残墓




《墓六景》




 夕刻。杢内は丸徳利をぶら下げていつもの川辺へ赴き、ひとり蕾桜を肴に呑んでいた。酒呑みでは無かったはずの己の変わり果てた姿に、自嘲混じりの笑みをこぼす。

 蛍が病の床に就きもうすぐ一月にもなる。ろくに物も食べず、青白い顔を苦しげに歪め、眠っては悪夢に魘され、大汗を流し布団の上を呻吟輾転する様はとても見てはいられない。呼びつけた医家は誰も彼も判で押したように、心の病と繰り返すのみだ。なればこそと、面と向かって蛍へ苦しむ理由を訊ねても、何も語らずただ悲しげに微笑むばかりだった。きっと蛍には養父たる己にも語り得ないような何か深い悲しみがあって、そして恐らくはその悲しみをひとり秘めたまま、黙って死のうとしている。己にさえも話して貰えない。杢内には何よりもその事実が一番堪えた。

だからこうして酒に逃げている。日に日に弱りゆく蛍の枕頭へ侍るのさえ耐えられず、未だ幼き病児を屋敷へ置き去りにし、この川のごとく全てが流れ過ぎるまで、現実に目を背け呑んでいる。あのろくでもない源兵衛と比する迄もなく、明らかに父親失格であった。

「――こんなところで呑んでいて宜しいのですかな」

 掛けられた声へ振り向くと、座る縁台の向こうに佇んでいたのは、旧知の薬売りだった。城下を訪れているという噂は聞いていた。きのう届所へ訊ねてきた折は居留守を使った。だから今日あたり屋敷へ直接訪ねて来るだろうと思い、夕前には酒をぶら下げ家を出た。それでもこうして見つかってしまったのだから、大した探索の腕なのだ、と杢内は思った。

 額に皺を寄せた薬売りは、咎めるような、叱るような、あるいはそれらを隠すような、奇妙な眼差しを投げかけてくる。それもそのはず、今の杢内は侍とも酔っ払いともつかぬ。旧知の年長者として酒に逃げる若造を諭すべきなのか、あるいはしがない商い人として御武家様へはへりくだり余計な口を利かずにおくべきか、迷っているのかも知れなかった。

「……高部様のお屋敷では今まさに、お薬がご入用なのではありませんでしたかな」

 背負う薬入れを腹の前に回し、蓋を外して突っ込んだ両手を引き出すと、まるで手妻のごとく指々の間へは色とりどりの丸薬、頓服、膏薬類が並んでいる。

 相も変わらず客を惹き付けるのが上手だと、杢内は掠れた笑声を漏らした。

「もう行ったのであろう。屋敷へ」

「はい」

「そして、何も要らぬと追い返された」

「――はい」

「当然よ。薬では治らぬ病なのだからな」

 その乾いた答えに驚きを覚えたか、あるいはその振りか。薬売りは目を見開いてみせた。

「ではやはり……その、心の病のたぐいで?」

「さあて、な」

 投げやりに言い捨て、さらに丸徳利を煽る杢内へ、薬売りはごく控えめに眉を顰めた。

「――どうやら、お薬を差し上げるべきはむしろ高部様のようですな」

「おっと」

 薬売りが箱に突っ込む手を制し、杢内は空いた片手に竹筒を掲げて見せる。

「今からお主が売りつけようというものならば。これこうして、既に持っておる」

 振られた竹筒は経年の渋茶を纏うものの、表面に引っ掻いた字はそのままで、薬売りは唇の端に苦笑を浮かべた。

「なんとまあ……物持ちの宜しい事で」

「無論だ。この酔い覚ましこそは薬効抜群であった。――忘れがたき程にな」

 冗談と受け取ったか笑う薬売りの前で、杢内は竹筒の栓を抜き中身をひと息に煽る。

 中身は冷たい井戸水で、そして何も混ぜてはいない。何もかもがあの時と同じだった。

「屋敷でも此処でも折角の商機をふいにして済まぬな。その詫びという訳ではないが……」

 人心地ついた様子でうつむく杢内へ、薬売りはやや商人の顔つきを取り戻してみせる。

 手にした竹筒に刻まれた数字へ視線を落としていると、相手も同じものを覗き込んだ。

「思えば、あの謎かけこそが正気へと戻した。お主もひとつ、酔い覚ましに付き合わぬか?」

 ひとつ瞬きを返してから、酔っ払いの酔狂をあしらうが如く、薬売りは笑顔で快諾する。

「――宜しゅうございます。あのとき頂いた十二文分くらいは、お付き合い致しましょう」

 春先の川辺は夕暮れ近く、大桜の下へ夢見るような暖かみを残し、二人を包んでいた。




 では謎ときを始めるぞ、と告げると、謎かけでなく謎ときですか、と相手は首を傾げた。

 杢内は改めて目の前の人物を見やる。愛想の良さそうな、ただの旅の薬売りであった。

「――まず始めに不審を覚えたは、届所を尋ねてきたお主の口ぶりだった。

 隣国で源兵衛が死んだと聞かされ急ぎ訪れてみれば、なんと娘が身売りまでして墓を建てておるではないか。それゆえ、旧知の仲間ならばそれぐらい何とかしてやれ、くらいのつもりで、お主は報せを持ち我らの許を訪れて回ったかとも考えたのだ。――だがそれならそれで、なぜ肝心の娘のことを告げなんだか」

 叱られる顔になった薬売りが何か弁解らしきものを口にする前に、手をかざし制する。

「ああ。別に責めている訳ではない。娘の顛末までは知らぬとか、まだ新参でしかも小禄にすぎぬ家中へ浪人の頃の仲間の子を世話しろとは言い出しづらいとか、理由はあろう」

 ほっとした表情の薬売りに、杢内は無意識に指先を擦り合わせながら呟いた

「そも、そんな話をされても信じなかったであろう。――娘が生きているとは思わなんだ」

 急に表情をなくした目でこちらを見つめてくる薬売りへ、あえて微笑みかける。

「……源兵衛が自慢の、あの莨入れは覚えておるか?」

 首肯する薬売りは、在りし日に聞かされた来歴自慢を思い出したか、苦笑を浮かべた。

「――あの莨入れの底には。何やら、白い粉が敷き詰められておってな」

 あれは、何年前の夏だったか。たまたま夕涼みに歩いた岸辺でひとり煙管をくゆらせる源兵衛と出くわした折、目の前で何気なく開いた莨入れの奥に、ふと白いものが覗いた。それは夕明かりの中、煙草の葉ではなく灰に見えた。またいつものよくわからない横着をしたか、あるいは灰を捨てずに葉を足すという貧乏くさい未練吸いでも繰り返した結果、莨入れの底へ白灰を溜めるに至ったのだろうと、そのときの杢内は考えた。

 灰ばかり吸っておると毒になるぞ、未練は捨てよ、と言うとめずらしく源兵衛は慌てた。

『――これは、ひとり娘が遺灰でな』

 莨入れに突っ込んだ指先を白く染めるそれを愛おしげに眺め、源兵衛は笑っていた。

『まあ――こうしておけば、いつまでも寄り添うて居られるというわけだ』

 夕闇の帳が落ち、互いの顔が見えなくなった事を幸いに、杢内は暇も告げず立ち去った。胸中には、旧知の浪人の面にふと兆した見知らぬ表情への畏れと、煙管を手放さぬ莨呑みがいつも美味そうに立ち昇らせていた狂気への拒絶と、そして何よりも、未練は捨てよなどと残酷極まりない言葉をぶつけた後悔とが、混ざり合って渦を巻いていた。

 思えば、源兵衛に話しかけるにも一呼吸を要する様になったのは、あれ以来の事だった。

「……ただの戯れと受け流そうとも思った。性質の悪い嘘と笑い飛ばそうとも思った」

 しかしできなかった。だからこそ、蛍を伴っていた筈の源兵衛を見た覚えすらないのだ。

 ちらと窺った薬売りの表情に驚きは薄く、失礼にはならぬ程度に薄気味悪げにしていて、どうやら知っていたな、と杢内は思う。

「だが。真に源兵衛の娘が世を去っているのならば、……あの蛍という娘は一体誰なのか」

 女衒に身売りまでして父の墓を建てた孝子は、そのまま大人しく苦界へ落ちようとした娘は、実際その痩躯を背負ってみれば、おのれを父の子と信じ欠片も疑わぬ継嗣であった。

幼き頃より寄り添い、父も突き放す事なく、親子の絆を疑いもせず歩んできたのであれば、物心つく前に養われた子ということになるのか。

「蛍が養い子という話と、お主の蛍が事を話さなかった理由は――繋がるように見えた」

 ずっと身動ぎせず傾聴していた薬売りが、そこでようやく口を挟んだ。首を振る。

「ひとり娘は既に亡くなっている、など……」

 言葉を選ぶように切り出す薬売りは、どうやら酔っ払いへ反論を試みているようだった。

「……池田様のいつもの、酒に酔っての戯れ言に過ぎなかったのではありませんか?」

 呆れるような薬売りの顔には、源兵衛を静かに眠らせておいてやれ、と大書されていた。

「――それでは蛍様までお可哀想です」

 非難する口ぶりは、蛍の亡き父への孝養まで汚すような真似をするな、とも訴えていた。

 しかし杢内はそうしなかった。

「薬売り。――言ったであろう」

 酒好き、陽気さの面を被り源兵衛がずっと何を演じていたか一切考えようとせぬのは、銘酒や花の供えられた賑やかな墓の下を暴くよりもなお、故人に対して失礼に思えた。

「これは謎かけであると。ほんの一時、酔いを醒ますまでの、花の下での戯れであると」


 綻び始めた頭上の蕾を見上げると、薬売りもその桜色へ目を留めているのがわかった。

 まるで吉岡様のような事を仰られますな、との呟きを耳に、杢内は苦笑を浮かべる。

「継助か。いや、あのような気障と一緒にされたくはないな」

 重ね白の羽織へ身を包み、寒椿の傍らで一筆執る、気取った馬上の貴公子を思い出す。

 思えば継助の態度も随分と妙であった。

「そう、次に不審を覚えたは――蛍を急に身請けする事になり、大きな借財を抱える羽目に陥り。藁にもすがる思いで訪ねた、その継助の態度であった」

 ふと薬売りは、吉岡様ですか、さぞ不審であった事でございましょう、と笑いを含んだ。

「ああ。実に不審極まりなかった。――まったく、あそこまで出世しておるとはな」

 笑いを返し、杢内は傍らに置く丸徳利を眺める。大酒の容れ物は無言で佇んでいる。

「だがそれなりに得心の行く顛末ではあったのだ。あれが何処ぞの御曹司、というのはな」

 あの酒好き遊び好きのお方が、随分と変わられたものです、と薬売りも丸徳利を見やる。

「いや。これが全く変わっておらんのだ。いざ会って話してみれば、浪人の頃とまるで変わりがなかった。――立場が人を造ると言うに、つくづく、変わり映えのしない奴よ」

 薬売りが指を伸ばし叩く丸徳利は軽い音を返す。どの土地を旅しても、大酒を入れる器は変わらぬ形と音にございます、と秘密を打ち明ける薬売りへ、つい杢内は吹き出した。

「然り。まったく、軽きものよ。が……最も不審だったのは、そこではなくてな」

 その軽いやつと存分に殴り合ったのだ、と言うと、薬売りは継助に同情する顔になった。

「――いや違うぞ? こちらから喧嘩を吹っ掛けたのではない。向こうもやる気だった」

 薬売りは既に、下手な言い訳をする子の浅はかさを咎める親の目つきとなっている。

「本当だ。大体あれは逃げが上手いゆえ、やる気にならねば殴り合いにはならぬだろうが」

 まあ、そうですな、と一応の納得を見せた薬売りではあったが、ではあのいつも笑っていて捉え処のない継助を怒らせる程の一体何をしでかしたのか、とその顔には書いてある。

「……それが判らん。全く、見当もつかぬのだ」

 薬売りは手遅れの患者を看取る顔つきとなった。

「では――なぜ高部様は、いまさら吉岡様など殴ろうと思われたのですかな」

 大身ながら、まるで今では殴る価値もないかのような物言いである。杢内は苦笑した。

「あれが――源兵衛の墓参に行けぬと言ったからだ。己はもう死人で墓の内に在る、等と」

 だから正気に返し、生きている事を思い出させてやったのだ、と語る杢内を、薬売りは夜道で出くわした性質の悪い酔漢を見るような目で眺めている。何ひとつ昔と変わらない。

「そも。あれが人の言葉を真正面から受け止め、本心より怒るというのがまず信じられん」

 薬売りは沈黙してから、高部様にはそうかも知れませんな、と引っかかる答え方をした。

「散々殴り合った後でこうも言ったぞ。――貴公を殴らねば、貴公に謝れなかった、と」

 逆であろう、と当然の事を言う杢内へ、薬売りは遠景でも眺めるような眼差しを向ける。

「それが何かは判らんが。謝りたい事があるのに何故謝らず、殴りつけねばならんのだ?」

 俯く薬売りは深い嘆息を漏らし、その気持ちだけは判る気もしますが、とだけ答えた。

「それに。あれが謝るというのが、改めて考えると全く想像できん。いや確かに、すまんと謝られはしたのだが。それは恐らく殴った事に対する謝罪でしかないと言うに、まるで殴りつける前に謝りたいと思っていたらしい何かについてもに謝られてしまったようで、結局それが何だったか知れぬまま――どうにも、腑に落ちぬのだ」

 驚く薬売りの顔から察するに、どうも己には繊細さが存在しないと思われていたらしい。

「こら。馬鹿にするな。それ位は気付く。……是非はともかく、長い付き合いゆえな」

 謝罪として頭を下げるふりをする薬売りの不真面目さは、どことなく継助を思わせた。

「どれだけ忠告しても馬耳東風、右から左へ聞き流していたあやつが何を謝ると言うのか」

 ずっと有難いお話を聞き流していた事を謝られたのでは、と茶化す薬売りを睨む。

「後で謝るくらいなら始めから聞き流さんだろう。……多額の墓代とて、すんなりと払い。源兵衛への不義理を詰ってみても、さほど堪えたようにも見えなんだ。となると――殴り合いに至った理由が、てんで見えぬのだ」

 むしろ、それだけ落ち着いてことの経緯を見返し得るのに、むざむざ殴り合いなどしておられる方のお気持ちの方がわかりません、との薬売りの指摘に、杢内は渋面をつくった。

「とは言え――大まかなところであれば、すでに見当もついてはいる」

 杢内は指を二本、突き出してみせる。

「……まず一つには。

継助はおそらく、ずっと昔から、俺に対して立腹する処があったのだろう。

 だが、その腹立ちを俺へ露わとする事はなく、ずっと伏せていた。

 そして二つには。

継助には同じく、ずっと昔から、俺に対し何か後ろめたい隠し事があったのだろう。

そしてその隠し事は、明かされる事なく、きっと今なお秘されたままであるのだろう。

ゆえ――腹立ち故に殴りつける気にもなり、そして、後ろめたさ故に理由なく謝罪した」

 杢内が見返すと、薬売りの顔には何も読み取れぬ無表情が貼り付けられている。

「それで?――吉岡様の怒りの理由と、隠し事の仔細についても。察し得たのですかな?」

「いやそれがまるで判らんのだ」

 薬売りは処置なし、と言わんばかりの苦笑をこぼし首を振る。

「……では。ここまで折角お話しになった見立ては、全て無駄だった、という事ですかな」

「ところがそうでもない。継助の怒りと隠し事の正体は。継助なぞ今さら殴っても仕様がない、と先程口にしたお主の言葉と――繋がるように見えたのだ」

 薬売りは突き出された杢内の指へ視線を落としている。その眼差しは、まるで墓石など殴り付け逆に傷つく愚か者の拳を眺めてでもいるように、杢内には感じられた。

「あの吉岡様がずっと腹を立てていて、長きに渡り隠し事をしておられた、など……」

 しばしの沈黙の後、ふたたび言葉を選ぶように薬売りが口を開く。

「あれだけ幾夜も酒を酌み交わしながら。――高部様の思い違いではありませんかな」

 笑わぬ年下の前で殊更陽気に飲み騒いできた継助の配慮を、思いやれと薬売りは言う。

「――それでは吉岡様が。それに呑み仲間の皆様が。あまりに、お可哀想です」

 いつまでも反抗期の続く弟でも、せめて兄の気持ちくらい解ってやれと、その目は語る。

 しかし杢内はそうしなかった。

「薬売り。――言ったであろう」

 酒に逃げ喧嘩から逃げ己が境遇からも逃げてひたすら遊び飲み騒いでいただけの男が、年上面したくて背伸びを繰り返していただけと断じるには、少々付き合いも長すぎた。

「これは謎かけであると。秀才ならば酔うていてもすぐ解き明かす、にせ薬の判じ物だと」


 緩やかに流れる夕の川面へ未だ月影は宿らぬものの、水鏡は対岸の花影を映し揺らぐ。

 同じように水面に視線を落とす薬売りは、石山様ですか、懐かしいですな、と呟いた。

 どうやら次は、とうとう胤弥について語らねばならぬ順番が来てしまったようだった。

「…………」

 語るべき言葉を口にしたくなくて俯く杢内の顔を、悪意もなさそうに薬売りが覗き込む。

「――石山様がどうかされたのですか?」

「いや。どうもせぬ。……そして。その次に不審を覚えたは、隣の小藩で足軽へ仕官したなどと聞かされ、驚きとともに訪ねた、胤弥の……その、変貌ぶりであった」

 奥歯に何か挟まったような物言いに、薬売りは不思議そうな表情で顔を覗き込む。

「いや。さぞ驚かれた事でしょうな。あれだけ学問のお出来になる方が、まさか足軽とは」

 とは言え背に腹は代えられず、手元不如意はどうにもならぬ。胤弥が仕官の口を選ばなかった事それ自体は、杢内の痩せ肩にも何ら驚きを訴えかけるものではなかった。

「胤弥は――随分と、その。……乱暴になっておった」

 ぽつりぽつりとこぼす言葉をどう受け取ったか。礼儀正しかった弟分が、足軽働きの粗野な水に馴染む様を見、衝撃を受けた、とでも思ったか。薬売りは励ますような顔となる。

「まあ……高部様もご存じの通り、あの方はおよそ足軽という柄ではありませんからな。おおかた、慣れる為に随分と苦労を重ねられたのでしょう。――無理もないことです」

 横目で伺う薬売りの表情に、嘘偽りが混ぜられているようにはとても見えない。

「違う。振舞いの程度で済む話ではない。その乱暴の、度が……行き過ぎていたのだ」

 眉を上げる薬売りは、本当に思い当たる節がないようにも見える。

「乱暴が、行き過ぎとは……例えば石山様が上役の方に対しても手を上げられたり、等で?」

「――いや。それをやったのはむしろ俺だ」

「一体何をやっているのですかあなたは」

 つい口を滑らせたらしい薬売りは素早く両手で口元を押さえると、うかとこぼした過言に相手が反応していないか、恐る恐る横目を向けてくる。

「……いや。胤弥が、あまりにも手酷く扱われていたゆえ。足軽づれが仲間うちの弔い酒へ割って入るというならば、無礼討ちにするぞと――少々、顔を撫でてやっただけだ」

 弁解めいた言い分にどうやら無礼討ちはないと踏んだか、薬売りは急に居住まいを正す。

「高部様。僭越ながら、この際あえて一言申し上げさせて頂きますが……」

「よい。わかっている。胤弥本人の振舞いやその上役の振舞いがどうであれ。他でもないこの俺の振舞いによって胤弥の立場をより悪くして何とする――そう言いたいのであろう」

「……わかっておいでならば、宜しいのですが」

 引き下がった薬売りではあったが、その眼差しはなお不信の色が濃い。

「だが。口を出さず、手を出さずにはいられぬ程に――変わり果てていたのだ」

「あの石山様が、ですか? ……まさか。石山様は、高部様にまで、手を上げられたので?」

 電瞬、幻の刃が首元へ迫るような錯覚を覚え、杢内は瞼を閉じた。

「――いや。そのような事はなかった」

 瞑目する杢内の面上を、窺うような薬売りの視線が這い回るのを感じる。

「…………」

 語るべき言葉をお互い失った沈黙の後。軽く息を吸う薬売りから、訊かれたくない質問を口にする気配を敏感に感じ取り、杢内は先んじて言葉を発した。

「――そも。胤弥のあれだけの変貌には、何かしら、切欠となるものがあった筈なのだ」

 出かけた問いを飲み込んで、薬売りは片頬をゆがめる。

「……切欠、ですか」

 既に思い当たるところがあるのだろう、と促す眼差しを受け、杢内は頷いた。

「――もう、半年ほど前になろうか。胤弥の仕官先へ、六郎佐が姿を現したらしい」

 ほう、と身を乗り出す薬売りの瞳の輝きは、話の合いの手にしてはやや強過ぎるか。

「六郎佐は故郷へ向かう旅路の途上であったが、病身ゆえ御弓組長屋に休ませたという」

 黙って話の続きを促す薬売りに、杢内は首を傾げてみせた。

「そこで――何があったか。六郎佐はある日突然、文も残さず出て行った、のだそうだ」

 出て行った、しかし病身だったのでは、と訊ねる薬売りの背には、朱の山が聳えている。

「杖に縋って歩き、峠の街道まで出たらしい。だが追いつけなんだと、胤弥は話していた」

 それきり口を噤む杢内の顔を、薬売りは腕組みをして眺めやる。

「……疑っておられるので?」

「いや――うむ。そうだな。だが六郎佐が長屋を出たのは本当だろう。理由も想像がつく」

 薬売りは詳しく聞きたそうにしていたが、胤弥の苦境も変貌も詳しく語る気はなかった。

「まあ、おおかた真実としては――杖をつく六郎佐に、追いつきはしたのだろうと思う」

 そして恐らく、そこで何かがあったのだ。あの峠の山道で、胤弥が伏せるほどの何かが。

「まさか……石山様が、棟方様を手にかけられたと?」

「いや違う。そうではない事は既にお主も知っておるはずだ」

 そこから隣国となる寺で六郎佐の弔いを他でもない杢内自身が執り行った事は、薬売りとて聞いている。たとえば、遺骸を運びさも行き倒れの如く街道端へ放り捨てるにしても、距離も遠すぎ、また道も悪すぎた。そもそも街道筋には人通りが多すぎる。

「となると……石山様は、病身ながら長屋を出て行った棟方様に追いつきながらも、そのまま見過ごした――という事になりますが」

 それこそ、およそ石山様らしからぬ振舞いに思えますな、と薬売りは視線を落とす。

「では。その折に棟方様より、手酷い言葉を投げつけられたりなどしたのでしょうか」

「――それはないだろう。胤弥の六郎佐を語る口ぶりにも、暗いものは何一つ無かった。さらに。乱暴になる切欠がそれであったならば、同様に訪ねてきた俺をも追い返すはずだ」

 薬売りはますます首を捻る。

「と、なりますと……高部様のお見立てが正しければ。石山様は黙って出て行った棟方様に一度は追いつきながら、引き留めもせず、かつ穏やかに別れた、という事になります。その出来事を切欠とし、以後の石山様が変わってしまった、乱暴になったとするのは――いささか不自然ではありませんかな?」

 ふむ、と杢内は腕を組む。その問いに対する答えならば、既に用意してあった。

「薬売り。――人が乱暴者へと変わり果てるのは、一体どんな時であろうな?」

「はあ……?」

 唐突な疑問に眉を寄せながらも、薬売りは唇をへしげ、まっすぐにこちらを見てくる。

「――いや。解っておる。ずっと信じていたものに裏切られたと感じた時。ずっと従ってきた掟が都合良き鎖に過ぎぬと知った時。我慢して大人しく振舞ってきたのが全て無駄と悟った時。人は荒れ狂う。……お主もよく知る通り。かつての某が、まさにそうであった」

 旧知の者のまっすぐな視線は、他ならぬお前が一番よく知っていよう、と告げている。

「だが。胤弥はそうではない。若くとも、多年の放浪に辛酸を舐め、世の苦衷を己で味わう浪々の身であったのだ。およそ風雪辛苦に耐え忍ばぬ根性なしではない事も弁えている。――それが今さら。そう易々と乱暴な人間へ変じるとは、……どうしても思えぬのだ」

 ちらと投げかけられる横目は、贔屓目に過ぎるのでは、と言っているようにも見えた。

「身どもにはとんと、お武家様の内情など判じかねますが……同じく、高部様にとっても。足軽うちの事など、まるで存じ上げないのではございませんかな」

 その拠って立つところを見れば、士分と民との狭間に存在するのが軽輩、足軽らであるとも言えた。狭間もまた、よく知る武家社会より断絶された異界と捉えるならば。確かに薬売りの言う通り、そこで如何に手荒な教育が施されているかなど、しょせん足軽の伏せた面しか見る機会のない士分には、到底想像し得ないものであるのかも知れなかった。

「胤弥は。暴虐を振るい、慈悲を施さずにいられぬ己が手を――悲しむように見えたのだ」 雪洞の落とす淡い光を背で拒み、黒い掌へ視線を落とす、胤弥の横顔を思い出す。

「……思うに。おのれの意思に反して腰へ暴力を携え、それを振るう事を日課と戒める者とは――かつて、肝要なところで暴力を用いる事を躊躇い、それゆえに苦しみ続ける者、なのではなかろうか」

 つねづね鞘の奥へ強く戒めていた力を、振るうべき時に振るう事が能わず。その過去を否定するため、箍が外れたが如く、嵐のごとき暴虐を振り回すようになった。

「胤弥が変貌は……そのようなものだったのではないかと、今では思うのだ」

 何やらむつかしい話になってきましたな、と額に指を置く薬売りに、ではわかりやすく話してやろう、と向き直る。

「もっとはっきり言えば。かつて胤弥が長屋から黙って出て行った六郎佐を追いかけた折。恐らく、胤弥は――斬れ、と命ぜられていたのではなかろうか」

 命ぜられた、誰にですか、と訊ねる薬売りへ、わからん、と杢内は答える。

「――そして、果たせなかった。当然だ。あの胤弥が、旧知の六郎佐へ刃を向けるなど」

 不意に止まる言葉に、どうしました、と薬売りが問うが、どうもせん、と杢内は答える。

「……さらには。斬れ、と命ぜられながらもおよそ命を果たす事の出来なかった胤弥は、すぐさまその場にて手酷く罵られ、侮られたのではないか、と思うのだ」

 罵られた、誰にですか、と訊ねる薬売りへ、わからん、と杢内は答える。

 山に屈辱が刻まれたからこそ、山に潜み人を襲う天狗へと変じた。では誰が刻んだか。

「有り体に言うとな。その折、胤弥の傍らに。――誰か居たのではないかと思うのだ」

 杢内は旧知の者としてのまっすぐな視線を、薬売りへと返した。

 己を見据える視線に、笑い飛ばすでも肩をすくめるでもなく、薬売りはただ座っている。

「石山様が、棟方様を斬るように命ぜられ、仕損じた故に荒れ狂う、など……」

 杢内の語った内容の荒唐無稽さゆえか、返答は言葉尻に笑いを含んでいた。

「……およそ。苦労を共にした浪人仲間の方の口から出る言葉とは、思えませんな」

 大志を抱き蒼天を往く鳳も、地べたを這う内に泥鼠へと変わり果てる、と薬売りは言う。

「ともに仕官を果たした方として。それではあまりにも、石山様が――お可哀想です」

 慣れぬ城勤めに身も心も変わり果てゆく苦しさを、思い出してやれ、と薬売りは言う。

 しかし杢内はそうしなかった

「薬売り。――言ったであろう」

 身にそぐわぬ仕官に落胆しようが、新入りへの理由なき打擲を延々と浴び続けようが。その程度で、旧知へ刃を向けるほど簡単にねじ曲がる性根の持ち主ではない事くらいは、共に臨んだ人足仕事での忙しい背中を見るだけで、杢内にすらわかるのだった。

「これは謎かけであると。酔うた天狗が道迷いしてもたらす、泡沫の神隠しに過ぎぬと」


 二人が振り仰ぐ彼方の山並みは稜線へ紅をさし、夕日の及ばぬ山懐は、はや闇に沈む。

 見通せぬ暗い森を見つめ、お次は山へ消えた棟方様ですかな、と薬売りは先回りした。

 その言い様はまるで六郎佐の末路を胤弥が定めたようにも聞こえ、杢内は顔をしかめる。

「……さよう。次いで不審を覚えたは。病に冒され、源兵衛が許を訪れ、この某の許へは向かわず。胤弥が許に留まり、やがて出奔し峠を越え、累代の菩提寺手前で息絶えた……六郎佐の、その末路であった」

 不審よりもむしろ不満を抱くような杢内の嘆息に、薬売りはその仏頂面を眺めやる。

「何か――ご不満がおありで?」

「……いや。水臭いと思うておるだけよ」

 目を眇める先。やや離れた城下の家並みには、医術を志す者へ身分問わず学資を貸し付けるという変わった藩策の為か、医家も多かった。また見料も安く、薬代のつけも日常的に行われていた。少し行けば湯もある。水も美味いし、ゆえに酒も美味い。

 源兵衛に荷車へ押し込まれるまま、杢内の許まで運ばれてきていたならば。六郎佐は今なお、生きていたのかも知れなかった。

 さりとて。「あれはもう成った」とし、六郎佐が関わらずを選んだは、認めたが故である。

無下にする訳にはいかなかった。それにそもそも、浪人仲間を既に過去のものとし、はなから六郎佐の苦境に気づく事もなかった己には、何ひとつ文句を言う資格すらなかった。

「棟方様の御気質を考えれば。人に厄介を掛けるは、最も嫌う所でありましたでしょう」

 それで死んでおれば世話はないのだ、と杢内はいつかと同じ事を思った。

「番屋で聞いたが――六郎佐は峠を過ぎた下り坂で果てていたらしい。役人が検分に赴くはずが、しばらく道を通れぬ内にすっかり山犬に平らげられ……骨しか残らなんだ」

 何ともあわれな事です、と瞑目する薬売りは、何かを気にしている風にも見えた。

「六郎佐が遺品の散らばっていた辺りは骨ばかりでな。ちと量も多すぎた」

 山犬の牙にかかる獣も多かったのでしょう、と薬売りは答える。

「差料も見つけたが、刃身は傷と血錆だらけでな。まともに研ぎ上げるのも難しかった」

野に数月も放っておかれればそうなりましょう、と薬売りは答える。

「その差料の鞘はな。随分と、離れたところで見つかった」

 野の獣が戯れに噛み、振り回して弄んだのでしょう、と薬売りは答える。

「骨には噛み跡も多かったがな。鏃先のごときものが一つ、骨へ刺さっておった」

 酔うと傷跡の浮かぶ方でした、古傷より出てきたのでしょう、と薬売りは答える。

「いつも携えていた薬籠はな。噛み跡もないというに、かなり離れた処へ転がっておった」

 薬売りがはじめてこちらを見た。ともに供養できて良うございましたな、などと言う。

「うむ。刀は納められなんだが、薬籠は骨壺と並べ墓へ納めた。六郎佐も一安心であろう」

 安堵したように、薬売りもまた息をついた。

「何だ。末期の病に苦しみ悶え歩くうち落としたのでしょう、とでも答えるかと思ったが」

 語るまでもないことでしょう、と取り澄ました顔の薬売りは、改めて訊ねる。

「それで。棟方様の往生に――ご不審がおありで?」

 語るまでもないことだ、と杢内もそのまま返す。

「どう行き倒れに見せ掛けたのかは知らんがな。あれは明らかに……始末されておった」

 山犬に始末されたという事ですかな、と呑気に答える薬売りはとぼけているのか。

「恐らく。獰猛な山犬が二人ほど襲い掛かり、病身ながらも六郎佐は難なくこれを斃した」

 野に転がる骨は獣のものも含まれていたが、集まった人骨はひとり分にしても多過ぎた。

「野に走り込み斬った骸を改め、隠すなどして油断したところを――殺られたのだろう」

 歯応えなき敵手を仕留め一息つく六郎佐の、その背に迫るは果たして何であったのか。

「下手人は相当な手練れだろう。行き倒れありと届けられる程に、綺麗な骸を留めている」

 ほぼ抵抗の間も無く殺されたであろう六郎佐は、ではいかなる手段にて仕留められたか。

「直後、折悪しく道を通りかかる者が現れ――道脇へ骸を残し、下手人は消えたのだろう」

 六郎佐ひとりの行き倒れのみ番屋へ報告されていたのは、つまりはそういう事だった。

「……胤弥が時と同じく。六郎佐の背へ、いま一人――誰か居たのではないかと思うのだ」

 杢内はふたたび、薬売りをまっすぐに見つめた。

 流石にというべきか。今度の沈黙は、少しばかり長かった。

 静かに見返す薬売りの瞳は、杢内を通り過ぎ、その先にある何物かを見ている。

「――重い病に冒され、故郷へ急ぐ棟方様が何かに襲われ、討たれたなどと……」

 低い声音で淡々と言い返すその目は、何か記憶を呼び起こしているようにも見えた。

「どうしても、仕官成らなかった御仲間を不幸にせねば。高部様は気が済まぬのですか?」

 侍しかできぬ堅物を、放り出された老残の身を、末路を決めつけ嗤うなと薬売りは言う。

「若い皆様の行末を楽しみにしておられた池田様や棟方様が、余りにも――御可哀想です」

 果たせぬ望みを眼前に、妬みも僻みもせず見守ってくれた人を貶めるなと薬売りは言う。

 しかし杢内はそうしなかった。

「薬売り。――言ったであろう」

 仕官を求め実に一生涯もの時をさすらい。真っ当な暮らしから弾き出され、名ある武門へ寄り集まっては追い払われ。世間から見ぬふりされ続けてきた浪人を、その最期の奮闘さえ犬に喰わせて只の行き倒れの白骨と片付けてよい程に、武士の矜持は安くはなかった。

「これは謎かけであると。草履と足肉刺と上役の心証を潰して歩く、小役の反故書きだと」


 朱の色も退いた山際は、日没後なお明るい空の下、所在なげな樹影をさざめかせる。

 動きを止めた薬売りはこちらの顔を見つめ、ご自身がわからぬものですか、と呟いた。

 緑壁に囲まれたこの谷底は長い長い旅の終点で、そうしてすべては終わったはずだった。

「――そして、一番最後に不審を覚えたは。忙中に曲げて休みを取り、諸国をふらつき、あげく得体の知れぬ養女を連れて戻り、当然のごとく役を外された、この高部杢内の――まったく思いもかけぬ、復役であった」

 薬売りは、まこと冥加でございましたな、などと言う。

「冥加とは言えぬだろう。わが復役においては明白に、後押ししたものが居るのだからな」

 薬売りは一向に平気な面で、陰徳かくれなきとも申しますよ、などと嘯いている。

「よせ。……胤弥が考え、継助が記したあの顛末記。それを携え、二人がわざわざこの山奥まで密かに足を運び、嘆願に及んだからこそ、元の席へ戻る事も出来、また不名誉極まりなき召し放ちを受ける事も避けられた。――だが」

 杢内は己の薄い胸を見下ろし、口元へ自嘲の笑みを刻んだ。

「――そこまでするだけの価値がおのれに在ったとは。到底、思えなんだ」

 恩返しとは思わぬのですかな、と唇を曲げる薬売りは、捻くれ者を見る目になっている。「報恩にしても過分だ。そう、まさに己と釣り合わぬは、あの手の込んだ巻物……」

 呟きながら杢内は懐へ手を入れ、一枚の紙片を引っ張り出した。

「――最も不審を覚えたは、胤弥の記したという、あの顛末記であった」

 いや記したのは継助だったか、まあどちらでも良い、と杢内は手の中の紙を丸める。

「薬売りから聞き取って、我らが旅の顛末をまとめたというには……ちと詳し過ぎた。

 ――まるで、旅の間中ずっと我らの後を尾け、その動向を見張っていたかのようにな」

 杢内は手中にこしらえた小さな巻物を広げる。増野の屋敷で見たあの長い長い嘆願書は、巻物にまとめられる程の長さとなった旅の顛末記は、ではいかにして作られたのか。

 胤弥あるいは継助本人が直接、自分達の跡を尾けて廻り、その内容を書き記したとするならば記述の詳細さにも納得が行った。が、二人のいずれとも、正反対の意味において、とても長期間出歩けるような立場には無かった。

「……まあ、順当に考えるならば。何者かが我らの跡を尾けて廻っており、その者から聞き取った内容を基に、あの顛末記が記されたと考えるべきなのだろうがな」

 それよりも問題なのは、なぜそんな、私用他行の小役人ごときを尾けまわすような真似をしたかであった。ここ一月程考えてみて、これだけがどうしても分からなかった。

 それに、おかしな点は他にもあった。あの嘆願書が作られた経緯だ。

長く勤めを休んだ咎で役を解かれた杢内の苦境を聞きつけ、おのれら浪人時代の仲間の為に骨折ったばかりに次郎が損を被った、弁護せねば、と義侠心を抱き行動したとする。

そうなると、次に考えられる行動は、杢内の旅の詳細を誰かから聞き取るべく訊ねて回る、というものになるはずだ。結果としてあれだけ詳細な顛末書が出来上がった事を考えると、文を考えたという胤弥と筆を執ったであろう継助の両方、あるいは少なくとも胤弥だけは確実に、杢内らの旅の詳細を知り得る者へと短時間で接触し得ているはずである。目的を達するに十分過ぎる程の聞き取りを完遂し、胤弥は何も疑問を覚えなかったのであろうか。

書庫でひとり学識を満たすだけの末成り瓢箪と違い、多年に亘り流浪の辛酸も舐めてきた苦労人の胤弥が、相手に不審を抱かず見過ごしたとは、どうしても思えなかった。

 薬売りは笑って手を振り、高部様の考え過ぎでは、と否定する。

「我ら薬売りはそれこそ何処の国にでも商いに出ますゆえ。――例えば、腕を折って勤めを休まざるを得なかった石山様が、暇に飽かせて商い人達へ訊ねて回り、皆様の旅路をいろいろな者からの聞き書き、文で辿るというのは、さほど難しい事ではなかったのではありませんかな」

 脳裏には、吊った腕の内に筆と帳面を貯え、薬売りの立寄り処へ杢内の話を訊ねて回る、胤弥の姿が浮かび上がる。

 しかし杢内はその像を打ち消した。川面に映るは、善人の秀才、それだけではなかった。

「……当初はな。我らの歩んだ旅路に、何か障りでもあったのかと思ったのだ。だから、何者かに尾けられたと。そうして考えてゆく内にな――道のりが重なる事に気付いたのだ」

 重なるとは、一体何と重なったのですかな、と薬売りが問う。

「決まっておろう。六郎佐だ。死を目前に、病んで歩んだあの六郎佐と同じ旅路を、我らはずっと辿っておったのだ」

 薬売りがけたたましく笑い出した。

「高部様。それはそうでございましょう。――なにせ、その棟方様のお弔いをしたのは他でもない高部様なのですから」

「ふむ。つまり。死に瀕した六郎佐が、昔の仲間を訊ねてまわり、そして最後には己が生国、両親の眠る菩提寺を目指し旅する道中でこと切れた。ゆえに、昔の仲間の消息を尋ねてまわる形となった我らの旅路が重なるのは当然。――と、お主はそう言うわけだな?」

「――ええ」

 当たり前だろうという顔で頷く薬売りの前で、ふと杢内は顔を伏せ、体を震わせ始めた。

「ふふふ。――薬売り。お主は浪人というものをよく解っておらぬなあ。ふふふふ」

 急に笑い始めた相手からやや離れ座り直す薬売りへ、杢内は秘密を教えてやる事にした。

「諸国を流浪し、遂に仕官成らず、最後に己が死に直面した浪人が、末期の挨拶に仲間のもとを訪ね、そして累代の墓を目指して歩く? ははは――すでに矛盾しておるわ」

 笑う元浪人を気味悪げに眺めるだけの薬売りは、恐らく本当に思い至らぬのだろう。

「諦めの悪い人間が、死を前にして急に諦めが良くなる筈がないであろう。同じように、一生を棒に振った男が、その一生の最後で賭けを降り、大人しく死んでやる筈がないのだ」

 堅物の六郎佐は、博打などまず打たなかったが、侍とは生来極度の負けず嫌いでもある。

「迫る死を見て、いまだ空のままの己が双手を見て。六郎佐は、何かを得んと試みずにはいられなかったはずなのだ」

 得るとは何をですか、と杢内の持つ紙片に目を落とす薬売りへ、わからん、と答える。

「――あるいは、それは六郎佐の歩んだ道のりを辿れば見えてくるのかも知れぬ」

始めは、源兵衛と蛍の居る宿場町を訪ね。

 そして、杢内が仕官する隣国へ向かう事を拒み。

 やがて、継助が大屋敷のある隣藩を通り過ぎ。

 次いで、胤弥が仕官先の長屋へしばし留まり。

最後に、故地へ向かう道筋に斃れた。

「……。身どもには、近しい方へのお礼参りの道筋にしか見えぬのですが……」

 それだと立ち寄る事さえ拒否された誰かの立場がなくなる。杢内は首を振った。

「さて、そこでだ。かつて耳にしたのだが……在りし日の源兵衛は、金をむしられて情けない顔をする知己を見る度に、ご同病か、と笑っていたらしい」

 藪から棒に何ですか、という顔ながらも薬売りは、財布を取り出し逆さに振って見せる。

「うむ。その話を聞いた折、某も同じ事を考えた。――御同病とは金欠病である、とな」

 それが一体どうしたというのです、という顔の薬売りは、まるで知らぬのであろう。

「しかし、思い返せば――某は一度たりとて、源兵衛からそう言われた例がなかったのだ」

 眉を寄せる薬売りは、それは池田様の優しさではありませんかね、という顔をしている。

「ところが蛍は、源兵衛は継助にも胤弥にも六郎佐にもそう呼びかけていた、と申すのだ」

 己一人に対してのみ遠慮する源兵衛でもあるまい。であれば、別の意味があったのか。

「御同病とは――何か異なる、仲間内のことを指す符丁の如きものではないかと考えた」

 お仲間とは、一体何のお仲間ですかな、と訊ねる薬売りの口元は笑っている。

「わからん。が、蛍によれば。かつて一度、通りで裕福そうな商人に紐で繋がれ歩く犬らを見た折も、源兵衛は溜息交じりに、御同病、と呟いた事があるらしい」

 舌打が聞こえた気がして視線を上げると、顔を背ける薬売りはどうも笑っているらしい。

「――これらを併せ考えると。某を除く四人には、仲間内の横糸ではなく、何処か上からの縦糸に。知らぬ何らかの繋がりがあり、御同病、と称していたのではないかと思うのだ」

 薬売りが戻した顔は、唇に未だ笑みを刻んでいる。先刻から一体何がおかしいのか。

「……それで? 皆様方には、隠されし如何なる繋がりがあったと思われるのですかな?」

 向けられるにやにや笑いは、仲間外れにされた杢内の心底を窺っているのだろうか。

「ふむ――ま、そうだな。はじめは、やや後ろ暗く、いざ発覚すれば町方に捕まるゆえ、皆に隠れて行っておる、払いの良い仕事の繋がり――それぐらいに考えていた」

 座や蔵内を通さずに作って商う、薬や酒あたりかとな、と杢内は傍らの薬箱を見る。

「しかしその程度の隠し事であれば某へ一口持ちかけてこぬ理由もない。それにそもそも、ひた隠しにする程のものでもなかったであろう」

 己に一切関わらせず、また気づかせもせぬ程の理由があるとなると。相当に深刻な事情がその背後には横たわっているはずだった。

「さて――そこで、六郎佐の足取りの意味をそれぞれ考えてみたのだ」

 竹筒に残る滴を振って、乾いた縁台の上に点を五つ刻み、旅の地図を描く。

「六郎佐の死出の旅のはじまり、その切欠が何であったのかはわからぬ。が――恐らくは死病に取り憑かれ、残る命がそう長くないと悟ったがゆえ、……であるように思う」

 命を費やし何かを為そうとするのはそんな時だ、と杢内は一心に木を削る父の背を想う。

「……六郎佐は死を前にして、一体何を考えたであろうな。あの融通の利かぬ巌のごとき頑固老人が、もし仮に、この某にもひた隠しにするような後ろ暗い稼業をやむなく抱えていたのだとしたら。その道行きはずっと本人にとって大層不服なものであったに違いない。

また、主に紐で繋がれ歩く犬のごとく、その繋がりが上から飼われ逆らえぬものであったとするならば。反骨の老犬は末期に臨み――必ずや、反旗を翻すはずなのだ」

 ただで死んでやる程おとなしくまた諦めの良い老人ではなかった。そう断言する杢内に、まるで見てきたかのように話されますな、と返す薬売りの顔は呆れている。

「そこで、まず――最も歳も近く、付き合いも長い源兵衛が許を訪れたのではなかろうか」

 片手に携えた紙筒で縁台に飛び散る滴のひとつを示すと、薬売りはそちらを見つめる。

「六郎佐の目論見は皆目わからぬ。反逆にあたり源兵衛へも同心を持ち掛けたか。それとも己の抱く叛意を表明しただけか。――あるいは、反逆に際し遺品を預けに行っただけかも知れぬし、その逆に、必要なものを取りに行っただけなのやも知れぬ」

 滴の盛り上がりの直上をかすめ舞う紙筒に、薬売りの目がやや泳いでいる。

「――ともあれ。それに対して源兵衛がどう答えたかは、何を奨めたかで察し得る」

 紙の筒先をふいと隣の、一番端の滴へ向けると、薬売りの眼差しも律義にそれを追う。

「蛍によれば――源兵衛は病み衰えた六郎佐へ、まさにこの土地での湯治を奨めたらしい」

 広げてみせる両手の先には、その山深い源流に湧き湯を抱く、緩やかな川の流れがある。

「また、某を訪ねろ、と告げたとも。……御同病とやらにまるで関わりなき某の許へ行く事を奨め、併せて病をゆっくり治せと言い渡すは――恐らく。六郎佐の言い立てる事は病に冒されしゆえ、或いは一時の気の迷いゆえと看做し、源兵衛はまともに取り合わなかったのではないか、と思うのだ」

 薬売りがくん、と鼻を鳴らした。傍らの薬箱は蓋を開き、辺りには薬の香が漂っている。

「……しかしながら。六郎佐はその申し出を拒絶した。のんびり病を治す気など既に無かったか。源兵衛と袂を分かつ事になったか。或いは某を巻き込むを良しとせなんだか――まあ、わからぬが」

 薬の香を漂わせ去っていっただろう六郎佐の足跡を示すように、紙筒を隣の滴へ向ける。

「――某が許を訪れるを拒んで。次に立ち寄ったであろう先は、継助の居る城下だった」

 さらにその隣の滴、胤弥の仕官先へ向かうには、どうしても通らねばならぬ道筋だった。

「病んで歩む道のりは如何ほどのものか……六郎佐が、胤弥が許へ現れた時期を考えると、あの大藩の城下は通り過ぎたか、逗留したとしてもごく僅かな刻であっただろう」

 加えて、再会した継助は六郎佐の近況など何も知らぬ様子だった。名すら出していない。

「――六郎佐は源兵衛へは会って話をしながら、継助には会いもしなかったのであろうか」

 そこに御実家があり出戻られた事をご存じなかったのでは、と返す薬売りへ首を振る。

「……いや。少なくとも源兵衛は、継助の家も素性も、邸に暮らしておることも既に知っていたらしい。そう考えてゆくとだ、そら――おかしいとは思わぬか」

 何がでございますか、と眉を上げる薬売りは気付いていないのか。

「某よりも金を持ち。某よりも高禄を食み。それこそ病んだ旧知の老人のひとりくらいは己が裁量で密かに世話できそうな継助へ。――なにゆえ、頼ろうという話にならなんだ?」

 薬売りはやや押し黙ってから、棟方様は人に頼るを好まれませんでした、とだけ答える。

「――であれば。源兵衛は、某が許を訪ねるよう奨めることさえ避けたはずなのだ」

 はなから何故か継助は選択肢に無く、しかし杢内を頼るよう奨める程には重病に見えた。

「と、考えてゆくと……あの二人の中での、継助が立ち位置も――なんとなく見えてくる」

 継助が大身の御曹司だとか、一門家の婿養子ゆえに忖度しただけではない。旧知の仲間らしく気安く、おいそれと身を委ねる訳にはゆかぬような、立場の高低ならぬ立場の左右といったような事情が、継助と二人との間には歴然と横たわっていたのではないか。

「……とにかく。源兵衛も六郎佐も、継助へ助力を仰ぐはまるで考えてはいなかった」

 あるいは継助も、仮に六郎佐が城下を訪れた事に気付いたとしても、接触はしなかった。

 しかしその見過ごしはのちの継助の立場へ影を落としたであろうと、杢内は考えている。

 そして病身を引きずり、通り過ぎた先はここだ、と杢内はひとつ隣の滴を指し示す。

「――この小藩は、因幡路……六郎佐が故地へ向かう道筋より少しばかり外れる」

 六郎佐は明確な意図を以て、胤弥が許を訪ねたのであろう。しかし何故訊ねたか。

「蛍と胤弥が話を比べると。この頃の六郎佐は、かなり弱っておったらしいが……」

 見るに見かねて長屋へ泊めた、と胤弥は語った。六郎佐に長居するつもりはなかったか。

「ろくな話も出来ぬ内に寝付き、どんどん弱りゆく。――胤弥にはそう見えていただろう」

 しかしある日突然逐電した。胤弥に黙って出て行き、恐らく峠の山道までは辿り着いた。

「また、胤弥が応手も早かった。六郎佐が逐電を知るやすぐ峠道へ至り――追い着いた」

 己が考えが正しければ。あの恐るべき刃を携えて、傍らに何者かを引き連れて、である。

「六郎佐の態度と、胤弥が応手の早さを考えると。あるいは、胤弥は事のはじめから、六郎佐を留めるよう言い含められていたのかも知れぬ。加えて、六郎佐も早い段階でそれに気づき、長屋から逃げる機会を窺っていたのだろう」

 ある持ち物を認めたならば斬れと言われていたか、逃げたら斬れと言われていたか。

「――いずれにせよ、胤弥は白刃をぶら下げ六郎佐の前に現れた」

 むろん、傍らには六郎佐を斬れと命ずる何者か姿のもあったはずだ。

「……しかし斬れなかった。あげく、六郎佐もむざむざ見逃した」

 斬れと言われて斬るべき時に斬れなかったなまくら刀は、きっと手酷く罵倒された筈だ。

 その反動が、斬れぬものなしと数多を斬る呪刀を生み、そして天狗の刃嵐が吹き荒れた。

「六郎佐は窮地を脱したものの……それから程なくして、再び捕捉される」

 場所は峠を越えた下り坂、両親の菩提寺にも程近い、あの枯野原である。

「追手は恐らく三。一人は潜み、二人が襲い掛かり――二人をいずれも返り討ちとなしひと息つく六郎佐を、残る一人が仕留めた」

 紙筒を刀のごとく振るってみせれば、その軌跡には少し異なる薬の香が追随する。

「……仕留めた者は、すぐに狼狽する羽目になったであろうな」

 遠い眼差しを湛える杢内へ、何故そう思われるのですかな、と薬売りが問う。

「追って首尾よく仕留めはしたものの。――持っておる筈のものを持っておらぬ」

 ちらと傍らの薬箱へ目をやる杢内の視線を追い、しかし薬売りは何も言わなかった。

「捜そうにも辺りは一面の草群だ。それに、そもそも持っていなかった疑いも捨て切れぬ」

 そして通りかかる人でもあったか、亡骸をそのままに立ち去るしかなかったのであろう。

 さらに間の悪い事には。山犬の群が通る時期と重なり、近寄る事すらままならなくなる。

「あるべき物が見つからぬ以上、疑いは――他の三人へも向けられる事となったであろう」

 接触し密かに何かを預かった疑いのかかる三人は、身の潔白を証明する必要に迫られた。

「その疑いゆえ――源兵衛は死に。そして継助と胤弥は各々、証を立てる羽目になった。

 さらに言えば。まるで関わりなき筈の某が、家中に役を外れそして再び役に復したも、すべてはここに因果がある、と断言してもよい」

「先ほどから……」

 ずっと機を窺っていたかのように、薬売りが口を挟む。

「持っておる筈のもの、あるべき物、と仰っていますが。それは一体――何のことで?」

 杢内は答えなかった。手にした紙筒をもう片手へ打ち付けると、薬売りは視線を下げる。「先ほどから――ご執心のようだが。何だ、かくのごとき紙切れがそんなにも珍しいか?」

紙は当藩の名産ゆえな、別段このようなもの珍しくもなかろう、と笑ってみせる。

「そこの川で漉く。色々あるぞ。……薬くさい紙切れのほか、遺灰くさい紙切れ、などな」

 途端、薬売りの双眸が針先の如き光を帯びた。

「六郎佐を弔っての帰路にな。寄り道し、源兵衛が墓近くへ再度参ったのだ。いや全く、二重底に気づかぬ迂闊な質屋で助かったぞ。何せ、買い戻すだけの金すら無かったからな」

 暫し薬売りは無言だった。二人の沈黙の間を、川のせせらぎだけが流れてゆく。

 剣呑な光を湛えたまま、薬売りはその眼差しを、朱に染まる川面へと落とす。

「――親爺分の娘を買い。兄貴分を殴り。弟分の腕を折り。いま一人の親爺分を葬り……」

 無慈悲にしか見えぬ暴風のもたらす惨禍も、実は優しさの裏返しだ、と薬売りは言う。

「だからと言って。ご自身の行いが身に恥じぬものでないなどと、一体誰に言えましょう」

 野良犬根性も抜けず、誰からも理解されない狂犬にはわかるだろうと、薬売りは言う。

「そして仲間の皆様はよく理解しておいでです。それゆえの感謝、報恩ではありませんか」

 穿った見方はいい加減に止め、素直に人の称賛を受入れ、そこで終われと薬売りは言う。

しかし杢内はそうしなかった。

「薬売り。――言ったであろう」

 恨まれる覚悟も無しに人を鞭打し、これも相手の為よと嘯き、いつか己の秘めた優しさに気づく筈と恩を着せ、そうして期待通りの感謝が周囲から寄せられれば、疑いもせずに受け取り満面の笑みで納得し済ますなど。それこそ犬に喰わせるべき下衆の考えであった。

「これは謎かけであると。五つの捻くれた数を足し答えを出すだけの、野良犬の戯れだと。

 ――さて。これで五つ揃ったな。四たす、一たす、三たす、〇たす、四は、さて幾つか。

 薬売り。……お主の答えを、聞かせて貰おうか」


 血に似た暮色が退嬰し、灰の薄闇が背へ纏わりつく中、薬売りは座像の如く動かない。

 目を凝らし見つめる口許より漏れたのは、どうして身どもへ訊ねるのですかな、という問いかけだった。

「――お仲間方にご不審がおありというならば。その親しきお仲間へ。直接、問い糾せばよかったではありませんか」

 声音に混ざるは怒りか落胆か。しかしその横顔からは、何の表情も読み取れない。

「……そもそも」

 薬売りは苦笑するように唇を曲げ、杢内を斜めに睨めつけてきた。

「吉岡様にしても、石山様にしても。一件の始末がついてのち、高部様はお二人に、一度お会いになったというお話じゃございませんでしたか」

 お二人が訪ねて来られたのでしょう、と語る薬売りは、嘆願一件をどのように聞いたか。

「――その折のお二人の様子は、如何でございましたかな」

薬売りは杢内の顔に残る薄い痣跡を見ている。治癒して久しいが、跡だけは残った。

 見立て通り後ろ暗い一面があるなら、報恩の嘆願書など届けに来ぬ。そう言っている。

「……。――聞けなんだ」

 溜息をつくような顔で、杢内はそれだけを答えた。

 杢内がそれぞれ負わせた傷跡も消えぬ間に二人はいきなり現れ、眠そうな顔で払暁の屋敷へと押しかけ、寝ぼけ眼の蛍と嚙み合わない問答をしていた。奉行の呼び出しより急ぎ帰ってきた杢内がとりあえず二人を空き部屋へ放り込むと、すぐさま寝息を立て始めた為、それきり話を切り出す機会を失った。翌朝起きた二人にまずは嘆願書提出の礼を述べると、継助は図々しくも「この地の湯と酒は格別と聞く」などと言い出し、さらには奉行からも通達が届いて、届所書役は他家重臣接遇との密役を申し付けられてしまった。とりあえず三人で酒を酌み交わし、酔い覚ましに山奥まで歩いて、湯治宿で温泉に浸かった。湯から出た後はまた酒を呑み、酔い覚ましに川の源流の畔で揃って釣り糸を垂れ、家へ帰って釣果を肴にまた呑んだ。酒肴を作る蛍は、酔って寝転がる大きな小児達を見て「浪人の頃のよう」と呆れていたような気もする。呑みながら話した内容はと言えば、やはり浪人時代が帰ってきたかのようにとりとめもなく、さらに言えば、ここに居ない六郎佐や源兵衛の悪口ばかりであった。何やら生き生きとした笑顔で二人をけなし始める継助を、当初は杢内も胤弥もやめよやめよと止めていたものの、滑らかな語り口につい釣り込まれ、最後は三人笑顔で悪口を言い合っていた気がする。亡父を悪し様に言われているのに、傍で聞いていた蛍もなぜか終始笑顔で、むしろ相槌を打っていた気もする。その後は蛍も連れてまた湯に赴いたり、呑み歩きがてら夜の城下を案内したり、そうこうしている内に数日過ぎ、ある朝二日酔いの頭を抱えて二人がそろそろ帰ると言い出した。杢内は慌てて蛍と城下を駆け巡り、山のような土産物を買い求めて背負わせると、二人は笑顔で礼を言いながらもその重みに不平を漏らした。「呑み過ぎた」「頭が痛い」としか言わぬ二人の荷を半分持ってやり、藩境の関まで送り届けたものの、杢内もきっちり二日酔いにやられており、頼りない足取りで去ってゆく二人の背中くらいしかもう記憶にはない。

 結局、肝心な事は何も聞けなかった。継助も胤弥も、他ならぬ杢内のせいでまだまだ満身創痍であっただろうに、まるで心の重荷を下ろしたが如くすっきりとした顔をしていた。それに最初に継助がかました一言以外、恩着せがましい事など二人は何一つ言わなかった。だから杢内も変にへりくだる事はせず、何度も重ねて礼を言うような真似はしなかった。どうやら二人の中ですべては過ぎ去り、遠い昔日のほろ苦い思い出と化したようだった。であればわざわざ近況を訊ねほじくり返すも野暮というものだ、そう納得し、杢内は何も聞かなかった。見えぬ鎖の戒めより解き放たれた様子の二人に、聞けるはずもなかった。

「……さんざん、呑んで騒いで面白おかしく過ごしたと聞いておりますが。それだけ腹を割って過ごされたのならば、最早ご不審など抱かれるはずもありますまい。――いや、仮にあったとしても。ご不審のひとつやふたつ、易々と問いただせたのではありませんかな?」

 それには勇気が要った、と正直に答える訳にもゆかず、杢内は沈黙する。

 いずれにせよ、杢内は二人の古傷へ触れた。傷の奥には、更なる込み入った事情や複雑な感情の糸が張り巡らされているようにも見えたが、確かにその傷は、彼らの躰の致命的な箇所に根ざし血を流し続けるものであり、そして触れられればすぐさま苦鳴を漏らさずにはいられぬものだった。悲痛な絶叫を嫌と言うほど聞かされながらも、いつしかそれら傷の上にもうっすらと瘡蓋が張られ、痛みも和らぎ穏やかな顔つきとなった二人を前に。いま一度その瘡蓋を引き剥がしてでも、傷の奥へ覆い隠された真実を引っ張り出そうなどと考えるのは、鬼畜の所業以外の何物でもなかったのだ。

「…………」

 杢内の長い沈黙をどう捉えたか。薬売りは首をすくめ、彼方を振り仰ぐ。

「既に亡くなられた池田様や棟方様はともかくとして。当人達へ直接聞けぬから、高部様はその代わりに、お話を否とは言えぬしがない出入りの薬売りへ、あれこれ疑いをかけておられるというわけですか。……これでも。身どもは、高部様とはそれなりに長いお付き合いをさせて頂いていたつもりではございましたが」

 初めて薬売りへ会ったのも、あの四人へ喧嘩を売り敗北し、薬まで与えられた時だった。

「お言葉ですが――それは八つ当たりというものではございませんか?」

 初めて会った時と同じく、みっともない、と薬売りは首を振る。

「――みっともないか」

 鸚鵡返しに問い返す杢内の、どこか興味深そうな顔色に、唇をへしげ薬売りは答える。

「ええ。わからぬ事を、わかり得ぬ事を、無理に繋げてひとつの筋に見立てたところで、誰も手を叩いて褒め称えはしませぬよ。……で、証はあるのか。と返されて仕舞いです」

 その一言に痛撃を喰らったがごとく、杢内は腕を組み深く俯いてみせる。

「うむ。――確かに俺には、何もわからぬ。……加えて言えば、何ひとつ証もない」

 そうですそうですと頷く薬売りは、大げさな溜息をつくと、傍らの薬箱へと向き直る。

「……どうやら高部様には、やはりお薬が必要なようで。それも酔い覚ましというよりは、夢覚ましがご入用のようで。――伝家の妙薬をひとつ、お分けして差し上げましょう」

薬箱に諸手を突っ込み、音高く中を探り続ける薬売りへ、杢内は小さく呟いた。

「――そう、俺には何も分からぬ」

 そのまま縁台を蹴る。鞘を握って飛び離れながら、独楽のごとく回転し、抜き放ちざまの一撃を薬売りの手元へと叩きつけた。

 箱から抜き出した双手の間をすり抜けるはずの一撃は、しかし、形容しがたい弦音と共に、何もない虚空へ縫い留められたが如く停止する。

 驚愕の表情の薬売りへ、杢内は静かに告げた。

「……俺に分かっていたのは、お主のその手口だけだった」

 剣先で空中をくるくるとかき混ぜる。幾筋もの不可視の金属弦が、より刀身に絡みつき、耳障りな金音を響かせる。薬売りの十指へ固く結びつけられ、箱中より杢内を襲わんとしたのは、どうやらごく細い鋼糸のようだった。

「六郎佐が差料を拾って研ぎ直した折、そのようなものが幾重にも絡みついていたのだ。……恐ろしき事よ。血の道を断つでもなし。首を絞めるでもない。そのような細い糸で、如何にして綺麗な骸を作るのか。――六郎佐は如何にして、お主に夢を覚まされたか」

 薬売りは動かない。いや、両腕十指を虚空に絡め取られ動けない。

 そのまま、渾身の力を込めて刀を振り下ろすと、まるで三味を転がしたような音と共に刀は自由となる。張り詰めた弦の切れる音に混ざり、関節の外れるような音が響いた。

 杢内は無造作に、鋼糸の絡まる刀を放り捨てた。異様な方向を向く片手首を抱え込み、薬売りは脂汗を流している。

「――本当に。高部様は、嫌な御方でございます」

脇差を引き抜き青眼に構え、杢内は油断なく相手を見据える。

「あなたはいつもそうです。……目の前の人間の真実にさえ気づかぬ慮外者でありながら。――勘所だけは的確に押さえ、狙いをことごとく外してくる」

 外れた手首を見せつけるように、薬売りは汗まみれの顔で笑った。

「さて……答え合わせは、ご入用ですかな?」

 杢内は頷く。


「六郎佐が反逆が、どういった類のものであったかは想像するしかない。ともあれ、お主はすぐさま反逆へ気づき、仲間の許を訪ねて廻る六郎佐を追い、そして遂には仕留めた」

「――高部様は、嫌な御方でございます」

「しかし反逆の証とも言うべき持ち物は見つからなんだ。となれば、六郎佐が死ぬ前にその近くをうろついていた残された仲間の三人へと、その嫌疑は向けられる」

「――高部様は、嫌な御方でございます」

「そこでまずは、最も同心している疑いの強き源兵衛を、お主は件の手口にて殺した」

「――高部様は、嫌な御方でございます」

「源兵衛は死に臨み、蛍へなるべく多額の金を遺そうと試みていたらしい。だが……蛍はその金を己の為に遣う事はせず、それどころか突然に身売りし姿を消した」

「――高部様は、嫌な御方でございます」

「無論。残る二人、不干渉の態度を貫くようにみえる継助も、仲間を斬るようけしかけたが為に手のつけられぬ辻斬りと化した胤弥も、いずれも与類と見極めがつかぬ。しかし。源兵衛を殺ったがごとくに手を出してみて、また蛍のように姿を消す身内が現れたとしても、疑いは晴れずいや増すばかりだ。……そこでお主は一計を案じた」

「――高部様は、嫌な御方でございます」

「お主は、山奥の小藩でどうにか微禄にありついた俺へ目をつけ、かつての浪人仲間という立場を焚きつけ墓参へと赴かせ、疑いの残る連中に揺さぶりをかけようと目論んだのだ」

「――高部様は、嫌な御方でございます」

「源兵衛の弔いに参列できなんだという後ろめたさを抱く俺が、お主の目論見通り、源兵衛の娘を探しあて飯盛女の身より掬い上げた時。……お主は快哉を叫んだのか?」

「――高部様は、嫌な御方でございます」

「きな臭い火元の六郎佐へも寄らず触らず、源兵衛まで死してさえなお動かず。そつなく立ち回り、何を聞いても空とぼけた顔の継助と、俺が正面より派手に殴り合ってみせた時。……お主は溜飲の下がる思いであったのか?」

「――高部様は、嫌な御方でございます」

「お主の従順な走狗に成り下がったと一度は見せておきながら、肝心なところで仲間は斬れぬと刃を引っ込めた胤弥を。そのくせ六郎佐の背をむざむざ見送った後は、掌を返したかのように相手見境なく斬って廻る魔へと変貌を遂げた胤弥を。俺が天狗退治を果たし、念入りに腕の骨まで折ってみせた時。……お主は安堵に胸を撫でおろしたのか?」

「――高部様は、嫌な御方でございます」

「さらに言えば。仕留めはしたがそのまま山犬に食い荒らされるに任せ、永らく骸を改める事もできなんだ六郎佐を。己の代わりに野山へ分け入り骨を拾い、遺品を集め、まとめて弔ったと知った時。……お主はこれにて落着と、左団扇を揺らしておったのか?」

「――高部様は、嫌な御方でございます」

「そして。帰藩するも立場をなくし、やがて放逐されるだけだったろう微職のもとへ、あの嘆願書が届いたのはちとやり過ぎであったな。顔を合わせた折の態度から察するにおそらく、書を作った者らは疑いもせずお主の言うがまま、お主が語るままの美談を綴り、人ひとり救わんが為と、山奥まで届ける役さえ厭わずこなしたであろうが。……もちろん友情の露れではなかったあれは、かと言って返礼や報酬などでもなく、お主の目的は別にあった」

「――高部様は、嫌な御方でございます」

「すでに屋敷の下男へは聞き取りを済ませている。蛍が急に塞ぎ込むようになり、身体を壊して寝付くようになったのは、俺が不在の折に屋敷へ薬売りが訪れ、何やら蛍と二人で話し込んでいた、その日からだと。薬売り。……蛍へ、何を告げた?」


 脇差の切先を向ける杢内へ、薬売りは口端より嘲笑を漏らした。

「――高部様は、本当に嫌な御方でございますな。はじめから、あの紙切れを読み、全て見透かしておきながら。長々と、このような茶番に付き合っていたという訳ですか」

「……いや。紙の中身は見ておらぬ」

 袂より二つの古紙片を掴み出すと、薬売りはあっけに取られたような表情を浮かべた後、弾けるように笑い出した。

何故、いったい何故、肝心要のそれを読んでおらぬのですか、と笑声の合間に告げる薬売りへ杢内は憮然とした表情を向ける。

「決まっておろう。見ればどうせ腹が立つ。――こんなちっぽけな紙切れなどの為に、源兵衛も六郎佐も命を落としたのか、とな」

 笑い過ぎて苦しげな薬売りは、杢内の答えを聞くや、より一層腹をよじる。

「嗚呼。如何にもあなた様らしい。旧知の商い人としては、実に納得のゆくお答えですが……それで納得する者などただの一人も居らぬ事は、流石に理解しておいででしょうな」

 笑いを収め、薬売りは恫喝めいた冷眼を向けてくる。

 そこに如何なる秘事が記されていようが、こんな紙切れひとつの為に大量の汗と血を流し、命も狙えば脅しもかける。一時怒りも忘れ、誠にご苦労なことだ、と杢内は呆れた。

 呆れるような眼差しを見て取ったか、薬売りははじめて苛立たしげな表情を浮かべる。

 それを宥めるつもりなどさらさら無かったが、一応口にしておこう、と杢内は線を引く。

「……長々と廻り道をしたは、すべてを確かめねばならなんだ、それ故に過ぎぬ。浪人仲間の皆に限らず――お主もまた、長い長い付き合いであるゆえな」

 口からこぼれ出たようなその答えに、薬売りは毒気を抜かれたような顔となった。

 一転、苦々しく引き締まる口許は、喰えないものを突っ込まれたかのようでもある。

「――まったく。皆様が仲間へ引き入れる、それだけは断固として拒むわけです」

 莫迦正直で腹芸もできぬ、隠し事の不得手な愚物。杢内の評はそう定まっていたらしい。

「四人共がそう庇い立てる為……高部様を質と使えば、云う事を聞かすは実に楽でした」

 思いがけぬ言葉に杢内は虚を突かれるが、無論それだけではあるまい、と睨み返した。

「――どうやら。手妻の種明かしまでもご入用のようですな」

 ただの浪人仲間と思っていたあの四人は、己の眼の及ばぬ先で、一体何をさせられてきたのか。強さを増す杢内の眼光にゆるく顎を引き、薬売りは平気な顔で語り始める。

「……池田様は簡単でしたな。ただ一人残された御身内の跡継ぎを長患いの末に亡くし、莫大な借財を抱え、道端に酔い潰れてみじめに泣いておられたのです。たまたまそこへ行き会ったので、ちょうど人買いより買い求めたばかりの幼い娘を当てがい、これを娘と思い、我が手の元で働け、と告げると涙を流し感謝しておられましたな。偽りの娘との旅は楽しかったか、はたまた本当の娘ではないと伝えられる日を恐れていたか、諸国を巡り実によく働いてくれましたが。大恩を忘れ、飼い主へ牙を剥くようではいけません。近年では耄碌も進んだか、大昔に亡くした本当の娘とでも思い込んでいたご様子で。しかし黄昏時になると時折、正しい過去を思い出してもいたようですな。――短い正気の折に行き会えた高部様は実に幸運でしたな」

「黙れ」

「……吉岡様も転がしやすいお坊ちゃんでしたな。あの方は、恐らく年下のあなた様へは。高貴の家に居場所はないだの浪々の日々こそ我が住処であるだの、恰好を付けた出奔の言い訳をしたでしょうが。実は違うのですよ。あの甲斐性無しの色男は、月よりも花よりも大切なお人をとっくに見つけていて、手折った花ひとつを供に家出しただけの花盗人です。ところが身分と家柄を捨て己には何も無し、たちまち慣れぬ貧乏暮らしに美しい花も萎れ、病を得て容色も衰えた女を抱えひとり難儀し、なんと非情にも、再びすべてをうち捨てて逃げるか迷っておられたところ、身どもがその重荷を引き受けてあげたというわけです。楽天家のお坊ちゃんは、満足に生計も立てられぬ己が許を離れる事で、無事女は病を癒し、容色も蘇らせ、そしていつか己が戻る日を待つ、とでも未だに考えておるのでしょうな。ただ重職に在るだけの者を席の重石と呼びますが――まあ墓石同士、お似合いですかな」

「黙れ」

「……石山様はお笑いでしたな。あの方の生家はさる城下で随一の道場でありましたが、作法を知らぬ振舞いにお上の勘気を被り、何もない荒野に道場の所替えを命ぜられたとか。礼を知らぬならこれより人でなく獣へ剣を教えて暮らせ、との御言葉も賜り、たちまち一族は喰うものも無く困窮したそうです。道場の跡を継ぐはずだった石山様はそこで剣の道を諦め、諸国を巡って諸学を修めることに腐心したそうですが、学成らぬうち一族の大半は死に絶え、お上の怒りも解けぬまま、折角修めた学も認められず帰参成らず、とうとう師へ納める束脩すら事欠くようになり、遂には身どもへ与したというわけです。いやはや――文武両道弁えようが、血の尊さには勝てぬとは。全くもってお笑いですな」

「黙れ」

「……棟方様は」

「黙れ!」

 それ以上聞いている事はできず、杢内は桜を背負う仇敵めがけ地を蹴った。怒りのままに大上段から振り下ろす脇差は、しかし薬売りが抜き出した針のごとき刀子に阻まれ、鈍い音を立て止まる。

 身体ごと押し込んでくる双手握の刃を、桜の幹へ背を押し付け、片手一本に握る得物にてやすやすと食い止めてみせる薬売りの表情は、あくまでも平静なままである。

「……どうして。斬りつけられねばならんのですかな」

 渾身の鍔迫り合いの最中であろうに余裕の表れか、外れた片手首をまた揺らしてみせる。

「なぜ斬るか、だと。斬って当然であろうが。――きさま何も感じぬのか」

「ほう。当然ですかな」

 見返す薬売りの乾いた瞳へ、己が眼光に宿す過景を映し込まんと、杢内は力を込める。

「あれだけ長い時を共に過ごし、親しく接した輩を。己が手にかけ、窮地に陥れ、委細何も感じぬのか。――そう訊いておる」

「……高部様にはそのように見えていたとしても。真実とは、逆なるものにございますよ」

 応じて薬売りの瞳へ浮かぶらしい過去は、ともに共有した景色であるはずにも関わらず、杢内のそれとはひどく異なる色彩をもって描かれているようだった。

「浪人の皮を被って自由もなく暮らしていた我らが手先足先の、すぐ眼前で。まっとうな浪人として現れ、浪人として苦衷を共にし、そして浪人として仕官を果たし、果ては浪人を辞め士の暮らしへ戻っていった。それがあなた様です。……その姿が他の皆様の眼にはどう映っていたか。慮る事もかないませんか?」

 陰でそれぞれ何かを安堵され恩を受けていたとは言え、あんな貧しくみすぼらしい暮らしを送りながら。ただ下される命に唯々諾々と従っていただろう他の四人の前で、毎晩安酒を呑んでは騒ぐ四人の前で、ごく呑気に能天気に、ただの浪人として白い腹を見せ続けたのは他ならぬ杢内の方であった。

 先程の言葉が蘇る。皆様が仲間へ引き入れる、それだけは断固として拒むわけです、と。

 もうひとつ、蘇る。高部様を質と使えば、云う事を聞かすは実に楽でした、と。

 己の内に芽生えた考えを否定するように、杢内は激しく首を振る。

「黙れ。俺は仲間を手にかけたりはせぬ。苦しい立場へ縛り付けもせぬ。すべてきさまが悪いのであろうが。――きさまがっ、全部」

「そうでしょうか? 本当に悪いのは、身どもなのでしょうか?」

 絡み合う刃の向こうから。不意にこちらの瞳を覗き込み、真顔で訊ねくる薬売りの眼に、嘘や諧謔の色は認められなかった。

 下手人を見つめるようなその眼差しに、つい先ほど打ち消したばかりの考えが再び頭をもたげてくる。

「――身どもは。皆様の側から寄せられた、助けを求められる声に応じ。その借財を返してやり、亡くした娘の代わりを与え。濡れ落葉の如き重荷も代わってやり。故地で飢えに苦しむ身内へ少なからぬ援助もし。また生計の道を示すことで、当人の命をも救いました」

「ほざけ」

 その対価に何を命じていた、との叫びは口から出ることなく消える。着せた恩を指折り数えるが如きその物言いに反駁したくとも、浪々の苦しみを知る杢内には、いつか差し伸べられる救いの手を待ち望んでいた痩せ浪人には、何も言い返す事ができない。

「――翻って、……」

 続く言葉はそこで途切れ、あとはただ、無言の凝視のみが杢内の顔へと注がれる。

 薬売りの言いたい事などとうに判っていた。己と比べ、杢内のしてきた事は一体何か。

 もう二度と戻れぬ、未来もないが表裏もない、自由な浪人暮らしを見せつけただけか。

 もう二度と戻れぬ、無事仕官を果たし帰る武家暮らしへの郷愁を呼び覚まさせただけか。

 迷える者を縛り付けては苦しめ苛む獄卒よりも尚、己の振舞いは皆を傷つけていたのか。

 かかる悲劇を招いたは、すべて己のせいだと言うのか。

「違う」

 杢内は首を振り、脇差を握る双手へ力を籠めた。桜の幹へ押し込む相手に身体ごとのしかかりながらも、その刃からは徐々に力が抜けてゆく。幹にもたれる薬売りの冷笑を睨み、杢内は獣じみた気合を発する。もう判っていた。

 己が正しいと信じられなくなったその時、白日の下へ振り上げる天誅の刃は力を失い、そうして己はみじめに斬り捨てられるのだろう。皆が望みを叶えるを阻む、悪として。

 今一度、己の内へ残る憎しみの炎をかき集め、墓へ放り込まれた仲間達の無念を想い起こす。それでも、萎えてゆく膂力は蘇る事はなかった。両の腕から抜けてゆく力の先には黒き渦のごとき怖れがある。無言のまま力を封じ吸い取る怖れの中心には、これまでずっと触れることなく済ませてきた、とある疑いが、何処へも行かずに横たわっていた。

「……先程のお見立ては実に素晴らしかった。本当に高部様がお考えになったものか、疑わしく感じられる程です。きっと――この数月、常に過日を思い返し、ずっと思案を続けてこられたのでしょうな」

 薬売りのしたり顔は、何を言わんとしているのか。

「――何が言いたい」

「逆にお訊ねしたいのですが。この数月もの間、考えずに済ませてきたのは何故ですかな?」

遥か後方。川辺の道に、枯れ木のごとき足音が響く。

「――それに。どうやら斬りつける相手も、お間違えになった様ですな」

 杢内の背後へ目をやる薬売りの宣告に、びくんと身を竦ませる。

 ごく軽い、ふらつくような足音は、草履を引きずり真っ直ぐこちらへと向かってくる。

 重い物を抱えてよたつくような、背を曲げ腰を折るような、地を掃く足取りは常のものとは大きく異なっていたが、しかしそれでもその足音には聞き覚えがあった。

 嘘だ、と心は呟く。そんな筈はない、と頭は否定する。

 脳裏には、子籠を背負い薄暮の道を並んで歩む、夕焼けの中の横顔が蘇っていた。

「――ほたる」

 杢内は愕然と呟く。ぎりぎりと刀を合わせるまま、首を捻じ曲げ見た先には、果たして病児の姿があった。苦しみ寝付いては幾度も汗をかくため杢内の白衣を寝巻代わりに纏うまま、そして瘦せ衰えた両の腕には、床の間にあった筈の六郎佐の長刀を抱えていた。

 痛ましい表情の蛍は、苦しげな吐息を漏らしつつも、しかし確実に歩み寄ってくる。

 その手が白くなるほど握りしめられた長刀に、なぜ、と問う事はできなかった。

 己ひとりのみ何も知らぬまま安穏と過ごしていた。己ひとりが仲間外れにされた話をし、もはや己ひとりしか残らぬ場所で、いなくなった仲間の代わりに断罪を下すつもりだった。だが違った。仲間達が笑顔の裏に隠していた地獄とはどこまでも地続きでしかなく、また、浪人はただのひとりも居なくなったわけではなかった。何も終わってなどいなかった。

「――随分と遅かったではないか。散々寝込んで窶れてみせ、既にお義理は果たしたろう?」

そんな言葉を投げつける薬売りへ顔を戻せば、口元には侮蔑混じりの笑みがある。

「――さあ。仕上げだ。先の如く命を果たせ。さすれば望みのまま、好みの婿でも取らせてやろうぞ。他の連中と等しく、何処の家中へ属しても変わらず御役目を果たすと誓うならば、高部の家の家督継承も安堵させ、家付き娘としての安楽な暮らしも約束してやる。……もう、虱まみれの木賃を床に夢見る日々は沢山であろう?」

「やめろ!」

 たまらず叫ぶ杢内を、薬売りは面白そうな顔で眺めやる。

「ずっと騙されていたと言うに……随分な御肩入れですな。まったく、呆れたお人好しで。――それとも、まだお気付きではないのですかな?」

 背後の足音が急に乱れる。一瞥をくれ、薬売りはひどく楽しそうに笑った。

「先程のお見立てには、ひとつ濡れ衣も含まれていましたが。訂正を致しませんでしたな。

お教えしましょう。池田源兵衛をその手にかけたは。身どもではなく。愛しい愛しい――」

「黙れ……!」

 犬歯を剥き出し、ほとんど噛みつくようにして、絡み合う刃の先の笑顔を睨みつける。

今更ながら。父源兵衛を失ってのちの蛍の光跡の理由が、ようやく胸に落ちた気がした。

ここ一月程の病臥の日々を思い出す。過去にも父を殺せと命ぜられ、蛍は同じく苦しみ病んだのであろう。

長刀を構えよろめき歩く病児の姿を思い返す。そして過去においても等しく、苦悩の果てに殺す事を選んだのであろう。

潮鳴る丘の立派な墓石と、饐えた臭いの奥座敷を思い出す。それゆえ、罪なき父へ贖うべく借財までして墓を建て、そして己が咎を罰するべく自ら苦界へ身を落としたのだろう。

 だがそれらはすべて蛍が悪いのか。愚かさと弱さゆえ嵌り込んだ堕道でしかないのか。

「すべて。きさまが……!」

総身より振り絞るような怒りを乗せながら、しかし刃が揺らぎ拳が震えるのはもはや、力が拮抗するが故ではない。薬売りはふいに憐れむような眼を向けてきた。その眼は杢内へ向けられているようでもあり、また後ろの蛍へ向けられているようでもあった。

 こやつを斬れば、その代わり、仲間達が救わんと欲したものはすべて喪われるのだろう。

 ここで斬られてやらねば、蛍はもう二度と、陽の当たる道へ戻る機を得られぬだろう。

 脳裏をふと、黴臭い奥座敷で力なく夜具へ横たわる、病み衰えた蛍の姿がよぎった。

 さまよい歩く足音はもう程なくして、がら空きの己が背へと到達する筈だった。

 答えの出ぬまま、やがて背を重い衝撃が貫く。杢内の口より断末魔の絶叫が迸った。

「――よくやった。それでよい。だが間違えて俺ごと刺してくれるなよ?」

 笑い含みの声を耳元に。背に少しずつめり込む激痛に従い、肺へ残る呼気を漏らしながら、杢内は全身から力が抜けてゆくのを感じた。代わりに押し寄せるのは一面の砂原のごとき、途方もない無力感である。討たれてやる以外蛍の為にしてやれる事は何も無かった。もう何もかもがどうでも良かった。

 耳元で響く勝利の高笑いはどこまでも耳障りだった。やがて訪れるだろう末期の激痛と、意識が閉ざされる時を待つだけの杢内は、ふと、背より聞こえる啜り泣きの声に気付いた。

 蛍は、己を討ち涙を流しているのか。一度はそうも考えたが、ある考えが頭をよぎる。

 緩慢に捻じ曲げた首で後方を振り仰ぐ。すると、髪を振り乱し泣き濡れる蛍は果たして、杢内の心ノ臓めがけ長刀を突き立てていた。しかし突き立てているのは切先ではなかった。長刀を双手で逆しまに握り、どういうわけか短いその柄頭を、背骨の合間へ激痛とともにねじ込んでいるのであった。

 訳がわからぬまま、杢内は蛍の泣き顔をぼんやり見下ろす。

 己が背で蛍がはじめて涙を流したは。あれは、何時の事であっただろうか。

 己が何と言った直後であっただろうか。

 嗚咽の合間、伏せられた顔が上がる。曖昧に見下ろす瞳が、涙に濡れる瞳と交錯する。

「――」

 一諾をもって杢内の瞳へ光が蘇る。力を取り戻す脇差より片手を外し、背へ回した手で、背骨に食い込む柄を奪い取る。そのまま強引に一薙ぎすれば、振り払われた病児は枯れ枝のごとく地へ投げ出された。虚空へ斬りあげた長刀を回し、宙で逆手に持ち替えるさまを、薬売りはごく不思議そうな色で眺めていた。

 そのまま、土手へ打ち込む杭のように、長刀の切先を直上より胸元へ突き込む。

 結び合う刃で受けるも叶わず、樹に押し付けられ避けるも叶わず、薬売りの胸へ長い刀身が沈んでゆく。臓腑を刃で串刺しにされながら、薬売りはまるで溜息のような、長く細い息を漏らした。

 鍔元まで埋まらず止まる刃からは拍動に合わせ鮮血が溢れ出す。山の端から伸びる残光を引きずり、彼岸花のごとく屹立する刀の柄を挟んで、二つの顔が向かい合った。

 薬売りは笑みの形へ唇を歪め、何かを口にしようとした様子だった。しかしその口角からは数多の血泡が零れ出る。

「……身ども……ひとりを……討ち果たした、ところで……」

 どうにかそこまで口にしたところで、残りの言葉の代わりに飛び出した鮮血が杢内の顔をまだらに彩る。瞬きのひとつもせぬまま、杢内は重々しい頷きを返すと、ふと相手の胸より飛び出る刀の柄へ目をやった。

「……向こうで六郎佐はきっと。腰の軽さに嘆いておる」

 このような時に一体何の話か、と言わんばかりの顔で相手は眉を寄せる。

「――薬売り。ひとつ、届けてくれぬか」

 幹より外した体を軽く押し放つと、盛大な水音を立て、夕の川面へ大輪の朱花が咲いた。

水面より赤い刃を突き出させ、生ぬるい水に運ばれてゆくのは、かつて仲間達がこぞって縋りつき救いを求めた、そんな有難い木像であった。

海辺に葬った己が父を思い返しながら、流仏に向かい杢内は両掌を合わせる。

 ふと、仏が嗤った。肺を冒す血と川の水にはげしく咽せながら、既に亡骸にしか見えなかった仏はまるで何かを嘲笑うかのように、下流に向け歪な笑声を響かせ続けた。

 それは水に餓えた蛍の行方さえ見誤る己自身への嘲笑であるのかも知れなかったし、あるいは、命の遣り取りをした相手の末期にまで下らぬ用を申し付ける杢内への呆れ笑いであるのかも知れなかったし、または、等しく手を汚してきただろう己と六郎佐とが同じ彼岸へ辿り着くと考える杢内のその容赦のなさへの苦笑であるのかも知れなかった。

 夕闇の帳の落ちた川下へ遠ざかる亡者は、いつか目にした、無数の遺品に覆い尽くされ暗渠に消えてゆく供酒を思い起こさせた。

 波の静まった水面を覗くも、朱に染まる筈の面は見えず、ただ影だけがそこに在った。

 杢内は長い溜息をつくと、転がる脇差もそのままに、地に伏す娘の躰を背負い上げた。

意識を失った蛍の身はひどく発熱しており、どうやら病身を押して無理を通したそのつけを払わされている様子だった。

 暗い家路を進みながら思う。源兵衛をその手にかけたは、きっと蛍であったのだろう。しかしそうであるならば。なぜ蛍は、いま一度、杢内をも手にかけることは拒んだのか。

 答えは一つしか無かった。

蛍を背に負い杢内は言った。子供は子供らしくしていろ。

蛍を背に負い杢内は言った。もう無理はしなくてよい。

 子供のままでいろと言ったのは養父だ。蛍はただ、養父に従うことを選んだだけだった。

たとえそれが身を細らせる苦悩の果てであろうと、己が身の破滅へ直結する道であろうと。

 ひどく冷淡だった徒目付の聞き取りを思い出す。田舎藩の余所者への警戒は正しかった。

何処ぞの犬の亡骸は、程なく下流の河原へ流れ着くであろう。六郎佐の遺刀を抱くままに。

見つかり騒ぎになる前に、すみやかに目付へ届け出、斬った事情を洗いざらい話さねばならなかった。しかしそれでも、犬の与類と疑いがかかるは避けられぬだろう。囚われ、厳しい詮議を受ける事もまた覚悟せねばならなかった。それに。もしすべて話せば、他家と言えども、継助と胤弥もまた恐らくただでは済まぬだろう。二人が守らんと欲したものは全て失われ、半殺しのうえ召し放ちとされるか、閑職へ放り込まれ日の当たらぬ一生を強いられるか、あるいは内々に密殺され病死とでも処理されるか。そこまでは判らなかった。

 また、養子へ迎えた経緯からして、蛍もまた等しく詮議を受けるは避けられぬ道だった。

 蛍は一体どのような扱いを受けるだろう。素性定かならず犬の子として拾われ、走狗として育ち、養い親までもをその牙にかけると、藩士の養女として家中へ潜り込んだ娘。

 いずれにせよ、蛍の道行へ苛烈な運命が待ち受けているのはもはや疑いようもなかった。

 仕官前より繋がりのあった他所の犬をひとり、自ら斬り捨て身の証を立てたところで。猜疑心の強い小藩が新参者の無実を疑いもなく信じると思える程には、もう杢内も若くはなかった。己の身ひとつさえ明日にはどうなるかわからぬ。己の眼の届かぬ処で、闇空の彼方へ消えゆく蛍の行末を案じる立場には、既になかった。

 だが、と杢内は背に負う蛍の身を強く握る。

 娘が子として従ったのならば、父は親としてその責を果たさねばならぬ。

 それは己が人生より次々と去っていった仲間達が、後姿で教えてくれた理でもあった。

 家路を包む夕闇はいつしか夕霧へと変じ、川辺の道は白煙の如き濃霧に覆われていた。

 杢内が今歩いているのは、先人達が足跡を刻み、また後進へ遺し伝えゆくべき道だった。

 白い幕の向こうへ遠ざかりゆく、父の、兄の、弟の、祖父達の顔が見えた気がした。

 霞む道へと目を凝らし、杢内は背の温もりだけを守り歩き続けた。

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