変後
* * *
四月ほどの日が流れた。
自訴先である脇坂中務大輔が龍野藩邸より、弟達が自訴した熊本藩邸へ。そして富山藩邸へとめまぐるしく預け替えされた忠三郎は、いまは九鬼長門守が三田藩邸へその身柄を移されていた。御調べは変の二日後にはもう始められていたらしいが、四月経った今も下手人達が牢へ移される気配すらなく、吟味は長期に渡るものと思われた。同志らも預け先を別にされ、消息ひとつ聞こえてはこない。
日の差さぬ奥座敷への幽閉はいつ終わるとも知れず、忠三郎はもう長く病床にあった。骨と筋の浮き上がった腕はすっかり細くなり、陽を浴びぬ膚は不健康な青みを帯びている。そもそも、己が二本の足で立ち踏みとどまる理由は大事を成したが故にもはや消えていた。どうやら死病か、と察し得るほどには、深まる夏を前にして著しく体も心も萎えていた。
忠三郎がそれでも命を手放さなかったのは、ときおり屋敷の外より聞こえてくる鉦の音が気になっていたせいである。その音は別の屋敷へ預けられていた折にも聞こえていた。朝と夕、二度かならず聞こえるその音は、きっと江戸廻りの托鉢行脚が鳴らす鉦のはずなのに、ふしぎと故郷の記憶を呼び覚ますのだった。
幼き日。夏が近づくと、夏が大好きな忠三郎は母へはやく風鈴を吊るしてくれと乞うのが常であった。夏という賑やかな珍客が城下を訪れるわずかな期間、決まりごとで雁字搦めの屋敷も武家町も少しだけ華やぎ、まるで楽しい客を泊める日のようで嬉しかったのだ。それに、そんな時だけはゆきも何かから解き放たれたような顔をしているのが嬉しかった。
けれど風鈴を出す日は節季で定められていて、屋敷の掟のひとつだった。道場や学問所から帰るたび、耳を澄ましてはがっかりする義兄の不審にいつ気づいたものか。あるときからゆきはこっそり、屋敷のものに黙ってあちこちへ風鈴を吊るすようになった。節季よりも早く吊るされた風鈴に、近所を憚る母や姉は犯人を捜そうとしたが、忠三郎は強引にそれをやめさせた。そもそも近所で風鈴を出す日まで定めている家などないのは、武家小路を歩くだけでわかることだった。錆びた鉄製の無骨な風鈴が、例年より早く吊るされているのを見て、そして仕舞われては堪らぬとそばから離れぬ忠三郎を見て、母も父すらも呆れた顔をしたが、結局は些細なことと見逃してくれたのだった。
托鉢の鉦の音は、その生家の風鈴によく似ていた。遠くかすかに、足音と念仏らしき唱え言が混ざる事もあった。音は朝方に南より近づいてきては北へ去り、そして夕刻になると北から南へ帰ってゆく。どこの屋敷へ預けられているときも大体同じだった。
病床に伏したまま朝夕の音だけを楽しみにしていると、ある日、忠三郎は藩邸の者より呼び出された。
厠と奥座敷しか立ち入りできぬ定めだが、小者に案内され別の一間へ連れていかれる。案内された先で待っていたのは、この上屋敷の目付をつとめるという若い士分であった。なぜか厳しい顔つきの侍が挨拶もなしに切り出す話は、とても興味深いものであった。
いわく。数月前より一人の僧が、両国にある回向院という寺へ身を寄せているらしい。
回向院、という名を聞いた辺りで忠三郎は軽く吹き出した。目付は訝しげに眉を上げる。
いわく。毎日その僧は屋敷町へ托鉢に出るが、不審なことにどの門前へも立たぬらしい。
忠三郎が面を伏せ笑いを押し殺しているらしい様に、目付は不快そうな表情を浮かべた。
いわく。僧は鉄鉢も鉦も持たず、ただ編笠のふちへ風鈴ひとつ提げるのみの奇態らしい。
こらえきれずに忠三郎が笑い声を低く漏らすと、目付の顔が怒りに赤く染まってゆく。
いわく。僧は連絡役で、各所に御預けの者達と繋ぎをつけようとしている疑いがある。
とうとう忠三郎が腹を抱え派手に笑い始めると、目付は大声で怒鳴りつけ席を立った。荒々しく襖を開け退出してゆく目付に、ここまで案内してきた小者があたふたと後を追う。廊下を遠ざかる足音に混ざって聞こえてきたのは、乱心者相手に馬鹿馬鹿しい、もう病が頭にまで廻っておるわ、警衛を厚くしあとは捨て置け、などという叫びであった。
忠三郎はどうにか笑いを納めると、ひとりで奥座敷まで帰ることにした。無人の廊下を歩きながら、それでも口端へ笑みが浮かぶ。あの若い目付の懸念はもっともだった。
両国の回向院は刑場の近くにあり、死んだ佐野や監物が運ばれ弔われた寺でもあった。
わずかな間に預け先は二転三転したが、いずれも城の至近だった。両国は城の南にある。
同志を弔った寺へ投宿し、そして残る同志らが預けられているであろう屋敷町のそばを、毎日朝夕なにかの合図らしき音を鳴らし通る僧の存在は、まあ疑われても仕方がなかった。
(――回向院にて。待っておればよいものを)
やがて己もそこへ運ばれる。その僧がゆきなら、寺で待っていればいいはずだった。
いや、と忠三郎は頭を振り、義兄が愛するものを日々供し続ける妹の真意を理解する。
その謎めいた僧と意を通ずるのには、密書も暗号も何もいらなかった。
ただ。長押の裏へ忘れ去られた古脇差ひとつ、拝借できればそれで良かった。
(――ゆきは。絶望し、得度したのではなかったのだな)
晴れ晴れとした顔で、忠三郎は無人の奥座敷の襖を閉じた。畳の中央へ胡坐をかく。
義兄に似て強情張りのゆきが、二人に置いていかれて何も行動しない筈はなかったのだ。
僧となったは世を儚んだ故でなく、止められぬ二人をせめて己で弔う為だったのだろう。
監物は一足先にゆきの許へ行き、そして己は毎日、義妹の届ける音に慰められていた。
両国も近くはない。女の足で日々欠かさず屋敷町を廻り歩くなど、一体誰に出来ようか。
(――強いものだ。妹とてけっきょくは手弱な女子と。おれは、侮っていたのだな)
こんなにも供養されておきながら。もうこれ以上、妹を待たせるわけにはいかなかった。忠三郎は脇差の鞘を払う。
ふと思い返して、忠三郎は卓上の煙草入れを取り上げた。取り上げられなかった私物のひとつだ。昔から愛用しているその品の二重底の仕掛けを外すと、中からは一発の弾丸が出てきた。あの夜に監物が連れて行かせた、結局未使用の弾丸である。
(――弾丸と刃がかち合うなどあり得ぬ。監物、確かお前はそう言ったのだったな)
弾丸へ話しかけながら、忠三郎はぱくりとそれを飲み込んだ。目を瞑り胃の腑へ落とす。
(どのくらいあり得ぬこと、とお前は言ったか。――さて。男に、二言はあるまいな?)
胃の腑を慎重に探り、弾丸の落ち着いたあたりを狙い定めて、忠三郎は脇差を握った。
蝉の声が耳に痛い。どこか遠くからなつかしい風鈴の音が響いた気がした。
脳裏には、まるで夏の野のような涅槃を、談笑し歩いてゆく三人の姿が映っていた。
大老狙撃弾 修羅院平太 @shrinehater
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