墓四景




《墓四景》




 初冬と呼ぶにも陽の弱まり過ぎた時節は、日の入り前に早くも肌寒さを運んでくる。

丈の伸びた薄野原の向こうへ声を放ち、杢内は籠を背負い直した。

「蛍。――居るか」

 色褪せた銀の穂をつける薄群の向こう、存外に近くより声が返ってくる。

「居るぞ。……何度目か。心配し過ぎだ」

 山犬の群れはもう去ったとは聞いているが、昼日中に襲って来ぬとも限らない。このような薄野を踏み分け、広い原野の中をふたり、別々に物を探し歩くのであれば猶更だ。

 心配し過ぎという程ではないだろうと遺憾を覚えつつ、杢内は成果を問うた。

「――どうだ」

「集まったぞ。籠が一杯だ」

 得意げな蛍の声に、杢内は呆れる。

「……おい。なぜ一杯になる」

「沢山拾えたからに決まっておろうが。次郎は、ちゃんと道具を見つけられたのか」

 杢内は背の籠に差す朽ちた刀へ目をやった。見る影もない姿だが、しかし間違えようもない。

「ああ。ひどい有様だが、六郎佐の差料を見つけはした。間違いない」

「――なら私が拾うのも間違いではないはずだ」

 古戦場ではないのだぞと、杢内は声のする方へ薄を掻き分けてゆく。

 からりからりと軽い音が積み重なる。音からして相当の量が集められているようだ。

「おい待て、六郎佐を思い出せ。そこまでの大男であったか」

「長身ではあっただろう」

 分けた叢の先には、はたして籠一杯に白骨をたくわえ野を進む蛍の姿があった。

 こら、と軽く拳骨を飛ばすと、蛍は打たれた額を押さえて心外そうな表情を浮かべる。

「このように籠一杯に集めて、六郎佐は鯨か何かか」

「そうは言うが。辺り一面古い骨ばかりで、とても見分けがつかぬだろう」

 そんなにもか、と足元に目をやると、草履の下でいま一つの骨片が軋みをあげている。

 飛び退いて、杢内は溜息をついた。

「――もう十分だ。引き上げるとしよう」

 蛍の背から子籠を抜き取り、己の背負う親籠へと放り込む。杢内は藪を漕いで大股で街道へ戻り、夕日を追うように歩き出した。子籠からこぼれた骨片が親籠の粗い目を潜り抜け、足跡を追うように散らばってゆく。荷がなくなり身軽になった蛍が、何か小言をこぼしつつその骨片を拾い後をついてくる様は子雀にも似て、杢内は不覚にも微笑を浮かべた。

 山間を縫って因幡へと続く街道筋でも、峠を折れ、下りにさしかかるこの辺りはずっとなだらかな坂道が続いている。道脇の丈長い薄原が途切れれば、行く手には見晴らしの良い盆地とそこへ真っ直ぐに伸びる乾いた道が、薄煙る視界の果てまで続いていた。

 安堵の爽やかな汗を拭きながら、六郎佐はこれに殺られたか、と杢内は思う。

 半刻も歩けば眼下に目指す寺が見えてくる。棟方六郎左衛門の両親の菩提寺である。昨日ようやく尋ね当てたこの寺には、かねてから考えていた通り、やはり六郎佐の墓参の痕跡など無かった。

答えを確かめるように訪れた近在の番屋では、二月程前、たった今歩いてきた峠道にて老齢の士分らしき行き倒れがあった旨を聞かされた。常ならば近傍の寺へ送り無縁仏として弔うはずが、折悪しく峠で山犬の群れが目撃されたとかで、しばらく往来を禁止している間に行き倒れの亡骸は影も形もなくなっていたという。

昨夜投宿したその寺より、親子籠、笊、古びた端切れなどを借り受け、二人は今朝方早くに先程の薄原へと戻ってきた。

薄紅に染まりつつある盆地へ目指す寺影は見えていると言えど、歩いて辿り着くにはまだ相当の時間がかかる。

 明るい内に済ませようと、杢内は道脇の小流れへ蛍を誘った。

 草履を脱ぎ、裸足となる。水の冷たさに蛍が歓声を上げている。六郎佐の遺品類を抜き取り、骨を積んだ籠を小流れの中央へ座らせると、下流には白茶けた濁りが棚引いた。

 そのまま、袴をたくしあげ帯に挟んだ杢内は水面に屈み込む。色づいた白骨を笊一杯に盛ると、無心に洗い始めた。

横では蛍が、残る骨を籠ごと揺らし、流水を通させて濯いでいる。見る間に小流れは白く染まってゆく。

 骨片に食い込んだ歯形からも綺麗に土を洗い落としながら、そう言えば六郎佐は冷たい水に触るのをひどく嫌っていたな、と杢内は思い出した。痩せ形で寒がりだったせいかも知れない。

 陽が落ちる前に手早く一通りの骨を洗い終えれば、汚れた骨は青みがかった白さを取り戻し、また量そのものも半分くらいにまで減っていた。籠のおよそ半分くらいにまで山をなす白骨を前に、蛍は読みが当たったような得意顔をしている。そのこめかみを濡れた拳で軽く小突き、杢内は籠より明らかに獣の頭とわかる骨を抜き出し放り投げた。

 盛大に文句を言いながら蛍は筍のような櫛を取り出し、乱れた髪を梳いている。六郎佐を獣と一緒に葬ってどうするか、と言い返し、杢内は整いつつある頭へ目を落とした。出会った頃に貧乏武家の前髪と見えた頭はあっという間に伸び、今ではどうにか稚児に見えなくもない。

 そろそろ袴を脱がせ、娘らしい装いのひとつもさせねば怪しまれるか。杢内は昨夜の寺の者達の視線を思い出しつつ思案した。

 足跡に黒々と滴を落としながら、日没前に寺へ辿り着く。門前にはふたつの雪洞が灯り、早くも通夜の席が用意されていた。寺の墓所台帳によれば六郎佐には遠縁にあたる檀家が居るらしく、近くで帰農したというその一族へ連絡を回したものか、庭に面した一間には親子連れの姿があった。

門から出てきた役人風の黒羽織を見送り深々と頭を下げている若僧へ訊ねると、なんでも、街道役人が葬儀代を持ってきたという。山犬に喰い荒らされた旧知の骨を拾いに野山へ分け入ったという二人へ責でも感じたか、番屋ではあくまでも六郎佐を行き倒れとして扱い、行き倒れひとりの弔いに遣う公費を預けていったらしい。夕闇へ消えゆく背中に、杢内も頭を下げた。

丁重に足を洗って薄明りの灯る寺内へ上がり込めば、案内された仏前ではもう小さな骨壺が口を開けて待っている。焼香の用意もすでに整っており、一間で待つ親子連れをいつまでも待たせるわけにも行かなかった。杢内は少し迷ったものの、結局のところ籠の骨ほとんどを骨壺の縁ぎりぎりまで納めることにした。普段小煩いことを言う割に、周囲で若い連中が喧しく言い合いをするのは楽しげに聞いていた六郎佐を思い出し、墓の中でも賑やかな方が良かろうと考えた部分もあった。

 骨壺をあらため蓋をした住持は、すぐに六郎佐の遠縁にあたる一家を連れてきた。よく日に焼けた親子連れはいかにも元武家らしく、深々と頭を下げ慇懃に礼を述べてきたが、杢内は骨拾いの御礼として真っ先に焼香を済まさせて貰うと、早々に仏前を辞し井戸縁へと向かった。

拾い集めた遺品類は未だ清めておらず、骨壺の脇に添える訳にもいかない。通夜の夕餉を用意する炊事の煙と菜を刻む音、若僧たちのお喋りを横に、杢内は黙々と井戸水をぶつけ、拾い集めた遺品類の泥を落とした。台所の格子窓から漏れる明かりが背中越しに、往年の光沢を取り戻す薬籠の表面へ淡い火影を踊らせる。漢方か、薬籠の蓋の合わせ目からはきつい薬臭が漏れ、それゆえに山犬達の牙にもかからなかったのだと知れた。

 無人の仏前へ戻る。割合に原型を留め、また歯形も少なかった遺品類を骨壺の置かれた小机に並べていると、支度を知らせにきた僧から通夜の席へ呼ばれた。蛍の横の空席に座し、改めて一家の面々と正式な挨拶を交わす。堅い言葉で遺骨拾いの労をねぎらう壮年の主人のよく日に焼けた貌は、血縁とはいうものの、さして六郎佐と似てはいなかった。それでも六郎佐からみると比較的近親にあたるのか、齢八十にもなろうかという老翁が進み出て、気丈にも通夜の番を申し出てきたが、杢内はこれを固辞すると料理を手早く平らげ、遺刀を抱き一室へ篭った。

狭い一室には小さな灯明と、台の上に置かれた骨壺があるのみである。中央には布団が敷かれていたが、これはあくまでも形式を整えたに過ぎなかった。

 通りかかった僧に言いつけ、水をなみなみと汲んだ大盥と、鉈鉞に使うという大ぶりな砥石を持って来させる。杢内は自身の脇差横に取り付けた小柄を外し、遺刀を分解しはじめた。

鞘の色は剥げ、柄細工はほつれ、刀身は錆びつき、鍔は曲がり、目釘は緩み、六郎佐の佩刀は散々なありさまである。まずは全ての装飾や付属物を取り外し、刀身を無心に研いでゆく。

 盥が茶色く染まり、刀身を覆っていた錆を全て落とし終えてようやく顔を上げれば、いつしか刻は深更にさしかかり、既に寺の中も寝静まっているようだった。

これ以上研ぐと刀身が細くなり過ぎるため、鋸のごとく毀れた刃もなだらかに整えるに留め、杢内は失望の溜息をつく。そのまま、洗って乾かしておいた柄糸をきつく巻き直し、目釘を直して拵えを元の形へ戻した。旅荷から取り出した油を塗り打ち粉をはたいていると、音も無く、隣の部屋へと続く襖が開けられた。

 振りむけば、暗い隣の間に佇んでいるのは額に三角の布をつけ、白装束に身を包んだ女である。杢内は全身総毛立ったが、絶叫を上げる寸前にどうにかその女が蛍である事に気がついた。

思えば、娘の恰好をしているのを見るのは初めてである。

 視線に気づくと蛍は恥ずかしげに身を竦め、それから意を決したようにくるりと回った。

「……明日着るようにと、六郎佐の縁者の娘が貸してくれたのだが。どうだ」

 野辺送りの為だろう。幽鬼かと思ってあやうく斬りかけた、と正直に答えればまた臍を曲げそうなため、額の三角の布は野辺送りに出る時だけ付けよ、と忠告するに留めた。

「――おかしくはないか」

 額の布を外しながら、俯き加減に蛍は問う。どうやら本当に訊ねたかったのはそちらか。

「……娘が娘の恰好をする。何もおかしな事などない」

 死装束が似合っていると言われ嬉しい娘もあるまいと、杢内はあえてそっけなく答えた。

 蛍は返答に一応満足した様子ではあったが、まだ何か言いたげに佇んでいる。

 無言で後ろ手を解き、差し出してきた手には年季の入った竹筒が握られている。この旅へ持ち出し、ずっと蛍へ預けていた水筒だった。受け取って軽く喉を潤すと、杢内は表面に刻まれた文字をひと撫でした。

「――次郎は、休まないのか」

 蛍の視線は打ち粉を漂わせる長刀へと向けられている。杢内は疲労の滲む目元を揉んだ。

「守り刀がない。直しているところだ」

「脇差はどうした」

「見つけられなかった」

 通夜に遺体の上へ置く守り刀は、故人の佩刀である方が相応しかろうと考えていた。

 蛍の視線は畳の上へ置かれた杢内の大小へと向けられている。なるほど、守り刀はおれの脇差でも別に良かったか。

 無言で刀身を矯めつ眇めつしていると、まだ何か訊きたそうにしている蛍に気付く。

 顔を向けると、蛍はなぜかいたわるような面差しを湛えてこちらを見つめていた。

「――みな、驚いていた。随分と手慣れていると」

 なにがだ、と眉を寄せるが、弔いへの準備や段取りの事かとすぐに気づく。

「……次郎の役目は寺社奉行届所書役と聞いたが。弔いの手伝いまでするものなのか?」

 まさか、と杢内は否定する。基本的には、届けを受けて記録伝奏するだけの御役目だ。

 そこで目の前の蛍が父と死に別れたばかりの娘である事を思い出す。いたわりの視線はきっと、これまでの人生において一体どれほどの道友と死に別れれば、ここまで慣れてしまえるものなのか、とその無残な道のりを悼むものであるに違いなかった。

 誤解に思わず苦笑しかけた杢内だったが、通夜である事を思い出し口元を引き締める。そのまま、なるべく穏やかそうな表情を作ると、ぽつりぽつりと昔話を始めた。

「……俺もな。長いこと、寺の世話になったのだ」

 杢内が今の仕官先である小藩を訪れたのは、一年と数月ほど前の事だった。領内の大きな寺へ事情を話し、わずかな期間だけ逗留の許しを得たつもりが、投宿した翌日には病を発し、それから長いこと床につく羽目になった。ただおかしな事には、寺僧達は奇妙な木像を背負って旅をしていた杢内を、浪人の皮を被ったある種の行者とでも捉えたものか。寺ではなぜか下にも置かない扱いをされ、手厚い看病を受けた上に一度は医者までも呼んでくれた。杢内も幼い頃よりどれだけ具合が悪くなろうが医者にかかった経験など皆無であり、それは専ら父の懐具合に起因していた。小藩の城下にしてはやけに医家が多く、みなが医者にかかるのも珍しい事ではないという変わった家風の後押しもあっただろうが、ともあれ、快癒した杢内はこの受けた事のない程の大恩へと深く感謝した。すなわち、めぼしい大身の屋敷を訪ね歩いての仕官伺いなど放り捨て、野良着に身を包んで寺の畑を耕したり、寺男に混じって寺の雑用をこなし始めたのである。大勢の修行僧を抱える寺の老住職はごく寡黙な人物で、杢内の忠勤に対してもほぼ無視を貫いたが、恩を返すだけ働くだけと杢内も気に留めなかった。そのうちに寺へ流れ着いた浪人の話が城下で噂にでもなったか、一度ばかり藩の寺社奉行とかいう偉物が寺へ訊ねてきて、何やら興味深げに仕事ぶりを観察していた事があったが、やはり杢内は恩を返すだけ働くだけと思って気に掛けず、寺男でございという顔をして立ち働いていた。やがて、細々と忙しかった寺の冬支度も一段落し、恩返しも一通り済んだと考えた杢内が旅立ちの準備を整えていたところ、ある日突然に老住職に呼ばれ、貴殿の仕官許しの求めに応じ諮問が三日後に行われるゆえ藩庁へ赴くよう、といきなり告げられた。まるで断崖へ打ち寄せられては跳ね返される流木のごとく、周囲からの拒絶という寄る辺なき漂泊の日々を過ごしてきた杢内の瞳からは、老住職はひどくまぶしく見えた。流れ者を藩へ推挙してやり、古びた裃まで貸してやり、仏頂面の裏ではずっと今後の身が立つように取り計らってくれていた老住職の田舎じみたやさしさは、寺社奉行届所書役というおよそ己に似合わぬ御役目さえも黙って拝命し、耐えて留まる理由としては十分すぎる程に価値のあるものだった。

「と……喋り過ぎたな」

 杢内が口を押さえて咳払いをすると、蛍は微笑ましげにその様子を見つめている。

「――はじめて、次郎がそんなにたくさん話すのを聞いた」

 そうだろうか、と杢内は意外に思う。蛍を連れてから、随分と己はお喋りになっている気がしていた。ともあれ、無駄な長話で十分に疑問は氷解し、また誤解も解けたであろう。

「夜更の長話は明日に障る。さあ、早く寝ろ」

 胡坐を動かし背を向けようとすると、蛍は脇に退き、暗い隣室にのべられた夜具を示す。

「昼間の骨拾いで疲れているだろう。通夜の番ならば私が代わる。次郎ははやく休め」

 杢内の眉が上がる。子供が一丁前に気を遣うな、とはねつける前に言うべき事があった。

 どのような表情を浮かべるか迷った後、結局は謝るような顔を向ける。

「……源兵衛の時は間に合わなかった」

訥々と話す杢内に、蛍はただ静かな眼差しを注いでいる。

「だから、これは俺の役割でもあるのだ。やらせてくれ」

音を鳴らして長刀を鞘へ納め、杢内はあえて微笑んでみせた。

 蛍はしばらくじっとその顔を見つめていたが、やがて何も言わぬまま襖を閉じた。

 隣室で寝静まったらしい気配を悟ると、杢内は机上の骨壺を下ろし、布団の中へ入れた。そのまま、直しを終えたばかりの長刀を、こんもりと山を作る掛布団の上へ水平に置く。

 六郎佐が布団に入るは今宵が最後となるだろう。既に血肉は失い骨となり果てていても、守り刀の錘付きでも、せめて暖かい布団で寝かせてやりたかった。

 薄暗い灯明に照らされる守り刀を最後に眺めてから、杢内は腕を組み瞑目する。

 ふと思い返し、竹筒の水を最後まで飲み切ってから、傍らへ置く。

 この竹筒を購った折、もともと入れられていたのは薬だった。その薬は竹筒の中に残留し、今なお、絶大な効能を発揮するのかもしれなかった。




 五人がいつものごとく酔いどれと化し、そして川沿いの大通りを五人並んで流す迷惑な無頼漢と化すと、今日は手ごろな喧嘩相手へ肩がぶつかる事もなく、さらには何とも珍しい事に顔見知りへと突き当たった。いつも酔っている時に顔見知りに会う事が無いのは、みな五人の酒癖の悪さを知っており避けられているからである。その間の悪い顔見知りもこそこそ逃げ出そうとしており、哀れに感じた次郎は気付かなかった振りをしたが、逃げる背中を源兵衛が名指しで呼びつけた為にもう逃げられなくなった。思えば、吞みへ誘われる時も喧嘩へ巻き込まれる時も、こういう時にとどめを刺し、道連れにするのはいつも源兵衛である。

 しかし相手も歴戦の商人であり、動きを止め振り返った顔にはもう笑顔を浮かべている。不幸な薬売りは、いかにも始めから客を見つけてこちらから近寄ってきましたという顔で、源兵衛と六郎佐からばんばん背中を叩かれている。一体何が琴線に触れたか、継助がその様に腹を抱えて笑っている。先刻より顔色が蒼白を通り越し土気色へ変じつつある胤弥が、とうとう道端にうずくまって嗚咽を始めたため、肩を貸していた次郎は気が気でない。

「おい、ちょうどいい処で会った。薬売り、酔い止めか何か売ってくれんか」

 地に手をついた胤弥は嗚咽の合間に首を激しく振り、みず、みずと訴えている。

「わははは。次郎。蛙じゃ。蛙が水を欲しがっておるぞ」

 酔うと饒舌になる六郎佐が、地面にうずくまり牛蛙のごとき嗚咽を漏らす胤弥を指さすと、皆がどっと笑った。こやつらさては鬼畜か、と次郎は酔漢共を睨め回し、胤弥の顔を覗き込む。

「水か。そうだな。水がないと薬も飲めぬしな。――おい。薬と水もくれ。水薬ならなお良い」

 声を放った瞬間に、胤弥が一層激しく首を振り、そして皆がより一層派手に笑い出した。今度の笑いは次郎が対象である。一体何が違うのか、一体何がおかしいのか。涙を流して呼吸困難に陥っている継助の肩をどやしつけると、次郎は皆と一緒になって笑う薬売りへと歩み寄った。真直ぐ歩けぬ。

「――ええ、ええ。ございますよ、とっておきの御薬が」

 次郎の酔眼を避けるべく背負う薬入れを腹前へ回し、薬売りは五本の竹筒を取り出した。

「何だそれは。水入れか」

「――さても、さても。これに取り出だしたるはぁ、酔い覚ましの妙薬にぃ、ございます」

 声を作って辻商いのごとく呼込みを始めた薬売りへ、源兵衛と六郎佐が喝采を飛ばした。何だ何だと、道行く暇そうな酔客が数人寄ってくる。酔い覚ましを売りさばくには呑み助の中というわけか。こんなところでも商いを始める、さすがの豪腕に次郎も舌を巻いた。

「さても、さても今宵も気持ちよく、出来上がっております旦那様方。こちらに納められたるは伝家の妙薬、効果覿面の酔い覚ましにございます。一口飲めば酔いは消え、二口飲めば寝覚めも快適、三口飲めば酒を呑んだ事さえ忘れ去りましょう」

 わはははと皆が笑う。酔っ払い相手だと思って適当な事を言いおると次郎は呆れたが、薬売りが片手にかざす切り出したばかりの青竹は、とぷんと重い水音を含み、宵闇も相まって不思議と言葉通りの妙薬にも見えてくるから不思議だ。単に飲み過ぎただけか。

 欲しい、くれ、幾らだと口々に叫ぶ六郎佐と源兵衛を、薬売りはにこやかな表情で振り返る。見事に商いへ利用されている二人を放って、次郎は桜の木のそばへ歩み寄り、まだ背を折って笑い続けている継助の襟上を掴んでしゃんと立たせた。

「お代はこちらに書いてございます。ですが。お代は、皆さまの酔い次第でもございます」

 首を傾げる一同へ、薬売りは笑顔で竹筒を差し出した。表面には引っ掻いたような字がある。いや、数か。

「四一三○四……何だこれは。これが薬代か?」

 皆が顔を見合わせる中、次郎が訝しげに問うと、突然に源兵衛が両手を打ち鳴らした。

「判ったぞ! 『四、一、三、○、四』……『よいさまし』だな!」

 爆笑が沸き起こった。下らぬ、実に下らぬと言いながら皆笑っている。薬代の話は何処へ行った、と次郎が呆れる間に、急に背筋を伸ばした六郎佐が甲高い声を放った。

「けしからん」

 大声を出し早くも腰の物へ手をやる老武家から、驚く皆が一斉に逃げる。

「酒に酔うておる者へ薬を売りつけ、しかもその代金が四万文じゃと? 成敗致す」

 素早く懐へ飛び込んだ次郎は抜きかけた六郎佐の肘を極め、白刃を鞘へと押し戻す。

「別に四万文などと言うてはおらぬ……薬売り。つまり、その数をすべて足せばお代か?」

 真っ赤な老人と力比べをしながら問う次郎の背中へ、薬売りは莞爾とした笑みを向けた。

「左様で。其処に書かれた数を全て足し、合計の文数をお代として頂戴致します。ですが――」

 笑みにやや挑戦的な色が混ざる。

「――酔われて居られます旦那様方に、果たして正しく数が数えられますかな?」

 商い人の挑発に、面白い、と陽気な酔いどれどもは腕まくりで応じ、そして各々重い頭を抱えて計算を始めた。腕まくりをした意味はあったのか。六郎佐が自分も数を数えるから放せと言うので解放し、もう一度地面にうずくまる胤弥の容態を見に行った次郎はほう、と感心した。

 胤弥は思案するような面持ちを浮かべ、顔色も少しはましになっている。成る程。酒で曇った頭をあえて使わせる事で、自分を取り戻させるという寸法か。この下らぬ計算すら含め、酔い覚ましの薬効のひとつというわけだ。あたりは口々に声高に不正確な足し算を行う酔漢どものせいで出来の悪い寺子屋のような有様だが、それだけでもこの川岸へかかっていた酔雲のようなものが晴れた気がした。

「それでは。お代を用意できた方からお順に、この妙薬を差し上げ……」

 薬売りが言い終わるのを待たず、地面を見つめていた胤弥ががばと立ち上がり、薬売りへ走り寄り幾許かの銭を押し付け水筒を持ち去るのが見えた。そのまま、川岸にしつらえた竹組みへもたれかかると、天へ突き立てた竹筒から美味そうな音を立て中身を喉へ流し込む。薬売りは手の中の銭を確認し、はい、丁度、と笑みを浮かべた。

「いや、流石は秀才、石山様ですな。酔われていても一番乗りにございます」

 一番、という言葉に酔客達はふとお互いの顔を窺い、そしてより一層声高に計算を始めた。競争心に火が付いたらしい。しかし次郎はそれどころではなかった。迷いなく竹筒の中の妙薬とやらを飲み干し、そして力を失い、安らかな表情で地面へ崩れ落ちゆく胤弥へと駆け寄る。

「杢内どの……。どうやら。それがしは。ここまでのようにござる」

 一切の苦しみの消えた表情で不穏な事を呟き始めた胤弥を、次郎は両肩を掴み揺さぶる。

「しっかりしろ胤弥。お主はただ――酒を吞み過ぎただけだ」

 そんな二人の姿を見てか、後ろで継助が笑い過ぎてむせている。

「『水鏡 酔雲払ふ 朱の』……」

 辞世の句らしきものを詠んでいる途中で、瞼が力尽きたように閉じられる。そのまま、がくりと頭を垂れ、手からこぼれ落ちた竹筒がからからと転がり、身体は力なく地面へくずおれ、そして安らかな寝息を立て始めた。

 笑い過ぎてしゃっくりを始めた継助を掴み、杖代わりにして立ち上がると、次郎は深々と溜息をついた。みな吞み過ぎである。いい加減酔いを覚ます必要があった。

 これは川岸への材木荷揚場として組まれた竹組みだろうか。地面で寝てしまった胤弥を苦労して竹組みの上へ引き上げ、横に寝かせると、傍らではようやくに笑いの発作を収めた継助が、懐手で顎をしごきつつ薬売りへと歩み寄ってゆく処だった。

「うん、酔い過ぎて計算が出来ぬなあ。この位でいいか?」

 適当な事を言いつつ差し出す穴開き銭を、またも薬売りが笑顔ではい、丁度、と受け取っている。夜目にはそれが幾らか判別しかねたが、恐らく継助は、胤弥が地面に這いつくばりながら金を用意する様をしっかり見ていたのだろう。そういう処ばかり目ざとい男だ。

 いや。もしや、正しい計算などできぬ酔っ払いが支払うお代は幾らでも良く、とりあえず適当な額を渡せばそれが例え幾らであってもあの薬売りは「はい、丁度」と答えるのかも知れぬ。次郎がそう考えた矢先、同じことを考えたらしい源兵衛が満面の笑みを浮かべ穴開き銭一枚を薬売りに押し付けに行ったが、「足りませぬな」とにべもなく突っ返される。浅慮であった。

 竹筒を手に悠然と帰ってきた継助は、眠る胤弥の隣へどっかと腰掛けると、妙薬とやらを勢いよく煽り、目を瞑っては嗚咽を漏らす。

「くうう、実に美味なる酔い覚ましよ。貴公らも早く飲むべきだと思う、ぞ、ふ、ふふふ」

 言葉の後半は笑いに崩れている。これは嘘の下手な継助が、誰かをおちょくって騙す時などに我慢できず、いつも示す仕草でもあった。

 人の悪い笑顔で一体何を隠しているのか。魂胆を吐かせようとした次郎の視界に、竹組に腰かけて両の足を放り出し、何故か草履を脱ぎはじめる源兵衛の姿が映った。

何をしておるのだ、と次郎が咎めると、源兵衛は重く垂れさがった瞼を向けてくる。

「決まっておろう。両の手の指では足りぬから、足の指も使おうというのだ」

 娘が居ればあれの指も借りるのだが、などといつもの世迷言を言う源兵衛を、行儀が悪いと咎めてきちんと草履を履き直させる。同じ事を言いおる、と呟きなぜか嬉しそうにしている源兵衛を放って、次郎はその辺に転がっていた木の枝を拾った。

指を数える代わりにこれで地面に数を書け、と皺膨れた手に握らせると、横から怒れる六郎佐が割り込んでくる。

「次郎。いかんぞ、その枝は。数を数えるどころか、まともに物も書けん」

 どうやら転がっていた枝を放り捨てたのは六郎佐のようだった。六郎佐は顔を赤くしてそのちっぽけな枝の非をなじる。

「その枝で地面に線を一本引くとな。どういうわけか線が二本も引かれるのだ」

 言っている意味が判らない。真に受けた源兵衛が、試しに枝で地面に線を引き驚愕する。

「まことだ。一本しか引いておらぬのに、四本も線が引かれたぞ」

「そうであろう。いや違う、二本であろうが」

 ぐるぐる回る酔眼で睨み合い、二人はそれぞれ己の目に映る現実こそが真実と言い争う。一本しか引かれていない線の前で、次郎は再度溜息をついた。竹組みに腰かける継助は実に楽しそうに笑っている。もういいから二人とも財布を出せ、三人分払っておく、と告げると二人は大人しく財布を差し出した。次郎が十二文ずつ抜いてゆくのを見て、また目を見張る。

「二十四文ではないのか」

「四十八文のはずであろう」

 やかましい吞み過ぎだ、とあしらって、次郎は笑顔の薬売りの掌へ三十六文を積む。

はい、丁度、の返事と共に竹筒を三本受け取り、ついてきた両脇の二人へ押し付けると、二人は物も言わずに栓を引き抜き、竹筒の中身を喉へ流し込み始めた。

 喉を鳴らす合間にうまいうまいと声を漏らす二人の袖を引き、継助の隣の竹組みへ座らせてから、次郎は自らも横に腰かけて竹筒の栓を抜き、やや躊躇しつつも中身を喉へ流し込んだ。

 清冽な清水を思わせる冷たい水薬が、酔って鈍った頭の隅々まで染み通る様で、実にうまい。

「ほお。これはまた随分と飲みやすい水薬だな、薬売り」

 背中越しに感嘆の声を投げると、何が可笑しいのか継助がくつくつと笑う。

「伝来の妙薬と言っておったが。この薬はいったい何から作るのだ?」

 必死に笑いを押し殺そうとしている継助の向こうから、薬売りの澄まし声が響く。

「すぐそこで汲んできた井戸水でございますよ」

 折った身体を震わせひたすら耐え続ける継助を見て、源兵衛と六郎佐が顔を見合わせた。

「成る程。では、その冷たい清水へ、いかような薬を混ぜるのだ?」

 源兵衛と六郎佐までもが揃って顔を伏せ、肩を震わせ始める。

「何も混ぜてはおりませぬよ」

 竹筒の中身を堪能しながら、次郎はほとんど反射的に訊ねた。

「ほう。何も混ぜぬのか」

 三人の忍び笑いは最早隠し切れず、お互いの顔を窺っては小さく吹き出したりしている。

「左様にございます。なにせ冷たい水こそ、一番の酔い覚ましでございますからな」

 もっともな答えに深く頷いてから、暫し、次郎は動きを止めた。

「うむ。それはつまり――ただの水ではないか!」

 勢いよく振り返った先にはすでに薬売りの姿などない。何処かの小道へ遁走したようだった。

 盛大な笑いが爆ぜた。ひきつけのような笑いを響かせながら次郎、貴公は最高だ、と人の背中を叩いてくる継助の手を仏頂面で払い除ける。やられた、してやられたと言い交わし身体を折って笑い合う源兵衛と六郎佐の姿に、次郎は肩を落として呆れた。

「ただの水を買わされて。笑うようなところか」

 笑いの合間に上戸どもが顔を上げる。

「いやいや。この水はまこと相応の値であったわ。ふ、ははは」

 人の顔を見てはまた吹き出す三人に呆れ果て、次郎は高値で買った水を煽る。もはや薬と思うこともないが、味だけは変わらずうまい。

「いや。呑んだ後に飲む水の、実に美味きことよ」

 呑気な事を言って笑い合う六郎佐と源兵衛へ、水はいつ飲んでも水だ、と言葉を投げる。

 顔を見合わせ、水を差されてしまったな、とまた吹き出している三人をもう次郎は放っておくことにしたのだが、黙って水を飲んでいると、三人はさきほど胤弥が言い遺した辞世の結句は一体何であるかを肴に盛り上がり始めたため、不謹慎だから止めよと口を挟む事になった。

「どんな句であったかな。確か、水鏡、酔雲払ふ、朱の……」

「朱の。何であろう」

「月よ」

 六郎佐が突き立てた指の先には、橙の月が浮かんでいる。継助が視線を下げる先には、川面に揺らぐ月影も見えた。常と異なる色の不思議な月は、なるほど水に映った影を眺めるだけでも神妙な心持にさせ、酔いを覚まさせるようでもある。というか、胤弥は薬の正体をきちんと明かしていたのか、と遅まきながら次郎は気付いた。

 何となしに無言のまま月を眺める酔いどれ共は、幾分正気に返ってきたようにも見える。

次郎は軽い財布を取り出し、己の頭上へと放り投げた。闇空から降ってくる財布を掴み取ると、大した銭の入っていない事を示す音が悲しく響き、三人の視線も集まってくる。

「……そうして毎日飽きもせず酒ばかり呑んでおるから、ただの水なんぞを美味く感じるのだ」

若い次郎の説教に、六郎佐は黙って白髪髭を風になぶらせた。

「否」

そうして、自らもまた薄い財布を取り出すと、闇空へ投げて受け止め似たり寄ったりの軽い音を響かせると、皺顔を崩してにやりと笑う。

「――毎日水ばかり飲んで暮らしておるから、こうして酒が恋しくなるのであろうが」

 しかり、しかりと源兵衛が手を打つ。川縁に笑い声がこだまする。

 次郎はいよいよ呆れて頭を垂れた。酒が恋しい、とは。酒好きではない己には、そんな日が来ようなどとは到底、想像もつかぬ話であった。

 意図せずぐらりと揺らぐ体に、未だ酔いが残っていたかと考える。遠く。遥か遠くから、己を呼ぶ声が聞こえるような気がして、次郎はずっと開けていたつもりだった瞼を開いた。




「――次郎」

 揺すられて目を覚ます。障子から畳へ斜めに差し掛けられた白い光が、すでに朝の訪れを告げていた。

「――皆もう準備が出来ている。はやく支度をせぬと、野辺送りに間に合わぬぞ」

目の前には白装束に身を包む心配そうな女の姿があって、杢内は思わず傍らの竹筒へと手を伸ばす。

 つかみ損ねた手が竹筒を倒し、中身の無い筒は軽々と、畳の上を転がっていった。

「……」

 遠ざかる竹筒を見送って、童子のごとくだらしなく開けていた口を閉じる。

 酔ったまま眠り見る夢もまた、恋しい酒の夢であり、夢の中でも酔いは覚めなかった。

 寝る前に口にした酔い覚ましは今頃効能を顕したか、杢内はようやく全てを思い出した。

 目の前で心配そうな表情を浮かべる蛍はひと月程前に斃れた源兵衛の忘れ形見であり、ぐうたらの継助は死んだような顔で長い長い登城行列を引き連れ、秀才の胤弥は傷だらけの面を伏せて道脇に草履を脱ぎ、そして、今日は、六郎佐の弔いが行われる日であった。

「……わかっている」

 顔を覗き込む蛍を押しやり視界から外すと、杢内は畳の上に用意されていた白装束へと手を伸ばした。




 本堂での長い読経の果てに、壺を抱えて寺の周りを一周するだけの短い野辺送りが終わると、遂に見送る者の一人も無いまま、六郎佐の遺骸はごくあっさりと棟方家累代の墓へ納められた。石工と手伝いが一人ずつやって来て墓石を動かし、顕れた石室の中、恐らくは両親先祖のものであるだろう骨壺の列の最後尾へ六郎佐をごく無雑作に加える。墓石を戻して鑿と槌を取り出し、傍らの墓誌の末行に六郎佐の戒名俗名を手早く刻む。それで終わりだった。

 この辺りは墓所にも事欠くため亡骸はみな火葬とするが、高部様の手際で随分と早く済みました、仏もさぞ喜んでおりましょう、などと語る僧の声を背中へ聞き流し、杢内はただ墓石へと向き合っていた。

 その手には誰にも供を許されなかった六郎佐の遺刀が握られている。

長身であった六郎佐の佩刀はその体躯に見合うだけの長さを有し、狭い石室などにとても納まるものではなかった。遠縁とは言え親族の形見であり、また一族家伝の刀でもあるだろうと考えた杢内は、野辺送りの行列の先頭を務めた壮年の男へと遺刀を託そうと持ちかけたが、すげなく断られた。

周囲の見る目はともかくも、帰農して代を重ねつつある元武家の一族が、その名残とも呼ぶべき武具へ固執し手放さぬのは、上聞に障る……まるで人目を憚るように肩を聳やかし、小声でそのような建前を述べ立てる壮年の主人ではあったが、杢内は申し出を断られた事よりもむしろ、弔いが終わり主人もその妻もどこか安堵の気配を漂わせている点が気にかかった。

その一方で。通夜の時にも姿を見た齢八十ばかりの老翁は、神妙な表情を作る孫娘達からも離れ、ただ黙って落涙している。しかし何処となくその涙にも見覚えがあって、六郎佐を悼むというよりもむしろ、まるでみじめな己を憐れみ悲しみに暮れているようにも見えた。

 行き場を失い宙をさまよう長刀の重みを掌に、杢内は考える。

六郎佐――棟方の家は、騒動による主家の減石転封に伴って召し放ちを受けた家だと、前に一度だけ聞かされた覚えがある。公儀の沙汰が下される程の激烈な家中騒動も抑えられず、石高を大いに減らした転封先へ連れてゆく価値無しと召し放たれ、主君に捨てられる形で置き去りにされた大半の元藩士達は、当然ながら新たに藩主家として送り込まれた譜代へ召し抱えられる事もままならず、実質、浪人か帰農かの二択を迫られたのだという。

骨の髄から士分の意識が染み付いていたあの六郎佐は、当然、浪人の道を歩むしかなかったであろう。しかし親族は帰農の道を選んだ。上座から転落した者に、世はどこまでも冷たい。おそらくは捨扶持のごとく放り与えられた日陰の狭い土地を引っ掻いて、慣れぬ暮らしの辛さに落涙しながら日々を過ごしたのだろう。民百姓として扱われ、士分としての矜持から血を流し続けるまま、長い年月を無表情にやり過ごしてきたのだろう。

六郎佐が財を潰して諸国を放浪する間、親族らはずっと故郷に留まり、そうした苦痛に耐え続けてきたのかも知れなかった。

 その六郎佐が長い長い放浪の果て、仕官成る事なく旅に斃れ、山犬の歯形のついた骨片となって帰ってきた時。はたして親族らは一体、どんな表情を浮かべたのであろうか。

 帰農という己が選択の正しさがこれ以上ない形で証明された事に対する、深い安堵か。

 あるいは、士分として返り咲く一縷の望みさえ潰え果てた事に対する、己への憐憫か。

 短い野辺送りにはただの一人として見送る旧知も現れず、そして長すぎた刀は、ついに墓にも故郷にも安らぐ事すら許されなかった。ただ六郎佐があわれだった。




 いつしか閉じていた眼を開くと、周囲にはすでに参列した者達の姿はなかった。浪人時代の仲間達だけにしてやろうという配慮か、傍らに立つのはただ蛍のみだった。

 まるで持て余すように杢内が捧げ持つ長刀へ、蛍は憂うような視線を向けている。

 それが、源兵衛に伴いずっと諸国を巡ってきた蛍の、次に留まる水辺を求めて迷う眼差しである事に杢内が気付くまで、最早さほどの時間は要さなかった。

 袂より襷を取り出す。あえて見せつけるように、その引き取り手の無い刀を鞘がらみ何重にも固く縛りあげ、そしてまるで忍びのごとく背中へ斜めに負えば、蛍はこちらの顔を見上げた。

 何も言わずただ仏頂面を前へ向け続けると、やがて視界の端で蛍が微笑むのがわかった。

 冬にさしかかる野に未だ咲き残っていたのか。蛍は両の手に野菊を携えていた。花弁をところどころ欠く淋しい花を墓へ手向けると、ふと胸元を探り、また例の紙片を取り出す。

 広げた紙片には、既にことごとく過去のものとなった肩書とともに、五人の名前が並んでいる。そこに浪人は、もはやただの一人も残されてはいなかった。

「……本当はな。父上も、六郎佐も、次郎が仕官成った事は知っていたのだ」

 上総国浪人、高部次郎杢内。そう書かれた文字から目をあげる。蛍の様子を横目で伺うと、苦笑するような、苦悩するような、何とも言えない表情を浮かべていた。

「父上にとっては。この皆はそれこそ今際の際まで、変わらぬ浪人仲間であったようだが……」

 蛍が見つめる紙片に書かれた己らの名は、悉く浪人の肩書のままであった。

「まだ杖をついてはいなかったが。恐らく胤弥の処へ行く前に、六郎佐は一度、父上の元を訪れたのだ」

三月半ほど前、夏が戻ってきたかのような照り付ける暑さの中、宿場町で大工仕事へ雇われ屋根瓦を葺いていた源兵衛の前へ、大汗を流す六郎佐が姿を現したのだという。

 六郎佐は既に病魔に冒されていたらしく、心配した源兵衛は己ら父子が投宿する部屋へ招き入れしばらくの逗留を勧めたが、旅を急ぐと告げ六郎佐はそれを断った。

 旅を続ける身体ではないぞと引き留めた源兵衛は、もう長い付き合いになる六郎佐がまた、貧しい己ら父子に迷惑を掛ける事を遠慮して痩せ意地を張っていると考えたらしい。

そこで、隣国の小藩へ向かう商家の空荷車へなけなしの金と文を預け、あそこは湯も湧いておれば医家も多い、しばらく湯治して来い、と痩せた病身を無理やり押し込んだのだという。

荷車に載せられなおも渋る六郎佐へ、源兵衛はさらに、噂に聞いた話では次郎も仕官しておるとか、儂の代わりに顔を見てきてくれ、と言い添えたらしい。

 すると、弱っていたはずの六郎佐は突然に背筋を伸ばし、すっくと往来に降り立つと、

「――あれはもう成った」

 そう答えたと言う。

 成ったとは何だ、仕官のことか、と源兵衛が訊ねると、六郎佐は首を振り、宿の軒先で将棋を打っていた男どもの盤に歩み寄り、駒をひとつ裏返したという。

 もう成ったのだから、二度とは迷惑はかけられぬ。それだけ言い残して踵を返すと、背筋を伸ばし、病とは思えぬしっかりとした足取りで歩み去っていったのだという。

 脳裏をふと、出来の悪い木像を削り終え、静かにうなずく父の姿がよぎった。

 胸の奥からこみあげる熱いものを無理やり飲み下し、杢内は強く目を見開く。

 墓前にて故人の下らぬ昔話を聞き終えて、ふん、とつまらなげに鼻を鳴らしてみせる。

「――そうやって無理をして、結局死んでおるのだから世話はない」

 その声はどうしようもない酔いどれどもへ説教するのと変わらぬ調子で響いた。

 しばし押し黙り、そんな言い方は、と顔を上げた蛍が一歩身を引くのが辛うじて判った。

 もはや何も見えなかった。目の前の墓石も、淋しい墓列も、傍らの蛍も、すべてが歪んで流れ出していた。

「ちちうえ」

 溢れ出る嗚咽に押し流され、もうそれ以上はまともな言葉にならなかった。

 固く閉じた目の奥からはだらしなく熱いものが溢れ出す。食い縛った歯の奥からはみっともなくしゃくり上げるような嗚咽が漏れ出す。

 もはや隠しようもなく泣いている杢内を見上げ、やがて蛍も、まるでずっと押し殺してきたものを解き放つように、父上、父上、と両手で顔を覆って泣き出した。

 六郎佐の眠る墓石の前で、杢内は己が父親の為に泣いていた。横で泣きじゃくる蛍もまた、父源兵衛の為に泣いていた。ここには誰ひとりとして六郎佐の為に泣く人間は居なかった。

六郎佐がただ、あわれだった。



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