変当日
* * *
翌弥生三日。払暁、品川宿を発ち海沿いを一里もゆけば、紫紺の城影は天蓋の如く迫る。上巳の節句のこの日、何処の藩屋敷の大樹か、降る雪の内にもつよく桃の花が香っていた。
毎年、祝賀言上のため間詰めや格に関わらず、あらゆる大名が総登城となる日でもある。江戸城の濠を左右より受け止める桜田門の威容の前には、総登城見物を目当てに、太皷のひびく卯刻よりすでに見物人が群れなしていた。めいめい手に持つ和綴じは武鑑である。
屋敷端へたたずむ見物客の一群れ。大ぶりな蓑笠の下に身を縮め、忠三郎は開いた武鑑に目を落とした。視線は他の群衆と同様、目の前を横切ってゆく行列と、武鑑に記された大名紋とをせわしなく行き来する。夜半からの雪は雨混じりとなり、傘をさす着流しの近在者も多い中、遠方からの旅客らしき一団へうまく紛れ込めたのは幸いであった。
居並ぶ蓑笠の波に、屋敷端へ配置を命ぜられた同志らの横顔が混ざる。しかしよく観察すれば、その手足に手甲脚絆がない事がわかる筈だった。振分け荷ひとつ肩に掛けていない。みな傘を深く被り、手にした武鑑に面を伏せ、そして指は同じ頁を押さえている。
頭をあげれば、反対側の濠端へ配置を命ぜられた同志らが目に入る。とりわけ長身の一人が目につくが、これは見届役・斬奸趣意書届役に命ぜられた監物ではなかった。ただひとり薩摩より参加している同志、有村治左衛門である。かなり自顕流を遣うらしい。
いま目の前を通過してゆく紋は尾州葵、尾張藩の行列であった。めざす彦根橘は未だに見えぬ。忠三郎は行列が通過してきたばかりの、濠沿いの三叉路へと目をやった。四町ほど先、一区画を丸々使い広大な白塗塀を伸ばす藩邸の大手門は閉じるまま、奥に槍鞘の頭だけが顔を出し揺れている。その門にも槍鞘にも刻まれているのが他ならぬ丸に彦根橘、井伊家紋であった。標的の所在は常に視認しうる状態にあるが、大勢がそこだけ見張っているとなれば誰を目がけているか露見してしまう。忠三郎は読みもせぬ武鑑へ目を戻した。
桃の香に包まれた悪天は甘い霞を催し、行列の士々にも気だるげな雰囲気が漂っている。道具を納めた塗箱に雨が跳ねるを見ていると、同郷者か政情通でも混ざっていたか、居並ぶ見物客らの囁きより「たかすの」という言葉が漏れた。忠三郎はつい同志らの顔を窺うが、眉をしぼる程度の反応を認めたのみで、大事の前の暴発には至らなかった。
水戸と並ぶ御三家尾張もまた、安政の大獄という軛からは逃れ得なかった。水戸と同じく、幕閣の一方的な対外条約締結へ抗議した結果、御三家六十万石尾張藩主もまた隠居に追い込まれ、そして今あの駕籠の中にいるのは三万石高須藩主を務めていたその弟である。
あべこべだ、と忠三郎は思った。将軍をも輩出する御連枝の頂点御三家が、幕閣を務めるたかが譜代臣下に、都合が悪くなれば簡単に首を挿げ替えられる。それも、朝廷の意向に反してでもだ。つねづね監物も訴えていた通り、順逆善悪すら狂う末世と成り果てた。
いったいどうしてこうなったのか。憤りより哀しみを覚えながら、原因をたどる思考は、濠より昇る白い霧に包まれ、やがて忠三郎自身の成り立ちへと逸れていく。
忠三郎は、物心つく頃にはすでに頑固者の評をおされていた。一度こうと決めたら絶対に覆さない片意地は、年少の子供らの集う郷校においてさえ持て余されていたように思う。道場だろうが学問所だろうが藩校だろうが、親がどこへ通わせても治る事などなかった。しかし水戸家中にはそんな暴れ駒の扱いにすら一家言あるもので、いわく『正しき事を言わずにおられぬ口達者なら目付に遣れ』とされていた。家中の年少の子らの振る舞いを見張り取り締まる「郷校目付」という内役へ任じられた幼い忠三郎は、胸を張ってその職務に精励したが、ただ煙たがられ他の子らとの距離を広げるばかりで、大人たちの目論見通りに片意地の無益さを知ることもあるいは集団にとってのよい監督役へ育つこともなく、匙を投げられたまま郷校目付の任期を終えた。
周りの言う事を聞かぬからこうなった、と今ならば理解できるが、しかし後悔はない。
なぜなら。その結果が、こうして懐に銃を呑み濠端に幕閣を待ち受ける身なのか。
あるいは。その結果が、帝も御連枝も無視し、独走したが故に濠端に襲われる身なのか。
襲う側と襲われる側の行いには違いが見出せぬ。同類に、善悪正否はつけられなかった。
矯正を拒むは即ち悪である。矯正成らず放置された悪に、まだ使い道があるとするなら。
かつて大人達が忠三郎へ集団のよき監督役に育つことを期待したように。己の同類をよく把握し、そして小悪が大悪を克すことこそ、己に唯一望まれる役割というものであろう。
となれば。あとは忠三郎おとくいの、意地の張り合いだけが残るのみである。そこにはもう考慮せねばならぬ御家も義妹も介在しない。ただただ純粋な、命と命のぶつかり合い、理非もなにもない生存闘争だけが、誰にも訪れる死という公平な規則のもと、居合わせた全員を量りその命運を定めるのみだった。
そのとき、居並ぶ蓑笠が不自然に波打って、忠三郎はようやく時節の到来に気付いた。見れば、長く尾を引いていた尾張の行列はとうに桜田の御門を潜り終え、視界より消えようとしている。代わりに、老木のきしむような音をふたつ並べて開かれんとしているのは、めざす井伊掃部守が彦根藩邸大手門であった。
蓑の下、袂の膨らみを押さえる指がこわばった。音を殺して油紙をさぐり、銃把を握る。
濠に面する大手門より吐き出されたのは、総勢六十名ほどの行列であった。先導役の徒士が道の正中を進み、槍持ち、道具持ち、そして直衛に取り巻かれた豪奢な駕籠と続く。羅紗の合羽で雨を凌ぐ行列の士分らはみな、腰の差料までもが刀袋へ厳重に包まれていた。見たところ相当数の中間小者も混ざっている様子ではあったが、駕籠脇を固める二士の眼光はとりわけ鋭く、油断なく手練れを配していると知れた。
面を伏せ時を待つ一同の眼前。不意に、桜田門と行列先頭のちょうど狭間、松平河内守邸の門前あたりへ躊躇なく進み出る、小柄な人影があった。
蓑笠に深く身を包むその二本差しは、竹竿のようなものを携えている。竿の先に挟まれているのが「上」の字が記された書面であるのを認め、近くの誰かが呟いた。
「――駕籠訴えだ」
重職の道行きにあわせ直訴を行う駕籠訴えは、これまでにも幾度となく行われてきた。掟破りの越度を伴う意見具申であり、己が訴えを駕籠の中まで差し渡さんとする強引な手法は、当然ながら行列を構成する供侍の露払いに遭い阻まれるのが常であった。
まして、幕閣の大老ともなればこれまでに駕籠訴えも多数経験してきたものか。その煩いを避けんがために城門至近に邸を与えられているのだと言わんばかりに、彦根藩行列の対応もごく手慣れたものだった。大名行列の行く手へ立ちはだかる者が現れたというのに、人足の担ぐ駕籠は速度を緩めもせず。また、「日下部」と一諾を向けられた先導の徒侍がひとり、落ち着いた顔で駆け寄り、男を制止し道脇へ退かせようとする。
笠を持ち上げた男は、制止せんとする日下部をまっすぐに見た。同志の森五六郎である。
森が抜き打ちに、日下部の面を斬り下げた音は、さながら果物を切る音にも聞こえた。竹竿がころがる。書面が泥を吸う。泥濘に伏す日下部の周囲が朱に染まる。想定外の事態に直面した行列の侍達は身動きを止め、そして森に蓑笠を脱ぐ暇を与えた。笠の下からは白鉢巻が現れる。蓑の下からは白襷が現れる。
ようやく事態を理解した誰かが、駕籠訴えではない、狼藉者だ、と叫ぶのとほぼ同時に、供侍達の背が一斉に行列先頭、血刀を下げる森の元へ押し寄せていった。しかしその手に刀はない。抜こうとした手が空しく刀袋へ阻まれ、結局勢いのまま無手で森へ挑みかかる。
その混乱の中にあっても駕籠脇の直衛はなお冷静だった。駕籠に顔を近づけ物を言うと、「河西」「永田」と声を掛け合い、駕籠を挟んで背中合わせに立つ。死角があらわれぬよう全周を警戒するその眼光は、呑気に口を開けて成り行きを見守る見物人をひとりひとり、見定めるようにも思えた。
いま走り出せば行列先頭へ向かう供侍に紛れ込める。そう逸る両足を押さえつけながら、忠三郎は肌を撫でる走査の視線が通り過ぎるを待った。供侍にぶつかられ行列の化粧馬がいななき、棹立ちになる。逃げようとした口取りが蹴られ転ぶ。小者どもの悲鳴があがる。
視線が集中した隙をついて、同志らが一斉に地を蹴った。しかし藩邸へ逃げ戻ろうとする中間と先頭を押さえようとする供侍が入り乱れ、手はず通りに駕籠まで近寄ることができたのは、どうやら忠三郎ひとりだけのようだった。
不必要に駕籠へ接近する足音に、永田と呼ばれた侍が頭を巡らせた。目が合う。
袂へ突っ込む腕を引き抜けば握られた銃があらわれ、永田の眼が見開かれるのが判った。
駕籠まで僅か二間半。蓑笠をかなぐり捨て忠三郎は銃口を向けた。そのまま引金を引く。
耳を聾せんばかりの轟音が響き、駕籠に小さく振動が走るのが見えた。御簾の上で弾ける破砕音と同時に、空いた穴の奥より水っぽい音が跳ねたように感じた。
手応えを感じた忠三郎は撃鉄を上げ弾倉を回転させる。突如行列中央で生じた轟音と閃光に、周囲の者らは火が付いたように飛びすさり、引けた腰で硝煙引く銃口を見ている。
そのとき永田が、駕籠と忠三郎の銃口との狭間へ、すいと体を差し入れた。
(なに――)
さらなる轟音。一発ごとに永田の体が跳ねる。仰け反り、たたらを踏んだ足がよろめき、駕籠屋根へと押し付けられる。体の各所で裂けた衣より鮮血を噴き出させ、しかし永田は倒れる事はなかった。ぎこちない右手で柄袋を外し終え、抜刀さえしてみせる。
(おかしい――こんなはずは)
永田へ引金を引き続け、撃鉄が空の弾倉を叩いて、ようやく忠三郎は銃が弾切れであることに気付いた。躊躇なく投げ捨て、腰の刀を抜き合わせる。
裂帛の気合を込め大音声の戦哮をあげれば、周囲はすでに一方的な狩り場と化していた。しかしまだ永田の眼は死んではいない。その眼を睨み据え、足に纏わりつく泥濘を蹴る。突撃の勢いに乗せ、大上段に振りかぶった刃を駕籠へもたれる半死の護衛へ叩きつければ、しかし閃光のごとく跳ねあがる刀に切り結ばれる。忠三郎は両手で圧し掛かるも拮抗され、さらにはとても手負いとは思えぬ膂力でもって、強烈な横薙ぎとともに間合いの外まで跳ね飛ばされた。驚愕に見開く忠三郎の眼に、浅く斬られた額より血が流れ込む。
(なぜだ――)
目を瞬く忠三郎の衝撃は、駕籠脇の瀕死者の両眼が、ごく澄んでいるがゆえである。
幕閣に座して強権を振るい、朝廷も御門葉も畏敬することなき大老。その臣下として威光をひけらかす井伊家中の侍は、もし仮に、我慢の果てついに堪忍袋の緒を切った志士らがひとたび暴発したならば、ひと支えもなく崩れ立つ蜻蛉の群れとばかり思っていた。
あるいは。己が後光のごとく背負う藩主の権勢を背景に「強者こそ正義」と嘯いては恥じ入る事さえなく、堂々と悪びれて江戸大路を闊歩する。それが彦根侍だと思ってもいた。
目の前の永田は、突然の銃撃に己が身を盾と差し出しながら、その眼に憎しみはない。
達人ゆえの大悟。無知ゆえの純粋。青空のごとく透徹した眼色は、そのどちらでもない。
行列の者どもは隊伍を乱し、けたたましく悲鳴を上げ走り去ろうとしている。踵を返しすぐそこの自藩邸へ逃げ帰ろうとしている背中には、二本差しの士分も含まれていた。
永田は帰るべき道を一瞬見、そして、憐れむような眼差しを同胞達の背へ送った。
水戸家中の士分であった長い日々が、その視線の意味を否応なしに理解させてしまう。切腹である。今逃げていった者どもにはもう二度と、挽回の機会など与えられまい。
忠三郎の両手で握る刀が、頼りなき杖のごとく震え始めた。
ただ、大老の増上慢を討ち取り、江戸市中へ示せば、それで全て終わるはずだったのだ。
標的は幾重もの警護に守られし幕閣。多少の犠牲は、必要な流血であると理解していた。
だが。忍耐をやめた己らが放り出した、行き場のない立場へ今なお留まる者――かつての自分達と何ひとつ変わらぬ者を。それでも討つ事になるとまでは、想像していなかった。
退けば詰腹。退かねば斬死。選びようのない二択を押し付けるは他でもない、己である。
そのとき。袋を纏ったままの鞘が眼前の地面へ叩きつけられ、忠三郎は後方に飛んだ。
ようやく引き抜いた大刀を振り上げ、割って入るのは顔を赤くした大兵肥満の侍である。
聞かされた井伊掃部の風体とよく似た男だったが、合羽をはね上げた格好や「加太」と呼ばれている様子からして、どうも供侍の一人らしい。加太の血走った眼は、選択肢などどこにもないことを既に理解していた。踏み込み、力まかせに振るわれる刀はさながら鉄槌のごとく、忠三郎の受け太刀を右へ左へ引きずりまわし、そうしてついには、傷まみれの刀を大きく弾き、忠三郎のがら空きの頭を絶好の位置へ差し出させるに至った。
(殺られる――)
そう覚悟し目を瞑った刹那。
「――忠三郎!」
肩口に衝撃が走り、横ざまに吹っ飛ぶ忠三郎は雪と泥の入り混じる地面へ突っ伏した。赤い飛沫が降りかかる。顔を起こせば、己を突き飛ばした代償にその胸板へ刃を突き立てられているのは、なぜか、そこに居ない筈の監物であった。
見届け役のお前が。斬奸趣意書の届け役という大役をひかえたお前が。なぜ――思考を凍らせる合間にも、監物は己が身へ食い込んだ刃を抜く事を許さなかった。押さえつけた加太の両腕の上から強引に抜刀、居合の技で深々とその首根を切り裂く。またひとつ朱の華が咲く。加太は刀より手を離すと、赤く霧吹く喉を押さえ、溺れるような音を残して大地へ沈んだ。ほとんど切断された首が転がり、白と茶を赤く染めてゆく。
監物。声にならぬ言葉が漏れ、そして崩れ落ちる馬鹿者の身体を支えるのだけはどうにか間に合った。
どこかへ潜んで事の首尾を見届けていたはずの監物は、あろうことか役目を放棄した。そしてその結果、他でもない忠三郎を危難より救うのには間に合ったのだろう。
「――役目に。役目に集中しろと。そう言ったのはお前ではないか!」
怒鳴りつければ、既に意識も定かではないのか。監物は霞がかる眼をこちらへ向けた。
「うむ。……済まんなあ、ゆき殿」
それは実家で三人過ごしている時によく聞いた言葉だった。気の利かぬ木石へうるさくも嬉しそうに気を遣う、友の義妹へ感謝を述べるこの男の、いつもの台詞だった。
監物はゆっくりと目を閉じ、そのまま濠傍へ崩れ落ちた。
絶叫は己の口より響いていた。友の醜態をかき消すよう、知りもせぬ他人に見せぬよう、近くの敵へ刀を振るう。数を恃みとした供侍達が取り押さえんと襲い掛かってくる。
素手のまま襲い来る供侍は、一太刀浴びせるだけで小さな赤華を咲かせ、頭や腕を押さえ次々にうずくまる。むせかえる血臭の中にもどこか酔わせるような桃花の香。白雪の上へ薄桃色の欠片が散り、淡紅の落花かと思えばそれは、斬り落とされた耳や指であった。
多勢に退きながら刀を振るううち、駕籠を回り込んでいたか、反対側の様子が見えた。
もう一方の駕籠脇の直衛、河西は袴の股立ちも取り襷掛けまで済ませ抜刀、襲い掛かる同志らを斬り払い半円状の間合いの外へ押し返している。容易に近づけぬ河西の防衛圏へと二人の供侍が駆け込み、逃げた駕籠かきに代わって担ぎ棒の前後に就いた。主君を運んで逃げるつもりだ――そう察するものの、しかし、駕籠の反対側へ背を押しつけた永田が動かない。細められたその眼は未だ忠三郎を追っているようにも見えた。業を煮やした供侍達が「永田」と離れるよう促すと、返答の代わりに永田はずるりと駕籠を赤く塗り、地へ倒れた。供侍が口を開け何かを言おうとしたところで、さらに駕籠付近へと押し寄せてきた同志らから斬りつけられる。
河合の刀が迷うように揺れる。このままでは逃げられると思ったか、駕籠を囲む同志のひとりが動いた。血刀を腰に引きつけ平行に構え、叫喚と共に突撃するは稲田重蔵である。反応の遅れた河合は一太刀浴びせるものの、防御を捨てた固太りの身体に衝き退かされ、駕籠への道を空けてしまう。視線ははじめからまっすぐ御簾奥、駕籠だけを捉えている。
稲田のその目は悲願の達成を確信し、そして、その口元は勝利に笑み崩れていた。
待て、と忠三郎が叫ぶ間もなく。稲田の刃は御簾を貫き、駕籠中へ深々と突き込まれた。
駕籠に体ごとぶち当たる稲田の背後、憤怒の表情を向けた河西が、その刃を閃かせる。背中から臓腑まで深く斬り下げられた稲田は、まるで何かに裏切られたかのような、ぽかん、とした表情を向け、そして眠るように駕籠脇へと崩れ落ちた。
口中に走る苦味に、忠三郎は唇を噛む。
おそらくは稲田もまた。大老を討ち取りさえすれば、それで全て決着が付く、敵は全て逃げ散り、我々の勝利だ、そう考えていたのだろう。そのために排除される障害のことも、また、むざと主君を討ち取られた臣下のことも、何ひとつ想像し得なかったに違いない。
稲田の骸に食い込んだ刃を外す河西を見、囲んでいた同志の内、弟の和七郎と甥の子之次郎とが頷きあった。稲田と同じく刃を寝かせ、気合を響かせ二人が突っ込んでいく先は駕籠ではない。振り返るも今さら防ぎようもなく、左右の脾腹へ刃を突き立てられた河西は、よろめいた所へ有村の一刀を浴び、遂に駕籠脇を守る最後の防壁も崩れた。これでもう幕閣を守る藩屏はなにもない。
大勢の喚き声と共に幾本もの刃が豪奢な駕籠へ突き込まれ、そして沈黙が訪れた。
血刀を引き抜いても、駕籠内からは何も反応がなかった。ただ御簾の下より隠しようもなき赤色が涎のごとく駕籠脇に垂れ、白雪へ染み込んでゆくばかりだった。忠三郎にはそれが、藩主駕籠そのものが流す血涙のようにも見えた。
ようやくに河西への残心を解いた有村が、大股で駕籠へと歩み寄る。御簾をむしり取る。中から血まみれの芋虫のごときものを引きずり出し、踏み荒らされた雪上へと放り出す。無言のまま同志らの輪が狭まり、皆がそれを目に焼き付けんとしているのがわかった。
はじめて目にする井伊掃部守は、絹の装束を赤茶に染め地を這うだけの、血の気を失った壮年であって、脂ぎった権勢家の印象はどこにも無かった。
刀を顔の横へ構える有村が、猿のごとき叫喚を上げた。二度三度と水っぽい音が跳ねる。
やがて同志らの群れから身を起こし、高々と上げられた有村のその手には、青ざめた髷首がひとつ、まるで猟果のごとく掲げられていた。
同志の瞳が一斉にもちあげられ、もはやこの先不遜を為す事もない、大老が首を認める。
それぞれが万感の思いを抱く沈黙の中、降り納めの雪だけがかすかに宙空を舞っていた。
そのとき誰かが鼻を啜り、泣声を漏らすのを遮るように、だしぬけに有村が声を放った。
えい、えい、おう。野蛮にも首級を切先に突き刺した刀を、曇天へ持ち上げる。鬨の声を皆で合わせられたのは三声目だけだった。この勝利を照覧あれと天へ衝き上げるべき拳すら、もはや受傷で十分に持ち上げられぬ者ばかりとなり果てていた。
「……はや退いた方が良か。追手ば、かかる」
刀の先の首級へ周囲の視線を集めるまま、有村がぼそりと呟いた。視線は道の先、大手門が半端に開け放たれたままの、彦根藩邸を見ている。
「――左様。事はすでに成した。後は手筈通り、すみやかに自訴せよ」
聞き慣れた声に振り返れば。傷を縛り終えた監物が、どうにか身を起こすところだった。
「……届け出先はふたつ。ただし追討を警戒し、中途までは同道とする」
駆け寄るものの、胴をかたく締め付けた監物の顔色はひどく悪い。肩を貸し助け起こす。
「……掃部が首級をかかげた有村を先頭に。見届役――届出役が後につづく。他の者は、おのおの殿をつとめよ」
傍観者に徹しきれなかった監物の指示に、ようやく同志らは重い足を引きずり歩き始めた。予定された自訴先まではここから半里もない。小路を五つも越えれば着く筈だったが、深手を負った同志らにとっては長い道程と言えた。
「……小河原……」
か細い声に振り返れば。立ち尽くす見物人達の前、赤く染まった雪上へ転がる幾つもの骸の中、未だ動いているものがあった。無くした片腕を押さえ転がる供侍の呼びかける先には、頭より派手に血を流し、泥の上へ激しく痙攣する、いま一人の供侍がいる。
そうだ稲田は、と思い返し、忠三郎は駕籠脇の血溜まりへ目をやった。眠るような表情で大地に横たわったまま、稲田重蔵は動かない。
「おい。稲田――」
ぞのとき肩に掴まっていた監物が腕に力を籠め、そして首を横に振った。
黒血を臓腑より溢れさせ、稲田は死んでいるように見えた。促され、忠三郎は踵を返す。
気づけば遠くに、通過待ちをしている幾つもの登城行列が見えた。凶事の発生には既に気づいていた様子だが、襲撃を受ける他家行列へとうとう助太刀の一人も寄越さなかった。城内へと続く桜田門もまた、固く閉ざされたまま、応戦の手勢を吐き出すこともなかった。事情も知らぬままうかと加勢し、御家に累を及ぼすは愚の骨頂。大身らしい判断である。みな、関わり合いを避けるよう遠巻きにして、ただただ、事態が解決するのを待っている。その無関心さが腐敗横暴を招いたのだ、と忠三郎は立腹するが、しかし、その慎重さ無関心さを利用し、衆人環視のなか幕閣暗殺を仕遂げた己らには、何も言う資格などなかった。
濠端の道を、彦根藩邸とは逆へ進む。閉ざされた桜田門前を通り過ぎ、そのまま濠沿いを回り込んでゆく。登城の刻限ながら、行く先の道には妨げとなる行列の一つもなかった。みな脇道の小路へ控え、行列の頭を覗かせるまま、事態が片付くのを待っている。
行列の侍達の視線は、有村の刀へ刺した首や、傷を負い歩く同志らの姿に注がれていた。監物を支えて歩く忠三郎は、同志らがさきほどの指示通り隊伍を保てていない事に気付く。
殆どが手傷を負った同志らは、負傷した手足を引きずり、互いに支え合いつつ、どうにか後を追ってくるので精一杯のようだった。無疵の者もおのおの深手の仲間を抱えて歩き、よろめき進む一行は道へ落血の轍を残す、乱心者の一群れにしか見えなかっただろう。
先頭を行く有村が白刃の先に髷首を掲げ、そして一同が白鉢巻や白襷を纏っているあたりから、どこぞで仇討ちでもあったくらいに考える者は多そうだが、一方で、掲げられた首が大老のものと見知る者はほぼ皆無であるはずだ。我らが行いを天下に知らしめ凱旋すべきと闊歩しているのだろうが、その真意を汲み取る者は少ないように思われた。
悪戦の果てやっと討ち取った首を掲げて、傷を負い血と泥にまみれてよろめき歩いて。事情を知らぬ者どもに遠巻きにされ、そこに本当に正義を成した栄光はあるのだろうか。
そのとき。ほんの一町も進まないうち、背後よりひびく足音がひとつだけ増えた。手傷を負ったかのように不揃いで、かつ、追いつかんとするかのように早められたその足音。正体へと思い至った忠三郎は、喜色を浮かべ振り返ろうとした。
「稲――」
肩を掴まれ押し退けるように突き飛ばされる。支えていた監物ともども横ざまに転ぶ。わけがわからず見上げた先には、先程、小河原と呼び掛けられていた供侍の姿があった。頭から流す血もそのままに。ちょうど、主君の首を晒して歩く有村の背後へ立ち、ふらふらと刀を振り上げるところだった。
小河原の振り下ろす刃は、有村の首裏を切り裂いた。物も言わずに有村が倒れる。
悲鳴のような雄叫びを上げ、甥の子之次郎がそのまま立ち尽くす小河原を斬り伏せた。うずくまり体を丸めた小河原へ、数人が駆け寄り幾度も幾度も刃を振り下ろす。やがて小河原の身体より力が抜け、男達の荒い息の下、またひとつ白雪へ赤黒い染みを広げた。
「有村……」
監物の吐息に応えるように、倒れる有村は存外しっかりとした身ごなしで起き上がった。
しかしその手はすぐそばへ転がるはずの愛刀をひたすらに探っている。顰めた両眼は地面ではなくどことも知れぬ先を見据え、もう満足に視えていないのだと知れた。ようやくに探り当てた指で掃部の首の髷を掴み、まるで獄卒のごとくにぶら下げる。首の後ろからは激しく出血し、一歩歩むごとにその襟上は溢れ出す血潮に洗われていた。
緩慢に歩む有村をそのまま先頭に、一行はのろのろと八代州河岸の大路へ出た。背後にはいっそうその色を濃くした血の轍が刻まれていて、ことに深手と見える同志数名は肩を貸す仲間まで血潮に染めている。監物の顔色もすでに蒼を通り越し白へ変じていた。ひとりも欠けずに、あとどれくらい進めるかさえわからなかった。
生首を提げ進む手負いの侍は、河岸の野次馬どもの目にも亡者の群れと映るようだった。
松平相模守が大屋敷を通り過ぎたあたりで、ふと、先頭を歩く有村が脇道へと逸れる。ひたすら濠伝いに、この八代州河岸をまっすぐ進めば、自訴先の門脇へ出るはずだった。監物を半ば引きずり早足で身を寄せた忠三郎に、有村は判っているという様子で頷いた。
「先のごたる追い討ちばありもさん……殿ば、務めもす」
出血の止まらぬ有村の両眼は霞み、目の前の忠三郎さえよく見えていない様子だった。
有村はきっと道が見えていないのだ。しんがりを務めようという人間が、なぜ脇道へと逸れていくのか。そう尋ねようとした忠三郎の肩を、強い力で監物が握り締めた。
「うむ。――任せる」
その返答に、全ての役目を終えたような安らかな顔で、有村治佐衛門はよろめき去った。
先頭の手負いがいなくなってやや速度を上げ、一行は濠端を通り過ぎてゆく。忠三郎はしばしその場に佇んでいた。ひとり脇道を曲がり別の方向へ進む有村の背は、やがて首級すら手放し転倒した。倒れたまま脇差を抜く。もう握る力も残されていないのか、柄を地に突き立てのしかかり、自重で皮胴を貫いてでも、有村は切腹しようとしているのだった。そこまで見届けて忠三郎は背を向けた。背後に嘔吐音が混ざるのは、破れた腹で雪を食べ、一刻も早く死のうとしているせいか。
振り返った後で、遠巻きにする見物人と、遠藤但馬守邸あたりの門衛の姿が目に残った。誰も介抱しようとしない。誰も介錯しようとしない。大老を手ずから討ち取った英雄の最期だというに、さながら狂人の扱いであった。
踵を返し、四つ軒を連ねた小藩邸群を通り過ぎると、新たな脇道が現れる。
最後尾、ひときわ濃い血の轍を残し歩いていた二人がついにその足を停めた。
「――我らも。これにて……」
あまりに深手を負った為、足手纏いにもなり、またもはや自訴にさえ耐えられぬ。そう判断したのだろう。腕を垂らした山口辰之介とそれを支え歩く鯉渕要人は、まるで皆に気を遣わせまいとするかのように小声で断りを入れると、有村に倣うよう脇道へ立ち去った。
山口の腕は二箇所でほぼ千切れかけていた。鯉渕は介錯を務めた後で自害する気だろう。
日頃より仲のよかった二人の往時を思い返し、忠三郎は監物を引きずる腕へ力を籠めた。
松平内蔵頭の屋敷横を過ぎれば、甘い香が降ってきた。見上げれば満開の桃の花である。
きっと上屋敷の内では塀外の現実も知らぬまま、上巳の節句に相応しく豪華な雛檀が飾られ、子女の壮健を祝っている事だろう。
出立の朝、霧の奥へ義兄を見送り、いつまでも戸口に佇むゆきの姿が脳裏へ蘇った。
屋敷塀が切り替わり、めざす脇坂中務大輔が龍野藩邸の横へ出る。和田倉門前、濠に囲われる角を曲がれば、すぐ右手に大手門が見える筈だった。
冷たく感じ始めた監物の腕を肩へ廻し、もつれる足を叱咤して歩き続ける。血まみれの体を引きずる同志らはいつしか、十にも足らぬ数となっていた。つい今朝方、総勢十八士で臨んだ壮挙のはずだった。ある者は斃れ、ある者は自害し、またある者は行方すら分からなくなっていた。
避けるように濠角へ佇む見物人の視線を浴びながら、一行はついに大手門の前へ立った。
予定していたもうひとつの自訴先は、この龍野藩邸より大名小路を挟んで斜向かいにある細川越中守の熊本藩邸であったが、そこまではもう数町ほど歩かねばならない。
互いの顔を見合わせ、特に深手の三名へ視線が集中する。佐野竹之介はもう殆ど意識がなく、蓮田一五郎に半ば担がれて歩いていた。監物もまたここまでの道中、たびたび意識が明滅しているように見えた。引きずるようにここまで歩かせてきたのは忠三郎だった。
もっとも酷い深手を受け、漏れ出す腸を押さえ、袴を赤く染めそれでも歩いてきたのは、忠三郎の甥の広岡子之次郎だった。
視線が集まるのを察し、そして草履の下へふたつの血溜まりが広がりゆくのを認めると。子之次郎は一行から離れて立ち、後事を託すよう深々と一礼した。
これだけ血を流していては、自訴におよんでも先方の屋敷を汚すばかり。万事控え目な甥はたったそれだけで、この先の追従を諦めたのかも知れなかった。
子之、と呼びかけて忠三郎は結局口を噤んだ。弟の和七郎も黙ったままでいる。
黙って叔父達へ頭を下げ、ひとり辰の口より濠を渡る甥は一体どこまで行けるだろう。この先どこへ辿り着いたところで、介錯をしてくれる仲間はもういない。同志で最も年若いわずか二十歳の甥をひとり腹切る目へ追いやり、それでも大事を成したのだと胸を張る気はとうに失せていた。
去り行く背中を見送るうち、藩邸塀沿いの用水路を何か白いものが流れるのが見えた。きらめく流れを泳ぐその十字に切られた紙片は、単衣のごとく裾を伸ばす流し雛であった。理想と幸福を願い、代わりに罪穢れを背負って何処かへ流れ去る流し雛は、まるで濠端へばら撒かれた弾丸に見えた。十八の弾丸が流れ去るを見送って、忠三郎は門へ向き直った。
深手の二人とそれを支える二人を残し、後の四人はいまひとつの自訴先へ足を向ける。おのおの会釈し門前を去ってゆく。短い目礼を交わし、弟の和七郎もまた後へ続いた。
蓮田が佐野を抱え耳元で名を呼んでいる。佐野竹之介は死出の眠りにつこうとしていた。忠三郎の肩を借りる監物もまた、蒼白な顔で懐より斬奸趣意書を取り出し、血染めのそれを震える手で忠三郎へと差し出した。
その目が語るは、己はもはや自訴の口上にすら耐えられぬ、後はお前がやれ、であろう。
他でもない幼馴染が相手なのだから、苦しいのに無理してまで喋る必要はなかった。
頷く忠三郎だが、しかし喘ぐように口を開け、監物は言葉を絞り出そうとしていた。
途切れ途切れのその声が、閉ざされた門前の静寂へ響く。
「……ゆき殿が。大逆の我らの、係累として……日陰に暮らすのは、もはや仕方ない……だが。他でもない、このおれが率先して、ゆき殿を日陰へ連れ回し続け、暮らすなど……そんな明日だけは――どうしても。許せなかった」
監物はずっと、そんなことを考えていたのか。
あえて口にしなければ伝わらない心を渡すように。心残りをすべて吐き出したように。まるで何よりも大切な遺言を残し終えたように、安らかな顔となり監物は瞳を閉じた。
涙を固い拳で拭い、忠三郎は門の向こうへ声を張り上げた。
「――御開門を願う!」
結局その日の夜に佐野は死に、そして五日後には監物もまた息を引き取った。
監物の遺品を整理していると、着ていた襦袢の襟に、一枚の短冊が縫い込まれていた。
血と香の薫る短冊を解読すれば、どうやらそれは事前に用意した辞世のようだった。
きみがため つもるおもひも あまつひに とけてうれしき けさのあわゆき
「――やっと正直になりおった」
ふ、ふ――と、奥座敷に笑い声が響いた。
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