが私が道を踏み外さないための歯止めとなるなら、あなたは私が我を通すための切り札となりなさい…」
―――抵抗することはできたはずだ。指を噛みちぎり、あるいは隠し持っていたナイフを突き立てれば逃れることはできただろう。だが、それをしなかった。できなかった。手段を選ばないようなアルタナディアの行為の数々は、すべて自分を手に入れるためだ。形振り構わず、名を、血を、全てを使って自分を欲してくれていたからだ。誇りを汚されても、跳ね除けることができなかったのだ。
葛藤と欲望に迷い、痛みに耐え、悦楽に悶える――――初めてを知る少女のように、ウラノはアルタナディアに侵された……。
……どれほどの時間が経っただろうか。アルタナディアの手が引き抜かれた時、自ら指に舌を絡めていたことにウラノは気付く。
身体が熱い……呼吸が落ち着かない……。まるで情事の直後のような、得も言われぬ感覚だった。
「私のものになりなさい、ウラノ」
……………………。
「…はい。忠誠を誓います、アルタナディア様……」
ウラノは知っていた。
幼き頃、大婆様と当主との会話を聞いていたのだ。イオンハブスの幼き王女には、天賦の才と魔性が宿っていると。
だから、アルタナディアに夢中になるバレーナを心の底で嘲笑っていた。
大婆様が認めたアルタナディアという女がどれほどものか、見極めてやろうと思った。
自分は惑わされないと信じていた。
―――愚かだった。自惚れていたのではない。器が違ったのだ。計りきれる存在ではなかったのだ。
もはやあれほど固執していたジレンの名も、己が培ってきたプライドも、何もかもを失っても不安はない。
ウラノという女は、新たな悦びを得て、生まれ変わったのだから――――。
アルタナ MASH @ma2-moto
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