墓二景




《墓二景》




 浪人にも種類がある。この世に生を享けて以来の浪人暮らしの中で、杢内はその分類に気づいた。

 ひとつは、一世浪人。家督が己の代にある内、主家改易や召し放ちなどで主と禄を失い、再仕官というよりも元の暮らしを求めてさまよう浪人である。世渡りに慣れず、また家中としての意識も捨てられず、浪人らしからぬ衣服容儀を整え、そして仕事を選ぶ。口入屋や仕事先で大勢顔を合わせてきた経験から、町道場での代稽古だの寺子屋の師範代だの、人から先生先生と崇められる仕事をえり好みする傾向がある、と杢内は見ていた。また、仕官先も選ぶし、仕官の内容、とくに禄の高低には拘る。人から仰がれていた頃の矜持がこびりついていると色々な場面で顔を出し、また決断にも障るものか。浪人歴が浅いゆえ比較的裕福だが、仕事も選ぶうえに切り詰めた生活も出来ず、急速に貧しく落ちぶれてゆく連中を杢内は大勢見てきた。

 そしてもうひとつは、二世浪人。浪人となった親の元に生まれ、各地を連れ回され旅空の下に育つ浪人である。杢内もこれにあたる。先のような、安定した生活から放り出され世渡りに一通りの辛酸をなめた一世浪人を親として育つ為、仕官成る事を目的に親の期待を一身に受け、幼時より厳しい教育を施されどうかすると親よりも様々な技芸を仕込まれ、多才とまでは言わないが多芸な者が多い印象である。多くが貧窮しており、士分としての道具類すら既に満足に揃えられていない者もざらで、さらには幼時からのつましい生活に慣れているためごく現実的で、士分が最も忌避するような褌一丁での肉体労働、汗みずくの人足仕事などでも厭わず受ける印象を杢内は持っている。というか己がそうであった。

 ここから先の、三世浪人、四世浪人となるともうほとんど見かけなくなってくる。理由のひとつには、家財はおろか子に満足な教育を施す為の余裕すら失って継承すべき家風や士分としての心も亡くす為、そしてもうひとつには、町や里方の水に馴染み過ぎてそのまま市井の暮らしへ埋没していく為だろうと、なんとなく杢内はそう考えている。

 いや。仕える主君も持たぬのに侍であると大小を腰に差し、みすぼらしいのに士分であると胸を張り往来を闊歩する浪人達の方こそ、泰平の世における異物か。杢内は苦笑した。

 街道の上方より明けゆく朝の宿場街。家並みが一斉に吐き出す炊事の煙を高台から眺め、杢内は例の紙片を開き、ひとつの名前に目を落とした。

 ――しかし。こやつは、その何処にも属してはいなかったな。

 因幡国浪人、吉岡継助監物。杢内は記憶の中に残る、やや面長の美男子面を思い出す。己よりも少し年長のその男は、いつ見てもぐうたらで、同じ仕事をしてもさぼりの常連で、何の学識も武芸も持ち合わせていないように見えたし、さらには仕官や精進のための努力すら怠っているように見えた。そのくせ継助はいつ見ても食い詰めている風ではなかったので、要領だけは良いのだろうと杢内は考えていた。一体どんな親の元に育ったらこんな穀潰しができあがるかと疑問には思っていたが、考え方のまるで違う杢内に対しても遠慮なく近づき、まるで兄のごとき態度で親身に接する一面もあったので、要領の良さは人徳か人たらし故か、と杢内は憎めない眼差しを向けていた。ただ、そのくだけた態度の割にはさして周囲に馴染んでいるようにも見えず、杢内にはそこだけがいつも不思議だった。

 と、そこで唐突に背中へ衝撃が走り、杢内は大きくのけぞった。

「黙って置いて行くな、次郎」

 後ろ腰に抱き着いてきた小躯を見れば、昨晩着いたばかりの宿へ残してきた蛍である。驚く間に右手の紙片を奪い返される。児戯の如くじゃれついているだけかとも思ったが、ほう、と杢内は感心した。杢内の腰を抱え込む上体で腰を固め、左肘で背腹の筋を中央に極め、体格に勝る相手の動きを抑え込みつつ流れるように右手の得物を奪い取っている。心得のある動きだった。杢内の扱う柔の流れも感じるが、より相撲に近い流れかも知れぬ。源兵衛の体術だろうか。

「……べつに置いて行ったわけではない」

 腰を押さえながら身を離す杢内の評価の眼差しに、蛍は獲物をかざし小さく胸を張った。

「父上の形見と共に宿より姿を消しておればそう思う。それに、上手相手に手は抜かぬ」

 杢内は考える。浪人の子といえ娘として育った蛍ですらこれだ。叩き込まれた学問技芸はあえて見せびらかさずとも、こういった形でふとした拍子に現れる。しかし継助には、長い付き合いの間にもそういったものがほとんど見て取れなかった。よほど慎重に隠していたか、あるいは本当に何も持っていないかだ。

 あれは浪人ではない、と言っていたらしい源兵衛の見立てから、杢内にはひとつ、思い当たる立場があった。

何の蓄積もなくても許される身、というのが一番あり得る気がした。

「……それで。着いたはいいが、ここからどうやって継助を探すのだ」

 父の形見を大事に胸元へしまい込みながら、蛍は紫紺の空へ浮き上がる彼方の城影へと手をかざした。昇る陽が城の屋根より顔を出しその足元、大藩の藩都らしく整然と区分けされた街並を白く染め上げてゆく。おびただしい数の屋根瓦が魚鱗のように冷たく輝く様を見下ろして、杢内は白い溜息をついた。

「これほど広い城下だ、昔どの辺りで見かけたかまでは憶えておらぬだろう」

 蛍は無言で記憶を辿る様子だったが、あの無遠慮な源兵衛が身分を慮って声をかけなかったとなると恐らく相当な大身だろう。となれば旧知と名乗り方々へ聞いて回るも憚られ、実際に顔を見て探すしかあるまい、と杢内は考えていた。

「となれば、出仕してくる大身の行列を片端から見ていく他あるまい。登城の太皷が鳴り出す前に、大きい屋敷の固まる武家町より、城大手へ通ずる登城路、それもなるべく広い道を見張り――」

 考えつく方策を並べ立てていると、後方からかしこまった咳払いと大勢の足音が近づいてきたので杢内は道を譲った。蛍の袖を引いて道端へ寄る。

目が合った。そのまま固まる。

「……次郎。いかがした?」

 急に無表情になり硬直した杢内の視線を追って、蛍も、あ、と声を漏らした。

 後方より行進してきたのは出仕の行列であり、槍持ち、警固役、道具箱持ち、食籠持ち、矢立持ちに続き、ゆるゆると進む立派な葦毛の馬に乗っているのは豪奢な衣服を身に纏う継助だった。

 目を合わせて固まったまま、馬の歩みに合わせてゆっくりと横を通りすぎてゆく。

 馬上の主へ目を据えたままの路傍の侍に、腰の大小を鳴らし歩く警固役が訝しげな視線を叩き付けてきたので、杢内は近くで旅籠の入り口を掃き清める主人へ声を放った。

「……主人。朝も早くから、大層立派な行列がゆくな。一体どちらの御殿様の行列だ?」

 掃除の手を止め、竹箒を捧げ持ち行列へ深々と頭を下げる主人は、恭しく答えた。

「へえ。御一門、酒井隼人正さまの若様で」

 藩主一門の家系で、一千石の領地と大きな御屋敷とが城下中心部よりやや離れた、この道の先にあるのだという。

「なんと。御一門様か。いや我々のような者とは身分が違うな。とても話しかけられぬ」

 杢内のわざとらしい声が響き、馬上の継助が苦笑と共に胃の辺りを押さえるのが見えた。

「……矢立を」

 継助の背中が片手を上げ、行列を止めるのが見えた。塀の上に赤くぼってりとした花をつける寒椿を一枝折り取ると、近づいて背を向ける矢立持ちから筆を抜き、短冊に何やら書き付けている。そのまま馬上から何か命じると、矢立持ちが寒椿の枝と短冊を携えて、旅籠の主人の元へと駆け寄ってきた。

「……主人。しばらくそこへ花を見ぬ日が続き、寂しく思っていた。今は寒椿の見頃ゆえ、戸口へ飾れば客も大勢来よう」

 継助は馬上より振り返ってそう告げると、寒椿を受け取って深々と頭を下げる主人と、その傍らの杢内と蛍の居る辺りへ向かいまぶしそうに微笑んだ。

 再び行列が動き出し、主人は感嘆の声を漏らしつつ賜った短冊を日にかざす。

若様はほんに風流なお人で、と呟きつつ、そのまま戸口の柱へ取り付けた花瓶代わりの竹筒へ、寒椿を挿して短冊を添える。杢内は花の香の移る短冊を覗き込んだ。結構な能筆で古歌がしたためられている。

(おく山の やつ峰の椿 つばらかに けふは暮らさね ますらをの伴)

「萬葉、だったか」

 幼い日に向かい合っていた文机と、正座の痛みまで思い出しながら杢内は呟いた。

「家持だな」

 横から見ていた蛍が思いがけず、歌道に明るい娘らしさを覗かせる。

「……継助め」

 杢内はうめく。とんだ狸であった。




 蛍は下城の頃にまたここを通るだろう等と呑気に構えていたが、杢内はぐうたら継助の態度に、路傍の旅人へ気安く声を掛けられぬ高貴の身以上のものを感じたため、宿の一間に蛍を付き合わせ歌意をさぐる事にした。

何やら楽しげな蛍によれば、大伴家持の詠んだこの古歌は、宴へ招いた客や護衛を歓待したものらしい。なるほど旅籠の戸口に掛けるには格好の歌でもある。

が、貴公子然とした形で風流人の如く振舞う継助の態度は、みすぼらしい旧知の者達へ断絶や絶交を見せつけるものというよりはむしろ、周囲より不審に思われないための行動に見て取れ、杢内はそこにかつての継助の残骸たる要領の良さを感じてもいる。

 旅籠の付近に山はないが、亭主の言っていた道の先、恐らく一千石の領地と屋敷がある辺りには山も見える。「奥山の八峰の椿」はここを指していると杢内は考えた。

 そうすると、「つばらかに今日は暮らせよ」すなわち今日は思う存分楽しめ、という箇所は、夕刻になってから、城から戻った後に屋敷近くの山椿が咲いている辺りで落ち合おうという意味にも見えてくる。

さらには、「ますらをの伴」がその後ろに掛かる事を考えると、この場合の益荒男の伴とは己の連れである蛍を指すのではあるまいか。すなわち蛍は宿に置いてひとりで来い、との伝言も浮き上がってくるように杢内には思われた。

 昼前、外へ出るなと蛍へかたく言い含めて杢内は宿を後にした。蛍は口を尖らせたが、やがて諦めたように握り飯の包みを押し付け、手を振った。何でも朝方話しかけた主人へ歌の意味を教えてやった駄賃として弁当を作らせたらしい。後ろ手を組みひそやかに笑う蛍の視線の先では、さも己の学であるかのごとくに、萬葉からの挽歌である、家持の句である、と短冊の歌の薫風を家人や使用人に述べ立てる主人の姿がある。如才のなさは父親譲りか、と安心して杢内は山へと足を向けた。

 努めて無学を装っていた継助の思いがけぬ教養は、杢内には警戒すべき兆候に思われた。




 山の木々が茜に染まる頃、険しい峰の元に見える大ぶりな一本椿を目がけ杢内が懸崖を登っていると、下の方から呑気な声が飛んできた。

「おおい。そんな岩壁にへばりついて、一体何をしておるのだ次郎」

 振り返ると、崖下から見上げているのはごく動きやすそうな着流しに身を包み、丸徳利を二つ肩から下げた継助である。浪人の頃と変わらぬ身形に、杢内は岩壁から落ちそうになった。

「何とはなんだ。つい今朝方、お主がこの崖の上で落ち合おうと示したのではないか」

 継助は不思議そうに頭上の一本椿を見上げると、腹を抱えて笑い始めた。

「そんな鳥も通わぬ処で会おうという奴など居るものか。一体何をどう読み違えたのだ」

 思わず力が抜け、杢内はまた岩壁から落ちそうになった。

「きさま、ここまで登るのにどれだけ苦労したと」

「いいから早く降りてこい」

 殆ど落ちるようにして杢内が崖下の広場へ転がると、継助はまだ苦しそうにしていた。

「ああ笑った。いや、こんなに笑ったのは久方ぶりだ。貴公は相変わらず面白いなあ」

 杢内が無言で刀の柄へ手をかけたのを見、継助は待て待てと徳利を握る手を突き出した。

「仇同士でもあるまいに。久方ぶりの再会で、いきなり斬り合いなど御免被るぞ。どれ、堪忍料に一献どうだ。崖を登って疲れたであろう」

「貴様ふざけているのか」

 わめきながらも、杢内は差し出された丸徳利をひとつ奪い取って勢いよく傾けた。口中にむせ返るような酒精が広がり、疲れた身体へ染み渡る。

「さて。既に、おおよそのあらましは旅籠にて蛍より聞いたが。本当に山で待っておるとは思わなかったぞ」

 呆れ顔の継助から知らぬはずの蛍の名が出て、杢内は全身の力が抜けてゆくのを感じた。

「何だと。会ったのか。帰りに寄るなら寄ると、朝にそう伝えれば良かったではないか」

 なんとも判りにくい歌を選ぶ奴めとなじるが、どうも蛍へは正しく伝わっていたらしい。

「そう伝えたであろうが。あれはな、帰りにあの旅籠へ寄る口実よ」

 しばしば四季の花を門前へ飾る旅籠にかこつけ、適当な古歌を引いてみせただけと言う。

「ああやっておけば、城から下がる折に少し休んでゆくと言ったところで、伴の者も不審に思わぬ」

 遊び慣れたようなその手管に、杢内は改めてこいつはまぎれもなく継助だ、と確信した。

 伴の者達へは土間で労いの酒を振る舞わせ、二階の部屋にひとり通された折に抜け出し、来訪を予期してか廊下で待ち受けていた蛍と慌ただしく話を済ませたのだと言う。

 と、蛍々と気安く呼ぶ継助が気にかかり、杢内は訊ねてみることにした。

「――ひとつ聞くが。源兵衛に娘が居たと、以前から知っていたのか」

「本気で言っているのか貴公は」

 呆れ果てたような顔で、継助は片眉を上げた。

「まあ、あんな哀れな子に本当に気付いていなかったのは貴公くらいのものだ。その関心のなさは罪ですらあるな」

 冷たく直言をひらめかせると、俺ももらうぞと言い継助はもう一つの丸徳利の栓を開く。

 あれほど強い酒を水のごとく喉へ流し込み、固く目を瞑っては無遠慮な咆哮を響かせる。

「おお美味い。この土地の数少ない良いところのひとつが酒の味よ。肴が無いのがまこと残念」

「……ならば、食うか」

 思い出し、食い損ねた昼飯だが、と杢内は背中に括りつけていた竹皮包みを取り出した。

「握り飯か、丁度いいな。どうせ戻っても夕餉も出ぬ。しかし次郎。二つあるようだが」

「二つあるな。それがどうした」

 わからぬのかと、継助は眉をひそめた。

「これは貴公と蛍、二人ぶんの昼飯だったのではないのか」

「まさか……」

 咄嗟に打ち消しかけて、杢内は己を宿から見送る際の蛍が空手だった事を思い出した。さらには何とも気の回らぬ事に、一銭の金すら持たせていない。

 暮れる日を振り返り狼狽する杢内へ、やはりか、と継助は納得の色を示した。

「話した折、蛍はまだ昼飯も食っていないようだったからな。帰り際に宿へ言い付けて、十分な喰い物を持って行かせたぞ」

「……すまん。助かった」

 素直に頭を下げる杢内へ、継助は困ったように肩をすくめてみせる。

「貴公が気が回らんのは知っているがな。子を世話するとあらば、関心ないでは済まされんぞ」

「……肝に銘じる」

 張り合いのない杢内に拍子抜けしたか、継助は眉を上げるだけで再び丸徳利を煽った。

 確かに、かつての杢内ならば、年上面するな、とでも言い返しているところではある。変わったのは継助ではなく、己の方なのかも知れなかった。

 とはいえ、今まさに目の前に居る継助はあまりにも浪人時代から変わらぬ姿で、過去に戻ったかのようですらある。

朝方見かけた継助の姿や言動とのあまりの違いに、杢内は辺りを見回した。

「継助。ひとりで来たのか」

「おいおい今更だな、伴など居らぬ。若様はひとり静かに書見をしたい、夕餉も要らぬ、などと言うてな。こっそり屋敷を抜けてきた」

 そういえばかつての人足仕事の折も、うまく人の目を盗んではさぼったり抜けたりする常連だった事を杢内は思い出した。

 のびのびと羽根を伸ばしている着流し姿の貴公子に向かい、杢内は口を歪めてみせる。

「御一門衆、酒井隼人正の若様か。……浪人、吉岡継助監物は仮の姿だったという訳か」

「そうでもない。……おい。そこは、うまくいい家の娘を引っ掛けて出世したなとか言うところではないのか」

「――その位は判る。馬鹿にするな」

 返答に、継助はしばらく黙った。丸徳利を大きく煽る。

「……人に関心のない貴公ですら気づくとは。ばれていないと思っていたのは俺だけか」

「そろそろ斬っていいか」

「お。調子が戻ってきたな。藩主御一門をおん手にかければ藩と藩との争いになりますぞ、寺社奉行届所書役どの」

 まあそう怒るな木っ端役人となだめつつ、さして顔色の変わらぬ継助は酒臭い息を吐き出した。上体を大きくふらつかせながら、さらに丸徳利を煽る。

「――おい」

 杢内は声を荒げる。酒が強いのは覚えているが、こんな浴びる様な呑み方はしなかった。

「止めてくれるなよ次郎。これは貴公のせいでもあるのだぞ。貴公が昔と変わらぬゆえに、酒でも吞まねばとても話せぬ」

 よく解らない事を言いたいだけ言って、継助は徳利紐を振り回した。

 山の上を雁の群れが過ぎ、今しも退いてゆく黄金色の夕雲を目指して飛び去ってゆく。稜線と藍空のあいだ、漏らす光を失いつつある暗雲の彼方へ据わった目を向けて、継助は語り始めた。

「……御一門といってもだ。俺の生まれは末の枝葉もいいところでな」

継助は、一門格の中でも末席にあたる隼人正の家の、さらに遠縁の家に生まれた。玉の如く大切に育てられる一門家の若君が次々に夭折していく横で、継助は病ひとつ得る事なく育ち、やがて跡継ぎのいなかった隼人正の養子として迎えられる事が幼時より定まっていたという。

 いい身分ではないかと杢内が思っていると、顔色を読んだのか継助が眉を寄せた。

「生まれついての浪人と比すれば安楽な暮らしかも知れんがな。――家には、居場所など無かった」

 生家にはいずれ養子に出す身と距離を置いて育てられ、家格が釣り合うように隼人正の近親の家へと一度養子に出された後はますます他人行儀に育てられ、己を示す名前すら何度も大きく変わった。やがて婿に入るべき隼人正家を訊ねた折には、誇らしげな許嫁より、もしも男児が生まれれば末子以外は、後継不足で絶家が相次ぐ上席の一門家へ己のごとく養子へ出されるであろうと伝えられ、継助にはもうその辺りで己の道筋がはっきりと見えたのだという。

たとえ先々御一門の家へと迎えられたところで、もう己には自分の家など無い。一生、他人の家を渡り歩いて暮らすだけだ。望まれるのは家の血を繋ぐこと、求められるのは己の血脈だけ。共に暮らすのは血縁とは名ばかりの他人で、あたたかい血の通った家庭を己が得る日など永遠に来ない。

「……一大決心をしてな。養家に長い長い書置を残し、身ひとつで脱藩したのだ」

 偽って浪人となったのは、生家で名付けられた初名を名乗ることにしたのは、旅に暮らして世をひさぐ渡り烏の生活こそが、まことの己の家であるだろうと考えたためらしい。

 ふざけるな、と杢内は思う。放浪者の生活を賢い選択と思ったことなど一度もない

 ところが自堕落で自由なはずの浪人の暮らしは思いのほか窮屈で、いつも苦しく、また旅の水にも慣れず、更にはがらりと様変わりしたはずの己を取り巻く環境にさえ継助が馴染むことはなかった。己で選んだはずのきわめて居心地悪い自宅にあって、継助は相変わらず客分で異物のままでしかなく、結局は生家に居る頃とも養家に居る頃とも、何ひとつ変わりはしなかった。

「尾羽打ち枯らして実家に帰るとな。……何ともまあ。呆れたことに成り果てていた」

 苦笑する継助が、観念して帰り着いた先は生家ではなく養家だったらしい。そこで人目を憚る養父母に奥座敷へと押し込められ、継助はかつて己が苦心して書いた書置が二人の目にしか触れていない事を知った。脱藩の届けは藩になど届いておらず、その代わりに、病気療養や湯治、その後には遠方での学問修行の届けが出され、やがて御一門に連なる若君として恙なく受理されている旨を知らされた。長きに渡る不在はそのように取り繕われ、つまり継助は事のはじめから、脱藩などしていなかった。浪人であった経歴もなければ、数年間の苦難に満ちた旅暮らしも存在しなかった事になった。足掻いて、苦しんで、己のした事はすべて無駄だった。

 継助は何もかも馬鹿らしくなって、養父母に話を合わせるがまま、元々定められていた隼人正家へ婿入ったのだという。

「……継助」

「もうその名で呼ぶのも貴公だけよ。……許嫁の頃に何年も顔を合わせなかったせいかな。家内は、酷く悋気でな。俺が長いこと藩外を遊び歩いていたと勘付いている」

 婿の全てを組み敷くがごとき家付き娘の目を盗み、昔の知り合いに会って話すだけでもこれほどの苦労が要る。遊んでいたつもりはないのだがなと、継助は苦笑した。

 以前には刻まれていなかった口元の皺が、自己を蔑む笑いに苦みと凄惨さを加えている。杢内は目を逸らした。

 それを淋しそうに見返してから、継助はふと容儀を正すと、瞑目して一礼を向けてきた。

「……後先になってしまったが。源兵衛の儀、この度は誠に御愁傷であった」

 杢内も背を伸ばし礼を返す。香典として差し出された黒熨斗は、随分と腹が膨れていた。

「……蛍より聞いたが、立派な墓を建てるうえで随分と骨折ってくれたらしいな。俺からも礼を言う。墓代の足しにしてくれ」

 待て、と渡されかけた黒熨斗を押し留める。金は喉から手が出る程欲しいが、さすがに見過ごす事などできなかった。

「そんな労いの言葉を聞くため恩着せがましく訪ねてきた訳ではない。継助。それだけか」

 継助の口の端が小さく引き攣り、皺の小波を生む。

「それだけか、とは何だ。言っておくが家の金は俺の金ではない。その金も無理を――」

「違う」

 この期に及びなお金の多寡しか見えなくなっている継助へ、目も眩む様な怒りを覚える。

「――伝えてくれた薬売りにはお前達の仕官先すら訊ねなかったが。知らせは、すぐ近場のお前のところへは、もっと早くに届いていたはずだ」

 杢内の処へ訪ねてきた薬売りは、恐らく高部様が最後ですと告げ、紙片を託したのだ。

「継助。なぜ、源兵衛に会いに行ってやらなかった」

 呑み屋の飯台で肩を叩いて笑い合う、二人の姿が脳裏に蘇る。

 気さくな性格どうし馬が合い、一番仲良くしていたのが源兵衛と継助ではなかったのか。

 しかし、理由などとうに語り終えた顔で、継助は困ったように笑っているだけだった。

「……長い付き合いなのに何も知らぬ、最も源兵衛を遠ざけていた貴公が、それを言うか」

 継助はそれだけを口にした。

 棚引く赤い残光は辺りの山野を未だ照らしていたが、山の下の方から伸びてきた長い影が二人の足元を包む。

 影の根元へ視線を移し、継助は口元を歪めた。

「むしろ、はじめからここで会うべきだったのかも知れんな。――次郎。あれを見よ」

 指し示す高台には、継助が抜け出してきたという酒井隼人正家の大屋敷がある。

 城下の外れながら高い白壁に覆われた広大な邸宅は、内に庭園と築山を飼うと見えた。

「あの築山は、隼人富士と申してな。真四角の山頂だけが塀から顔を出しておろう」

 高い塀から顔を出す築山の頂は、富士を意識してか四角く平らに盛られていた。

「……それがどうした」

 夕暮れ時、影は塀の外に落ちて長く伸び、二人の足元を四角く切り取っていた。

「次郎。――あれこそが、俺の墓だ」

 四角く伸びた影へ足を突っ込み、酔いなどとうに冷めた顔で、継助はそんな言葉を口にした。

 継助ははじめからずっと冷たい墓の中に居た。己を生者と思い込んだ愚かな死者が、墓に嵌め込まれる己ではないと足掻き、厚い土の下で生きる真似事をしていただけだった。

 既に墓の下へ埋められた人間が、人の墓を訪ねる事などできはせぬ。空虚な瞳は雄弁に、ひとつの結末を告げていた。

 だがそれはあくまでも継助にとっての真実に過ぎず、杢内に見えたのは別の現実だった。

 杢内は黙って徳利紐を垂らすと、丸徳利を離れた地面へ置き、羽織から両肩を抜く。

「――本気で言っているのだな、きさま」

 足元の四角い闇がじりじりと体を這い上ってゆく中、静かに告げる。

 継助も手慣れた動きで徳利紐を振ると、丸徳利を叢へ立て、着流しの両袖を捲り上げた。

「――貴公こそ、墓に埋められた人間の気持ちが判るつもりか」

 せせら笑うように吐き捨てると、継助は草鞋履きの足元を固める。

 巨大な墓の落とす影が音も無く伸び、二人を完全な闇に包んだ。

 地面を蹴ったのはほぼ同時だった。己の能を隠すいけ好かない御曹司は必ず、手の内などとうに知悉した相手のあやつる柔術を警戒すると見ていた。案の定、予想外の速度で接近する継助のその両腕が、両襟を守る構えにあるのを見てほくそ笑み、杢内は継助の左右の上腕を挟むように掴み取った。両腕の動きを封じ、入り込んだ腰から片足を飛ばして継助の両足を刈り取り、受け身も取らせずに背中を存分に地面に叩き付けてやるはずだった。しかし刹那、両襟を守っていた左右の手が蟷螂の鎌のように弾け、上腕を掴んだ両腕が叩き落される。杢内の驚愕の表情の中央へ狙いすました一撃が食い込み、瞼の裏へ稲光が爆ぜた。視界を奪われた杢内は突撃の勢いのままに相手の体と激しく衝突し、目も腕も使えぬ一瞬の内に、まるで舞踏めいた動きで継助の上体へすばやく絡みつくと、相手の両踵に足を掛け、腰と上体と肩だけを使って強引に投げを打った。父に繰り返し念入りに仕込まれた技が咄嗟に出ただけだったが、柔一般に見られぬ奇異な技に驚いたか、継助が大きく態勢を崩すのが分かった。たたらを踏んで距離を取ろうとする継助の顔面のあたりを目がけて、強い踏み込みと共に拳を放つ。捌ききれずに眉間へ拳がめり込む手応えがあった。崩れた態勢と退がりかけた体、拳打の衝撃が重なって継助は仰向けに倒れ込む。回復しかけた視界で杢内は相手へ飛びかかった。最初の拳は地面を叩き、馬乗りになって顔面に五、六発叩き込むと、脾腹に重い一撃が走った。どうやら膝を叩きこまれたらしいと思う間もなく、鈍痛に体を折る杢内は地面へ転がり、攻守が逆転する。胸に馬乗りになって拳の雨を降らせてくる継助の両襟を取ろうと両手を伸ばすと再び弾かれた。弾かれた手で継助の上体を包み込み、両手でしっかり襟上を掴み強引に伏せさせると、浮いた相手の腰の下に鋭く両膝を差し込み跳ね上げる。むしろゆっくりとした動きで両の足裏全体で継助の下腹を押し上げると、襟上を摑み下げられたままの継助は頭を中心に半回転し、横たわる杢内の先の地面に腰から叩き付けられた。由来も知らぬまま父に仕込まれた逆虎と呼ばれる技だったが、継助は何が起きたかわからなかっただろう。闇の中に荒い吐息がいくつか交わされると、ふらつきながらまだ立ち上がる人影が目に映った。

杢内は腰を落とした低い体勢から鋭く踏み込むと、体重を乗せた重い一撃を継助の顔面の中央へと叩き込んだ。ほとんど同時に全く同じ一撃が闇の向こうから飛んできて、肉を打つ鈍い音が響き渡った。杢内は突き込んだ拳からずるり、と相手が崩れ落ちる感触を捉えたが、同時に杢内を支えていた、顔面に突き刺さる相手の拳も外れたため、二、三歩たたらを踏み、それからようやく己に倒れる事を許した。

 傷つく獣として二匹、草地に転がり闇空へ荒い息を昇らせていると、負けた方が呟いた。

「――いやあ、やはり貴公は強い、なあ」

 血反吐を飲み込んで、杢内も苦々しい声を返した。

「そちらこそ、何がぐうたら継助か」

 浪人仲間として行動を共にする事が多かった頃も、飲んだ帰り道の往来などで気の荒い連中と揉め事になるや真っ先に姿を消していた継助は、仕事で見せていた怠惰さの通りに根性もなく喧嘩も弱いものだと見なされていた。

(……いや、強さゆえか)

たまに退路を断たれて荒くれどもに追い回されている時もあったが、そんな時はみっともなく悲鳴を上げて逃げ回りながらも勝手に小船を拝借して川の中央へ逃れたり、あるいは橋の中央に立つ杢内が襲いかかる破落戸どもを片っ端から深い川へ投げ落とすのを、片っ端から竿を伸ばして助け上げたりしていた。ずぶ濡れの喧嘩相手から複雑な顔で感謝され笑っている継助を、殴りかかってきた相手から有り難がられてどうするのか、と杢内は膨れ面のような腫れた顔面で眺めていたものだが、どうやらこの男の強さはその辺で既に証明されていたようだった。

そして、そんな単純な事実に気付いていなかったのも、またしても己だけのようだった。

「――すまぬ」

 だしぬけに謝ってきた継助へ、杢内は無言のまま叢に沈めた頭を起こす。

「なぜ謝る」

「――貴公を思い切り殴らねば、貴公に謝れなかった」

 再び叢へ頭を投げ出し、杢内は傷の痛みに顔をしかめつつも盛大に笑い出した。

「なんだそれは。謝るくらいならはじめから殴るな」

「……そうだな。貴公はいつも正しい」

 返された声音は妙に平静で、杢内の笑い声も尻すぼみとなる。

 闇の中を何かが飛んできて、痛む杢内の腹の上で跳ねた。

「……墓へ参ることすらできず誠に相済まん。美酒を供え、そう源兵衛へは伝えておいてくれ」

 再会以来はじめて、今に至ってようやく、継助の声を聞いた、と杢内は思った。

 腹の膨れた黒熨斗を懐へねじ込み、相わかった、と溜息混じりに答える。

 争闘が終わればあっさりと虫の声が蘇り、交わす言葉もなくなればさらに声は増す。叢に横たわる二人はしばし虫の音に聞き入った。

 秋は終わったのに虫の音だけがまだ響いている、と杢内は思った。あるいは秋の虫はとうに死に絶え、その声の残響だけが山彦のごとくいつまでも鳴り響いているのかも知れなかった。

 山の端には既に白い月が出て、煙るような光を湛えている。

 音も無く差し込む月光の中に身を起こす継助が、手に取った丸徳利を高く掲げた。それを見て、杢内もまた上体を起こし、地面に置かれた丸徳利を持ち上げた。

「源兵衛に」

「源兵衛に」

 呟くと、同時に丸徳利を傾けた。相変わらずの強い酒精が切った口内の傷に染み通る。

 無理やり飲み下そうとした酒が喉に絡まり、杢内は激しくむせた。

 随分とまた楽しそうに笑う継助の眼前で丸徳利を振ってみせると、重い水音が跳ねる。

「……しかし、酒好きへの手向けとしても流石に多すぎではないか。なぜこんなに買ってきた」

「知らんのか。酒は飲む以外にも役に立つのだぞ」

 したり顔の継助は、含んだ酒で口をゆすぐと吐き捨てた。赤味が混ざっている。

「――成る程。傷の手当てか」

 継助の機転に感心し、まずは傷だらけの顔を洗うべく掌に酒を注いでいると、継助がきわめて不吉な笑みを浮かべてこちらを見ているのに気がついた。

 見覚えがある。あれは、非常にろくでもない事を考えている時の目だ。

 すぐに思い至り、杢内は首を振りながら尻で後ずさった。木にぶつかる。

「いや、よせ。やめろ、自分で出来る」

「まあそう言うな次郎。年上の厚意は素直に受けるものだぞ。俺が手当てしてやろう」

 木に追い詰めた杢内の肩へ手を置きながら、継助はにやにや笑いながら丸徳利を一気に傾け、口中に大量の強い酒を含んだ。

 一瞬後、盛大に酒を吹き出す音と杢内の悲鳴が交差し、すぐに継助の笑い声が響いた。

 そして、暫くの駆け引きの後、盛大に酒を吹き出す音と継助の悲鳴が交差し、すぐに杢内の笑い声が響いた。




「子供か」

 顔をあちこち腫らしたうえ何故か酒でずぶ濡れになって旅籠へ帰ってきた杢内を見て、蛍の感想はそれだけだった。子供の蛍に言われては立場がない。

 黙って継助から受け取った黒熨斗を渡すと、蛍はその厚みに驚いていた様子だったが、それ以上もう何も訊いてはこなかった。

 翌日は傷から熱が出たため数泊逗留するつもりであったが、屋敷を抜け出した若様が風流な月見酒を楽しんだ帰りに山道で転んで酒をかぶったあげく怪我をしましたなどと下手な言い訳でもしてみせたのか、旅籠の周囲を酒井家の家士らしき男達がうろつき回るようになった。

何かと世話を焼きたがる蛍に頼んで、酒を含んで撚れた羽織袴を洗わせ糊を噛ませ、一泊だけ休むと、未だ乾ききらない紋付を羽織って杢内は早朝に宿を発った。

「次郎。もう熱は平気なのか。早く発つ仔細は判ったが、それよりも何処へ行くのだ」

 下から顔を覗き込みながら、半歩遅れて歩く蛍は街道の先をしきりに気にしている。

 杢内が視線を向けると、心得たとばかりに胸元から父の形見を取り出し、広げて示す。

「また誰か訪ねるのか。金持ち継助がくれた香典で、金はもう十分に集まったではないか」

 確かに、黒熨斗の中には寺への借財をあらかた返し得る程の大金が詰まってはいた。

 杢内は無言で、一つの名前を指さす。

「……この者の仕官先へ行く」

 紙片を見て蛍はなぜ、と首を傾げている。

「……」

 杢内の脳裏には、別れ際に継助より聞かされた話が蘇っていた。

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