墓五景




《墓五景》




 勤めが忙しくなる時期に『隣国にて縁者の葬いの為』と届け出、何をしていたかおよそ一月も勤めを放り出し、そして平然と帰参した杢内に、当然ながら席など残されてはいなかった。

 杢内は旅先より上役の増野宛へしばらく戻る事が叶わぬ旨を記した文を送っていたが、新参者の一月にも渡る藩領不在はそれ自体が問題となる。杢内は帰参後しばらくして目付の呼び出しを受け、増野同席の元で事情をこと細かに訊ねられた。

 徒目付の聞き取りの席上では、仕官して日も浅い者が素性明らかならぬ娘を養子として連れ帰った点もまた問題視されているようだった。門前町で騒ぎを起こした一件は何とか露見せずに済んだが、その代償として、今回の長き他行は「杢内が浪人仲間へ分不相応な高い墓を建ててやろうと奔走し、寺へ借財をした挙句、藩の蔵役人や他の浪人仲間の元を巡っては金を無心した」という話で落着した。無表情な徒目付が極力簡素にまとめようとする顛末はおよそ人の情味というものを欠いていたが、一方で事実には他ならず、杢内としてはただ黙るしかなかった。傍らで同席していた増野はまた違う感想を持つようではあったが、そこで口を差し挟むような事はなかった。

 平和で退屈な山奥の小藩では、目付の聞き取りがあった事それ自体が不祥事にも等しい。

届所書役は役料もつかず、いわゆる内役と呼ばれる、各奉行が任免権を有する御役目ではあったが、この役を外された杢内には帰参したからといって復帰の声が掛かるはずもなかった。

 杢内の務めていた書役はこの時期多忙を極めるため、急遽任ずるにしても諸事行き届いた人物が良いとされ、特例として増野の家に長年仕える家人の老人がその役を代わって務めていた。寺社奉行届所附の無役として、毎朝届所へ出仕し無為に茶を啜り夕刻になったら帰るだけの日々を送るようになった杢内へ、時折この老人は恨みがましげな視線を送ってきたが、もはや杢内としては黙って目礼を返すくらいしかできなかった。

 やがて年が明け春も来れば、家人らしからぬ抜擢と働きは上聞に達し、この老人が陪臣から取り立てられ家中となるだろう。そしてその代わりに杢内は、目付の報告から『勤め不行き届き方之れ有り』とされ家禄を失い、不名誉のうちに藩より放逐される事になるだろう。それはもう判り切った行く末だった。

 冬も深まったある夜、どうにも寝付けない杢内は両手を枕に、隣の布団で寝入る蛍を眺めた。屋敷には部屋が余っており、毎夜旅籠の狭い部屋で寝る日々からも随分と遠ざかったものの、蛍が必ず己の隣でしか眠らない癖だけはとうとう治らないようだった。

 まるで似ぬ娘を縁者から引き取ってきたという杢内へ、近所からは奇異の眼差しが向けられるだけだった。屋敷の周囲ではどうやら、杢内がより良い仕官の口か遺産の受け取りの話に騙されて隣国まで出向き、たかが浪人の葬儀に大枚をはたいた挙句、遺児まで押し付けられて空しく帰ってきたらしいという話が、嘲笑混じりに語られているようだった。それを聞いた蛍は激怒したが、杢内はただ、冬はみな百里も先の話をするものだ、放っておけ、と言うに留めた。

 障子の外では、軽い雪影が淡い月光の中に踊っている。

冬、降り続く雪に閉じ込められ、山の里人は悉く行き場を失う。今の杢内と同じだった。仕官成る事ただひとつを目的に育てられ、その為だけに生きてきた。ようやく仕官が成った後も、家中としての生活に慣れ、それをずっと続けていく事しか考えてはいなかった。

 そして身分を失おうとしている今、もう何処かへ行く為の力など残されてはいなかった。別の地を訪れ別の家へ仕官する、同じ苦難の道のりをもう一度歩み直せる気はしなかった。すべてはいつしか降り積もった徒労の中に深く埋もれ、最早道標すら見えなくなっていた。通ってきた道もわからぬ迷走の果てにこの山奥へと流れ着いた杢内の、己が眼前にはただ受け入れるべき生活が存在しただけで、例えそれが運命の終焉を示したからといえども、既に新たな目的地の一つも見いだせはしなかった。道の終点は己の墓標で、杢内にはもう何もなかった。

 もしここを追い出されたならば、一体自分はどこへ向かって歩き出せば良いのだろう。

 杢内は顔を横に倒し、薄闇の中、あどけない蛍の寝顔を見つめる。

 そう言えば。まだ返していない寺への借財が残っていた。浪人に戻り、前のように働き、早く残りの借財を返す。晴れて自由の身となったならば、娘が未だ見た事のないという、父の故郷を見せに連れて行ってもいいかも知れない。山を越え、海を渡る。本土より赤いのだと秀才が教えてくれた讃州の土を踏み、源兵衛の故郷を見せてやったなら、蛍は喜ぶのかもしれない。

 杢内の耳の奥に、かつて父を喪った海辺に響いていた、遠い潮騒が聞こえた気がした。

 目を瞑り幻の波音へ耳を澄ませていると、叩門の音と重い咳とが混ざる事に気がついた。時刻はもう夜明け前である。横の蛍を起こさぬようにそっと床を抜け出し、こんな時間に訪客かと訝しみつつ、杢内は訪いの声に応え戸口へ提灯を掛けた。

 開けた戸の先に照らし出されたのは、寺社奉行増野家の家人にして、勤めを放り出した杢内に代わり届所書役を押し付けられた件の老人である。その内心を顕すように、何とも複雑な表情を浮かべていた。

 深更の訪いを慇懃に詫びると、老人は寺社奉行の増野一馬が急ぎ呼んでいる旨を告げ、屋敷まで同道されたしと頭を下げてきた。私人ではなく公人としての呼び出しに、静かに奥歯を噛む。狭い床の間に斜めに置いた六郎佐の遺刀が刀掛けで震え、夜風は勢いを増していると知れた。

取り急ぎ衣服を整え、風に揺れる提灯を柄頭で押さえて外へ出る。すると、闇の中では冬にも稀な大風が淡雪を吹き散らし、辺りの家々の戸をがたがたと揺らしていた。

 増野の紋の浮かぶ提灯と共に先行く老人の歩みは、同道を求めてきた癖にやけに早足で、まるで峠で重荷を下ろしたばかりの荷夫を思わせる。大風に顔を伏せついてゆく杢内だったが、追う背中が不意に立ち止まった為、慌てて足を止めた。

 小さな背中、老人の見透かす闇の向こうから、風の音に混ざって何やら口喧嘩のようなものが聞こえてくる。どうやら大人がふたり、道を間違えたとか間違えていないとかで口論しているようにも聞こえる。こんな時間にうろついて大人が迷子か、と杢内は呆れるが、唐突に目の前の背中が盛大な溜息をつき、おもむろに通りを右へ折れて進んでいったため、老人の方を追わざるを得なかった。しかし、目指す増野の屋敷とは違う方向へと進んでいるような気もした。

思った通り若干の遠回りを経たものの、何事もなく増野の屋敷へは到着した。玄関続きの広間から唯一の灯明が漏れている。そこへ躍る主らしき人影に、障子越しに案内を告げると、老人は疲れ切ったような顔で早々に引っ込んでしまった。

 入れ、と言われて上がり込んだ広間の奥では、床の間近くの灯明盆の傍ら、この屋敷の主が太い巻物のようなものを広げ目頭を揉んでいた。

 低頭したまま、高部杢内、御奉行様のお呼びにつき罷り越しました、と告げる。もう覚悟はできていた。

 しかし、増野が口にしたのは、杢内の想像していたものとは全く逆の言葉だった。

「……寺社奉行届所附、高部次郎杢内。明日より、寺社奉行届所書役への復役を命ずる」

 は、と返答とも疑問とも取れぬ応えを返してから、杢内は思わず顔を上げてしまった。

 その顔へ浮いているだろう疑問を認めてか、増野は疲れた目に笑みを滲ませる。

 そのまま、投げやりな所作で読んでいた巻物の片方を畳へと放り投げた。

 太い巻物はころころと転がって、杢内の眼の届く場所にも長い長い書面の一部を広げる。

 その能筆にはどこか見覚えがある気がした。

「そこから全ては読めぬだろうが、まあ内容を掻い摘んで話せば、これは嘆願よ」

 巻物へ記された美文は、なぜか己の旅の一風景を要点よく綴っているように読み取れた。

「――当家以外に仕えた例がないゆえ、他家の習いは知らぬが。……近頃では、学のある足軽という珍しい者も居って、これがまた大層な美文を考え出すらしいな」

 まさか、錯覚だろう、と思いつつ、杢内は硬直したまま耳を傾けている。

「――また、別の家には、随分とお節介な三の丸奏者番が居るとかでな。御一門様にも関わらず、腕を折って字を書けぬ他家の足軽などの為に、その美文を能く書き記してやるのだとか」

 杢内は少しずつ頬が紅潮してゆくのを感じていた。

「……さらに言えば、だ」

 増野は疲労の色濃い声とともに、力尽きたようにあぐらをかいた。

「これが当世の習いか何かは知らぬがな。……御一門様の奏者番が、腕の折れた他家の足軽を護衛になど雇い、お忍びでわざわざ他藩の寺社奉行などを訪ね、そして」

 杢内は低頭したまま周囲へ素早く目を配る。まさか。ここまで来たのか。

「二人仲良く膝を揃えて、いかに先日暇を出したばかりの届所書役の人品骨柄が素晴らしいか、いかに深い情けを持って浪人仲間の弔いに尽力したか――書面のみでは飽き足らず一晩かけてとっくりと聞かされたわ」

 もはや赤く染まりきった顔を上げている事はできず、杢内は平伏した。

 申し訳ございません、馬鹿どもが御奉行様にご迷惑を、と言いかけた処で増野が笑う。

「――いや。いずれ、其方が伏せた旅の真意については詳しく話させ、あの目付の上申は撤回させるつもりではあった。その固い口を割らせる手間も省けたというものだ」

 巻物をくるくると巻き戻しながら、増野は何もかも判っていた顔で微笑む。

「これだけの美文を留任嘆願へ添えられ、かつ内々に他家の御一門様の後ろ盾もあらば、流石の目付も其方へ手出しなど出来まいよ。――むしろ、近年には珍しき天晴な心掛け、家中みな見習うべしと、加増があるやも知れぬぞ?」

 畳に伏したまま、汗を大量に流しつつ、恐れ多い事です、と杢内は言うより他にない。

「――まさに。浪々の身の内は知り合いも多いことよ。其方の旅の顛末は隠すところなくここに綴られておったが……高部杢内、うむ。やはり、我が見込み通りの男であったな」

 ひと裁き終えた様な顔で、巻物を掌へ打ち付ける寺社奉行へ、杢内はがばと顔を上げた。

 刀を手繰り寄せつつ馬鹿どもの所在を訊ねる真っ赤な顔の下役を、増野は朗らかに笑う。

「おいおい。斬るな。恩人だろう。そこは感謝すべき処だ。……ところで、その二人だが」

 増野はふと、いたずらっぽい笑みを浮かべた。

「一晩話すだけ話して、こちらが納得した事をしつこいぐらいに確認したと見るや、眠そうな顔で出て行ってしまったぞ。……何やら、『一晩泊めてもらうくらいの恩はあるはずだ』とか何とか言っておったようだが?」

 杢内の脳裏に、闇の中で道を間違え口論している二つの声が蘇った。あれか。

 いずれ馬鹿二人が眠そうな顔をして泊めろ泊めろと雪崩れ込むだろう杢内の屋敷には、ぐっすりと眠っている蛍が居る。きわめて寝起きの悪い蛍が、二人を押し込みか何かと勘違いして袋叩きにする事態は十分に考えられた。

 急ぎ己の屋敷へ戻ろうとする杢内を、増野はふと呼び止める。

「高部。仕官の折、其方は、財物は父御の形見一つを除き、全て手放したと言っていたが。

 ――持っておるではないか」

 いったい何をですか、と訊ねる杢内に、増野は笑顔で答えた。

「友」




 突然泊めてくれと押しかけて来た友と呼びがたき二人を湯と酒に沈めて丁重に持て成し、山のような土産を持たせて帰すと、ふたたび届所書役としての目の回る日々が戻ってきた。

 杢内は仕事に追われるまま三月程過ごすも、処分の沙汰など全く聞こえてはこなかった。


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