墓三景




《墓三景》




「――胤弥の話を聞いたか」

 唐突に挙げられた名に、源兵衛へ供える酒の銘柄を考えていた杢内は反応が遅れた。

「……いや。何も知らぬ。胤弥がどうかしたのか」

 石山胤弥主計は己より数歳年少で、学才に溢れる異色の浪人でもあった。頭の回転が早いが、いつも人の影に隠れてしまうような小柄な身体で、ごく控え目な人物だったのを覚えている。

「もう二年ほど前になろうか。ふたつ隣の小藩に仕官してな」

「ほお。良かったではないか」

胤弥は頭の良さを生かしどんな仕事でも小器用にこなしていた為、年長の六郎佐と源兵衛も一目置いていた。胤弥は親が死んだ後でさえ学問を続けていた。貧しい暮らしの中で苦労して束脩を納め師について熱心に学び、諸国を廻って一体どれだけの学を身につけたであろうか。小藩を選ぶとは胤弥らしい控え目さだと、杢内は思った。

「人伝に聞いた話では――足軽をしておるらしい」

「なんだと。足軽。胤弥がか」

 驚きに、木へ寄り掛かる継助を鋭く振り返る。眩しそうに眼を細めてから、継助は確認するように訊ねた。

「そうだ。――どう思う」

 杢内は怒りを通り越しむしろ笑いがこみ上げてきて、半笑いで答えた。

「どう思うも何も。お主だって判ろう。あたら俊才を、たかが足軽づれなどに――」

奇妙に表情をなくした継助は、それでも皮肉げな笑いを浮かべようとして失敗している。

「なぜだ。貴公もまた、それほどの遣い手なのに、馬廻りやら藩境警固やら柔術師範ではなく、なんと寺社奉行配下で書役などしておるではないか。似合わぬことおびただしい」

 杢内の脳裏に、届所の堅苦しい雰囲気へ己を嵌め込まんと苦労していた頃の記憶が蘇る。

「そこまでの腕ではない。いや、余計なお世話だ。当家には当家の都合もある。なり手の居らぬ役の求めがあって、それに応じたのみだ。こちらは浪々の身の上だったのだから当然だろう」

 まるで練習していたかのようにするすると口から流れ出る言い訳の数々は、仕官先へ馴染めないと思う度毎に、杢内が何度も己へ言い聞かせていた事の証左でもあった。それを見透かしたような目で眺めて、ふん、と継助は頷く。

「貴公はそうやって納得したのだな。それはそれでいい。――だがもし仮に、貴公が食い詰めて、足軽徴募へ飛びついていたとしたらどうだ」

 家中は士分。浪人は厳密には士籍ではないものの、過去にそうであった者として士分と周囲からは見なされる。だが、足軽は明確に士分ではなくなる。同じく藩に仕える家中と言っても、その待遇どころか身分さえ一段下として扱われる。何よりも、仕官成るとは言え、代々保ってきた士分としての家名が己の代で潰える事になる。それこそ物心つく前から士分として仕官成る事を目的に厳しく育てられておきながら、己はそんな結末を許せるのか。

「――納得は、できんだろうな」

 士分としての矜持以上に、長年に渡る生活苦への憂悶も染みついている杢内は、しかしそう答える事しかできなかった。事実、足軽へ身を落とす元士籍の者も多い。長く続く泰平の世に、仕官の口など常にごく限られたものでしかなかった。失った扶持を取り戻し再び家中としての慣れた暮らしに戻るため、海沿いの藩にて近年増えていた海浜防備の足軽徴募などへと、肩を落として応募してゆく浪人も多かった。

「――あれか。いっとき多かった海浜防備か」

「いや、ここと同じく内海沿いの藩ゆえ、そうでもないらしい」

 記憶にある思慮深そうな胤弥の面差しに見通せぬものを感じ、杢内は早々にかぶりを振った。

「……何か深い考えがあるのやも知れぬ。頭の良い奴の考えることはわからぬ」

「おい貴公。それで納得できるのか。つい先程、納得はできんだろう、と言ったのはどの口だ」

 すぐ投げを打ち人を突き放す柔遣いの悪癖に、年上の継助は苦い表情を向けている。

 と、背を預けていた木から身を起こし、継助はふと居住まいを正した。

「次郎。――頼めるか」

 瞳はごく真剣な色を帯びている。

 杢内は当惑の表情を浮かべたが、やがて受け継がれた責務を悟ると、ああ、と頷いた。




「胤弥を訪ねてどうするのだ。また香典でも貰うのか」

 先程から左右へ纏わりつく蛍がしつこい。街道を歩きながら、杢内はちがう、と答えた。

「では、どうして父上の弔いに来なかったかと問い質しでもして、殴るのか」

 蛍の視線は顔中の傷に集中している。杢内はふたたび、ちがう、と答えた。

「では一体何をしに行くのだ、次郎」

 杢内は暫く黙る。昨夜より答えは出てこない。そこで、正直な気持ちだけを口にした。

「……わからぬ」

 何をしに行くのか己でも判らぬのに、それでも行くのか、と蛍は呆れている。

 答えず、杢内は街道の行く手に黙々と歩を進める。

 何をすべきかはもう判っていたが、どうやれば良いのかが、まるで見当もつかなかった。




 小藩の城下へ辿り着き、胤弥の行方はすぐに知れた。二年程前に仕官した者について軽く訊ねたところ、御弓組支配の足軽の一人がそうであると判った。

 御弓組、と杢内は呟く。胤弥に弓の心得があったなどと、ついぞ聞いた例がない。

組長屋に居るはずだと言うので、その道中に通りかかった飯屋兼旅籠へと、ついて来たがる蛍に荷物や飯代を預けて放り込む。杢内はひとりで武家小路を歩いた。塀の両脇に迫る竹林が高く伸び、屋敷の間隔も狭く、道は細い。

 行く手に姿を現した裾を端折る男が、つと塀際へ逸れ、慣れた動きで草履を脱いだ。冬に足袋も履かぬ素足を晒し、道脇へと控えて待つ。何の気無しに見たその横顔に、杢内は探し求めた面影を見出した。

「胤弥」

「おお」

 通り過ぎず目前へ立ちはだかる侍に、地面を見ていた足軽は不審を覚えた様子だったが、名を呼ぶとすぐに杢内と気付いた。どうやらかなり驚いたようで、足は草履を探している。

 杢内はつとめてにこやかな笑みを浮かべた。

「久しいな。数年振りか」

「最後に会ってからそれ位になるな。いやあ、次郎か。何とも懐かしい顔だ」

 侍の身と比較すると足軽らしいくだけた風体の胤弥は、数年前の苦学の徒といった印象と比べれば背丈は変わらぬものの随分と逞しくなり、また細かな傷跡に覆われ、かなり世慣れしたようにも感じられた。

 しかし外見以上にその口調へと、杢内は違和感を覚える。一同の中で最年少であり、儒学も修めていた胤弥は、皆に対してもっと慎ましい口を利いてはいなかっただろうか。

そう。代々継ぐ名乗りを重んじる胤弥からは、杢内どのと呼ばれていた事を思い出した。

 とは言え、そもそも浪人同士の付き合いであっても苗字や、親しくてもせいぜい名乗りで呼び合うのが自然ではある。思えば通称や幼名で普通に呼び合うあの五人は妙な集まりだった。

親戚か、と脳裏にぼやきつつ、杢内は日に焼けた秀才の変化を好ましい目で観察する。

「息災か。胤弥はまた、随分とたくましくなったな」

「おお。次郎こそ、随分とまた身綺麗になったではないか。仕官したのか」

 真っ当な再会の挨拶を交わし、杢内は顔をほころばせた。思えば継助とは再会の挨拶すらしていない。そもそも再会という感じがしなかった。

 これが再会というものだと、杢内は旅塵にまみれた己の紋付に目をやり、言葉を続ける。

「ああ。こことは比べ物にならぬほど田舎の、それも閑職だがな。こうして休みも貰える」

「違う違う」

 顔の前で手を振る胤弥は、喜色に満ちた笑みを浮かべている。

「身だしなみが整っておると言ったのだ。なんだ、嫁でも迎えたか」

 毎朝旅籠の部屋を出る前に必ず、蛍からうるさい検見と手直しが入るのを杢内は思い出した。

「これは蛍が……」

「ほお。次郎の御内儀はほたるという名か」

 違う違う、と今度は杢内がいそがしく手を振った。

「蛍は、ほら――源兵衛の、娘だ」

 それだけ伝えると、笑った事を悔いるかのように胤弥の顔から喜色が抜け落ちた。

「源兵衛か。……知らせは俺のところへも当然届いていた。弔いに訪れる事もできず、誠に相済まなかった」

 腰を折り深々と頭を下げる胤弥の姿に、逆に杢内の方が恐縮する。

「いや、おれも墓へ参る事が出来たのは小半月も経ってからだ。頭を上げてくれ」

「――そうか」

 頭を上げた胤弥は、杢内の顔に遠慮がちな視線を向けている。

「……触れていいのかどうか判らなかったが。その顔がまるで、殴り合いでもしたかのように傷だらけなものだから、な。てっきりなぜ弔いに来ぬかと殴りにでも来たのかと……」

 まったく蛍と同じような事を言う。違う、と言ってから、杢内はそれを否定しきれぬ自らの行いを振り返り、思わず苦い顔になった。

「しかしまた派手にやられたな。次郎がそこまで手こずるとは、一体誰とやりあったのだ」

「……継助だ」

 けいすけ、と声高に呟くと、胤弥は膝を打って笑い始めた。

「継助。継助か。また懐かしい名だ。あいつは強かったろう?」

「――知っていたのか」

「まあな。あいつは逃げ回ってばかりいて、喧嘩する処など一度も見た事がないが、な」

 それでも強さを知るのだから、やはり胤弥は己よりずっと賢いのだ、と杢内は思った。

「その継助と殴り合いか。一体どうしてそんな事になったのだ?」

「――成り行きだ」

 苦り切った顔で答えると、成り行きか、ははは、と胤弥は笑い声を響かせる。これではどちらが年上か判らない。

 笑い声を遮るように、杢内は肩に担いだ二つの大徳利を揺らして水音を響かせる。

「さあ――今宵は源兵衛の供養だ。この通り奴の好物もたっぷり買ってきた。呑むぞ胤弥」

 声高らかに宣言しながらも杢内は内心、苦い顔である。――なぜおれは継助と全く同じことをしているのか。

 大きすぎる紐徳利二つに目を丸くする胤弥は、おい次郎本当にこれを全部飲む気か、と我に返ったような低い声で呟いた。思い返してみれば二人とも下戸である。

 両者は共に死地へ臨むような表情を見合わせたが、もはや今さら退く事など許されないようだった。

「ええい。二言はない。呑むと言ったら吞む。……源兵衛の分もだ」

 仏の名前を出されては、胤弥にも否やは無いようであった。

 先に立って歩き出す。来た道を引き返し、大通りの方へ向かうようである。

 酒をたんまり持ち込むのにいい料理屋があるのだと、胤弥は語った。

「こんなに酒を持ち込んで。追っ払われはせぬか」

「なあに。まさに、ここの酒蔵が金を出している料理屋だ。大歓迎だろうよ」

 略紋が焼き込まれた大徳利の側面を叩いて、胤弥は先に十字路へ出た。

 と、そこで立ち止まる。後ろ姿が半歩下がり、足元は早くも草履を脱いでいるのを見て、また士分が通りかかったか、と杢内は察した。

 どの藩でも見かける、もはや不自然にすら思えぬ常識に類する決まりごとであったが、かつての浪人仲間がその規律へ従っているさまを見ると、やはり足軽は大変だなと杢内は思う。

 路地に佇む杢内の耳に、なぜか肉を叩く鈍い音が響き、急に胤弥の後ろ姿がのけぞる。視界を、まくった袖を戻す侍の薄笑いが通り過ぎてゆくのが見えた。

「――胤弥。いかがした」

 顔を塀へ向けうつむく胤弥の、口元を押さえる手より一筋の赤い滴がしたたり落ちた。

 杢内は十字路に飛び出し侍の後ろ姿を探す。軽い足取りで通り過ぎる背中へと声を放つ。

「――おい!」

 胤弥を殴りつけたと思しき侍は感情のない目で振り返ったが、やめろ、と袖を引く胤弥の姿を見て満足げに笑うと、そのまま立ち去った。

「やめてくれ。組内の方だ……」

 止め処なく流れ出る鼻血を取り出した手拭いで押さえる胤弥は、声を殺しそう懇願した。

 襤褸の手拭いはよく見れば、洗い落とせぬ古い血の跡がいくつも残っている。

 組内ということは御弓組か。遠ざかる後姿と血を流す胤弥を交互に見比べながら、杢内はたった今目にした光景の意味について考えた。

 胤弥はあんな、同じ組内の士分から通り過ぎざま殴られるような仕打を受けているのか。

「――このくらいで驚くな、次郎」

 慣れたような顔で、胤弥は鼻血を拭い捨てた。高い鼻が赤く腫れている。

「……足軽とはこうしたものよ。組で育てる。仕官以来、俺も仲間に随分と鍛えられた」

 杢内からは異界とも思えるような理を語ると、胤弥は陽気そうな笑みを浮かべた。

「――それに。次郎もだいぶ鍛えられたような顔をしているぞ?」

 思わず顔中の傷を撫でまわす杢内に笑ってみせ、胤弥は詮索を避けるように踵を返す。

 腑に落ちぬものを感じつつ後を追う杢内は、殴られる際に聞こえた言葉が気にかかった。

 天狗、と聞こえた気がした。




 胤弥が案内したのは、杢内が酒を買った酒蔵のすぐそばにある料理屋で、川辺の道に面した間口からは早くも酔客の笑い騒ぐ声が響いていた。店から漏れた明かりがまだ宵の口の青い川面へ揺らぎ、客を手招くかに見える。屋号らしく大書された「山天」の額を潜って、開け放した間口から入ると、既に半分がた埋まった店内の客の殆どは半纏姿だった。足軽の姿も見える。

 浪人時代によく連れてこられた店と変わらぬ雰囲気に、杢内は懐かしさを覚えた。あの頃は呑兵衛の三人に下戸の二人が引きずられる形で嫌々ながら呑みに来ていたものだが、こうして下戸二人が連れ立って呑みに出る事になろうとは、と考えつつ、奥まった空席の樽へ腰かける。

 胤弥がどんと誇示するように勢いよく大徳利を飯台へ置くと、早くも心得たとばかりに笑顔の女が小鉢をふたつ運んできた。蓋のように被せられているのは空の椀である。

 椀をいま一つ頼もうと手を上げかけた杢内を押し留め、胤弥は顔の上で小鉢を逆さにし、漬物をばりばりと噛み砕いた。

 己の前に置いた空き小鉢と椀ふたつへ手早く酒を注ぐのを見て、杢内も習うことにした。

 素早く小鉢の漬物を飲み下すと、受け取った徳利から小鉢へ酒を注ぐ。ふたつの椀はいずれも座る者のない樽の前に並べて置き、杢内は微笑んだ。

「大酒呑みだからな」

 胤弥も納得の微笑を返し、やや居住まいを正してから、共に小鉢を掲げる。

「源兵衛に」

「源兵衛に」

 傾けた酒は甘みが強いながらもしっかりと喉を焼き、それ故に身体がいかに冷え切っていたかを杢内へ思い出させた。足袋を履く事も許されぬ胤弥ならば猶更だろう、と見ると、これが存外に血色のいい顔で、早くも二杯目を勧めるべく徳利を構えている。

 無言のまま共に二杯目を空けると、ようやくに胤弥の唇から溜息が漏れた。

強張ったままだった胤弥の肩から力が抜けるのを見、杢内はつとめて優しく話しかけた。

「胤弥。当地の水には慣れたか」

 これまで目にした身振りの数々から、大人しかった胤弥は随分と乱暴になっている気がした。

「――当地の水か。この通りだ」

 足軽らしい無雑作な身振りで、胤弥は高々と小鉢を掲げる。

「――水は甘く、のちに辛い。胃の腑へ落とせば灼熱のごとし、だな」

「それは酒ではないか」

 杢内のあきれ顔に笑い声を響かせ、酒は水から造られるものさと胤弥は嘯く。

 店の中はけして寒くはなかったが、心持ち白い息を吐くと、胤弥は呟いた。

「…あれだけ呑んで、もう吞み慣れた酒のつもりだったが。酒は、あたたかいな」

呑み慣れたと口にする顔の赤みは酒焼けというより、やはり治りかけの傷にしか見えぬ。

「――おい、どうした秀才。今さらそのような大発見か」

 杢内が笑いながら混ぜっ返すと、胤弥は弱ったような表情を浮かべた。

「秀才はやめてくれ。今はただの足軽さ」

「あれだけ熱心に教えを受け諸国を回っていたのだ。学があるのは本当だろう」

 苦労して磨いた学に恥じる点などひとつも無かろう。大抵の浪人達と同じく、父が死んで以後は学問とも御見限りであった杢内は、そんな胤弥の美質をむしろ己を誇るように口にした。

「――学があるのはべつに俺だけではないさ」

 複雑な視線を彼方へ投げると、胤弥は煤けた板壁をそのまま見据えている。

「学は、位に伴うものだ。位に相応しく在るために、学を身につける必要があるのだ」

 そう言えばこいつは酔うといつも小難しい講釈を始めるのだった、と思い出す。

 声は誰かに言い聞かせる調子ではあったが、向かいに座る杢内を通り過ぎて響いた。

「……学なき位はただの暗君。しかし、では位なき学が賢臣たり得るかと言えば、これは必ずしもそうではない」

 そうだろうか、と杢内は心の中で反論する。胤弥はいかなる仕事で使われている時も、何でも小器用にこなし、賢く立ち回るように見えていた。

「……位に沿わぬ学、これは悲劇でしかない。学に対し位が高すぎても分不相応と罵られ、また位に対し学が高すぎても分不相応と罵られるのだ」

 杢内は瞑目する。仕官後に胤弥が見舞われてきた不幸の数々が、はっきりと見えた気がした。

 とても足軽という柄ではなかった胤弥が今の生活に馴染むまで、一体どれほどの苦労をした事だろう。それだけならば杢内にも判る。なぜなら似たような苦労はしてきたからだ。

 しかし、更にそれを上回る苦労となると、杢内には到底計り知れぬものでしかなかった。

 沈黙する胤弥はごく遠い眼差しで、何か長い長い記憶のようなものを思い返しているようにも見えた。杢内はその顔を窺うが、さして小煩い事も言われぬ田舎の小藩へと仕官した己が歩んだよりも更に険しいだろう、胤弥の苦難の旅路をそこに見出す事など出来るはずもなかった。

 酒の甘みに相反し、口元は苦みに歪む。暗い隧道の中を歩き続けるような、長い長いあてどない旅がようやく終わりを迎えても、未だに苦しい旅は続いている。

「……学は、別に良いのだ。俺よりも賢い奴はいる。俺よりも学のある奴はいる。身につけた学を、相応の立場で存分に振るわれる方ならば幾らでもいて、世の中はそうして回っている。学はな。いくらでも引っ込める事はできるのだ」

 酒のせいか。傷で腫れた鼻にさらに赤みを加えたような顔で、胤弥は呟く。

 知悉する学理をあえて語らず、押し付けられる愚かな掟を無言で受け入れ、目の前の胤弥が口ほどに上手く立ち回れているようには、杢内にはとても見えなかった。

「――おぉやおや。天狗どのが誰かと呑んでいるなど珍しい」

「大徳利二つとはまたその名に相応しい呑みっぷりですなあ、天狗どの」

 無遠慮に投げかけられた声へ振り返る。と、店に入ってきたばかりの酔客が二人、胤弥を見咎め奥の席までやってきた。もう既に出来上がっているらしい。杢内は半眼を向けた。

「――小頭。これは……」

 見る間に酔客どもは、何か言いかけて腰を浮かせた胤弥の鼻面へ容赦のない拳を順番に叩き込むと、飯台に伏す胤弥には目もくれず、勝手に空いた樽へ腰かけた。

「んん? 少し見ぬ間にまた鼻が高くなっておるなぁ。天狗どの」

「なるほどぉ。侍連れで呑んで見せ、天狗どのは我らとは違うと。こう言いたい訳だ」

そして、酒がなみなみと注がれた椀ふたつを見つけて目を輝かせる。

「ほほぉ。石山ぁ、珍しく気が利くじゃないか。我らの分まできちんと酌をしてあ」

 酔客どもが源兵衛の椀へ手を伸ばす前に、最後まで言い終るのを待たず、杢内は二人の鼻面へ順番に拳を叩き込んだ。己が殴られる事など想定していなかったのか、二人は大した一撃でも無かったのに板壁まで吹っ飛び、樽を跳ね散らかし土間へと倒れ伏す。

 飯台が揺れ、なみなみと注がれた酒が零れ落ちるのを、杢内は不快そうな顔で見つめた。

 飯台に伏し流れ出る血を押さえていた胤弥が、勢いよく顔を上げ声を放つ。

「――やめてくれ。組付の、足軽小頭だ……」

胸の中がむかついて、杢内は胤弥を睨み付けた。矜持を踏み躙られ、なぜそこまで庇うのか。

「……其処許ら。挨拶もなしに人の連れへいきなり手を出すとは、一体どういう了見だ?」

 土間を抱く男達へ冷たい声を投げかけると、年かさの男が飯台へ縋りつき立ち上がった。

 杢内の傷だらけの顔に一瞥をくれると、拳が届かぬ距離より大声を張り上げる。

「――よそ者が。他領の家中がしゃしゃり出おって。当家組内の躾に口を出すな!」

 肩に置かれた胤弥の手を払いのけ、杢内は指の関節をぱきりと鳴らした。

「こんな仕打が躾であるものか」

 拳を握って一歩踏み出すと、男は脂肪のついた胸を昂然と反らし、吐き捨てる。

「はっ。それは組内で決まる事。貴様が決める事ではないわ。天狗の連れもまた、天狗か!」

 面を酒気で朱に染め、鼻を鮮血で紅に染めて、一体どちらが天狗かと、杢内は笑う。

――こいつらを橋の上から投げ飛ばし真っ逆さまに川底へ叩き付けたなら、どれだけすっきりすることだろう。

――だが。ここで感情のままに上役らを叩きのめせば、やがて倍以上の陰惨な復讐を受けるのは、下僚たる胤弥に他ならなかった。

 胤弥はどうしてこんな処に仕官してしまったのか。杢内は思う。しかし食い詰め者の苦衷をよく知る杢内には、すぐ目の前の小禄が甘露に見えて飛びついたとしても詮無き事、としか思えなかった。

先程の胤弥の言葉を思い出す。水は甘く、後に辛い。胃の腑へ落とせば灼熱のごとし。

 そして。その酒が、土地を流れる水から造られるのだとしたら。胤弥が受けている仕打ちは別段珍しいものでもなく、この地ではもう、新参者を手ひどく責め苛むのが至極当然の常識で、また通過儀礼となってしまっているのだろう。

何に対してかさえ判らなくなった憤怒を押し殺し、杢内が口にしたのは全く別の言葉だった。

「あくまでも組内の躾と言い張るか。ま、それならば異存はない。……だが、それを言うなら其処許らも、ちと躾が足りぬのではないか」

「ほう。続きをやる気か、面白い。ただで済むと思うなよ、若造」

 固太りの胸を突き出し、男は早くも店の外へ顎をしゃくってみせる。取り合わず、杢内は淡々と言葉を続けた。

「……其処許らが断りも得ず勝手に飲もうとした酒。あれは仲間の分だ」

「何だと。嘘をつけ、他に連れなぞ居らんだろうが」

 辺りを見廻す男に、あくまでも落ち着いた態度を崩さず、杢内は再び樽へ腰かけた。

「……それはそうだ。仲間は今、土の下に居るのだからな」

 言葉に詰まる相手をよそに、あくまでも悠然と酒の入った器を持ちあげる。

「――知らなかったであろうが、今宵は旧知の仲間の弔いでな。よくお判りとは思うが、よそ者にしゃしゃり出て欲しくなければ、また仲間内の事に口を出して欲しくもないのだ」

 殴った相手など存在せぬかのように酒をちびりと傾ける杢内に、男はいきり立った。

「白々しい、口から出まかせを」

 どん、と大きい音を立て、飯台の上に何かが置かれた。

 盛大に酒を零す二つの盃の前に置かれたのは、蛍より借りてきた源兵衛の位牌だった。

 真新しい位牌。とっくに静まり返っていた店内へ、さらなる重い沈黙が落ちる。

 杢内は、平静を装う面の下を恐る恐る窺おうとする一同の視線に、敢えて微笑で応じた。

「……さて。これで他領といえ、無礼討ちの名分はもう十分に立ったと見る。表へ出るか?」

 位牌を掴み出した手をそのまま腰の大小へかけ、杢内が立ち上がろうとすると、男達は蒼白な顔色で踵を返し、物も言わずに店から飛び出して行った。

 しばらく、誰も動かなかった。胤弥も突っ立ったままで居た。杢内はひとり酒を煽る。

 やがて、胤弥が空になった杢内の器へ酒を注ぎながら、ぽつりと呟いた。

「……すまぬ。すまぬ、次郎」

 その手から大徳利を取り上げ、杢内は二つの盃のひとつへ酒を注ぎ直す。

「――礼ならば源兵衛に言え」

 胤弥もいま一つの盃へ酒を満たすと、ようやくに口元を曲げ、ぎこちなく笑ってみせた。

「……そうだったな」

 降って湧いたような騒動で、いまだ店内は通夜のような雰囲気に包まれている。

 雰囲気の大元である位牌を懐へ仕舞うと、杢内は飯台に小粒を投げ立ち上がった。

「――河岸を変えるか」

「……ああ」




 静まり返った店からしばらく川下に歩き、橋の袂の小舟溜まりが見えてくると、胤弥は川辺へと下りていった。堤の石垣を削って作ったような荒い石段の、一番下へ腰かける。足を投げ出す先は石垣に沿う細い桟橋となっていて、繋がれた小舟達が揺れていた。

 近くの店のものか、橋に吊られた雪洞がうつむく胤弥の背に淡い光を投げかけている。

 杢内は桟橋まで下りると、胤弥の隣へ腰かけた。静かな水音を聴きながら、どのような言葉を投げかけるべきかしばし迷う。河岸を変えると言って本当に川岸に連れてくる奴があるか、などと継助が口にしそうな冗句でも言おうかと考えたが、胤弥の表情を見て結局は口を噤んだ。

 乱闘で散らかった際、先程の店から拝借してきたのか。丸盆と、盃をひとつずつ取り出すと、胤弥は神妙な面持ちで大徳利から盃へ酒を注ぎ、そして丸盆の中央に置いた。杢内を見る。

 杢内はうなずき、位牌を取り出した。丸盆の先へ置く。

 桟橋の上に置かれた位牌と、そこへ供えられた酒を前に、胤弥はただ黙って遠い川面を見つめていた。杢内は大徳利を傾け、酒を多めに煽る。底抜けの陽気さについ何でも話してしまう、源兵衛の前であればきっと胤弥も話せるに違いなかった。もちろん何も訊かないほうがいいことは判っていたが、それを訊くためにここまで旅をしてきたのだ、と杢内は思った。

「胤弥。……天狗とは、何のことだ」

 意を決して口にすると、胤弥の目は照り返す小波を映し複雑な色に揺れる。

「天狗か」

 ぽつりと言うと、口元に笑みを刻む。

「教えてしんぜよう。天狗とは。山に棲まい、顔は朱、鼻長く、神通力を用い人を惑わし」

「茶化すな秀才」

 もったいぶって何かの博物誌を引き始めた胤弥の、その口調が途中から変わる。

「……己の学を鼻にかけ、驕慢で、鼻高く。ゆえに、鼻が縮むまで殴りつけてやらねば、人にも戻れぬし、家中に相応しき足軽にもなれぬ半端者、――だそうだ」

 杢内が聞いた事もないような天狗の定義を語り、そして弱々しい笑いで結ぶ。

 赤く腫れた胤弥の鼻を見やり、杢内は改めて怒りを覚えた。

「――馬鹿馬鹿しい。お主の鼻が高いのは、それこそ生まれつきであろうが」

 憤慨する杢内の言に、胤弥は両膝へ頭を埋めてくつくつと笑い出す。

「次郎ならばそう言うだろう、とは思っていた。小頭相手でさえ普通に殴っていたしな」

 あれはすっきりした、かたじけない、と礼を言った胤弥の顔色が、ふと曇る。

「――だが、それだけで撥ねつけて良い理由にはならん。鼻高しと言えば普通は、心構えのことを指す。学を鼻にかけると人から言われるからには、己の中にまだそういう部分が残っているのやも知れん……」

 胤弥はこんな人物だったかと、杢内は改めてその顔を見直す。一方的に殴られ続けてなお己に責を求めるとは、余りにも内省が過ぎるのではあるまいか。

「――とてもそんな、驕り高ぶった態度には見えぬが」

 承服できかねるとばかりに酒を喉へ流し込む杢内に、胤弥は諦めたように肩を下ろした。

「……仕方がない。この地では、天狗は嫌われ者よ」

 懐から一筋、子供が持つような風車を取り出して、胤弥は語り始めた。

「――街道近くにある御山、愛宕山には古くから天狗が住むと言い伝えがあってな」

 風車がからからと回る。

川面を渡る風を遡れば、星空を切り取るような漆黒の稜線が見えた。あれが愛宕山か。

「――愛宕の山天狗はひどく残忍で、しばしば人の命を取る、のだそうだ」

 思わず杢内が見返すと、胤弥はいかにも硯学らしく、余所ではまず聞いた事のない伝承で、あくまでも土地の者が言うにはだが、と前置きして続けた。

「――家中の者が勤めに耐えかね逃げ出すと、決まって愛宕天狗が人を襲う、という話だ」

 そんな話はいまだかつて聞いた事がない。この土地らしい馬鹿げた言い伝えだと杢内は思う。

 かつて、舶来物など珍しい話を人に聞かせる際の胤弥はとても楽しそうだったのを思い出す。

「――御山の天狗は眼下で暮らす人々を見守り、裁きを行う神でもある、というわけだな」

 放浪の日々に各地の習俗へも通じた胤弥なりの見立てだったのだろうが、それを口にする横顔はとても辛そうに見えた。

「しかし――昔の土地の者達は、逃げ出した驕慢児が、その鼻の高さゆえに山天狗へ変じ、惨たらしく人を殺めるのだ、と考えたらしい」

 続く言葉には、らしからぬ蔑笑と悪意さえ混ざり込んでいる。

「――それゆえ。新たに仕官した者はみなで厳重に鼻っ柱を折ってやり、鼻が伸びぬよう、天狗にならぬようにきつく戒めてやるのだ、という」

 それは単に新参者を殴りつけるのに都合のよい嘘を並べて騙されているだけだ、と言い返そうとした杢内は、相手の目の色を見て黙った。

 酒毒を孕む廃人のように赤く充血した瞳で、胤弥は大量の水を湛えた川面を睨みつけていた。

 無言のまま、握る風車を丸盆の上に置く。横たえられ、羽根はその動きを止める。

 胤弥が懐へ手を戻し、続いて取り出したのは紅色も美しい女物の櫛だった。なぜそんな物を持っているのか、と杢内が疑問に思う間に、櫛もまた盃の乗った丸盆の上へと横たえられる。

 次に取り出したのはごく短い小柄だった。女子供が護身用に持つような拵えのそれもまた、丸盆の上へと横たえられる。

 胤弥の懐や袂より、様々な小物が姿を現す。小物は酒で満たされた盃を囲むようにして累々と、丸盆の上へ積み重ねられてゆく。

半纏の切端、袴の紐、上等な根付、小さな薬籠、千切れた草履、古びた煙管、質の良い懐紙――と積み重ねられる頃にはもう、杢内の顔色は白へ変じ、皮膚は一面の粟粒に覆われている。

 黙り込む杢内の前で、胤弥は小物を満載する丸盆を川面へ移し、そのまま手を離した。

 静かに遠ざかりゆく丸盆には、仏へ供える酒が乗せられていたはずだった。しかしその盃は周囲を囲む数多の小物に取りすがられるようにして、既に姿形も見えなくなっていた。

 波間に浮かぶ煉獄が橋下の闇へ消え去り、ようやく杢内は解放されたように息をついた。

 桟橋にひとり残された源兵衛の位牌を杢内へ返すと、胤弥は波の彼方をずっと見つめている。

 視線を下げ、杢内はたずねた。

「胤弥。――そなた、天狗を見たか」

 なぜか己の利き手へ目を落としながら、胤弥は答える。

「幼き頃より諸国を巡り、見聞を広めてきたが……そのような怪しきもの。見た事がない」

「――天狗を見たか」

 再度の問いかけに、胤弥は訝しげに杢内の顔を見、そして視線の先を覗き込んだ。

 暗い川面には、橋上の雪洞より零れる光が散らばり、川を覗き込む男の顔を映し出していた。

 赤く腫れた高い鼻を持つ面が波打ち、ぐにゃりと微笑む。

「――ああ。今、見た」

 隣り合う半身へびっしり粟粒を浮き上がらせ、杢内はもう話すことはない、と悟った。

 聞き覚えのある声が途絶えると、黙って隣に座り続けている小柄な影はますます見知らぬ人物のように思えてきて、杢内は小さくかぶりを振るより他にない。

 しばしの沈黙が川面を支配する。

 まるで旧知の仲間の面でも気安く被り直すかのように、胤弥はごく軽い声を放った。

「……そう言えば。三月ほど前にな。六郎佐に会ったぞ」

 棟方六郎佐衛門。五人の中でも最年長で、もう初老の域に差し掛かる痩身の浪人だった。

 うつむいたまま、出し抜けに胤弥が語り始めた内容を、杢内はただ黙って聞いている。

「……重い病のようでな。杖にすがって歩いていた。見るに見かね長屋へしばらく泊めたのだ」

 胤弥が片手で指さした己の顔は、傷に赤く腫れ、また淡い苦笑を浮かべている。

「……だが俺も当時からこの有様でな。『組長屋に知らない爺を飼うな』と言われたよ」

 長屋の己の部屋においてすら、新参者の胤弥に心休まる時は一切訪れなかった様だった。

「別に今更だ。俺は何発殴られたって構やしなかった。……でも、六郎佐は黙って姿を消した」

 六郎佐らしい、と杢内は思う。あの老人はどこまでも誇り高く、そして人の足を引っ張るのを何よりも嫌った。世渡りの下手さはおもにその潔さに起因していた。

「六郎佐が出て行くのを見たという長屋の者には、人紛いの天狗めが善人気取りかと殴られた」

 胤弥の気付かぬところで、六郎佐は一体どのような光景を目にしてきたのだろう。

「――六郎佐を城下で見かけた時、はじめは因幡にある親の墓へ参る道中だと言っていたのだ。だから、ここより程近い、街道へつながる愛宕の御山の峠道まで追いかけた」

 杢内は星空の途切れる辺りを見上げる。あの山まで杖をつき歩くのはさぞ苦しかっただろう。

「だが見つからなかった。……結局、六郎佐とはそれきりだ」

 六郎佐の高い矜持を思えば、決して追いつかれぬよう旅立ったのは容易に想像できた。

「……そこでな。夜半まで探し回っているうち、たまさか出食わしたのだ。組内の者にな」

 何があったか。何を言われたか。それ以上は何も語らず、胤弥はただ純粋な笑みを浮かべた。

「――思えば、あれが。まことの天狗というものを初めて知った時だったのかも知れんな」

 開いた己の両手に目を落として、うつむく胤弥は解放感に満ちた笑みを浮かべている。

「……それからは、何かにつけ殴られるのも苦と感じなくなった。何せ俺は天狗なのだからな」

 と、不意にその表情が両膝の間へ沈み、見えなくなる。

「次郎。――すまぬ。俺は、六郎佐を、助けてはやれなかった。本当にすまぬ」

 抱えた膝の間に頭を深く埋め、胤弥は謝罪の言葉を繰り返す。

 伏せられたその表情は、発する言葉の通りに悲色に満ちているのか。あるいは、先程最後に見た通りに喜色に満ちているのか。最早それすらも判断がつきかねた。

「……」

 六郎佐を救えなかった事を悲しんでいるのか。

 六郎佐に裁きを施してやれなかった事を喜んでいるのか。

 六郎佐もまた己と同じように迫害され助けてはもらえなかった事を喜んでいるのか。

 六郎佐を追いかけたものの機会を逸したことを悲しんでいるのか。

もう何も判らなかった。伝えるべき事だけ伝えようと、表情を消して杢内は口を開いた。

「――明日の夜、発とうと思う」

 抱えた両膝に頭を埋め身じろぎもせぬまま、しばらくの沈黙ののち胤弥は答えた。

「そうか」

 杢内は襟をくつろげ、位牌を懐の奥深くへ仕舞う。源兵衛には聞かせられぬ話だった。

「――恐らく夜半、人も通わぬ頃。その峠道を通る事になるだろう」

足の震えを立ち上がる重みで殺し、踵を返すと、ごく小さな返答だけが耳に届いた。

「……そうか」

 背を向けて去る桟橋からは、ささやくような夜川の音だけが響いていた。




翌日夜。うとうとしている蛍とともに旅装を固め、杢内は旅籠を出た。こんな時間に出立する客を訝しんでか主人は、夜のお山は天狗が出ますぞと忠告してきた。

蛍は何を馬鹿な事をとでも言いたげな半眼を向けただけだったが、杢内は、天狗除けの加護ならば万全だ、と答え、ふたつの松明に火を走らせた。

眠そうに松明を掲げる蛍の空いている手へ、昼の内に求めておいた錫杖を押し付ける。

「何だこれは。獣除けか」

 じゃらじゃらと、修験者が持つような錫杖を鳴らしながら、蛍は杢内の腰の辺りを見る。

 同じく松明と錫杖を携える杢内がその袴紐に幾つも挟んでいるのは、神具のごとき振鈴であって、無数の清らかな音を響かせていた。

「そのように沢山の鈴を求めて。祝い人でも始めるつもりか……まさか。次郎。こんなもので本当に、天狗除けの加護とやらを得たつもりなのか」

 眠気も覚めたような真顔で、蛍はまじまじと杢内を見つめる。

「――何を言うか。霊験あらたか、効き目の程は御覧あれだ。……行くぞ」

 取り合わず、杢内は城下の外へと足を向けた。溜息をつく蛍も後を追い、賑やかな音が続く。

 夜の城下を抜け愛宕山の手前にさしかかる頃には、人家もまばらとなる。しんと静まり返った夜の野に唯一、賑やかな金音を響かせて進む己らを目がけて、四方の闇が迫り来るような感覚さえ覚える。

 心細いのか、後方を歩く蛍が距離を詰めてきた。

「次郎。松明も灯せば音も鳴らす。こんなに賑やかに歩いていては、逆に目立ちはせぬか」

「――それも狙いの内だ」

 さらりと口にする杢内の横顔を、いよいよ正気を疑う色で蛍が覗き込んでくる。

 城下に近過ぎる上あからさまに怪し過ぎ、野盗の類は襲って来ぬだろう。獣もまた然り。

 それでも、音と光に引き寄せられて、行く手に立ちはだかる者があるとすれば、

「それこそ――やって来るのは、天狗くらいのものだろう」

 賢い天狗はこの日この時、おれが夜道を通るのを知っている。必ず待ち受けている筈だった。

 山天狗はいかなる技を用いて人の命を奪うのであろうか。杢内は思い出す。

 父を亡くして荒れ狂っていた季節は一体どれほど続いたか。ある日、杢内は深酒をした帰りに四人組の浪人とぶつかった。風采の上がらぬ、大して腕の立たなさそうな連中だった。これなら一人でも片付けられる、と踏んだ杢内は、いつもの如く因縁をつけ謝罪を求め喧嘩を吹っ掛け、そして四人組の中で最もひ弱そうな小兵に、ごくあっさりとねじ伏せられた。湿った地面に押し付けられ土の味を噛み締めながら、杢内は涙をこぼした。頭も手足も鈍るほど呑んでいなければこんな奴に負けるはずがなかった。その時ようやく、みじめな己自身に気付いた。

 しかし、本当にそうだったのだろうか。杢内は記憶に残る胤弥の姿を、思い込みを排して見つめ直す。

 あの時あっさりと押さえつけられたのは、己が深酒をしていたからではなく、胤弥に相応の心得があったからではないのか。そう言えば五人で喧嘩などに巻き込まれた時も、いつも胤弥は無言で防戦に努め、杢内が助けに入るまで傷だらけで凌いでいたが、倒されたところを一度でも見た事があっただろうか。それに、いつも差していたあの腰の物。小柄な体躯に不似合な長さの刀は、浪人という事もあり体格の違う親からの譲り物かとも考えていたが、やや前下がりの差料にきつく締めた角帯。親指付け根から伸びる分厚い胼胝。仕官して様々な侍を知る今だから判る。思えばあれらはすべて、居合を遣う者に共通する特徴ではなかったか。

 酒が入るとすぐ腰へ手が伸びる悪癖があった六郎佐などに比べると、胤弥が怒るところなど見たことがなく、若さに似合わぬ温厚篤実な智者、気のいい弟分としての態度を常に崩すことは無かったが、それは胤弥が学問一辺倒の軟弱者であったからではなく、確固たる武芸の裏打ちがあったからこそではないのか。

 単なる秀才と捉えていた胤弥のはにかむような微笑の裏に、電瞬、間合いを遥かに超えて迫り来る白刃を幻視し、杢内は身震いした。

 気づけば道はもう坂になっていて、辺りは一面鬱蒼とした茂みに包まれ、両脇の急峻な斜面が漆黒の壁の如く聳え立っている。暗く見通せぬ坂の先では、怪鳥の鳴き交わすような不吉な声が聞こえ、それをかき消すように後ろの蛍が錫杖を強く突き立てたのが判った。

 賑やかな音を放って歩いていたが故に、気づくのが遅れた。

 峠道へさしかかり、周囲の茂みから風鳴りの音が消え、また不自然に虫の声も絶えた、と気付いたその刹那。

 突如上空から降ってきた人影が、抜き打ちに首根目がけて横ざまの一撃を放った。

 抜刀の速度は恐るべきものだったが、松明の火色を僅かに照り返したため、受け身のごとく後方へ転がり杢内はかろうじて難を逃れた。

 咄嗟に手放した松明と錫杖が、遅れて地面に転がる。どちらも二つに割れていた。

 悲鳴をあげた蛍の倒れる音。道脇の茂みへ突っ込んだまま、杢内は懸命に首を捻じ曲げそちらを見る。取り落とした松明の傍には蛍がへたり込み、怯えの表情を行く手へ向けていた。

 蛍が見据える道先には、闇が凝ったような影がひとつ、慎重に足元を固めていた。杢内は影が飛び降りてきたであろう高台を見上げる。斜面に真直ぐ伸びる杉の巨木の陰へ潜み、飛び降りつつ抜き打ちの一撃を放った様は、まさしく天狗の一閃と呼ぶに相応しかった。

 地に転がる松明が相手の足元を照らしている。右の半身に構え、両足は恐らくは着地の際にずれた草鞋を慎重に踏みしだきながら、両腕は左腰の後ろへと消えていた。振り切られたはずの白刃は、いつの間にか腰の鞘へと戻されている。納刀の音すらしなかった。

 本当に人知の及ばぬ化物を相手取るかのような感覚に襲われ、背を一筋の冷汗が伝う。

「蛍。天狗が出た。――錫杖を振り続けろ」

 杢内を信じられぬ目で見返した後、訳も判らぬ顔で蛍は抱える錫杖を一心に振り始めた。

 調伏のやかましい金音を聴きながら、落ち葉を払い杢内は立ち上がった。敢えてゆっくりとした身ごなしで、へたり込む蛍を隠すように道の真ん中へと立ちはだかる。

 二人とも、坂をやや転げ落ちる形となったのが幸いした。一足一刀にはやや遠い間合いで、相手は抜き打ちに構えたままでいる。斬り飛ばされ転がった松明の火に照らされ、低く構える相手は小兵、黒頭巾の下の二つの眼がまるで水底の緋鯉のように妖しく閃くのが見えた。

 やや足を開き自然体で坂下へ立つ杢内と、坂上で構える相手は同じ高さで視線を交わす。

相手の膝は深く深く沈み込み、腰の後ろに回された両手もまた、鞘の末が跳ね上がっている事からして、抜刀後の剣尖の軌跡を容易く想像させた。下段よりもさらに下段、この坂の傾斜を這うようにして抜き上げられる一撃は、回避も許さず受けも能わず、間合いに入ると同時に容赦なく坂下の杢内を千切り飛ばす暴嵐となるであろう。ただ、今は視点の高さが両者等しく、先程のような首根への横薙ぎの一撃を狙うのもまた、容易と見えた。

杢内は腰の刀を抜き合わせると、刀身を右二の腕へ添えるように担ぎ、切っ先を後方の地面へ向けるように構えた。刀身と両腕を盾とし、右からの断頭の一撃に備える構えである。未だ腰から落ちていなかった振鈴が一つ、やかましく鳴り騒いだ。

相手は動かなかった。狙いは地を這い坂を舐め天を衝く一撃、ただそれだけに絞られた。地を蹴りまっすぐに突っ込めば足を薙がれるだろう。左右に飛び出せば横に薙がれるだろう。飛びかかるにしても立つのは坂下、ろくに跳べずに動けぬ空中で天まで斬り上げられるだろう。抜刀に合わせて切り結ぼうにもあの一撃は己の剣腕ではとても防げず、重ねて斬られるだろう。後方へ距離を取ろうにも背後には守るべき蛍が居て、もうこれ以上は退がれぬだろう。

 ずっと草履を踏みしだいていると見た相手の足元は、じりじりと間合いを詰めていた。

 避けることも遁れることも能わぬ、紛う方なき天狗の裁きを眼前に、杢内はただ震えた。

 進退はここに窮まった。死地に在る、と自覚した全身が一瞬の内に強張る。筋という筋から力を抜こうと苦慮する杢内の耳に、前方から掠れるような呟きが届いた。

「――杢内どの」

 勝利を確信しているだろう黒頭巾の口元から漏れたのは、確かに胤弥の声だった。ごく微かに響いたその声を聴き、胤弥が悲鳴を上げている、と杢内は思った。

 昔の、杢内も知る頃の胤弥がふいに顔を覗かせ、変わり果てた己へと悲鳴を上げている。昔と変わらぬ姿の旧知へ、何故こんな事になったのかと、助けを求めて叫んでいる。

 杢内はそう思った。計算も予感も投げ捨て、最早一瞬の迷いもなく、力強く大地を蹴る。

 右からの首刈りに備えた構えのまま、杢内は腰を落とし、膝から坂上へ滑り込んだ。駆け引きも何もかも放り出し撃剣の間合いへ身を擲った杢内へ、相手は寸毫の虚もなく鞘から白刃を走らせる。斬撃は松明の赤光を照り返し、がら空きの胴を横に薙いだ。坂を円状に掃くようなその一撃は狙い過たず杢内の右腹へ食い込み、その衝撃で上体をくの字に曲げさせ、腰に挟んでいた振鈴をひとつ左へ吹っ飛ばした。地面に転がった振鈴が喧しい不平の声を止めると、もはや錫杖の音でも隠せぬ、もう一つの音が露となる。

 黒頭巾の下で驚愕を浮かべる二つの眼を見据え、杢内は右脇を締めた。刺さる刃を肘と腹で押さえ込むと片膝を起こし、そのまま白刃の鍔元を目指すように突撃した。

 食い込んだ刃が杢内の脇腹をさらに深く抉り、驚愕に相手が半歩退く。白刃を引き抜こうとする相手の力も利用して間合いを詰めると、杢内は右足で踏み込みながら左貫手を相手の鳩尾へ突き立てた。息が詰まって背を折る相手へ組み付くように上半身をぶちかまし、その突き出た顎を目がけて今度は右肩をかち上げる。下顎に手酷い一撃を食らって、相手は弧を描くように坂へと倒れ込む。受け身も取らずに後頭部を打ち付け、どうやら昏倒したようだった。

 刹那の争闘がようやく終わりを告げ、杢内は荒々しく肩で息をすると、小脇に抱え込む相手の刀を放り出した。じゃらりと細かい金音が鳴る。地に転がるかと見えた刀は、杢内が衣の内側へ着込んだ鎖を半ば切断しており、刃が噛んだまま身体よりぶら下がる。

 今更のように振鈴が転がり、蛍の手元で錫杖が鳴った。喧しい金音はすべて、厚い鎖を着込むのを隠すための小細工に過ぎなかった。

 じわりと痛む右腹は、斬撃は防げたものの恐るべき剣速のもたらす衝撃までは防げなかった証左だろう。脇腹に濡れる感触もあり、わずかに皮までもが斬られているようだった。天狗の飛翔を妨げた代償は高くついた、と杢内は思った。

 荒い呼吸で汗みずくのまま蛍を振り返ると、未だ地面で震えていた。無事なようだ。

 今のうちにやる事があった。やらなければいけない事があった。杢内は、右手に提げたままだった刀を放り出すと、道脇の茂みから瓦のような平べったい大石を引っ張り出す。昏倒している黒頭巾――胤弥の、刀を握っていた手を石の上へとあてがう。手の甲を探り、親指の付け根近く、膨らんだ筋を探る。目当てのものを探り当てると、再び拾った刀を両腕できつく握り、刀の鍔をそこへ押し付け、鍔の上から草履を履いたままの片足を乗せた。

「――次郎。いったい何をするつもりだ」

 震える蛍の問いかけで、胤弥は意識を取り戻したようだった。仰向けに倒れる己の手が石の上にある事に気付き、呻きながら首を上げる。

「……痛むぞ。我慢しろ」

 せめてもの情けを含んだその声色に、胤弥は何かを悟ったらしく、きつく目を閉じた。

 深呼吸とともに杢内が力一杯踏みつけた鍔の下で、胤弥の掌の筋が潰されていく感触と共に、骨が割れる音が響いた。およそ人のものとは思えぬ絶叫があがる。壊された掌を素早く引き戻され、杢内は転んだ。起き上がると、胤弥は傷つけられた手を抱えぼろぼろと涙を零している。

 痛みに歪むその口元が、声にならない声を叫んでいる。

「すまぬ。――次郎、すまぬ」

 いつか聞いた、謝罪とも感謝ともつかぬ言葉をまた耳にして、杢内は笠を被り直した。

「――礼ならば源兵衛に言え」




 松明を拾い、手を引いて一里も行けば、蛍もようやく喋る気力を取り戻したようだった。

 引かれていた手を戻し、横に並んで歩き始める。顔は決然と杢内を見上げている。

「……次郎。なぜ胤弥は、我らを襲ってきたのだ」

 杢内は思う。胤弥を天狗へ変えたのは、胤弥に殺されたような、どこにでもいる連中だ。天狗は裁きを終えられぬ。神通力を振るい人の命を弄ぶ、天狗は退治されねば止まれない。

「……次郎。なぜ其方は、胤弥の拳を砕いたのだ」

 杢内は思う。あのとき胤弥は言っていた。学は幾らでも引っ込める事ができる、と。

杢内が壊した掌の筋や骨は、三月も過ぎれば治癒するものでしかなかった。ただ、治癒するまでの間に、利き手を庇う癖や躊躇なく物を握れぬ癖を生む。それらは胤弥の剣を曇らせ、例えばあの一閃を再び放てるような、純粋なものでは無くしてしまう筈だった。迷いなく向学の志を抱き、ひたむきに知識学理を吸収し、真っ直ぐに大空へ昇るはずだった翼はもう折られた。

 天知らぬ馬鹿どもが寄って集って翼をねじ曲げ、そして他ならぬこのおれがへし折った。

「……次郎」

 疑問よりも恐怖の勝る顔でこちらを見上げる、蛍にはとても聞かせられぬ話だった。

「知らずともよい。――黙れ」

 蛍は納得せず唇を引き結ぶが、菅笠の下へ伝う滴でも見たのか、はっとした顔で口を噤んだ。

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