20.
「もう、これはどうしょもないってこと……?」
時淳との決着を果たした場所から少し先、澪は倒れているシュノと桜を見つけて合流し、それから幾何か経過した。
応急的に桜には、桜の家から持ち出したマスクを重ねて着けて割れた抗菌カプセルの中に寝てもらっている。この抗菌カプセルは、親族が決死で作った隙に全てを託して逃がされた桜が、家を出た直後に時淳と遭遇し、未来で誰にも実情を漏らさずに生活することを条件に、本当の身体が感染しないよう渡されたものだった。時淳が再来して最初に触れたその時までは、光学迷彩によって隠されていた。
そして、シュノから〈灯の満月〉の全てを聞かされた。話すシュノも満身創痍で、それでも自力で活動できる範囲ではあるが予断は許さない状態だった。つまりは、シュノにはバックアップなど取られていないから、身体が機能を停止したときがシュノの〈個人の世界〉の最期だと、そういうことだった。今は脚を伸ばして座って、桜宅の壁に寄り掛かっている。自らが空けた大穴の丁度下で。
「うん。瀬尾……先生がこの期に及んで嘘を付くとも思えないし」
依然、空からは数を減らした〈灯の満月〉が睥睨している。それは文字通り、全てを照らす明かりだった。
「異環に行くっていうのは、実際どういうことなんだ?」
澪の身体もそれを知る能力はあるのだろうが、まだ使いこなせているわけではないから口に出した。
「それは、わたしにもわからない。前例がまるでないし」
「そうか……」
使いこなせていてもわからないことのようだった。
澪は一つ深呼吸する。内圧を下げるように、ゆっくりと息を吐きだす。
たぶん今、自分は少し冷静ではない。
いろいろなことが起こり過ぎて、何とかそれに食らい付いてここまで走って来たけれど、幸か不幸か一段落つける状態になってしまったことで反動がどっと押し寄せてきた。
澪もふらつきながら壁に背を預けた。
隣にはカプセルの中の桜。
そのまた隣には座り込んだシュノ。
灰が降り積もった街は、重力の低下によるプレートの変質で時折でこぼこと隆起する地面と、局地的な無重力状態になることで地上のものが上空へ吹き飛んでいく超現象によって相変わらず穏やかではない。尤も、少し前まで人間が命を落とし合っていた場が穏やかであるはずがないのだが。
視線を落とした先、桜は少し落ち着きを取り戻していた。キセカン組全般に言えることだが、四人は感情の起伏はそれなりにあるにしろ凡そ楽観的な性格である。起きてしまったことや、どうにも変えられない事態は笑って乗り越えてやるぐらいの気概はあった。そうでもしなければ、心が圧し潰されてしまうような経験をしてきたというのも事実であるが。
桜が見返してくる。
その顔を見て、澪は言いたかったことを思い出した。
「サクさっきさ、人がわかり合えないことに絶望したって言ってたじゃん。こんな状況で言うことじゃないかもしれないし、やっぱりおれもその絶望に加担していたと思うから偉そうなことは言えないんだけどさ。……伝えられるうちに、おれの価値観を伝えさせてよ」
ひびが入ったカプセルは、外の声も割かし浸透するようだ。声こそ返ってこないが、桜が頷くのを澪は見た。
「人っていろいろあってさ、能力が異なって種として別たれたおれたちの関係以外にも、同じ種の中にも当然いろいろな人が存在している。瀬尾先生みたいに到底おれらとはわかり合えない考え方を持っている人だっているし、同じだって思えてもよくよく聞いてみたらちょっと違ってたなんてこともざらにあるじゃない」
桜は真摯に耳を傾けてくれた。その向こうのシュノも、聞いてくれていた。
「生き方によって背負ってきたもの、歩いてきた道が違うから、価値観、大切にしているものも当然人によって違う。問題なのは、その違いに気付かないで、自分が知覚している世界が全てだと錯覚して、人にその世界での正義を押し付ける人間になってしまうことだと思うんだ。
一人の正義は、また別の人にとっての正義ではない。その違いを認めることが大切。そこに、どっちが正しいかなんて争いはもとより、歩み寄りも必要ない。それぞれの世界の根幹は大事に心の中に持っておいて、お互いにそこから触手を伸ばして絡ませるようにして、人と人との関係を作っていけばいい」
眼前に広がる景色の惨状は、人と人と人が争った、目を背けたくなるような無残。その光景をしかと見据えて、だからこそ澪は言い切った。具体的な誰かに向けてではない、強いて言うならば、全人類に訴えるように。
「まずは違いを受け入れること。一緒になろうなんて思わないこと。心と心には距離があるものなんだから。でもそれはお互いがそれぞれの環境で、用意された身体でここまで生き抜いてきた確かな旅路があるから生まれるもので、その距離はとても尊いものなんだと、おれは思うから」
澪はもう一度桜を見る。この場所で全てを奪われた、せめてもの救いになればと。
「だから、サク。サクがこれからも前を向くと言うんだったら、きっとわかり合えないことを、わかり合える日がくると思うよ」
「瀬尾先生の作戦、もしかして失敗した?」
正直なところ少し諦めて、それでも共に過ごすときが終わるその瞬間までは見苦しく足掻いてやろうと意気込んだりもして、しかし世界の状況はそれからしばらく変わらなかった。
「シュノ。そういうことは声に出しちゃいけないの」
「あ、そか」
なんだか笑ったり軽口を叩いたりする余裕まで出てきてしまった。
「そういや一個気になってたんだけど、〈世界のイレギュラー〉って、それを世界に認めさせたら〈環の成長〉を起こす権利を授けますよ、みたいなノリなの? サクと雪乃さんがあっちにいることと、〈灯の満月〉が〈環の成長〉になることって直接的な因果はないと思うんだけど」
「あ、それは。〈世界のイレギュラー〉が生じて環の収束力に負荷が掛かることで、そこに綻びができて環が成長するってことみたいよ。――あ、だから、サク」
その漠然とした問い掛けに、桜は首肯した。
「……だよね。ずっと、我慢していたんだね」
澪はしばし困惑したが、苦痛に歪んだ桜の表情を思い出して理解した。
環が本来の状態になるべく収束しようとする力によって、イレギュラーである桜は絶えず苦しんでいたということだ。
「――でも、今は」
今度は澪の問いに、無言で頷く桜。
「そっか、サク。……もういろいろ抱え込まないでくれよ!」
澪とシュノのちょっと湿っぽい破顔に、桜はもう一度大きく頷いた。
「うん、よし。……で、なんかこれ、これからどうするかちょっと真面目に考えた方がよくなってきてないか?」
「ん、そうね。まずはサクの感染対策を」
言いかけて、シュノは猛烈な勢いで澪を指差した。
「――て、待って。まずなんで厳くんがここにいるの⁉」
「え、いろいろ遅くない?」
「いやだって、――ねぇ。ほら、サクも今気付いたって顔してる!」
「まあ、全然いいけど。それどころじゃなかったし、……正直おれも忘れてたし」
それから澪は、二人と別れてからここに来るまでの経緯を語った。
話しながら、いつかの手賀沼公園でのシュノの吐露が頭を過って思うところがあったのだが、出来事をなぞり終わったとき彼女は愁眉を寄せた。
「本当に厳くんはそれでよかったの?」
改めて問われて少しどきっとする。
確かに、自分の身を乗り換えたことによる将来を見据えたちゃんとした覚悟を、澪はしなかった。
でも、だからって後悔はしていない。
「ああ。髪がいつも通りに戻ったし、みんなのことずっと覚えていられるし――な⁉」
そのときは、突然やってきた。
「あ――、」
シュノが立ち上がりざまに、わたしたちは繋がっているんだ、と証明するように桜の入ったカプセルに手を突いて、もう一方の手を澪に伸ばした。澪もその手を握ろうと必死に――。
「嫌だ」
触れることは叶わない。届くより先に、澪の周囲が歪んでいく。同時に視界も暗転していく。
「嫌だ」
暗闇に伸ばし続けた手で宙を藻掻く様に、掴むように。
しかし、その指先は終ぞ何にも触れず、澪の意識はぷつりと途絶えた。
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