第3話

 不思議な出来事が起きたのは、それからまた二週間後のことだった。


 その夜、妻はいつになく症状が悪化した。

 熱が四十度近くまで上がり、めまいがして起き上がれない。呼吸も苦しい。クリニックで処方された解熱剤を飲んだが、あまり効果がない。


 熱にやつれた顔をして、荒い呼吸で苦しむ妻。

 テトはママが苦しんでいるのがわかるのだろう、妻のベッドから片時も離れようとしない。ひたすら妻の顔を見つめている。俺も同じだ。だが残念ながら、俺とテトにはそうやって見守ることしかできなかった。






 なにか動物の唸り声のような声で、俺はハッと目が覚めた。

 目覚めたはずみで体がガクンと揺れ、転倒しそうになる。妻を看ているつもりが、座ったまま居眠りしてしまったらしい。


 部屋は暗く、明かりはスマホの画面だけだ。画面を覗いてみると、午前一時を過ぎている。妻は眠っているようだが、相変わらず苦しそうにうなされていた。


「フウウウッ、フウウッ」


 俺はぎくりとした。また、動物の唸り声がする。スマホの光を、声のするほうに向けた。


 そこには、テトがいた。

 テトは、俺に背中を向けていた。何もない空間に向かって唸っている。全身の毛を逆立たせて、けんかをするときのように威嚇いかくしているのだ。こんなことをするテトは見たことがない。


 なにやってるんだ、ママが寝てるんだから静かにしろよ、と声をかけようとしたときだった。


 テトが、俺のほうを振り向いた。目がらんらんと輝いている。


(月光)


 俺の頭に、なぜかそんな言葉が浮かんだ。

 もちろん、テトが喋ったわけではない。よくわからないが、とにかく脳裏に浮かんだとしか言いようがない。それはとても重要なことなんだと、そのとき直感した。


 俺は弾かれるように立ち上がり、カーテンを全開にした。


 真夜中の空に、レモン色をした満月が浮かんでいる。

 月の光が窓から差し込み、寝室を薄く照らした。


 月光がテトの体に届いた瞬間、テトは跳ねた。

 天井に頭が届くほどの、ものすごい大跳躍である。目の錯覚だろうか、テトはいつもより一回り、いや二回りも体が大きくなっているように見えた。


 空中で、テトは右前足、左前足と二度、すばやく虚空を引っ掻いた。

 着地すると、間髪を入れずにふたたび跳躍する。

 今度は牙を剥き出し、闇に噛みついた。


 俺にはわかった。

 テトは、俺の目には見えない「なにか」と戦っているのだ。


 テトが跳ねる。引っ掻く。

 また跳ねる。噛みつく。

 さらに跳ねる。今度は空中で身をひねり、「なにか」から身をかわす。

 テトは狂ったように跳ね回り、暴れ回った。


 そんなことを、一時間も続けただろうか。


 ついにテトは跳ねることをやめ、ふたたび威嚇の唸り声を発した。

 やがて威嚇も終わると、部屋には静けさが戻ってくる。


 テトは、妻のベッドに飛び乗った。

 うなされ、苦しそうだった妻は、いつの間にか穏やかな寝息を立てている。


 テトは俺のほうをじっと見ている。

 また、脳裏に言葉が浮かんだ。


(ママには言うなよ。気味悪い猫だと思われたくないんだからな)


 俺が大きく頷くと、テトは満足したように妻の隣に潜り込んでいった。






 その夜以来、妻の体調は急回復した。


 熱も出なくなり、予定よりも早く復職することが決まった。

 クリニックの先生は、自分のアドバイスのおかげだと思ってご満悦だ。だが俺だけは、誰が本当の功労者なのか知っている。


 テトは相変わらず、妻のことが大好きだ。いつもくっついている。


 でも俺はもう、ストーカーだなどと言う気はない。妻の膝でゴロゴロするもよし、抱っこしてもらって甘えるもよし。そんなのはもう全部、テトが受け取るべき当然の報酬といえるだろう。


「じゃ、いってきます」


 俺は今日も仕事に出かける。妻を助けてくれた恩に報いるため、せっせと餌代を稼ぐのだ。

 朝の忙しい妻に代わって、珍しくテトが玄関まで見送りに出てきた。


「ママのこと、頼むぞ」


 俺の感謝の気持ちを知ってか知らずか、テトは大きなあくびをしたのだった。

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月夜に跳ねる 旗尾 鉄 @hatao_iron

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