21.

「あれは夢じゃなかったって、ことか?」

 掠れた声で澪は呟く。

 目を覚ましたとき、澪は津下戸高校の校庭の中心で倒れていた。脳が揺れて、うっすらとした身体の拒否反応に朦朧としたままふらふらと歩き回って、穴に落ちた。

「……デジャヴ」

 手を伸ばせば穴の縁に指が掛かる。前はここで意識が途切れた。

「よっ……と」

 今度は上がることができた。

 穴から這いずり出して周囲を見渡すと、視界は幾分か鮮明になっていた。落下した衝撃で、頭の中が片付いたみたいだった。

「…………。やっぱり、そういうこと?」

 自分が落っこちた穴は、ナイター照明が並ぶその列上にあった。全部で四本あるナイター照明。澪の片側に一本、もう片側に三本あって、その間の不自然な空間に澪が落ちた穴がある。

 〈灯の満月〉を始めて見た夜を思い出す。四人で並んでその威容に圧倒されて、ナイター照明に押し潰されそうになったあの日のことを。

「あれ、ここから抜けたやつか……」

 確信はできないが、その可能性がだいぶ濃厚。

「――あ」

 気付いて、一瞬で血の気が引いて、澪は部室棟右から四番部室の前に走った。

 〈完全なアンドロイド〉の身体は、この程度で息は上がらない。それなのに、心音が厭に大きく耳に鳴る。

 ドアノブに手を掛けて、一思いに捻って。

「……開かない」

 確信した。ここは、異環だ。

 同じようで、少しずつ、何もかも違う。

 力なく後ろに倒れて、視界に入り込んだ空に奇月は一つとしてなかった。

 よく見慣れていたはずの、清々しいまでの蒼穹が広がっているだけだった。



 それから澪は一か月、何もできずに柏の街を徘徊した。

 何をするにも気力が起きず、それでも自動的に動く足と自動的に目に入る情報で、澪はここが西暦の続く環だと知った。

 澪がいた環における旧人類と呼ばれる人々が、あの感染症を四年余りで克服した人類史。

 街の様子はほとんど一緒で、けれど街行く人々に誰一人として顔見知りはいない。科学技術も相当に進化していて高度であったが、あの環とは発展のベクトルが少々異なるようで、〈完全なアンドロイド〉やそれに準ずるような生命体は誕生していなかった。

 でも、そんなことどうだってよかった。

 澪にとっては何よりも。

 創世と、シュノと、桜が。

彼らがいないことが、彼らに会えないことが、心を蝕み続けていた。

「……でももう一か月」

 それだけの時間があれば、澪もだんだんわかってしまう。

 もう彼らに会う手段などないんだってことを。

「……、よし」

 意に反して震える声で、今日も今日とて嫌がらせのように澄み渡った青空に心を決めた。

「この世界で、――すぅー、……この、世界で、生きて、いこう」

 環間を移動することはもうできない。奇月はもう一つだって残っていない。

 諦めるのに、心折られるのに、条件は余りにも揃っていた。


 一先ず家に帰ってみようかと、澪は思う。

 ここ一か月は適当な公園やら駐車場やらで夜を越してきた。〈完全なアンドロイド〉の身体はそんな生活でも何の支障も来たさなかったが、学生として生活するならば必要なものを取りに行かなければならない。

 二週間ほど前に一度だけ実家の前を通りかかったとき、玄関先で花に水をやっている主婦の姿が見えた。彼女は澪の知っている母ではなかった。それでも、家に帰れば受け入れてもらえるのだろうという気が、不思議としていた。

 家に帰って、教科書をリュックに詰めて、それでまた柏に戻って。

「…………」

 澪は学校に向けて歩き出した。

「その前に、けじめを付けさせてくれ」


 澪はいつもの部室の前に立つ。

 右手に握られた金属塊は鍵。冷静に考えたら、こういう部室の鍵は事務室に行けば借りられるものだった。何の躊躇いもなく貸してくれたことを鑑みるに、澪はこの異環の津下戸高校でも正式な生徒なのだろう。

「せめて最後に、ここでみんなとお別れを」

 ゆっくりと、小刻みに震える手で、鍵穴に鍵を差し込んだ。

 回すと錆び付いているのか少し引っかかる。ガチャリ、と重い音が響く。

 ドアノブに手を掛けて、震えながら捻って引いた。

「……開いた」

 一歩、その四畳半の空間に足を踏み入れた。


 瞬間、脳内で全てが蘇る。それはまるで今その場で起こったかのような鮮明さで。

「……――っ」

 勝手に閉まった扉の音にも意識は行かず、澪は壁に両手を突いた。

「……もう、覚悟は決めたんだ。今日はお別れをしに来たんだ」

 言い聞かせるように言って、それなのに視界がぼうっと滲んだ。

 嫌と言うほど現実は理解して、変えられないと受け入れて、心の整理は付け終わったはずなのに。

「……なんで」

 不思議と、涙が止まらなかった。

「……なんで」

 知っている。

「なんで」

 わかっている。

「なんで」

 その涙の源を、澪は自覚している。

 この部室。四畳半しかなくて、何にもなくて、こんなにも暗くて、窓には謎の鉄格子が嵌められていて、まるで独房のようなほんっとにお粗末なこの部室。

 でも、ここには思い出があった。

 生まれたところも、住む家も、生き方も、種までばらばらで、それぞれ四者四様の日々を過ごす四人。

 その四人が、ここにいるときは、ここに集まって始まる時間だけは、お揃いの記憶を紡ぐ場所だった。

 澪は気付いてしまう。

 この記憶だけは、ずっと傍にいるのだということを。

 決して独りにはさせてくれないのだということを。

 四人しか知らない、儚い一瞬を積み重ねた、光芒のような記憶。

 それは何があっても消えない、四人で過ごした証なのだということを。



           *



 創世は懸命に走る。雪乃の臨終に立ち会い、けれども立ち止まってばかりはいられない世界だから。一人、終末の世界で、津下戸高校への道を走り続ける。


「谷岡さん‼」

 澪が過去へと踏み出したその瞬間と時を同じくして、雪乃の身体から力が抜ける。

 無抵抗に、背中から地に打ち付けられた体躯から、少し鈍い音がした。

「谷岡さん! しっかりしてください‼」

 創世の必死な呼びかけに薄く目を開けた雪乃は、息の音の残響であった。

「……もう、西暦の身体わたしは時淳に、殺されました。わたしがこの世に在れるのも、残った体温が、世界に放熱し終わるまでです」

 少し心をざわつかせるリズムで、雪乃は呼吸を続ける。言葉を綴る。

「わたしは生き残れと、そう家族に、旧人類なかまに生かされた。だからわたしは今日まで生き延びて、いろいろな世界の景色を……見た。この目で、肌で、……空気に、触れた」

 その双眼が僅かに潤む。

「ほんとに、酷い世界でした。結局、人類という種はどうしようもない。自分たちで生み出した境目で、相容れないと定めた仲間を殺す。やっぱりわたしは最期まで許せないです。……でもね、続いていくんですよ。ずっとずっと先まで、……わたしは見てきました」

 最低限の出力であるのに、その一音一音は粒のように際立つ声。

「終わらないことには意味がある。わたしたちは遺伝子の運び屋ですけれど、同時に、記憶の運び屋でもあります。積み重なった死の上に立つわたしたちが、絶滅していないのは生き延びた人がいたから。その人が在り方を心に受け継いで、伝えていくのです。ずっとずっと、そうやって人と人は繋がっていくのです。続いていくのです。……超えるのは時空ではありません。わたしとあなたの境目です」

 力なく開かれた瞼の下から、その刹那、力を帯びた光が創世を見た。

「わたしはここで最期を迎えますが、あなたはここに居てはいけません。一緒に居てくれる人がいます。きっと、尊い境目がそこにはあります。記憶を紡いだ、その場所に」


 〈灯の満月〉はだいぶ数を減らして、それと反比例して地上の超現象は激しくなっていく。直ぐ目の前の自動販売機が空を昇り出したり、地面が割れたり。

「――頼む」

 もう祈って、あとは脚を動かし続けるしかなかった。

 津下戸高校へと伸びる国道の脇へと出る。四車線の大きな道路もひび割れてていて、自動車が頻りに宙へ舞う。

 まだ、脚は動く。体力があって心からよかったと思う。向かわなければならない、その場所に。

「――あ」

 が、創世の運も此処までか。

 一度無重力帯に乗り上げ上昇した自動車が、やや横に逸れて再び重力に捕捉され創世の頭上に降って来た。

「――」

 身体が硬直してしまって動かない。

 嫌だ……――。

「危ない!」

 後ろから突き飛ばされた。

「ぐッ」

 追突してきた人物と一緒になって、創世は車道に転がり出る。

「痛ってぇ、助か――……サク⁉」

 身体を起こした彼の前には、見慣れた白銀の柳髪の少女の姿があった。

「行くよ!」


 二人は津下戸高校部室棟、右から四番目の部室の前に立つ。

「辿り着いた、……取り敢えず」

 創世はさっきまで膝に手を突いていたが、身体を起こした。

「でもこれからどうすればいいのかはさっぱりわからん!」

 隣で微笑む桜。

「わたしはわかっているよ」

「この状況から助かる手が?」

「わたしたちの運次第」

 いつもの調子で桜は言って、

「この部室で、わたしたちが奇跡を紡いでいたのなら」

「……?」

「ここが、待ち合わせ場所だから!」

 桜が錆び付いた重い扉を、ゆっくりと開ける。



          *



 シュノは懸命に走る。桜と別れて、時間の道を懸命に走る。

「頼む、間に合って……!」


 澪の姿が消滅して、魚眼レンズを通したみたいに歪んだ世界の中でシュノと桜は辛うじて実在していた。

 いつ来るかわからない別離の瞬間に、心臓がさっきからうるさ過ぎる。

「……奇跡みたいな関係で、ほんと、わたしは楽しかったよ」

 不意に、抱えていたカプセルの中で桜が掠れた声を出した。マスクと硬質ガラス越しの微かな声がシュノの耳に届く。

「……わたしも、そうだよ。本当に奇跡みたいな…………奇跡。……――奇跡なんじゃない⁉」

 もしかしたらまだ可能性はあるかもしれない。ここからでも成せる、逆転の一手が!

「わたしたちが奇跡だったら、種がばらばらの四人組が友達でいる空間が奇跡だったなら、わたしたちが〈世界のイレギュラー〉に認められていることもなくはないんじゃない⁉」


 最後の望みだ。もの凄く利己的な推測だ。でも、全く可能性がないわけだってないじゃないか。

 この環が崩壊する前に、シュノは時間の移動を始めることだってできた。

 まだ運は味方している。

「待ち合わせは、津下戸高校四番部室! ――到着!」

 シュノは西暦四〇二〇年から最短で辿り着ける、部室棟が建設された直後の時代に駆け込んだ。

 開かずの四番部室は、桜が辿り着いたときから開いていた。にも関わらずあんなにも濃厚な噂が残っているということは、〈完全なアンドロイド〉に関する〈環の成長〉が起こる前の人類史では、あの部室は施錠されっぱなしだった可能性が高い。

 それが、成長した環では開錠していた。つまりは、〈完全なアンドロイド〉の誰かが鍵を開けたということだ。

「これがきっと最後のピース、わたしが開けたら奇跡の完成でしょ‼」

 シュノはパンツのベルトループからキーチャームを取り外す。

 それがものの見事に部室の鍵穴に嵌った。

 回すと、重みがあるけれどちょっと愉快な音が鳴る。

 ドアノブを捻って、重い扉をゆっくりと開ける。



 〈環の成長〉。

 本来ならば決して交わり合うことはない、三種の人類が仲を深め合った場所。

 その空間が成立した事実の確定。


 故に、その空間が人類史の中で生じることは不動となった。



           *



 澪は閉じていたはずの入口から、細い光が差し込んでいるのに気付く。

 壁から手を離して、涙の跡を拭った。

「――え」

 更に扉が開かれていく。

 部室の中を照らす光が増していく。

「――あ」

 逆光を背負って、三人の影があった。

 光の始まりには、彼らの姿があった。



 その日、四人は出会った。

 閉じられた四番部室の、開かれた扉を挟んで。

 愛読書が、別たれた鼓動を繋いだ生徒。

 大切な思い出で、奇跡を完成した生徒。

 言葉が生きる、居場所を見つけた生徒。

 余生を共に生き抜く、仲間がいる生徒。

 これは、彼らが紡ぐ物語。或いは、紡いでいく物語。

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記憶の光芒 色澄そに @sonidori58

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