19.

 なるほど、時間を移動するのも歩くこととそう変わらない。

 〈完全なアンドロイド〉になった澪は過去の在り処を具に認識して一歩踏み出した。左右の脚が交互に地を踏みしめる度に、澪を取り巻く情景が移ろっていく。

「しかし、遠い」

 初の時間散歩にして、二〇二四年間を遡る大旅行だ。見据えた目的地は目が眩むほど遠方にある。

 走らなきゃ、と思った。シュノと桜が待っている。

「谷岡さんは、救えなかったけれど……」

 あの場でただ一人しか成せなかった、人類を〈完全なアンドロイド〉へと変える業を、雪乃は文字通り決死の覚悟で行った。外傷は一切見当たらないのに時間が経つほどその動作は重くなり、表情は苦痛に歪んでいった。

 それでも完遂して、そうして彼女は。

 澪が過去に歩み出した数秒後、背後で創世の「谷岡さん‼」という叫び声が聞こえた。

「……でも、おれは、止まるわけにはいかない」

 たん、たん、と地を蹴って澪は今を遡る。足裏が接着するのが果たして地なのかどうかわからないが、踏みしめた反動で身体が前へ推進するのだから形のある何かなのだろう。


 身体は進み、時間は戻り。

 その感覚に、澪は小さな違和感こそ覚えど拒絶しない。

 そういうものだと、心が受け入れている。

 内心の常識というものは不変ではない。その当たり前が一つの判断基準になり自分の情動を正当化し得るから、常識は確固たるものだと人は錯覚する。いつだって心の中にある当たり前がその実変化していても常識であるのは、人は慣れる生き物だからだ。慣れた非常識は、いつからそうなったかなんて思考を忘れて、常に意識の中心にあったものだと信じて疑わない。

 だから、環を捉えてその身一つで移動する超人的なその所業も、澪にとっては常識なのである。

「まだ、おれだよな」

 その身を見下ろした厳原澪という人間は、〈完全なアンドロイド〉に適応した。

 それは彼の面倒くさい人間性が故に。

 中学時代、その環境で与えられた「自分」を守るために疑問を持ちながら仮初のメンツと自信を保った。

 そして津下戸生になって、心を削りながら「自分」を保つこととそれによって得られていた自信の牙城を崩されて、まっさらな自分というものを曝け出す生き方を知った。その環境で顕わになった自分というものは、何よりも己を大切にする態度だった。

 端的に言えば、澪は自分大好きなのだ。

 一貫して澪の思考は自分に向かっていて、例え他の人を気遣っているように見えても、本当のところはその人を気遣うことで自分がどう見られるかに思考が行く。

 その根底には漠然とした、自分が自分である意味はあるのか、という不安がある。

 中学時代は無理をしてでも自信を持つことでその不安感を表層に浮き上がらせないようにしていたが、高校生になって自分を曝け出す快感の代償として、自信という重しを何処かに置いてきてしまった。

 前提として大きな自己愛があって、でも、その自己が他者と関ることになったとき、その自己愛は酷く脆いものだと自覚する。社会という人間が犇めく環境においては、形のない自己愛だけではどうにも立ち行かないことを確信する。だから、自分を保ったままで、どう他人と関わっていけばよいのだろうかと。

 そんなことを、澪は日々考えていた。自分というものの在り方を。独立した存在としての自分と、他者の視線の中で生きる自分とを。

 まだ答えには至れていないにせよ、その思考するプロセスの中で澪はより深く自分を知っていく。より強く自分を形作っていく。その頑固で堅牢な人格があったから、澪は新たな身体にも適応することができた。

「……っ」

 けれど、それを乗り越えてようやくスタート地点に立ったようなもの。

 その先は〈完全なアンドロイド〉だからこそ体感する苦しみが待っている。

 時間を遡ることは、その時間に直に触れることと同義だ。

 人間は過ぎ去った時間を記憶として保持するが、そのとでは確かな距離がある。教科書に載っているような歴史はどう感情移入したって紙面上の情報に過ぎず、それは体験とは程遠い。

 その人間の果てしない営みに、澪は実感として絶えず曝される。

 どの時代にも人がいて、笑って泣いて、生きて。――死んで。

 人の営みを辿ることは、人の死に触れることとも同義だった。

 いつの時代も人が死ぬ。時代なんて次元じゃなく、どの瞬間にも終わる命がある。理由は様々にしろ、人の死は限りなく積み重なっている。

「谷岡さん、だけじゃない」

 おれは数多の死の上に立っている。

 そう、切に実感した。

「――ッ!」

 それを知る苦しみに悶えながら、脚だけは決して止めずに。



           *



 辿り着いたそこはこの世の終わりだった。

 全てが燃えている。街が、丸ごと燃えている。

 視界が赤い。揺らめく火と、こびりつく血で。

 地が揺れる。こちらでも無音無風の竜巻が乱立している。

 そして、上空にはまだらに灯った〈灯の満月〉。

 しかしその壮絶な景色とは裏腹に、聴覚が捉える音は地鳴りと火の粉の散るそれだけで、人から発せられる音は何もない。

「――争いはもう既に」

 或いは粛清は。

 けれど〈完全なアンドロイド〉になった澪は、更に過去まえに戻れたとしてここの人たち皆を救うことはできないと、第六感で確信してしまう。人類史はよっぽどのことがない限り収束する。〈環の成長〉という例外はあるのだが、それを起こすには途方もない尽力と運が必要だということを。例え罪深き罪人であったとしても、積み重なった人の歩みを否定することには万障が伴う。

 ならば、今できることを。

 罪悪は胸に刻んだまま一つ頭を振って、澪は再び地を蹴った。



 シュノは時淳と対峙する。

 背後にはマミー型シュラフのような形状の、硬質ガラスで形作られたケースが横たわっている。その中には桜の姿があり、その目は瞳を揺らして見開かれている。

「そこ、どいてくれませんかね」

 時淳の低音が周辺を鳴らす。

 既に灰となって頽れた住宅が立ち並ぶ一角、唯一辛うじて形を保っている家の前にて、その家と家だったものに挟まれた路上に殺気が満ちる。

「どいたら、どうするんですか?」

「そんなの決まってるじゃあありませんか。その抗菌カプセルを停止させるんですよ。密閉しつつ中の人間が生存できる容器なんて、維持するエネルギーが馬鹿になりませんから」

 聞いておいて何だが、言われなくても答えは予想できた。シュノがここに到着したのは、時淳が桜の眠るカプセルの前に物憂げにしゃがみ込むその瞬間だったのだから。

「だったら、嫌です」

 時淳が嗤う。その貌は一見すると教師としてのそれと変わりないのに、向き合うシュノには内側の狂気がはっきりと伝わる。

「生徒には手を出したくないのですが。……わたしにも譲れないものがありますので」

 波が引くように脱力して口角が下げられたとき、彼の目に禍々しい紫電が宿る。

 地を蹴った時淳の驚異的なスピードに一瞬遅れて、シュノも同様に跳躍する。

 両者の拳が始走点の中間よりややシュノ側で衝突。

 次の動作はシュノが早かった。頭を下げて懐に潜り込み、的確に鳩尾を抉る。

「……フ」

 ――が、一瞬だけ顔を顰め後退した時淳の、切り返した跳躍にシュノは反応できなかった。中空で捻った身体を解放するように、時淳の右足がシュノの腹を打擲する。

「――かハッ」

 浮いた身体は新たな空気を取り込むことを拒絶し、桜宅の表の壁を突き破った。

「……すみません、蒼さん。後で治療はして差し上げます」

 そのシュノが空けた大穴を哀憐の眼差しで見上げ、時淳は誰にも聞こえない小声で呟く。そこに他意はない。心からそう思っている。犠牲は必要最小限にしたいと考えており、一方で自身の目的の為には手段を選ばずハイエナのような執拗さで遂行に当たる。

「――」

 そして無言で、少し怠惰に抗菌カプセルの前に歩み寄った。

「――駄目!」

 シュノはまだ停止していなかった。自らが空けた穿孔を飛び出して、無我夢中で時淳に掴み掛かった。

 必死の形相。汚れ、諸方から鮮血の滴る小さな体躯で、自分ごと時淳をカプセルから遠ざけようとした。

 けれど、それも叶わない。

 時淳は大きな質量と生まれ持った力で、捨て身の激突をその場で往なしてしまう。

「なんで」

 押しても押しても動かない。

「なんで、なんで……!」

 立ちはだかるは絶壁で、どうしても動かない。

「なんで、どうして、こんなこと」

「……そうですね」

 その問いに、その姿に、時淳は少しだけ考えを変えた。

「その質問にだけは答えましょう。傾聴を要求します」

 虚を突かれたシュノが力を緩めても、時淳は一切の態勢を変えぬまま語り始めた。

「わたしの目的はこことは異なる環を知ることです。われわれが存在こそ認知せど実際には辿り着けていない異環いかんを、この目で見ることです」

 時淳は空を仰ぐ。周囲の全てを置いてけぼりにして、語りを続ける。

「考えてもみてください。あなた方の時代から二百年と時が経過して尚、わたしたち〈新人類〉が第一種になって尚、異環には至れていないのですよ? その現実が、先人たちの怠惰が、わたしにはどうにも許せないのです。だから、わたしは異環を目指したのです。この身の全てを捧げて、ね」

 ゆっくりと掴んでいた手を離し、悚然としながら後退するシュノに再び時淳の視線が戻る。

「時空をこの地球ほしに留保し、安定させているのは『重力』です。重力が環を保つ、環間を超える際の最大の障壁です。よって、この先はおわかりですね? ――この環の重力を低下させてしまえばいいのですよ。それを成しているのが」

 時淳は頭上を指差す。

「あの月たち、〈灯の満月〉です。〈灯の満月〉の機能は重力をエネルギー源として環を照らすこと。谷岡さんと秋実さんをあなたたちの時代に残存させることで、旧人類の実態を伴った時間の超越が〈世界のイレギュラー〉と認識され〈環の成長〉のトリガーとなります」

 「〈完全なアンドロイド〉の影響」に分類されないか少々不安だったのですが、旧人類という種として、そこに焦点が行き新たな〈世界のイレギュラー〉と認められたのでしょうね、なんて鷹揚に付け足した時淳に、シュノは最上級の嫌悪感を抱く。

 時淳の瞳はシュノを捉えてはいるが、最早見てはいない。

「そして、〈環の成長〉として全時空のヴァン・アレン帯に打ち上げた〈灯の満月〉の核は、ヴァン・アレン帯に無数に存在する荷電粒子を〈灯の満月〉として結合しそれを成す。ここまでやればわたしの仕事は終わりです。あとは〈灯の満月〉が重力を低下させ時空に歪みが生じ、はたまた暗い道を照らす外灯のように無明の異環を照らしていく。ここまで幾つかの個体が燃料を吸い切って爆散してしまったのは想定外でしたが、その分、幾つかは異環に到達した様なので及第点でしょう」

 目視できるが観測機のレーダーでは捉えられない〈灯の満月〉があったことを、シュノは思い出す。突然時淳が語り出した内容は聴覚では捉えられるけれど内容が入って来ず、聞き取った彼の声を脳内でリピートする内に辛うじて理解した。

「……じゃあ、ここ最近の変な現象は全部重力が低下していることで起こっていたってことですか」

「そうですね。今も無重力地帯が至る所に乱立していますし、だいぶ時空も歪んできたことでしょう」

 また、時淳は嗤う。

「もう時期ですよ。間もなくわたしたちは異環に触れることができるのです。……代償として、この環は捨てることになりそうですがね」

「――は?」

 シュノは戦慄する。

「だってそうじゃあありませんか。こんなに歪んだ地球ほし、もうどうしようもありませんよ。この環の地球の重力を燃料として、この環の外を照らし、同時にこの環の枷を解いてそちらに赴く。それがわたしの計画ですから」

 更に時淳は笑みを深くする。

「大丈夫、あなたも〈新人類〉なんですから。わたしと共に異環に行けますよ。あなただって、心の何処かで」

「――‼」

 シュノは瞬間的に沸騰した。にじり寄って再び時淳に掴み掛かる。

「そんなもの誰が望んで‼ それに、サクやソウちゃんや厳くんはどうなる‼」

 絶叫だった。これ以上ない程の悲壮な大音声だった。

 それを、時淳は小うるさい虫を払うみたいに鼻であしらう。

「あなた以外は、知りません。余程運がよろしければ、偶発的に移動できることもあるのではないですか?」

「――ッ。……そんな。あなたの生徒だってほとんどが人間でしょうに……」

「それはそうですが。教職はわたしがあの時代に居残るためのカモフラージュと暇潰しですから。谷岡さんと秋実さんを監視できればそれでよかったので、正直なところ思い入れはありません」

 それを聞いて、完全にシュノは我を忘れた。


「――ぐッ」

 気付いたとき、シュノの身体は抗菌カプセルに叩き付けられていた。

「もういい加減にしてください」

 吐き捨てるように言って、時淳が見下ろしてくる。

「そのひび、あなたが付けたんですからね?」

 何を言われたか一瞬わからなくて、それに思い至った瞬間の動揺は脳内を漂白した。

「サク……!」

 振り返った先桜の入っている抗菌カプセルのほぼ中心に、毒蜘蛛の巣が大きく刻まれていた。

「そんなひびが入ってしまったら、抗菌なんて機能はなくなります。わたしたちには無害ですが、まだ病原菌はたくさん浮遊しているでしょうから、このままでは秋実さんが感染するのも時間の問題かと」

「……そんな、そんな。――サク……」

 瞳孔が開ききった桜がシュノを見上げてくる。

 それを見た途端、全身の力が抜けてしまった。時淳に言い返す気力も、戦う理由も、桜のためにできることを考える本分も、何もかもなくしてしまう。

 その様子を見取って、時淳は踵を返した。

「もう目的は果たしました。あなたと戦う理由はありません」

 そして、灰と陽炎の中に消えていく。

 ああ、行ってしまう。もう、何も。何も。何も。

 結局、止められなかった。わたしは何もできなかった。

「それでは、また。異環で会いましょ――!」

 揺らめきぼやける視界の先で、誰かが時淳に飛び掛かった。

 その人はシュノと同じように受け止められて、ゴミのように投げ捨てられる。


 時淳を見つけるなり飛び付いた澪は、いとも簡単に勢いを殺される。

 ここまで走って、走って。〈完全なアンドロイド〉の身体とはいえ息が切れるような距離を探し回って、ようやくそいつを見つけ出した。

 こんな身体でできることは少ない。

 けれど、ゼロではないし、それが必殺でもある。

 掴まれた腕が強く引かれ出し、手を離された身体が慣性で宙を舞うその寸前、時淳の右手の甲に持っていた針を強く突き刺した。


「――⁉ なんだ、これは」

 瓦礫に打ち付けられた澪が辛うじて身体を起こすと、時淳が片膝を付いていた。

 その目が、瞬時に充血した底光る視線がこちらに向く。

「厳原澪、何故ここにいる! わたしに一体何をした‼」

 答えてやる義理なんかない。

 けれど、冥土の土産に己が敗因を持たせてやろうと口を開きかけて、

「――が‼ ――――……」

 その答えを待たず、瀬尾時淳は沈黙した。

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