へっぽこ主の使い魔
羽間慧
へっぽこ主の使い魔
今夜も人々は、衣服に顔を埋めて家路につく。路地の奥で怪しく光る双眸に気づきもしない。
俺は覚悟を決めて歩き出した。残飯頼りの暮らしから毛皮はくすみ、体のあちこちに痛みが走るようになっていた。
寒すぎる。風も、心も。
黒猫が不吉の象徴でなければ、ひもじい思いをせずに済んだ。人々の意識にすり込まれたいわれが、罪のない俺を苦しめる。
一匹だけ黒く生まれた自分を見て、飼い主が窓の外へ放り投げたこと。擦れ違う度に石を投げられたり、箒で追い払われたりしたこと。生まれてから一年ほどしか経っていないのに、寂しい記憶ばかりが脳裏をかすめる。
いや。今の俺に必要なものは、空腹を埋める欠片だ。感傷に浸っている場合じゃない。
なけなしの体力で歩き回ると、まだ温かいパンを見つけた。焦げ目の多さが気になるものの、上等な白パンであることには変わりない。俺は一足早いクリスマスかとほくそ笑んだ。
野良に横取りされないよう、口を大きく開けた。勢い込んで咀嚼していた喉は、不意に強張る。
苦しい。頭が締めつけられる。
石畳の上でもがく俺を、人々は好奇な目で見下ろしていた。
「早くくたばれ。忌々しい悪魔の使いめ」
「叫び声も醜いな。耳が腐りそうだ」
「ママ。あの猫ちゃん、かわいそうだよ」
「仕方ないでしょ。うちでは飼えないの。買い物をして帰るわよ」
無数の足音が近くなっては遠ざかる中、深紅のマントだけが俺の前で止まった。
いらねぇよ。一瞬のぬくもりなら。
いらねぇよ。一時の善意なら。
虚勢を絞り出して威嚇するものの、小さな手は俺の頬に触れる。
「古風な手口ね。ドクニンジンを使うなんて」
あれか、うさぎが食べる橙色のやつか。
納得する俺をあわれむように、少女は首を振った。
「きみが食べたのは、毒草を生地に混ぜた特製パンよ」
なんてものを置いてくれたんだ。
「もうじき呼吸器官に影響が出て、死に至る」
その言葉通り、俺の体は痙攣こそするものの、自由に動かせなくなっていった。
楽しそうに見るんじゃねぇよ。
俺は心の中で悪態をついた。声を出せないことが苛立ちを加速させる。
「私が助けてあげようか?」
何だよ、それなら早くしてくれ。
安堵する間もなく、少女は目を伏せた。
「ごめんね。きみを助ける方法を知っているんだけど、ここには薬草がないの」
期待させやがって。
俺が歯を見せても、ひるむことはなかった。少女が俺に触れると、苦しさが和らいだ。
「がっかりしないで。こんな私でも、死ぬまでの時間を少しだけ止めることはできるの」
希望が首をもたげた。
「だから、私の使い魔になって。今のあなたは、向こうの世界に行けないから」
使い魔。向こうの世界。
聞き慣れない言葉は、朦朧とした思考をさらに惑わせる。こいつは信頼に値する人間か、人の形をした悪魔か。
俺の口は自然と動いていた。
「好きにしろ」
少女はふっと微笑んだ。その瞬間、俺と少女のいる空間が歪む。
入り込んだ風は暖かい。唐突に、母のぬくもりを思い出した。飼い主にバレるまで時間が掛かったのは、母が隠していたからかもしれない。
回想にふけっていた俺は、足元を見て叫び声を上げる。
眼下に家が見える。空中でふためく俺に対し、少女はダンスを披露するかのように軽やかな足取りで降りていた。
「おいで。バル」
初めて名をもらった日。それは魔女トネリコとの契約の始まりだった。
🐾🐾🐾
伝染病の流行で、あの街は食料も理性も減っていたようだ。病原菌を野良猫が運ぶという噂によって、俺は罠で駆除されかけた。
トネリコから手厚い治療を受けた結果、二日後には全快した。
普通なら、命の恩人に頭が上がらないはずだ。だが、トネリコの愛は重すぎて、三年経った今でも逃げ回っていた。
「バルったら、こんなところに隠れていたのね」
頭上からトネリコの声が聞こえ、俺の毛は逆立った。
「来るな。へっぽこ主」
俺は威嚇していた。トネリコに触られると、訳もなく心臓が跳ね上がるのだ。
「嫌いになんかならないからね」
トネリコはなぜか嬉しそうに笑った。
「私は幸せなの。お腹にもバルの跡がついているもの」
数日前につけた噛み跡は、小さな赤い点になっていた。
近寄る度にひっかき傷をつけても、トネリコはめげずに抱き上げようとする。その熱意は、生業の薬作りに向けてもらいたい。いつまで初級クラスに留まるつもりなのか。
「今日は臨時休業だよ。四年に一度だけ咲く花があるから、採りに行かなきゃいけないの」
希少価値に期待が膨らむ。ジャムやドライフラワーに加工すれば、二年ぐらい安泰な生活ができそうだ。
「ということなので! 私の代わりに、集会に出ておいてくれる?」
俺はげぇっと舌を出した。たいていの使い魔は「自分のご主人の方が凄い」「あいつに仕えなくて良かった」などと鼻高々に言い合う。一匹で集会に出るのであれば、トネリコが操縦する箒に耐える方がいい。主のいない使い魔なんて、格好のネタでしかなかった。
トネリコは口角を上げる。
「一分間触らせてくれたら、集会に行かなくてもいいよ」
「ちゃんと出席します」
即答した俺に、トネリコは頬を膨らませた。
俺が行かなきゃ、困るのはお前じゃないのかよ。
🐾🐾🐾
魔女集会は満月の日に開かれる。森の開けた場所に食べ物を持ち寄り、近況を報告し合う。和やかな集会ではあるものの、下々への気遣いがもう少しあればいいと願わずにはいられない。
嫌々ながら参加したせいか、トネリコについての悪口がより腹立たしくなる。紛らわせるためにタルトを口にすると、涼やかな声が聞こえた。
「ご機嫌いかが? トネリコ様の使い魔さん」
一羽のカラスがお辞儀をした。照らされた羽は、夜空にまたたく星を想起させる。
「マダムショコラか。いい夜を過ごしているよ。耳障りな話のおかげで、食が進む」
「あなたの言葉遣いは嫌いになれないわね」
「『は』は余計だ」
マダムショコラは、俺がこの世界に来て初めて会った使い魔だ。複雑な魔法界の習わしを丁寧に教えてくれた。
「相変わらず不満そうね。飛びかからなくなっただけ成長したかしら」
たしなめるというより楽しそうに見えた。
「俺の前で言えばいいものを」
「小さな世界ですもの。あらを見つけるには苦労しないわね」
マダムショコラは柔らかな羽の音を立てる。髪を掻き上げる女性のようだ。美しい所作に、俺の怒りは静まっていく。
「噂を信じる人がいれば、同じようにあしらう人もいるのよね。うまく交わすことを覚えると、楽になるわよ。つまらないトラブルを避けられるもの」
俺がまだまだ青いと言いたいんだな。
正論に顔をしかめた俺に、マダムショコラは素朴な疑問を投げかける。
「バルも呼びやすくていい名前だと思うけれど、どうしてノワールじゃないのかしら?」
その言葉に俺はハッとした。
あいつは毛皮の色から名付けなかった。
「使い魔選びのことは前に教えたわね。主は使い魔を鏡で占い、名づけに三ヵ月はかけるって。あなたがトネリコ様を選ぶよりも先に、トネリコ様はあなたを選んでいたの。それを忘れないで」
「肝に銘じておく」
俺が頷くと、マダムショコラの動きが止まった。
否、俺と術者以外の時間が強制的に止められていたのだ。俺に歩み寄る女性はマダムショコラの主人であり、トネリコの師匠だ。俺に向ける殺気は、それだけトネリコの不在が気がかりなのだろう。厳しそうな美貌に似合わない過保護ぶりだ。にやける頬を必死で抑える。
「バル、なぜトネリコがいない?」
「四年に一度だけ咲く花を採取するために、欠席すると言っていました」
「奇跡の花を? 前の開花時期に、一輪も確認されなかった花じゃないか。あんな花に、こだわる理由は……」
セージの目が見開かれる。
「そうか。咲かなければ雑草と見分けがつかない。上が手出しできないうちに、先手を打つつもりか」
どういうことだ。
困惑する俺に、セージは状況を説明する。
「トネリコがお前と契約を結ぶ前の日、咲きかけの奇跡の花があるという報告があった。だが、翌日、花があったはずの場所は何もなかった。誰かが摘んだ形跡も、花の効果で利益を得た者もいなかった。絶滅と判断されるのは自然な流れだろう。たいていの用途は若返りや失った体の再生だ。目先の欲におぼれ、別世界の道を開けるほどの魔力があるとは考えない。使い魔を召喚できない半人前を除いて」
セージの目には俺が映っていた。
俺は召喚されるほどの猫じゃないだろ。
魔女には規律がある。必要な分の薬草を摘み、動物の毛皮ほしさに殺すことは許されていなかった。トネリコの摘んだ花が必要以上の量だった場合、制裁は避けられない。規律を破った者が、傷を負うまで続く。
「あの子が生まれた家に緑色の目の者はいない。雪の日に捨てられていたのを私が保護した」
過去の自分が脳裏をよぎり、トネリコの笑顔が痛々しく思えた。
私だけは嫌いにならないと言ったトネリコに、俺はそんな愛情はほしくないと引っかいたのだった。
「私は集会に来ている者達の動きを見張る。お前は主を守れ」
言い終わる前に俺は走っていた。タルトなんて食うんじゃなかったな。
明かりのない家が見えた。トネリコはまだ帰っていないらしい。家に押しつぶされていたら、笑ってやったのに。だが、近づくうちに背筋が冷えていく。
屋根には大きな穴が開き、庭は争った形跡で無残な姿になっていた。散乱した骨は、襲撃者の手下のものと思いたい。
「トネリコ!」
扉を勢いよく開けると、暖炉に火をつける人物がいた。俺は爪を出して飛びかかる。うちの暖炉で、勝手に怪しい薬を作るんじゃねぇ!
「初めてだね。私の名を呼ぶなんて」
ぼろぼろのフードからトネリコが顔を出す。敵と勘違いした俺は、一気に力が抜ける。
「初級クラスは嘘だったのか?」
「攻撃魔法以外は、からっきしだもん。治癒魔法より薬を作る方が早いんだよね」
「そんな状態で大丈夫なのかよ? 制裁は終わったのか?」
「へーき。自分の魔法の威力が強すぎただけ。おばば達が跳ね返しの魔法を使ってくるのは予想外だったな」
バルには戦闘狂の自分を見られたくなかったと、トネリコははにかんだ。
「勝手に花を全部摘んで、上に目を付けられるのは分かってた。それでもきみを召喚したのは、もう一人の自分を知らんぷりしたくなかったから」
かっこつけるな。
俺はトネリコの小指を甘噛みした。
「きみの名前はね、クリストバルから取ったんだよ」
トネリコは棚を指差した。方珪石と記された瓶には、黒と白の斑点模様の石があった。
「クリストバル石とも呼ばれているの。意外かもしれないけど、この白い石は黒曜石の中で生まれるんだよ」
「こんなに白いのに?」
「誤解される石ときみを重ねたの。黒色が好きになってほしいって願いを込めて」
黒猫に生まれたことを、初めて嬉しく思った。トネリコは満面の笑みを浮かべ、両手を大きく広げた。
「ぎゅっとさせて。バルったら、いつも素直に触らせてくれないんだもの」
執拗に頬擦りされる未来が見えたが、記念日の今日だけは身を委ねた。
「わああああっ! 珍しく甘えてくれるじゃない! 今日はどうしたの? 明日は槍でも降るんじゃない? 今からでも降ってくるんじゃ……」
「耳元で叫ぶな」
「ごめんごめん。お願いだから、もう少しぎゅっとさせて」
注文の多い主だ。俺を選んでくれてありがとうと、口にはしないまま喉を鳴らす。
「見て、流れ星。願い事を唱えなきゃ」
目を閉じるトネリコは、死人のように青白い。ぽっかり空いた天井から、無数の流れ星が見えた。先に薬を作らなきゃ死ぬぞ。馬鹿主。
「バルはどんな願い事をしたの?」
「主の脳天気が治りませんように、だな」
「何それ。単なる悪口じゃない」
トネリコは笑っていた。俺は心の中で息をつく。
柄にない願いをしたことを、知られてなるものか。
俺は見ていなかった。トネリコの唇もまた、同じ願いを紡いでいたことを。
へっぽこ主の使い魔 羽間慧 @hazamakei
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