第5話


「ひいぃいぃっ!」


 私は思わずそれを放り投げる。

 耳はコロコロと転がり、柱の角に当たって、こてん、と仰向けになった。

 その耳には見たことがある黒子がついていた。


 お金にも愛情にも恵まれる、非科学的な。

 だけど確かに羨ましかった、黒子が――。


 これは、リリコの耳だ! 間違いない、これはリリコだ!


「おかあさん、リリコちゃんに居なくなってもらいたかったんだよね?」

「ルイ?」

「私に一番になって欲しかったんだよね?」


 声に期待を乗せながら、彼女は一年前と同じような笑みを浮かべる。

 そうだ私はこれが見たかった。でもこれじゃない。これじゃないのだ。

 こんな平穏とかけ離れた――


「これで、私が一番だよ」


 全身から力が抜けて、私は膝から床に崩れ落ちた。

 そして、頭を抱えてその場に蹲る。


「リリコちゃんをどうしたの?」「殺したの?」「生きてるの?」「誰かに見られた?」「どうしてこんなことしたの?」「やめて」「嘘だと言って」「嫌よ」

「ごめんなさい」

「ごめんなさい」

「ごめんなさい」


 唇の端からこぼれた言葉たちはルイの耳には入っていかず、目の前の床に吸い込まれていってしまう。

 ルイはどうして私が蹲ってしまったのかわからないようで「おかあさん?」と私を見下ろしながら首を傾げていた。


 その時、玄関のチャイムが鳴った。

 私がゆるゆると顔を上げると、扉の奥から男性の固い声が聞こえてくる。

 同時に複数の人の気配を感じ取った。


「阿母さん、おられますか? 警察の者なのですが、ちょっとルイさんに話を聞きたくて」


 警察。その言葉を聞いた瞬間、私はルイに視線を向けた。そして考える間も無く、こう口にしていた。


「ルイ、逃げましょう!」


 私はすぐさま立ち上がり、彼女の手を握った。

 そして、ルイの部屋に駆け込み、シーツが垂れ下がった窓を見下ろす。


「私が先に降りるから! ちゃんとあとからついてくるのよ!」

「おかあさん?」

「わかったわね?」


 私は窓から身を乗り出すと、シーツを掴んで窓の外に躍り出た。

 こんなこと初めてだったけれど、意外にも器用に降りることができた。

 私が降りたのを見て、ルイも降りてくる。

 こちらは二回目とあって私より随分と手慣れていた。

 ルイが降りてくると、私は迷わず彼女の手を取った。


「走るわよ」

「……うん!」


 そう頷くルイの顔は、なぜだか少しだけ嬉しそうに見えた。


 こんなに走ったのは久しぶりだった。本当に随分と久しぶりだった。

 ルイと一緒に行った海でもこんなに息を切らして走らなかっただろう。

 運動不足の私に手を引かれながら、ルイは何かを確かめるような声を出した。


「おかあさん、いいの?」


 振り返ると、縋るような表情のルイと目があった。

 いいの?

 彼女はもしかしてこの状況のことを聞いているのだろうか。

 そんなの、そんなの、答えは決まっている!


「いいわけないでしょう!?」


 いいわけない。こんな状況がいいわけないのだ。だけど、このままだとルイは絶対に処分場送りだ。それどころかその場で処理されてしまう危険性だってある。

 だから私は、そんなこと――


「おかあさんと手を繋いだの、久しぶりだ」


 息を切らしながら、彼女は温度のある声を出した。先ほどまでの冷え切った感情のない声ではない。まるで、今から二人でどこかに遊びに行くような、そんなトーンの声である。跳ねる鞠のようなその声色は、何かを期待しているようにも聞こえた。


「ああああぁああぁああぁああああぁあぁあぁ!!」


 私はたまらず絶叫した。もう感情がぐちゃぐちゃだった。

 この状況には絶望していて、でもルイが笑っている事実は嬉しくて。

 後悔が胸の中を満たすと同時に、立ち止まってこのまま全てを投げ出したい気持ちと、彼女をなんとしても逃さなければならない気持ちで板挟みになる。

 でも無駄だ。無駄なのだ。私は無駄だとわかっている。

 だって私たちの身体には生まれた直後からGPSが埋め込まれているのだ。今頃警察は私たちの信号を見ながら、どうやって追い詰めようか話し合っているところだろう。

 逃げられるわけがない。だけど、逃げないわけにはいかなかった。


 私たちは学校に逃げ込んだ。

 特に策があるというわけではない。

 ただ、ずっと走っていられるだけの体力がなかったのだ。

 私は教室の隅で膝を抱えながら、小さな声で呻く。


「ルイなんか、大嫌いよ……」


 抱えきれない感情が言葉になった。


「私もお母さんのことなんて大嫌い」


 どこまでも楽しそうな顔で、ルイはそう返してきた。

 私が顔を上げると、彼女は一際なめらかに微笑んだ。


 ルイが何を考えているのかわからなかった。

 どうしてこんな状況で笑えるのか不思議でたまらなかった。

 私が黙っていると「でもね……」と、ルイの笑みが崩れる。

 一拍おいて泣きそうになった彼女は、ぎゅっと自分の膝を抱え込んだ。


「私、お母さんに褒められるとうれしいんだ」


 あぁ……

 彼女のことは理解できない。

 でも、その感情だけは私にも理解できた。


「そうね。褒められると嬉しいわよね」

「うん。私ね、お母さんが褒めてくれたから絵が好きになったんだよ。最初はね、勉強ばっかりで嫌だったから、絵を習いに行きたいって言ったの。でも、おかあさんがね」


 だって私も、それだけを頼りに今まで生きてきたのだから……


「私ね、嬉しかったの」

「うん」

「ずっと、ほめられたかったんだ」

「そうね。そうね」


 私も褒められたかった。お母さんにずっと褒めてもらいたかった。

 それは好き嫌いの感情ではなくて、あなたに認められたいという心の叫びだった。

 ルイの瞳から哀しみが一つ転がり落ちて、私の瞳からも哀しみが一つ転がった。

 続いて後悔が同時に流れ落ちて、飢えが頬を伝う。

 ルイの目から流れた苦しみは私が手で拭い、私の目尻からは謝罪が溢れ出た。

 私はこの時初めて、ルイの心に触れた気がした。


「公園でね、一緒に遊びたかったの」


 彼女がいつの時のことを話しているかすぐにわかった。ルイが初めて公園で私に「一緒に遊んで」と強請った、あの日のことだ。


「逆上がりがね、できるようになってね。お母さんに見てもらいたかったの」

「見てあげられなくて、ごめんね」

「みて、もらいたかったぁあぁぁ」


 しゃくり上げて泣き出したルイを抱きしめる。

 その資格があるとかないとか関係なしに私は彼女を抱きしめた。

 だって抱きしめたかったのだ。仕方がないだろう。


「なんでみてくれなかったの。いっしょう、けんめいっ! だって、わたし!」


 そうか。この子はこんなふうに泣く子なのか。

 知らなかった。

 私は何も知らなかった。


 遠かったサイレンが大きくなり、数も増えてきた。

 終わりが近いことを私たちは悟っていた。

 複数の足音が私たちのいる教室の前で止まり、怯えたルイが私の背中に手を回す。

 私はさらにぎゅっと彼女を抱き寄せた。

 ルイの鼓動が早まっているのがわかる。私の鼓動も呼応して早くなる。


「お母さんが、なんとかしてあげるからね」

 彼女を落ち着かせるためにそう言って、私はルイの頭を撫でた。

 最初に彼女の頭を撫でた時は、目の前にお母さんの影がちらついていたけれど、今は思い出しもしなかった。そんな人がいることでさえ忘れていた。だって今ここでルイを守ることができるのは、お母さんではない。

 私、ただ一人だけなのだ。


 教室に入ってきたのは、武装した警察官だった。

 手にはルイを処分するための銃を持っている。それが五人。

 その中の一人が、感情のない声で私にこう告げる。


「その子を離しなさい。処分します」


 私はその声に答えるように、ぎゅっとルイを抱きしめた。

 私の答えを受けて、警察官はさらに声を硬くする。


「そのままだと一緒に処分することになりますが、いいんですか?」

「おかあさん」

「大丈夫よ」


 覚悟なんか決まっていない。

 身体だって震えているし、歯は先ほどからカタカタと鳴っている。

 銃口がこちらに向いたのを見て、呼吸が荒くなった。

 恐怖が全身を包む。

 今からでも遅くない。ルイを差し出せばきっと、私は助かる。


 ここが運命の分かれ道だ。


「おかあさんっ」


 あぁ、無理だな。

 ルイの震える声を聞いた瞬間、私はそう悟ってしまった。

 背中に回った手の感触に、ちょっと涙が出てくる。

 怖い、怖い、怖い。

 私は彼女の頭を抱え込みながらぎゅっと目を瞑った。


 次の瞬間、何かが弾けるような音が二回聞こえた。

 それが銃声だと気がついた時には、私の身体はのけぞっていて、ルイがこちらを見て何かを叫んでいるのが目に入った。

 そして、彼女の側頭部も爆ぜる。

 

 ――ルイ!


 その叫びが声になったかどうかもわからなかった。

 私の頭はまるでバスケットボールのように地面に落ちて僅かに跳ねる。

 目の前が真っ暗になり、痛みも、感覚も全てが一瞬にして消え去った――はずだった。


 ブ――――――!!


 それは、ブザーの音だった。

 人生の終了を告げるような、物語の開始を知らせるような空気の震えだった。

 私はその音で、全てを思い出す。どうして私がここにいるのか、今まで何をしていたのかを思い出す。


『シミュレーション試験を終了します』


 機械的な音声に従って、私は目を開ける。

 同時に私のことを包んでいた透明なガラスが左右に割れた。

 仰向けになっていた身体を起こすと、私と同じような年齢の女性が次々と透明な卵のようなカプセルから起き上がってきた。


 第一級母親試験の最終選考である実技試験が、たった今終了したのだ。


 試験時間は一時間。つまり、ルイなんて子はいないし、私も十八歳のまま。

 何年もの記憶は全て虚構だったのだ。


 私の試験結果だが、もちろん不合格だった。

 ルイがリリコを殺してしまったところで、私は彼女を警察に突き出すべきだったらしい。

 確かにあれは、運命の分かれ道だったのだ。


 そうして一年後、私は第一級母親試験に合格した。

 生まれた子には、ルイとは名付けなかった。


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職業、母親 秋桜ヒロロ / 桜川ヒロ @hiroro1213

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