悪疫ころな封じ岸静江

修羅院平太

悪疫ころな封じ岸静江

 関門の直上に掲げた紋旗が力なく垂れさがる様を、岸は己の体で隠した。

 門前へ整列し訓示を待つ関門兵二十名は、どこか疲れた様な雰囲気を纏いつつ所在なげに方々を向いている。咳払いをひとつすると、兵達の無機質な目がこちらを見つめた。

「――皆。連日の警戒警固、まことにご苦労である」

 関門の上より一人一人へ視線を投げる。中央に並ぶ五名は家中の者で、いずれも年季の入った火縄銃を携えている。関守の象徴とも呼ぶべき長物や槍を一人も持たぬのは、そのすべてが周囲を取り囲む十五名程の徴募兵の手にあるためだった。火縄銃なら番所に予備もたくさんあるが、近在の農民を徴募し揃えた兵が銃の扱いなど知るはずもなく、自然、銃兵は家中、槍兵は徴募兵と分けられるようになった。ただでさえ旧式装備の更新がなされぬまま、なし崩し的に藩境が最前線と相成ったような現状において、虎口を守る兵力が銃兵五の槍兵十五とはあまりにも薄氷にすぎる。無論、数里先の益田には主だった寺へ藩兵力の大部分が集結し、また隣藩の福山藩兵、遠く紀州藩兵までもが進出駐屯しているが、これは海を見下ろす急峻な城と狭隘な湾岸にひしめく城下町しかない浜田へ通ずる、広い扇状地にて進軍を阻止するためのものだった。

慶応二年(一八六六)、叛徒たる長州を討ち滅ぼすべく、幕府は各藩へ軍目付を派遣し第二次征討軍を編成しようと試みたが、完成したのは途切れ途切れの包囲網だけであった。戦の経験もなく装備も旧式、さらには徳川二百五十年の平和の内に地縁血縁で結びついた近隣藩が刃を向ける相手となれば、戦意士気が奮わぬ事おびただしい。かと言って、標的たる長州が同条件下にあるかと言えばそんな事はなく、孤立した状況下ながら新式銃砲を用いて既に征討軍とやりあい、実戦経験も積んでいれば自信も蓄積、内戦への心理的抵抗もとうに失っている。言わば、大勢の赤子が大人を包囲しているような状態であった。

 その赤子達の中で最も幕府に期待されていたのが、一橋慶喜の実弟、浜田藩主松平武聰である。しかし赤子は赤子、次期将軍候補の実弟として長州を一刀両断し幕府の威光を知らしめて欲しい周囲の期待とは裏腹に、浜田藩も当然ながら旧式装備のまま、また藩主本人も長く病床にあり、包囲軍を率い長州を締め上げる辣腕はとても期待できなかった。

 逆に長州から見ると、次期将軍とも目される慶喜の実弟がわずか三十里くらい先で旧式装備の兵に囲まれたまま病床に臥せっているわけで、これはもう格好の獲物にしか見えぬ。

地勢的に孤立している長州からすれば、是が非でもこれを攻め滅ぼし幕府の威光を地に落とし、周囲で曖昧な態度を取り続ける日和見藩どもを我が方へと寝返らせたいところだ。

さらに言えば、浜田さえ抜けばその先に待つのは大森銀山である。鬼退治の後に宝の山迄ついてくるとあらば、桃太郎は相手がたとえ鬼の赤子でも全力で倒しにかかるであろう。

 岸はこの関を固く守る事が如何に重要であるか、いつも通りの訓示を垂れながら、だんだんと、思い思いの方向によそ見を始める兵達を眺めた。

 三年前、鳴り物入りで進発した雄藩諸藩連合の大規模征討軍が、たかだか三十万石の一藩へ手玉に取られた辺りで敏感に風向きを感じとり、周辺の風見鶏たちは皆一斉にそっぽを向いた。しかし幕府の方を向くのをやめたからといって、まだ完全に長州の方を向いているというわけでもなかった。

お定まりの訓示を垂れつつ、岸は門の先、ごく細い山道を見渡す。ここはもう隣藩の領内ではあれど、しかし長州藩領ではなかった。

 幕府から派遣された軍目付たちの要請の元、浜田城へ呼びつけた津和野藩の家老二名は征討軍への加列要請にもひどく及び腰で、それがかつて長州毛利家に滅ぼされた尼子氏の流れをくむ家の態度か、言わば仇敵であろう、と軍目付の長谷川を激怒させた。長谷川は先方が止めるのも聞かず津和野へ乗り込んでいったが、傍観を決め込みたい外様藩中にて孤立、持て余された挙句、事実上の軟禁下にあるという。時代錯誤ゆえの空回りであった。

 どちらも二百年間、金のかかる御役目を命ぜられる事はあれど、幕政に参与する事もなければ、一度の転封も無かった外様である。長く続いた冷遇は、当地へ配された理由たる主家の仇敵としての関係を薄め、単純に隣近所としての認識だけを深める結果となった。

 その結果がこれである。長州と直接境を接する隣藩が狸寝入りを決め込めば、前線は今立っているここになる。癒着により外様は幕屏たり得ぬと、親藩・越智松平家へ養子入りした実弟を旗頭へ掲げた処で、装備や練度の差までは覆せない。そして戦力が足りなければ攻め込むどころか、確保できた兵で要所防衛に回るしかない。至極当然の流れであった。

 その流れに適応できていないから、僅か二十名で敵の鋭鋒を迎え撃つ羽目になっている。

「――以上である。各班に分かれ本日の教練、はじめ」

 岸は薄く苦笑すると訓示を締め、今日の訓練の開始を命じた。物頭格百十石取り、扇原関門頭をつとめる岸静江国治の配下は家中五名、徴募兵十五名を数えるが、急ぎ徴募した農兵には藩境警固・関門守備兵の肩書は重過ぎ、戦力へ含めるのは難しかった。そもそも関近くの多田村の農民でしかない男達は、士気が低く、逃げ腰で、臆病で、どうかすると関の後方ばかり見ていた。戦が三度の飯より好きな長州の豪傑が笑いながら襲い掛かってくるかもしれないこんな危地を捨て、一刻も早く平和な田畑へと逃げ帰りたいのである。

(壁がある)

 それぞれの訓練にかかる関門兵達を眺めながら、岸はおのれと配下達との間を区切る不可視の絶壁について思った。その壁は配下達の間にすら見て取る事ができる。立場の違いは背負う雰囲気の違いを招き、そして纏う空気の隔てが、決して感染し得ぬ壁をつくる。

 壁は関門兵を三つに隔てているように見えた。すなわち、己、家中、徴募農兵である。

 岸は己の腹を見下ろした。そこにはもう、見えない赤い線が走っているのがわかる。

関門頭は死なねばならぬ。攻め寄せる大軍相手、しかも緒戦となるだろう戦とあらば、せめて関門頭くらい立派に討死してみせねば、只でさえ劣勢のため低い御味方の志気が更に下がる。ことは浜田藩のみに留まらず、御加勢の福山藩や紀州藩にまで申し訳が立たぬ。

もうひとつ言えば、関門頭は逃げてもならぬ。一番に敵にまみえた前哨が脆くも指揮官ともども逃げ崩れようものなら、それは浜田兵にも他藩兵にもはじめから用意されている、いま一つの選択肢を思い起こさせる。

脇差を腹へ押し付け、この腹は画布である、と岸は思う。さして遠くない日にそこへ、穿つ無数の銃弾が彩り、己が刃を突き立て描くだろう赤色画が顕れるのはもう判っていた。決して逃れ得ぬ宿命として、己が腹上には既に下絵が描き終えられているようにも見えた。

 岸はそれぞれに己が班の訓練を監督する、副長格の島田代三郎をはじめとする家中の五名を見廻した。死出の淵に在る事は既に全員理解しているだろうが、表情は特に暗くも明るくもない。命ぜられた訓練を淡々と進める様は、これまで繰り返してきた城勤めの延長にも似て、どこか現実感を喪失したまま戦場へさまよい出るような危うさを感じさせた。考えるだけ無駄。憂うだけ無意味。結局は命ぜられた通りに務めるしかない。という、己の意思を放擲しがちな下士の諦念がそこに横たわっているようでもあり、一体何を言えば彼らの心に響くのか、岸にはただのひとつも思いつかなかった。

 死を受け入れた関門頭と何を考えるか判らない家中らをまるで怯えるように、遠巻きに取り囲むのが、その他の徴募兵達である。見守る視線の先、皆より歯抜けのたへえと呼ばれる中年の農夫は、いかにも慣れぬ手さばきで槍をしごいている。侍に比べ農夫はまだ正直である事を許されているとも言えた。虎口に立ちはだかる守兵と言えど、そもそも彼我の練度の差、兵器の差は、戦に詳しくない民の耳にさえ届く。素直な怯懦を示しても仕方のない部分はあった。もちろん家中であればそれも許されぬが、否応無しに戦火へ巻き込まれる領民に虚勢など無縁であり、さらに言えば、日がな長閑な青田を耕すだけの野夫農夫には押し寄せる大軍を前にしての関門死守などあきらかに荷が勝ちすぎた賦役であった。

(……果たして、思い通りに死ねようか)

 岸には自信がない。

たとえ敵がいかほどの大軍で来ようと。自分一人ならば、臆せず槍をふるって戦い、関を枕に討ち死にする覚悟は出来ている。恥じぬ最期の為であれば己の腹も切ろう。しかし。

怯懦に腰の引けた兵を連れ、やる気のない家中を率いて「関門頭は寡兵よく戦い、家名に恥じぬ立派な最期を遂げた」と評されるに足るだけの戦が、果たして本当に成し得るか。

結局のところ、「関門頭は配下を掌握し得ず、大軍にまみえ我先に逃げを打つ味方兵を押し留める混乱のさなか討ち取られた」と伝えられるような体たらくになりはすまいか。

(それならば、いっそ――)

 岸はゆっくりと関の真下に立ち、肩幅へ足を開く。手にしっくりと馴染む十文字槍へ刻み込まれた黄金の紋は、きっと関へ殺到するであろう寄せ手からもよく見えるはずだった。

 背を預けた両開きの大扉は経年の暗緑を纏い、小動もせぬ確かな重みを伝えてくる。強固な不退転の意思と、おのれ一人の身という肉の壁、それにこの関を長年守ってきた大扉さえあれば、大軍相手に一歩も退かぬ戦くらいは出来る気がした。

(……しかし)

 僅か一人で関を守って華々しく散り、それで上がるのは恐らく岸家の家名になるだろう。主家である越智松平家ではない。

(――それでは意味がないのだ)

 岸静江国治という一人の士としてはそれでも構わない。が、越智松平家中として、物頭格として、扇原関門頭として選ぶべき死に様は、それでは到底許されぬのであった。

 家中として侍として範を示し、主家の紋を背負って戦い斃れるのでなければ、ただの匹夫の蛮勇で片づけられてしまう。浜田藩にも骨のある奴が一人位は居たか、と感嘆させるだけでは駄目なのだ。浜田藩屏軽からず、と敵の先鋒へ警戒させ進軍を遅らせる位の奮戦をしてみせねば、所詮は戦はじめの血祭に景気よく捧げられる贄で終わってしまうだろう。

 岸は後方、冷めた顔で訓練に取り組んでいる二十数名の兵を見やる。

(なんとかして、皆とともに、血も滾るような戦をせねば――)

 この冷めた面に血をのぼらせ、逃げ足を釘付けにして戦わせるなど、考えるだに難しい。

何しろ。徴募兵らにはそもそも、命を賭して戦う理由がない。数百年に亘り藩主家の恩威に浴してきた領民ならいざ知らず、越智松平家は僅か三十年前に遠く上野国より移封されてきた新参領主に過ぎぬ。転封で次々すげ代わる首へと、愛着を見出すような泥手足は居らぬだろう。戦のとばっちりで家田畑を焼かれるかも知れないが、己が鍬を槍に持ち替え勇戦したところで結果が変わる訳もなし、仮に藩兵が敗北し撤退したところで、新たな主へ頭を下げ、元の農地を引っ掻いていれば済む話なのはそれこそ戦国の世から続く民の習いである。いざ戦に及び、徴募兵らが踏み止まって戦うとは岸にはとても思えなかった。

 そして。血も滾るような激戦を繰り広げた後は、全員無事に生きて返さねばならない。

 何しろ、配下の家中らには戦う理由はあっても、死ぬ理由がない。これは岸が自身強く戒めるところであった。関門頭であるおのれがここで死ぬのは仕方がない。責あっての事である。しかし率いる五名の家中には、この両側を山の斜面に挟まれただけの守りにくい関門で不利な戦をし、あたら命を散らせて欲しくはなかった。彼らが藩士らしく主家の為、藩の為に殉ずるにしても、もっと有利な時と場所を選んで戦い、そして死ぬべきであった。

(押し寄せる長州の大軍を前に、この二十余名で逃げずに立ち向かい、勇戦してみせたのち、死ぬのは己のみに留め、他の者は一人も死なせず逃げ延びさせる――)

 虫が良いにも程がある。考えるだけで笑いがこみ上げる、とんでもない難問であった。あまりにも虫が良過ぎて、満足のゆく答えなど到底見つかるまい。しかし、この馬鹿げた大望を満たす手段について考えるのはどこか心地よかった。それは、お家の事情、幕府の都合、他藩との兼ね合い、そういったものに雁字搦めに縛られ、少数の兵と共に藩境へ放り出されたこの現状と異なり、大空を往く様にどこまでも自由であるが故に違いなかった。

 広翼をはためかせ空を往く鳳を一羽、海の色差す山際まで見送って、岸は頭を戻す。

(――考えをもてあそぶのは自由でよいが。しかし答えに辿り着かねば意味がない)

『ひとたび己が望みを果たし得るか否かの問いを抱いたとあらば、答えを手に掴むまでは考え続け、動き続け、足掻き続けよ』

かつてそう教えたのは、遊学先で出会った朱子学の師だったか。温和な老賢の如く振る舞いながら、知に対しては浅ましい程に貪欲だった皺頭を思い出し、岸は笑みを浮かべた。

あの頃は、市井の学者は自由に好きな事をできて良い、と思ったものだったが。

 死が扉一枚先にある今ならば判る。そこに自由などない。ただ焦燥と恐怖があるのみだ。

 辿り着く道筋さえ知らぬまま。理想の未来を想い描いてしまった今となっては、得られるかも知れぬ問いの答えをついに得ず、むなしく死ぬのがもう怖くて怖くてたまらない。

 おそらく師は、はるか昔、答えなど到底見つからぬ大問へと出会ってしまったのだろう。

そして。今度はとうとう、おのれの番が来てしまったようだった。


 極楽寺の池のほとりにて岸の嘆願を最後まで聞き終え、軍目付付添役山本半弥はこらえきれず笑い出した。手元からは先刻より池の鯉へ撒いていた麩片がこぼれ落ちる。

 一方、笑われるような話をしているつもりなど全くない岸は憮然とした表情である。

「――生真面目な其方が、一体何の嘆願かと思えば。まさかこの儂に策を寄越せとはのう」

 笑い過ぎて涙を拭う山本を、まるで咎めるように障子が開け放たれる。視界の端、本堂の一間よりこちらを見やる軍装は、派遣された軍目付の三枝刑部である

「陣中である。――山本殿。笑っていては他の兵へ示しがつきませぬぞ」

 小男の甲高い声に、山本は鷹揚に頭を下げ謝罪した。伏せた面の眉尻ははね上がっており、幕府より派遣され田舎侍を戦場へ叩き出すのを責務とするこの軍目付を、藩より付添役に命じられた山本がうるさがっているのは一目で知れた。

 態度が面白くなかったか。眉を寄せた三枝は岸へ視線を移し、その者は、と訊ねる。

「――扇原関門を守備する、物頭の岸にございます」

「なぜ持ち場を離れておるのだ。今や戦端が開かれんとする喫緊の刻ぞ。判っておるのか」

 短鞭のような撥を片手へ打ち付け、黒鉄鉢の奥から喚き立てる軍目付の遠影に、山本はもはや隠しもせずげんなりとした表情を浮かべた。

「……よもやお主ら、戦わず逃げ落ちる算段でも練っておるのではあるまいな?」

 迂闊な三枝の過言に、岸が激昂するよりも早く。山本は上半身を肌脱ぎにしてみせた。

 いきなり半裸になった老職へ目を見開く岸の前で、しばらく、軍目付の吟味するような眼差しが山本の裸の胸板あたりを漂っている。

「……失礼仕った」

 にがにがしげな三枝の謝罪は、他の兵を憚るような小声で響いた。

「……扇原の関へも、酒を届けさせよう」

 もごもごとよくわからない約束を残し、一間の障子は再び閉ざされた。

 酒を届けるとは一体何のことか。岸は疑問を覚えたが、ひとまず山本の胸板を覗き込む。

 毛むくじゃらの胴には傷ひとつないにも関わらず、すでに大きな膏薬が貼られていた。

「……これは驚いた。其方のような秀才にも、思い至らぬことがあるのだな」

 傷もないのになぜ膏薬を貼るのか、と疑問が面に出ていたか。山本は笑い出す。

「――膏薬を貼ったままにしておくと、むず痒くなるであろう?」

 はあ、と返事をする岸の眼前で、笑顔の山本はぱちんと膏薬を叩いた。

「すなわち。腹に小刀突っ込むその時が待ち遠しく、楽しみにもなるという寸法よ」

 破顔する老爺に、感服致しました、と岸は低頭する。それは岸への返答でもあった。

 この老人はとっくに命を捨てている。藩兵の少なからぬ手勢を率いる将たる立場だが、生き残る事など考えておらぬ。

 岸は脳裏に益田の地図を描いた。軍目付が床几を据えるこの極楽寺、そして、藩兵力の多くが駐屯し、恐らくは戦端が開かれた後の実質的な本陣になるであろう万福寺・医光寺は、山間から隣藩領を越境侵入してくる長州兵の正面砲火に晒される位置取りである。

まだ味方で居てくれる方の隣藩である、福山藩兵がともに益田市街地に拠って戦う姿勢を崩さぬ以上、浜田藩は先陣切って勇猛果敢に戦って見せねば最早どこにも立つ瀬が無い。

そしてそれは兵のみならず、将たる山本や、浜田藩の督戦を任とする軍目付の三枝にとっても同じ事であった。戦力差を考えれば死兵にひとしい。ひと藩丸ごと捨て石となりて粘り強い消耗戦を展開してはじめて、福山藩や紀州藩兵にも合力して貰う資格を得るのだ。

 どう転んでも死すべき定めに置かれているのは別におのれ一人に限った話ではなかった。

険しさを増す顔色を読んだか、山本は取り成すように肩を数度叩いてきた。小声で呟く。

(この皺腹ひとつ掻っ捌くかわりに大勢が死なずに済むならば、儂だってそうしているさ)

 そういう段階はとうに過ぎている。平時であれば大層な値のつくであろう侍、家中らの命を束ねて捧げ、盾とせねばならぬ詰みの局面だ。終局を見守る顔で、山本は笑った。

「――ともあれ。もはや儂には出来ぬが。其方ならば出来る事は残されておるやも知れぬ」

望みはある。息を吸い込んだ岸がふと気づけば、辺り一帯には強い酒の香が漂っている。

寺に屯す兵らの顔が赤いのを認め、岸は先刻の三枝の言葉を思い出し愕然と呟いた。

「山本様、まさか……士卒に酒など許しておられるのですか」

 こんな体たらくで十分に戦える訳がありますまい、と生真面目な若者の顔に大書してあるのを見て、苦笑する山本は声をひそめる。

(――岸。みなが其方のように、死地に素面で踏み込めるなどと思うてくれるなよ)

 膏薬のあたりを叩く老職に、しかし酒に逃げる兵を容認できぬ若侍は難しい顔である。

 ふと山本は、物陰へ置いてあった大徳利を水音高く持ち上げると、岸へ押し付けた。

「まあ、ひとつ持っていけ。こういう物でも、要は使い様よ」

「――ですが」

「其方にこれから与える策に恐らく必要となる。……ゆめ、道中で空けたりせぬようにな?」

 呑む訳がないでしょうとつい過言を返すが、山本は肩の骨を鳴らし鷹揚に笑うばかりだ。

 どんな策だ、と不安を覚えつつ大徳利を担ぐ岸へ、腕組みに頬杖を乗せ老爺は尋ねた。

「ときに。――何故、この儂に策などたずねようと思ったのじゃ?」

 これこの通り、見ての通りの死兵だぞと、老将は皺腹を広げて見せる。確かに、一人でも多くの兵の命を救う策などおよそ持ち合わせる身ではなかった。岸は深々と頭を下げる。

「……山本様の御庭へは、白蛇(おろち)が各地の情勢を運ぶと常々聞き及んでおります」

目当てはそれかと、年経る蛇は町を懐へ抱く山嶺を見上げた。

 宵の内に冷え込んだ翌朝には、峰々の先の山間へ真白な霧が溜まる事がある。緩やかにたゆたう濃霧は麓より見上げれば山向こうへのたうつ大白蛇にも見え、当地に伝わる神楽の名を取り『をろち』と呼ばれていた。

 また家中には、未だ目覚めぬ暁の城下を音もなく駆け抜け、さまざまな報せを御家の為に抜いて回る衆が居ると囁かれ、その束ねとされる山本の庭には白蛇が侍るとも言われた。

 蛇のごとき眼差しを据えたまま、山本は静かに訊ねる。

「――白蛇衆の助けを得て。それで、何を望む」

「何卒。関の小勢にて気持良く長州を迎え撃つ、よい御知恵を拝借できませぬでしょうか」

 小流れの囁きに混ざり、遠く、鹿威しの音が響いた。

 気持良くか、と呟くと、山本は未だ掌中に残る麩のひとかけらを人差指と中指とで挟む。

白蛇衆と呼ばれる一党を裏で束ね、領内のあらゆる情報を握るとされ、藩内の謀略、政変の陰に必ずその人ありと言われた老奸物。その山本半弥が、両の腕に抱えていた麩の大半は欲に果てなき鯉どもの腹へ収まり、今や自由に扱える麩屑も僅かしかなかった。まるで碁石のように掴み出されたそれは、山本がいずれ小刀を突っ込むだろう腹の奥底へあたため続けた、言わば最後の策と呼ぶべきものなのかも知れなかった。

「……栗鼠女」

 山本が何かを呼ばわった。りすめ、という余り聞かぬ響きに応じ進み出たのは、ずっと境内の木陰へ控えていた白装束の人物である。姿形は旅装の尼僧にも見えたが、背はごく高い。その面は白頭巾に深く覆われ、内に包む正体までは窺い知れない。

「――この栗鼠女は、白蛇衆の長を務めておる」

 紹介された白装束は頭を下げるでもなく、頭巾の奥よりじっと岸を見つめている。

「もしも儂が長州への交渉使に選ばれる秋あらばと。最早、無用の長物と化した策だが…」

 藩外交の裏へ暗躍し続けてきた老奸物も、長く伸ばした手の先へ掴んだ内情も生かせず、向けられる筒先に交渉も叶わず、事ここに至りては死すべき大駒の一つでしかなかった。

 後悔の色を滲ませる山本の言葉を、白頭巾は身動ぎもせず聞いている。

「扇原関にてあの手を用いる。差し当たり息子へ文を書くゆえ、間道を使い岸を案内せよ」

 虚空の碁盤へ打ち込まれた麩屑は、水面に落ち鯉の口中へと消える。

「――承知致しました」

 頭巾の奥から漏れ出たのは、ごく低い女の声だった。

この者をつけるゆえ、策の仔細については道中聞くがよい。とだけ告げると山本は文をしたためるべく本堂の方へ踵を返そうとしたが、ふと立ち止まり大きく目を見開いた。

 山本の驚愕の視線を追うと、そこにはなぜか頭巾を外す女の姿がある。

「そなたは……」

 白頭巾の下から流れ出すのは黄金の髪。異国風の整った面差しは、蒔絵のような金色の髪と宝玉のごとき翠緑の瞳を帯びている。遠い記憶を照らす輝きに、岸は目を丸くした。

 ひたと見据える大きな双眸が夢見るように伏せられ、薄い唇は滑らかに言葉を刻んだ。

「――貴方が死ぬまで。お傍に居ります」

 そのまま女は白い頬を赤く染め、口にした事を後悔するかのように顔を背けた。

 庭へ沈黙が落ちる。

 突如目の前へ現れた異邦の女に真正面より覚悟をぶつけられ、さしもの岸もたじろいだ。

 不可解そのものといった顔で片眉を上げている山本の表情からすると、おそらくこの白蛇衆の長という美しい女人は、普段から奇矯な言動を示すという訳でもないようだった。

 そのままもう片方の眉も跳ね上がり、なんだ其方、真面目そうな顔をして隅に置けぬな、昔に訳でもあったか、と一転し雄弁な視線で訊ねてくる野次馬へ、岸は首を振り否定する。と、その様子を見ていた女はなぜか傷ついたような顔をした。

 いずれにせよ、人ひとりが死すまで見守ろうというのだ。覚悟に応えねば非礼にあたる。そう思い直した岸は改めて女へ向き直り、目を合わせ姿勢を正し深々と一礼する。

「うむ。――そう長くはかからぬと思うが、それがしが死ぬまで宜しく頼む」

 返答を聞いた女はしばし動きを止めた。が、表情を隠すように頭巾を被り直すと、無言のまま背を向け早足で歩き出した。

 置き去りにされなんとなくその背を見送る岸に、呆れたような顔で眺めている山本から、おいお前それはないだろう、という雄弁極まりない横目が飛んできた。


「――仔細は相分かった。……実に、山本様らしい」

前を行く背中に返答はない。丈の長い草叢にほぼ埋没したような、間道とは名ばかりの獣道をどれだけ歩み慣れたものか。流れるように滑ってゆく白装束の後姿は、老将渾身の一策とでも呼ぶべきものを小声で語り終えたあとさえ何ら感情の揺らぎを見せることなく、一切の無駄口も叩く事なく、ただただ早足で遠ざかってゆく。

「――栗鼠女どの」

 名を呼ぶと、高く骨張った肩の辺りが小さく震えた。名を呼ぶのははじめての事だった。

知り合ってから随分と月日が流れたものの、そもそも名を知ったのもつい先刻の事だった。

「……」

 白い背中は雄弁に、岸の長きに渡る不在を嘆き、久闊に憤り無沙汰を詰るものと見えた。

「――怒っておいでか」

 その言葉に女は一瞬だけ足を止めたが、一層早足で歩き出した。

 岸は聞こえぬように小さな溜息をつく。山本へ答えた事は嘘ではなかった。その抜けるような白い肌の色以外、ほとんど何も知らぬ相手だった。

ふと、墓参の折にすれ違うような控えめな白粉が香る。残り香のごとく形なき面影へ、ほんの一時だけ抱かれるような、そんな浅い付き合いを交わしたに過ぎなかった。

あれは何年前か。けして色褪せる事のなかった黄昏時の金色を、岸は思い返す。


 藩から遊学の許しを得、江戸へ出てしばらく経った頃。藩屋敷からの通いの弟子ながら、岸はほぼ住み込みのような形で朱子学の私塾に学んでいた。老いた師はごく鷹揚な性格で、岸は昼の講義が終わるや書庫へ潜り、日がな稀稿書へ耽溺するばかりの毎日を送っていた。

やがてある日、師が蔵書の紙魚抜きをすると言い出し、手伝いを申し出た岸は門の外へ追い立てられた。当惑する岸を笑う師曰く、日々書庫に籠りては本にたかる大きな紙魚達に黴が生えぬよう、強制的に息抜きに出かけさせるのが当塾の紙魚抜きである、との事だった。しかし息抜きの用意など何もしておりませぬ、と紙魚が抗弁すると師は大笑いし、息抜きに用意など要るものか、と釣り竿と魚籠だけ押し付けられ門を閉められてしまった。

 いきなり道具だけ渡されても魚と遊ぶ気分には到底なれなかったが、岸はその時もごく生真面目に考えた結果、これで夕食を釣ってこいという事か、という結論に落ち着いた。

 数刻後。小雨の降りしきる中、岸はずぶ濡れの体を引きずり、去った夕日がかすかに金の尾を引く西空めざして歩いていた。遠い河岸まで出向き、大した釣果のあがらぬ苦行に集中した結果、気づけば辺りの家並みは闇へ沈み、帰路は見知らぬ迷宮へと変貌していた。家中がみすぼらしい形で道を尋ねるわけにも行かず、岸はかつて屋敷で見た地図の記憶を頼りに、この近所に一軒だけ存在するらしい藩の下屋敷を探し彷徨い歩いた。深更に至りようやく探し当てた下屋敷はひどく小ぢんまりとしており、藩の江戸屋敷というより大店の商人の隠宅といった風情だったが、門番の姿すら見えなかった。濡れた身体をどうにか門の内まで引きずり込み、掠れた声で訪いの声をあげる内、闇を見ているのか目の裏を見ているのかすらも判らなくなっていったが、最後に瞼が黄金を叩いた気がした。

 次に目覚めると、岸は狭い一間へ敷かれた布団に寝かされていた。一糸まとわぬ肉体は未だ冷たく強張り、纏っていたはずの衣服は濡れて汚れたまま、まるで誰かに脱がされたように畳から襖まで点々と散らばっていた。どこかで火鉢がぱちりと爆ぜる音を立てた。

 左肩へ押し当てられる柔らかい感触に、その時ようやく岸は同衾者の存在へ気付いた。顔を倒すと、見慣れぬ青白いうなじが視界へ飛び込んでくる。布団の中で小さく身体を震わせていたのは、金の髪に緑の瞳を持つ、ごく色の白い異邦の女だった。同じく一糸まとわぬ裸形で岸へと抱き着いたまま、ずぶ濡れで気を失ったはずの岸よりもむしろ冷え切った身体で、布団の中にも関わらず寒そうに震えている。その表情は痛ましく、不幸そうに細められた大きな双眸は、さながら突然現れた野良犬へ噛みつかれた女児を思わせた。

 驚いて裸の胸を起こした岸に気付くと、未だ若いと見えるその女は、薄い唇から何か言葉のようなものを発した。声は掠れて震え、そしてそれ以上にたどたどしく、意思の疎通にも苦労するように見えた。意味の伝わる言葉を残さぬまま、抱き着いていた岸から身を離してどうにか立ち上がった女は、傍らに脱ぎ捨てられた女のものらしき薄衣を羽織ると、襖を開け室外へ歩み出た。しかし、数歩進んだところでその足音も途絶える。岸はやたらと重い布団を押しのけ立ち上がった。抗議の鳴声に振り返れば、季節に合わぬ掛け布団が何枚も重ねられ、さらにその上へ何匹もの猫が寝転んでいた。女の後を追って廊下へ歩み出ると、そこには板張りの廊下の上へ屈み込み、己の身体を抱き震える女の姿があった。

「――どうした」

 そこからの一日は、まるで午睡の夢の様に慌ただしく過ぎていった。今思えば、慣れぬ所帯持ちの暮らしを、背伸びした子供が一丁前にやり遂げようとしていただけに思える。

抱きかかえ運ぶ女の、透き通る程の青白さ。竈のそばで懸命にさすり、白い肌へほのかに通う血の色。盥いっぱいの湯へ抱き降ろした時の、羞恥に煙る双眸。湯浴みしてやっと動けるようになったか、藍の小袖に身を包み現れた女の、見る間に染まる頬。女の後で残り湯を遣い、しかし着るものが女物しかなく、やむなく桜紋の浴衣から毛脛をはみ出させて現れた岸を見るなり顔を背け震え出し、必死に堪えようとしている女の笑顔。

 まるで黄金蝶の撒き散らす鱗粉へ惑わされるが如く、瞬きのひとつひとつに目を奪われながらも、岸はこの下屋敷のおかしさが気になり始めていた。藩屋敷らしく高い黒板塀に包まれてはいるものの、立ち番などの姿はなく、また屋敷を行き交う人の姿もない。屋敷自体も随分と小ぶりで、庭の造りからしても一藩の下屋敷というより貴人の私邸に見えた。時折鋭い視線は感じたため、人知れず警固が配されている事だけはわかった。

 無人の下屋敷で密かに守られ、ひとり暮らす異国の女とは一体いかなる素性の者なのか。

それを訊ねようと考えた時には既に女と向かい合い、居間で遅い昼餉を囲んでいた。

献立は岸の釣ってきた三尾の魚で、一番の大物は台所の隅ですでに湯気を立てながら猫達に群がられており、これは救命に合力した猫への手間賃という事のようだった。向かい合う二つの膳、舟底皿の上に脂を光らせるのが残りの二尾のようで、冷えた身体に啜り込む汁の温かさ、ただ塩を振っただけの焼魚の余りの美味さに岸は我を失い、無心に飯をかき込んだ。ふと我に返ると女は正面ではにかみながら笑っており、岸はいたく赤面した。

 あまり食の進まぬ女が残飯を猫へ下げ渡すのを見届けてから、岸は改めて礼を述べた。

 凍えた者の救命に手慣れる理由を尋ねると、女はもう幼き時分に何人も戻したと答えた。

 たどたどしく身の上を語る紅唇によれば、遥か遠い国からやってきた船乗り崩れの父、そして海賊を始めた後に攫われた母との間に生まれたというその女は、古い外洋船を家として育ち、荒れた外海で嵐に遭遇して家族や父の仲間が凍える度、船の守りとされた猫と共に、幼い身ながらもこのように凍てつく命を引き戻すのを仕事として育ったのだという。

 やがて病で母を亡くし、父の一党も壊滅し、海岸へ流れ着きひとり震えているところを、漂流者として幕府の役人に捕えられたらしい。

 そんな素性の者が、一体どうして越智松平家へとお預けになっているのか。当然浮かんでくるだろうその問いを岸は女へとぶつけたが、その時、屋敷のどこか高いところから咳払いの音が響き、それを聞いた女はぴたりと口を噤んだ。

 ときおり流れ着く漂流者の話は聞くが、いずれも押込とされ他者との接触を禁じられる。貝のように押し黙ったまま膳を片付ける女の背に、どうやら語るを禁じられた事情か、と察した岸はふと、屋敷の外観を思い出した。

 商人の隠宅のような佇まいと、貴人の別邸のごとき庭。この美貌といい、女はあるいは、藩の大身の囲われ者なのかも知れなかった。

 であれば長居するのも監視に目を付けられるのも、岸の立場を悪化させるばかりである。

 しかしそれ以上に、岸はこの女の境遇をひどく哀れに思った。おのれの意思ではなく海の上へ産み育てられ、拠るべき故岸も持たず、潮に流され家族も失いたった一人で囚われ、陸へ上がってなお、組織や偉物の間をまるで流されるように生きている。

 岸はそっと女の顔を顧みたが、そこにはもはや言葉を交わす前に貼りついていたような、犬に噛まれた女児のような痛ましい表情があるだけだった。

足元をぞろぞろと猫達が抜けてゆく。手間賃を食い尽くすと、振り返りもせず庭へ飛び降り、めいめい勝手に消えてゆく猫達は、どうやらそれぞれの家へと帰るようだった。

 やがて夕刻。物干し竿から外した半乾きの衣類を纏い、岸が屋敷を辞す挨拶をすると、女は黙って玄関前までついてきた。外の通りから姿を見られぬ辺りで足を留め、こちらを上目遣いで見つめる女は茜と金色の残光を背負い、岸は用意していた別れの言葉を失った。

 出てゆく機を失い、黙って見つめあっていると、女の双眸へみるみる涙が盛り上がる。

 狼狽する岸に、そのとき女は早口で何らかの言葉を投げつけた。涙で詰まったような喉から放たれた言葉は異国語らしく、聞き取れもしなければそもそも意味も判らなかった。その反応が面に出ていたのか、女は小さく首を振るとどこかへ駆け戻り、やがて何かを書きつけた小さな紙片を手に戻ってきた。ほとんどぶつけるようにして、その紙片を岸の胸へ押し付けると、涙の滴を散らし女は暗い玄関へと消えた。音高く戸が閉められる。

 しばし呆然としたまま、岸は己の胸を見下ろした。そこには押し付けられた紙片とともに、女が刻んでいった涙の黒点が小さく、しかし消えずに残されていた。

 塾へ無事に帰り着いてから、岸は師への挨拶もそこそこに一室へ籠り、しばらく考え込む日々を送った。考える合間に、渡された紙片に書かれていた異国語についても調べた。久々に藩屋敷へ帰りかつて見たはずの地図も探した。数日そうして悩んだ後に、さんざん迷った末に土産として選んだ鰹節を数本ぶら下げ、岸はふたたびあの下屋敷を訪れた。

 訪れた屋敷に人の姿は無く、一切の家財も消えていた。岸は通りへ戻り近在の者を捕まえ、ここに住んでいた下屋敷の者達はどうしたか、と尋ねたが、相手は当惑したような顔で、そこはずっと空家で、そもそも何処かの藩のお屋敷でもない、と答えるばかりだった。

 まるで狐につままれたような気分で、岸は白昼の通りへ立ち尽くした。

 やがて。長州へ睨みを利かせるべき越智松平家へ弟を送り込んだ一橋家の当主が、いざ弟が新式銃の仕入に亘りを付ける段などに役立つであろうと、異国語を操る漂流者のお預け先を浜田藩とした事があるとの昔話を岸が聞いたのは、それから何年も後のことだった。


 遠い記憶に残る背中は深い悲しみをたたえ走り去るものだったが、今このように早足で遠ざかろうとする背中と比べ、さほど変わったようにも見えなかった。

 岸は脳裏へ、かつて辞書と格闘し調べた異国語の綴りを思い浮かべる。

「『You came like a cat, and you will leave like a cat.』」

 発話はこれで正しいか不安があったが、はたして遠ざかりゆく女はその足を止めた。

 静まり返る森の中、地面から生えたように佇立する白装束の背は、しかし何も語らない。

 命の恩を忘れる獣への怒りも、温もりを与えながら去る落日への嘆きも、何も語らない。

「『貴方はまるで猫のように現れた そして 猫のように去ろうとしている』」

 岸のつけた訳が正しいかどうかは判らなかった。が、言葉に込められた想いについては、理解できたつもりでいた。

「……その節は、某が不覚にも行き倒れたせいで大いに迷惑をかけた。屋敷をすぐに引き払わねばならなくなったのもきっと、そのためであろう。――すまなかった」

 行き倒れとやむなく接触した事を咎められ、異邦の娘は別の押込先へ移されたのだと、そう岸は考えていた。であれば、すべては己のせいだった。

「……あの後すぐ、屋敷を訪ねたのだ。しばらく市中を探し歩いたが……そなたを見つける事は叶わなかった。満足に礼も出来ず――すまなかった」

 純粋に礼をしたかった気持ちは深い謝罪の意へと変わり、重い心を抱えたまま岸は市中をさまよい歩いた。成果の出ぬ探索の果てに残されたのは、後味の悪さと後悔だけだった。

「――」

 白い背中は何も語らない。

 やがて、長い年月を経て届けられた答えを否定するように、再び早足で歩き始めた。

 重みを増したように感じられる大徳利を背負い直しつつ、岸は答えを誤った事を悟った。


「――御頭が戻られたぞ」

 関の直上、こちらを窺っていたらしい島田代三郎が不意に立ち上がり、手を振った。

 手を振り返すと、途端に足が疲労を自覚し始め、岸はここへ至る長い道程を思い返す。

 扇原の関に寄って仔細を話し、副長格の島田へ留守を預け、配下らの制止を振り切ってふたりきりで関の外へ出た。ふたたび間道へ合流し密かに隣藩へ侵入すると、長州より進発した軍勢接近の報を受けたか、その通過にあたり衝突を避けるためか。城下は籠城準備のさなかにあり、忙しく行き交う人や牛馬に二人は見咎められる事もなかった。まず訪れたのは、元は出羽の名族という小野寺なる藩士の屋敷で、そこへ養子入りし跡を取っていた山本の三男は籠城の命にも従わず家へ残っていた。実父の手紙を渡すと難しい顔で読んでいたが、読み終えると手紙を大徳利へ結びつけ、御典医の家へ届けるよう二人へ告げた。典医こそ藩主附なのだから登城して不在なのでは、と首を傾げながら訪れた西という典医の家では、なぜか昼間から泥酔していた主人が不機嫌そうに手紙をひったくり一読するや、『大亀は井戸へ籠り 我が策は城外へ出ず 我が智嚢は蔵内に在り いざ疾く持ち往かん』と漢詩めいた一節を喚かれたうえに酒も奪われて追い出されたので、やむなく二人は屋敷の隣に建つ蔵へ入り、どうにかそれらしいものを見つけ帰ってきた。

「――よくぞ。よくぞご無事で戻られました」

 再び固く閉ざされる関門扉に背を押されるように関の内へ戻れば、梯子から飛び降りた島田は安堵した顔で、危険を冒し関の外へ出た岸と栗鼠女の全身をくまなく見廻している。関の外は既に死地にして戦場、長州兵のみならず石州民までもが落ち武者狩りに竹の槍先を揃え襲ってくる、とでも考えている様子だった。岸は眉を寄せる。

「……ところで御頭。見ぬ顔ですが――そちらのお子は?」

 島田は岸が左手に掴んでいる男児を指さした。

 岸が右袖を掴んで連れてきたのは、未だ年七つにも満たぬと見える前髪の子供であった。

 林太郎というその子供は、西の縁戚にして、同じく御典医の家の嫡男だと言う。

 御典医の西がそこにあると告げた己が智嚢とやらを探すため二人は蔵へ入ったのだが、中ではこの子供が静かに独習しているだけだったため、連れ帰ってきたのであった。

 流石にこのような幼子が智嚢という事はあるまいと躊躇する二人へ、蔵の中の子供は気負い無く、藩学問所にて元服相応の学識を認められております、と返答したのを思い出す。

『策は伯父より預かっております――形こそ童ではありますが、頭はお役に立ちましょう』

岸が回想から戻ると、掴んだ袖が振り払われた。襟を整え、男児はおのれの口で答える。

「一石州人。森、林太郎と申します」

 子供が胸を張り口にした言葉は、石州のあたりだけやたら強調されていた。関の向こう側へ住まう同州者として、やはり島田の反応を面白く思っていない証左でもあった。

 小野寺や西、そしてこの林太郎の反応を見るに、どうやら隣藩も一枚岩ではないらしい。

「――林太郎どの。変名を。ここでは異名を用いて下さい」

 ずっと黙っていた栗鼠女が白頭巾の奥から注意を飛ばすと、林太郎は弾かれたように身を震わせた。隣藩の微妙な立場を思えば、ここで明確に石州者を名乗るのは悪手である。

ちょうど、関門頭の帰還に気付いた兵や家中らが口々にお帰りなさいと集まってくる。

 頭、その子供は何ですか、と尋ねる他の家中の問いへ答える形で、林太郎は咳払いした。

「……森林、太郎。しんりんたろうと申します」

 雑な変名だと岸は呆れるが、兵らの反応は上々だった。笑い声があがる。

 まるで妖のような名じゃ、化生が男児に化けてきたか、と言い交す兵らへ林太郎は頷く。

「――その通りです。青野の森に住まう物の怪が、関の兵へ策を授けに参りました」

 いよいよ笑い声が広がる。そんなかわいらしい物の怪が居るものか、と誰かが言い返し、さらに笑いが大きくなった。策とは何の策じゃ、と尋ねられて、林太郎は胸を張る。

「長州の軍勢とまともにやり合うための策です」

 童子の堂々たる返答に、一瞬の沈黙が訪れ、そして盛大な笑いが爆ぜた。

 関を挟む山の両面へこだまする大爆笑の中、私は真面目に話しているのです、と激昂し声を張り上げる林太郎へ、もうよい、やめてくれ、と腹を抱える兵らが口々に懇願する。笑い過ぎて涙を浮かべている家中らも、新月の刺客、闇夜の鉄砲、いや今のは実に不意打ちである、こんなに笑ったのは久々だ、と突然現れた童子の一芸を全員で褒め称えている。

 岸の額へ音もなく青筋が走る。その横顔を認め、栗鼠女は頷くと音もなく数歩退いた。

 幼児とはいえ男一人が面と向かって物を言おうという時に、笑って取合わぬとは何事か。

おのれがしばし留守にする間に関門兵らのこの変わり様。果たして一体何があったのか。

 岸はその時になってようやく、三枝刑部の残した奇妙な約束を思い出した。

 嗅ぎ慣れぬ香に顔をしかめる。すると、既に造り酒屋へ連絡が行ったものか。覚えのない酒樽や大徳利が山をなしていた。幾つかは既に開けられ、関門兵らのだらしない笑顔を赤く染め、辺りへ酒の香を振りまいている。岸は無言のまま井戸前の洗足桶へ水を汲んだ。

 黙って見つめる岸の問いに、ああ、と島田がやや赤く見える笑顔を浮かべる。

「御頭の差配とお聞きしました。皆有り難く頂戴しまして、先に呑らせて頂いています」

 酒の山を指さす島田の顔面目がけ、岸は勢いよく桶の水をぶちまけた。

 笑声が驚愕へ変じ、火でも付けられたように酔漢どもが飛びあがる。突如訪れた沈黙の中、滴を落とす島田はしばし呆然としたのち、何をなさるか、と食ってかかった。

「島田。――なぜ、信じなかった」

 怒気も露わだった島田の顔貌が、不可解そうに歪む。もう忘れているのか。

「扇原関門頭、岸は。確かに伝えた筈だ――長州の寄せ手に抗する策を得、必ずや戻ると」

「それは……」

 井戸水と酒気とにまだらに彩られた島田の顔へ、さらに気まずげな表情が加わる。

岸はごく静かな面持ちで頷いた。

「わかっておる。みな、そんな事など出来る訳がないと思ったのだ。――ゆえに、我らが関の外へ出てゆく時も止めにかかり、また、酒が届けられたならば躊躇いなく呑みもした」

 どうせ何をしても無駄だと、みながそう思っているからだ、と岸は切り捨てた。

 つい先刻まで陽気に笑い騒いでいた酔いどれ共は、いつしかうなだれている。

「だがこの岸。確かに約束は守った。――寄せ手の大軍へ抗する術を、持ち帰って参った」

 弾かれたように面を上げる兵らの眼前には、菅笠を持ち上げる林太郎の真顔がある。

 一人、また一人とその場に腰を下ろしてゆく。やがて、地面へ二十人の男達が列座した。

 岸は少し考えてから関門の上へ登り、紋旗の前に立った。座す皆の顔は朝よりも遠い。

「皆。――毎朝の訓示の内容を、覚えているか」

 首を上げる皆を見下ろし、問いかける。皆は顔を見合わせつつもめいめいに頷きを返す。

「江戸の幕府を。枝葉の親藩らを。長州は、一体何と評していたのだったか。――島田」

 名指しを受けた島田は躊躇うような間を置いてから、みじかく答えた。

「……病、と」

 幕府を病人に模し、おのれを医家と擬す。そのような論調は、長州藩内の主戦派の舌上でさんざん弄ばれ馴染んだものなのか。他藩へ送る書状の文言にまで深く染み通り、その底意を透過させていた。たまに山本がこぼす話より漏れ聞いていたそれを、岸は配下の兵達へと常々、語って聞かせていたのだった。

「左様。病根断つべし病禍祓うべしと、大した気炎であるらしい。――だが。なぜ長州は、干戈を交える相手をわざわざ病と決めつけるのか?……たへえ」

 名指しされ汗を拭うたへえは、話の内容を思い出すように斜め上を見ながら答えた。

「へえ、お頭様……病じゃちゅうことにせにゃ、兵を挙げる言い訳ができんと聞きました」

 いかにも学のなさそうなたへえの百姓面を、林太郎が驚きの目で見つめている。

「そうだ。相手を病とすればこそ、上の者にも逆らい得、また秩序を乱す名分も立つ。

 だが。相手から病と呼ばれる者と、相手を病と呼ぶ者――一体、どちらが本物の病人か?」

 する必要のない問いだ。後方で栗鼠女が身じろぎするのが分かった。

 ここは松平家が守る関であり、しかし同時に、程なく長州の手中へ陥ちる関でもあった。

 目を逸らしたり俯いたりする皆の顔を教師のごとく一通り見回してから、岸はたへえに目を留めた。すると、たへえは忙しく顔色を変えながら周囲の男達へと目をやった挙句、最後には目を伏せ、関に立てかけてある火縄銃を見やった。岸へ上目遣いを返す。

 岸は思わず微笑んだ。気働きのできぬ粗忽者こそが、最も正直な答えを返してくれる。

「そうだな。誰が病であるかを判じるのは衆目。しかし、誰が病であるかを決めるのは、結局――力、ということなのかも知れぬな」

 朱子学の教えとは相容れぬが、世の人等が産まれた時から身を委ねる徳川将軍下の秩序もまた、やはり二百五十年ほど前に力によって定められたものである事には違いなかった。

「さて。世の衆目の見るところ、病に冒されておるのは長州の方ということになるだろう。しかし。長州の振るう力の前に、病に冒されしは幕府である、とされるやも知れぬ。

 ――果たして。一体どちらの意見に賛同するべきであると、皆は思うか?」

 その評定めいた岸の問いかけには、誰一人として答えない。答えられない。おのれが産まれる遥か昔から定まっていた世の理へは、逆らうことを考えるのさえ難しい。が、抗い難いそれらに平然と手向かう者らが今や眼前に居り、しかもこちらへ砲口を向けている。双方の板挟みとなる身からすれば、背中より撃たれるか正面より撃たれるか位の違いしかない。結局被虐を避けられぬのならどちらも選べない。恐怖は、選択そのものを拒絶する。

「……時に、たへえよ。以前耳にしたが――母御の病が進み、困っておるそうだな?」

 だしぬけに己の母へと話題を変えられ、たへえは目を見開きつつも、へえ、と首肯した。

「其方の母御は、家族や村の者がおかしいと叫び――ありもせぬ疑いをかけるのだとか」

 恥じ入るたへえは赤面し俯く。周囲の兵達もみな近所の者なのか、苦笑を浮かべている。

「そんな時、たへえ。お主はいつもどうするのだ? 母の気が済むまで放っておくか?」

 迷惑をかけた皆へ謝り、家に連れ帰り、よく言い聞かせております、とたへえは答える。

「それは何故だ? 母を病と知るお主の考えが正しい故か? お主が母より力ある故か?」

 いえ、違います……と否定しながらも、たへえの瞳には理解の光が宿りつつある。

「そうだ――病と言ってやらねばならぬ。たとえ相手に力あるとも。己の力足らずとも」

 人を病呼ばわりし攻め寄せる相手を、逆に病と呼び締め出す。因果応報の理でもある。

 男達はふたたび顔を見合わせるが、どうやらその眼光から迷いは消えたようだった。

「何も難しいことは求めぬ。お主らはただ、言うだけでよい。――言おう、病と」

 応、と綺麗に揃う二十の返事は、教練の成果を示すように、誰からともなく発せられた。

 扇原の関ではなく塾だったのですね、とよく判らない事を口にし、林太郎が挙手する。

「さて。そこで――いかなる病かについてですが。『先日より長州にて広まりつつあるという重篤な肺病を押し篭め、石州北部へと広げぬ為』とし、長州の軍勢の足留めを計ります」

 伯父より授かったという腹案を垣間見せる林太郎へ、兵達も期待の視線を注ぎ始める。

 話がまとまったと見て、栗鼠女が後方から歩み出た。低いながらもよく通る声を放つ。

「……もはやあまり刻は残されておりません。わが手の者が掴んだ内情によれば、長州藩内にて石州方面への派遣軍は編成を済ませ、既に進発している頃合とのこと」

 白蛇衆の長の言葉に途端にざわつき出す兵らを手を挙げて制し、岸は訊ねた。

「――将をつとめるは誰か」

「戦場に臨み長州勢を率い、采配を振るうは――大村益次郎、なる人物と聞き及びます」

 岸は首を傾げる。三年前切腹させられた家老衆の跡継ぎでもなく、名に聞き覚えもない。

「……旧名は村田蔵六。もとは藩内の医家の出、とのことですが」

「ああ――鋳銭司の。あの村田ですか」

 栗鼠女の補足に反応したのは林太郎であった。近隣の医家同士、繋がりでもあったか。

「太郎。その大村益次郎――村田蔵六とは、いかなる人物か」

「ひどい偏屈、との評しか聞いた事がありませんが。とても軍才があるようには……」

 首をひねる林太郎の評は振るわぬが、単にそれだけの小物ならば方面軍など任されまい。

 いや、問題はそれよりも。

「どういう次第かは知らぬが、医家が指揮を担うとは。……偽の病と、見抜かれまいか?」

「いえ――」

 否定する林太郎はごく奇妙な笑みを貼り付けたまま、栗鼠女の白頭巾、めいめい離れて座す男達、そして関門に山と積まれた酒樽を、順繰りに見ている。

「――何も。問題ありません」


 六月十六日、白昼。

 斜面を覆う竹林より垣間見る長州軍の陣容は、ただ長躯の腹を伸ばし、尾を未だ見せぬ。

(報告の通りであれば――おそらくは百五十余名にも至るかと)

 関近くの森。指折り頭数を数える岸へ、傍らの藪に潜む栗鼠女がその声だけを届かせる。

 銃兵の後に続く大筒持ちを見、岸は顔をしかめた。あれは大鉄砲だ。いや抱え大筒か。

 攻城軍の陣容である。益田を抜き浜田城を落とす意図を思えば、至極当然の編成だった。

 車曳きの砲でなくとも。あんなものが火を吹けば、扇原関門などすぐに破られてしまう。

 行列の進みが鈍くなったのを認め、岸は十文字槍を抜きつつ口元の白布を引き上げた。

「では――行って参る」

 危険ゆえここへ残れと伝えたつもりだった。が、白装束は音もなく立ち上がる。

「すでにお伝えした筈です。――貴方が死ぬまでお傍におります、と」

 抗弁は無駄のようだった。岸は無言のまま藪を漕ぎ、関前の小広場へと歩み出る。

 関より銃が届くか届かぬかの距離には既に軍勢の先頭がとぐろを巻き、固く閉ざされた関門、そこに立つ番兵を眺め談笑していた。雰囲気は弛緩し、長旅の小休止といった趣。加えて、長州兵の面に貼り付く表情には、時代錯誤な長物と態度を構える古骨董への憫笑や、あるいは関門兵が全員白い布で口元を覆う奇妙さへの嘲笑くらいしか認められぬ。

 参道入口の狛犬ふぜい、あえて撃つまでもないといったところか。岸は門前へ歩み出た。

「――止まられよ。それがしは越智松平家家中、浜田藩扇原関門頭、岸静江国治である。これより先は浜田藩領。何処の一党かは知らぬが、かくのごとき多数の軍兵を催し、大筒小筒を携え、関を跨がんとする乱心者を見過ごすわけには参らぬ。――疾く去るがよい」

 岸が十文字槍の石突を大地に打ち付けると、にやにや笑いの群兵の中からひとりの男が進み出た。兵とは思えぬ簡素な平服に、腰へ石板一枚ぶら下げたきり、あげく無手である。

(――大村益次郎か)

 慈姑頭に、火吹き達磨と渾名される顔貌。栗鼠女から聞いた特徴は見間違え様もない。

 護衛のつもりか長銃を抱えた士分が二人歩み出、大村の先導を務める。

 岸の正面に立ち、銃士越しに前置きなく話し出す大村は、特に名乗りもしなかった。

「関守殿、もう十全にお役目は果たされた。悪い事は言わぬ、黙って通すが宜しかろう」

 岸は黙って銃口を見つめた。おのれの口以上に物を言うのが何か、相手は知悉している。

「その物言いは、関通行の内約があるという意味か。が、藩よりそのような連絡は受けておらぬ。これより城へ人を遣り其の方の言い分を改める故、それまでこの場にて待たれよ」

 岸があえてとぼけると、銃士の片方が早くも眦を釣り上げ、進み出て胸倉を掴みあげた。

「――きさまッ、これでも通さぬ気かッ」

 片手で握る長銃の先を胸板へねじ込み、声を張り上げる。岸は静かに告げた。

「……病が感染るゆえ。いま少し、離れてもらえぬか」

「何だとッ」

 返答として、顔を近付け過ぎた銃士の死角より十文字槍が電光のごとく翻る。飛び込んだ石突きに鳩尾を強打され、銃士は苦鳴も漏らさず吹っ飛んだ。

 苦痛と驚愕の表情で地に伏す兵は、何が起きたかわからなかっただろう。組み付けば槍の間合いより外れるという軽侮は、知見と鍛錬の不足は、新式銃士にさえ土をつける。

 罵声とともに銃を構え立ち上がろうとした銃士の顔面へ、関上に隠れた兵よりぶち撒けられた、盥いっぱいの酒が直撃する。ふたたび銃士は大地に沈んだ。

 その余波の飛沫を浴びる岸は、腕にかかる酒の滴で、悠々と手をこすり洗っている。

 途端に色めきたつ後方と早くも岸を撃とうとするいま一人の銃士を抑え、大村は訊ねた。

「待たれよ――病、と申したか」

 大村の巨眼は皆の口元の白布や、ぶち撒けられ香りを広げる酒を忙しく見比べている。

「左様。長州口より病の流れ、兆し有りとの報を受け、我らは関にて防いでおる。…太郎」

食いついた、との岸の視線を受け、同じく白布で口元を覆う少年が傍らへ進み出る。

「……先ごろ。長州の馬関にて、寄港した水主の数名が、性質の悪い肺病にて死したと耳にします。その病は街道沿いに広がりつつあり、やがて長州を抜け石州へ至ると目された為、かように関を塞ぎ、物人の往来を禁じておるところです」

 病の蔓延を防ぐには、と殊更説明口調になる太郎の声を、後方の長州兵らも聞いている。

「ひとつ。病人を隔て。ふたつ。また己も肺病へ罹患せぬよう鼻口を覆い。

みっつ。金創を洗うがごとく身を清潔に保つ。――これが、肝要です」

淀みなく述べ立てる太郎を、達磨めいた大村の巨眼が見下ろし、この子供は、と訊ねる。

「――近在の、太郎と申す者。蘭方・西洋医術へ通じ、病の防ぎに詳しい」

 医家相手と思い注意深く答える岸の前で、大村はまじまじと林太郎の顔を凝視している。

「……そう言えば以前。片手ほどの歳ながら能く学を修める、医家の惣領が居るのだという話を耳にした事がある。だが確か、その子供は浜田藩領ではなく――」

「――いやしかし暑い。こうも暑中の行軍となると、既に病を得た兵も多く居りましょう」

 まずいと感じたか林太郎が強引に話題を変えた。大村は皮肉げに唇を曲げる。

「……夏は暑いものだ」

「先刻の顔合わせといい、今のお答えといい。長州の医家は挨拶も習わぬのですか?」

「書生。兵の挨拶を異国語で何と言うか知らぬか。まあ医書には載っておらぬだろうがな」

「先刻の態度といい、今のお言葉といい。人を脅しつけず真っ当に対話も出来ぬのですか?」

「書生。屋敷に籠り白飯を喰ろうて書見三昧では、頭は膨れても足は萎えるばかりぞ」

「白飯を喰うて足が萎えるなど聞いた事もありません。医術の勉学が足りぬのでは?」

「書生。書見ばかりしておるゆえ身体も小さく、見識も狭いのだ。兵と同じ飯を食い学べ」

 突如始まった林太郎と大村の言い争いは終わりが見えず、岸はひとつ咳払いをする。

 ふと我に返った大村は小児の相手をするのをやめ、岸らの口元の異装へ目を留めた。

「成程。その病とやらへ抗す為にと、関の兵らはかくのごとき、白き布? を纏い……」

 大村の問いかける視線に、林太郎の目が泳ぐ。岸は門脇に控える栗鼠女を振り返った。

「――Mask.」「ますく、と言います」

「そのますくを纏い、先刻のように、金創に用いるが如き強き酒精? にて身を清め……」

「――Alchol.」「あるこおる、と呼ばれております」

「そのあるこおるにて身を清め、病が感染らぬ間合い? を厳に保っておるわけか」

「……Social……Distance.」「そおしやる・でいすたんす、と言い慣わすものです」

 口添えをする白装束へ目をやり、大村は得心した様子ながらも、しかし、と呟く。

「――いずれにしても、我らには関わりなき話だ。この中に病を飼う者など一人たりとて居らぬ。頑強、頑健、いずれも選りすぐりの若者ばかりだ。関の通過に問題はあるまい」

 軍勢なのだから当然の話ではあった。が、言葉の途中より、後方にて咳込む声が相次ぐ。

 眉をしかめ振り返る大村の眼前では、関前の細道に伸びる兵列が、風を追い走る土煙に襲われ次々に咳き込んでいた。風の通り易い山間の直路、加えて普段なら毎日行う、関前の土埃を抑える水打ちも今日はしていない。突っ立っていれば咳き込むのは当然だった。

「……石州の民へも。病を広げ流行らせ、苦しめるのが目的である、と申すのか?」

 その岸の言葉に続いて関より、病人は帰れ、病を持ち込むな、迷惑だ、と罵声があがる。痛罵を黙って聞き終えたのち大村が引き戻した顔は、変わらぬ感情なき達磨面である。

「――しかし。肝心の、病の名を聞いておらぬ。如何なる病か知らねば、診る事も叶わん」

 岸は林太郎と顔を見合わせると、軽く頷いた。そこは事前に話し合い決めてあった。

「馬関肺炎。――そう呼んでおります」

 馬関の港で認められた得体の知れぬ肺炎なれば、その名が妥当だと考えただけだったが、その言葉に大村の傍ら、銃士の二人が眉を跳ね上げる。

「馬関、肺炎とは。道中一度も耳にする事のなかった病だが。……しかし、生国の地名を病につけられるのは面白くないものだ。それにこれなる二人は他ならぬ、馬関の産でな」

 両脇の銃士を両手で示し、大村は口元を歪めてみせた。笑っているらしい。

「名を変えてくれぬか。いや、正しき病の名を教えて欲しい。……医術については、いささか当方にも心得があるのでな。知る病であれば、病かどうか判じる事も出来よう」

 虚偽の病で難癖をつけるだけならば、医家相手に病の実名は挙げられぬと踏んだのか。

 俯いて考えこんだ林太郎が、虎狼、と言いかけたところで、大村がその先を引き取る。

「――虎狼痢か。虎狼痢ならば診た事がある。よく知っておる。文政に大流行りした故な。渇水、下痢、体の冷え、痙攣……診たところ、我らの中に虎狼痢の者は一人も居らぬな」

 失策に、林太郎が顔を歪める。田舎医と侮りすぎたか。岸は声を張り上げた。

「――ころなである」

「何」

「この病の名は――虎狼奈である。強き虎狼すらかかり、苦しむと言われる病が、虎狼痢。そして一方で、虎狼すらかかり、容易く奈辺へ行ってしまうとされる病が、虎狼奈である」

 半笑いの形に唇を固めた大村が、笑い出す一歩手前の声で、ころな、と呟いた。

「寡聞にして知らぬが……その、虎狼奈なる病とは。一体、いかなる病であるのかな」

 岸は彼方で土埃に咳き込む、長州兵らに目をやった。

「この肺病は。世を乱し、多くを殺し――じょうい、じょういと五月蠅く肺を鳴らすのだ」

 岸のその答えに大村は一瞬沈黙し、そして、急にけたたましく笑い始めた。

 両脇の銃士がたじろぐ程の哄笑ののち、岸へと振り返った瞳は一転、憎悪に満ちている。

「……関守殿、いや――岸殿。我らを通す気など全くない事はよくわかった」

 銃士二人を促し、大村は踵を返す。振り返る肩越しに一言だけ、捨て台詞を残してゆく。

「岸殿――目前のたくちっくではなく、全体のすとらぎいを見ねば、良将とは言えぬぞ」

 悪意に満ちた言葉は、単語の意味が分からなくとも、何を言われているかは理解できた。

「……目の前のおのが責へ。正面から取り組むが――士である」

 岸の低い返答へ、では見習う事と致そう、と大村は遠ざかる嘲笑にて応じた。


「――あれは何をしているのでしょう」

 閉じた扉の前に槍を突き立て、ひとり門前に総身を晒す岸に、関の上より声がかかる。

 林太郎の不安そうな眼差しの先には、竹林に梯子を立てかけ、登る大村の遠影が見える。

 腕組みをしたまま岸は、見習っておるのだろう、と答えた。位置を変え梯子を登り、遠間より様子を伺う大村は、手元の黒石板へ何かを書き付けているらしい。やがて屈んだ兵らの輪へ沈み、灰墨のようなものを振るい一心に書き連ねる音が、関の方まで響いてくる。

 目の前のおのが関へ正面から取り組むが侍である。明確な挑発の言葉だった。

 やがて書き終えたか、大村は二人の将らしき兵を近付け、屈んだまま指示を飛ばした。灰墨が振り下ろされると、二人の将はそれぞれに銃兵の一隊をまとめ、動き始める。

「……始まるぞ。各々、銃眼につけ」

 関の上へ横たわり、横に渡された丸太の隙間からがちゃがちゃと銃口を突き出す兵らの緊張が背中にも伝わってくるが、岸は十文字槍を引き付ける事もせず腕組みを続けていた。

 読み通り、二隊は関門へ迫る前に左右に分かれ、道から外れ森の中をめいめい進み始めた。必勝の一手である。兵力に勝る長州側が関を迂回し、森の中を左右より抜ければ、関は兵を割き阻止に出るか、或いは後方に回り込まれ退路も切断、包囲されるより他にない。

 程なくして、左右の森の中から銃声が響き始めた。長州兵の驚愕の声がそこへ混ざる。

 こうなる事を見越し、岸は栗鼠女に頼み呼び寄せた白蛇衆配下の数名を、関の左右の森に伏せさせておいたのだった。目立たぬ色の衣服に全身覆われ、また隠形を得意とする白蛇衆は、樹上や地裂に潜み、短筒の扱いに慣れた腕で思わぬところから牽制の銃撃を放つ。

 恐らく相手を視認できぬまま撃ち合いが始まり、そして立て直す為に森の外まで退がる。

 大村が仕掛けてくるならここだ、と岸は見ていた。小部隊が両脇に迂回する牽制で関の兵力を一部引き付け、更に手薄となった関を大兵力で圧迫し撤退を促すだろうと思われた。

 大村の指呼に従って兵達は腰を上げ、そしてにやにや笑いのまま戦列を組み迫り来る。

 近づけば相手は避けると確信する兵達の笑顔を見て、岸は祭礼へ疾走する山車を思った。三年振りの祭典の、その狂熱に浮かれた病人どもが、神輿を担ぎ横車を通そうとしている。冷水を浴びせるなら今しかなかった。背を押す風の中、岸は命じる。

「あくまでも病を広げんとするか。その熱に浮かれた頭を冷ますがいい。――やれ」

 いくつもの酒樽が返され、関の上から一斉に養老の滝の如く酒が流れ落ちた。長州兵が指さして笑う。酒精の飛沫は風に乗り、兵の先鋒まで届き、ほんの一時だけ目と鼻を灼く。

 届かぬと知りながら石が、矢が飛ぶ。槍まで投げられた。顔を拭うさなかに銃声が響き、放たれた僅かな銃弾が足元を穿つと、兵は罵声をあげ道脇の茂みに飛び込み応射を始めた。

 弾の無駄でしかない遠間での撃ち合いが始まり、岸は弾雨の中に大村の姿を探す。

 大村は戦列後方にて、大鉄砲持ち、抱え大筒持ち等の掣肘にかかりきりとなっていた。それもそうだ。こんな関へ貴重な砲弾を使うのは惜しい。銃弾さえも惜しいはずであった。

 銃声に負けぬ胴間声でがなり立て、銃撃の中止を命じる大村が、ふと空を見上げる。

 見る間に辺りが暗くなる。夕日も見えなければ夕焼も差し込まぬ山間は、日没以後もしばらく空は明るいが、まるで蓋をするようにいきなり暗くなる。急な夜の訪れは、海辺や平野に多くが暮らす長州者にとっても未知の経験であるようだった。兵達の動きが止まる。 

 舞い降りた闇の帳へ射線を塞がれ、辛くも今日の戦は乗り切った、と岸は溜息をついた。


 夜が深まると、道を跨ぐように大きな円陣を敷き、長州兵は盛んに篝火を焚き始めた。警固の番兵も多く立つ。それを認めると、関門前にひとり屹立する岸は、おのれの両脇に燃え盛る篝火へ水をかけ消した。

なぜ消すのですか、忍び寄る兵が見えぬのでは、と危惧する林太郎の声に、岸は答える。

「兵法に曰く――小勢ならば夜襲に励め、多勢ならば夜襲へ備えよ。とな」

 まあこれは作法、礼儀の如きものに過ぎぬと岸は苦笑する。ただの定石の応酬であった。

 闇に沈む関より長州の陣営を眺めていると、誰かの悲鳴じみた抗議が聞こえてくる。

「御頭――何者かが、長州の陣中へ引っ張られておるようです」

 関の上より様子を伺う島田の報告に、にわかに徴募農兵らが騒ぎ出す。知った声らしい。

 あれは村近くの寺の住職だと言い交わす間に一発の銃声が響き、やがて程なくして念仏が聞こえ始めた。命乞いかと思いきや、農兵によれば弔いの折に聞く読経と同じだという。

 長州兵らは掘った穴を囲み、拉してきた僧に読経させ、弔いめいた事をしているらしい。

 岸は首を傾げる。先刻の撃ち合いにて斃れた兵がいるようには見えなかった。それに、もし死んだ兵が一人でも出ていたならば、夜になろうが更なる犠牲が出ようが、長州兵はこの関門を蹂躙せずにはいられなかったであろう。とすれば、死したのは一体誰なのか。

 考えるのを放棄し、岸は関門扉へ背を預けた。闇夜で相手方からはよく見えぬ事を幸いに、立ったまま眠るつもりだった。寄りかかると扉向こうより小さく息を飲む音が聞こえ、預けた背中は温かい。両開きの扉はほんのり熱を帯びており、先程の声からも察するに、これはどうも扉向こうへ栗鼠女がずっと背中を合わせているものらしかった。

 いつかの黄金を思い返しながら、微笑む岸は安らかな眠りへ落ちた。


 ようやく山際へ顔を出した朝日を背に、誰かが何かを叫んでいる。逆光でよく見えぬ。

 後光を背負い彼方へ居並ぶのは長州兵だという事に気づき、岸の意識は覚醒した。

「関守殿。――貴殿へ呉れてやる事の出来る時間は、もう過ぎた」

 刻は既に朝。道の先で再び横列を組むは銃兵の輪郭で、何かを宣告するのは大村の声だ。

「貴殿はよく士卒を統率し、よく関を守り――そして善戦空しく、昨日の戦いにて斃れた」

 大村は一体何を言っているのか。それとも、己はまだ関にもたれ見る夢の内に在るのか。

「――我らはその奮戦に敬意を表し、一時進軍を停止し、役に殉じた関守を丁重に葬った」

 岸は昨夜長州陣営にて行われた、誰かの法要めいた催しを思い出す。もしや、あれは。

「……とはいえ。我らも主戦場への遅参に、言い訳が叶うは――せいぜいそこまでだ」

 おのれの後方、空の墓穴を指し示しながら大村は告げる。

「もう墓掘りも読経も、貴殿の弔いならば全て済んでいる。さあ。そこへ埋めるべき――関守の骸を寄越せ」

 ゆるりと歩み寄る銃兵の列に、ここまでか、と岸は悟った。頭上では島田が抗戦の準備に忙しく動き始めていたが、もはや岸に抵抗する気はなかった。大村は己という肉板一枚のみを犠牲にせいぜい時間稼ぎをしようと試みる関守の魂胆などとっくに見抜いており、その上で、最も流血や費消の少ない方法を用い、岸だけの首を取りに来てくれているのだ。

「――島田。兵をまとめ益田まで退け。また、徴募兵はここで任を解く。ご苦労だった」

 関の上で一切の物音が止む。やがて島田が、絞り出すような声で、はい、と答えた。

「林太郎。礼を言う。ここまでよく尽くしてくれた。藩の者に、責任を持って家まで――」

「一人で帰れます。かつて藩境近くで道に迷った折、ある方に会い、送って頂いたのです」

 それに、と声が背中から聞こえると、大扉が開き、栗鼠女が舞姫のごとく横へ躍り出た。

「岸どのの為に尽くしたわけではありません。――岸どの、栗鼠女どの。……さようなら」

 振り返るも走る後姿は既に遠く。林太郎は死地から、あるいは己が恋情から、遁走した。

 さて、と岸は傍らを振り仰ぐ。そこへは栗鼠女が背中合わせに小刀を構え立っている。

 改めて正面より顔を覗く迄もなく、死ぬまでお傍に居ります、とそこには大書してある。

 命の恩を返すなら今だった。何より価値ある己が命の恩は、より貴き命でしか返せぬ。

「栗鼠女どの。――ひとつ、頼みを聞いてくれまいか」

 脇差を外し静かな笑顔で押し付けようとする岸を、栗鼠女は屹と睨み返す。

「それがしの浜田の屋敷へ、中村友太郎という子供が寄食しておる。その者へこの祐正を。――わが形見として、届けてくれまいか」

岸の本意などとうに伝わっている。それでも栗鼠女は弱々しく首を振り、俯いた。

 岸は微笑む。あのとき間違えた答えを、正しく答え直すのもまた、今しかなかった。

「……栗鼠女どの。かつて、そなたに言われたな。

『貴方は猫のように現れ そして猫のように去ろうとしている』と」

 栗鼠女が首を横に振るのは、恩を受け取ろうとせぬのは、薄情な猫を追うが故だった。

「――その言葉への返答をずっと、伝えられぬままでいた」

 かつて異国語の書物と格闘し探したのは、投げつけられた言葉の意味だけではなかった。

「I came like a Samurai. And. I will leave like a Samurai.」

 頭巾の奥へ隠された真緑の双眸が、驚きに大きく見開かれる。

「――我はサムライのごとく来し そして サムライのごとく去らん」

 下命通り撤退準備へかかりつつ、開け放たれた扉の先へ覗く二人の様子を見るとはなしに見ていた兵達のその全員が一斉に、おいお前それはないだろう、という表情を浮かべた。

 栗鼠女も犬に噛まれた様な目で岸を見つめていたが、やがて、ぷっと小さく吹き出した。

 頬を掻く岸に、涙をこぼしながら慎ましく笑っていた栗鼠女は頭巾を外す。黄金の髪を振り、その細く白い指で涙を拭うとようやく、差し出された脇差を大事そうに受け取った。

「――承知致しました。……しばらく、お傍へは行けそうにありません」

 花のような笑顔で告げると踵を返し、羚羊の如く彼方へ駆けてゆく。振り返らなかった。

その後を追うように兵達が、遺してゆく指揮官へと一礼し、おのおの逃げ散ってゆく。

 脇差を受け取る際に飛び散っただろう涙滴は、いつかのように胸元へ黒点を刻んでいた。

それを見下ろし岸は清々しい気持ちで笑い、そうして近づく死神達の足音へと振り向いた。


 数多の銃弾に肺腑を貫かれ、岸は口から溢れ出る鮮血を飲み下した。槍に縋り天を仰ぐ。

(――流行り病のころなが。関より溢れ出し、世に広がってゆくところだ)

 じょういじょういと己自身が肺病のごとき喘鳴を漏らしつつ、益体もない事を考える。

 ふと、脳裏に予感めいたものが走る。この病は各地へ広がり、そのもたらす戦火は燎原の火のごとく広がり、東進し北進し、ついには陸奥まで至りて盛大に灼き尽くすであろう。

 その予言と共に意識は闇に閉ざされたが、瞼の裏へは変わらぬ黄金の光が揺蕩っていた。


令和二年(二〇二〇)一月。COVID-19こと新型コロナ感染症が突如として国内へ流行、各地にて続々と感染が確認され、未感染県は島根・鳥取・岩手の三県を残すのみとなった。

しかし。四月九日には島根、四月十日には鳥取、そして七月二十九日には残る岩手でも感染が確認され、人々は「病に沿う生活様式」という新秩序の受容を余儀なくさせられた。

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悪疫ころな封じ岸静江 修羅院平太 @shrinehater

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