墓一景
《墓一景》
寺についてすぐ、源兵衛の縁者へと触れ回らせた真の理由は知れた。
街道沿いではなく山へ向かって伸びる宿場町の突き当たり、大きな門前で訪いを入れる。応答に出てきた墨染に源兵衛の縁者である旨を伝えたところ、墓地の一画へと通された。
静かな内海を見下ろす高台で待ちうけていたのは、確かに源兵衛の名の刻まれた墓石であって、それゆえに杢内は途方に暮れた。よく磨かれた表面に黒い輝きを湛える墓石を、これが源兵衛のなれの果て、と示されてもどうにも実感が湧かぬ。かつて源兵衛へ話しかける折に感じていた、面倒臭いような、苦手なような、暑苦しいような気分のままぼんやり構えていたせいで、いざ無言の墓石へ向き合わされると当惑し、気持だけが宙に浮いた格好である。遅まきながらそんな己に気が付いた杢内は、浪人にはおよそ似つかわしくない高級な墓石へとその責を求める事にした。池田家累代の墓かとも思ったが、そもそも源兵衛の生国は違ったうえ、また墓石も真新しい。年季の入った数珠を揉んで、ひとしきり冥安を祈ると、杢内は後方に控える墨染の様子がおかしな事に気が付いた。
視線を中空へ据え、何やら、怒りを堪えているようにも見える。
杢内は懐をさぐる。供花代と卒塔婆代ならば先ほど確かに渡した。腹を立てられる心当たりもない。
改めて、弔いより長く訪れる事のできなかった旨を詫びると、墨染はかぶりを振った。
「縁者の方がお見えになりまして、池田様もさぞ喜んでおられましょう」
口ぶりからすると、他の三人はいずれも訪れていない様子だった。卒塔婆の一つもない。
ときおり潮気混じりの風が撫でてゆくだけの静かな墓だった。だが、糊口を凌ぐため、一生涯をさまよい続けた浪人者が眠るには相応しい寝床かも知れぬ、と杢内は思った。
旅は終わった。もうこれで、源兵衛はどこへも行かなくてよいのだ。
いやそれにしても随分立派な墓だ、さぞ源兵衛も喜んでいよう、と褒めたところ、不機嫌が深くなる。
「……幼いながらも立派な孝子ぶり。まことの孝道を見た思いが致します」
よく分からぬ言葉とともに目元を拭う墨染。突然出てきた孝子という言葉に、杢内は首を傾げる。
「……遺された道具類を全て売り払い、池田様の娘御がお建てになったのですよ」
むすめご、と杢内の口がまるく開かれた。
思い出す。そう言えば源兵衛は、娘が娘がと事あるごとに口にしていたが、とても家族持ちには見えない放埓ぶりな上、さらにその数年前は息子が息子がと口にしていたらしいので、昔亡くした子供の話でもしているのだろう、と誰も触れないようにしていた。
「なんと。娘御がおられた事すら、ご存じ無かったのですか」
死後小半月も経って現れたうえ、家族が居た事さえ知らぬ、それのどこが縁者かと、震える墨染の眦が能弁に告げている。
「何ともあわれなことです。実に幸薄い、いいえ。縁薄い父娘でありました」
両手を合わせて嫌味を言う墨染へ、遠方に仕官していて知らなかったとか本当に娘が居るとは思わなかったとか、くどくどと言い訳を並べ立てるよりもまず先に、杢内には気になることがあった。
源兵衛を亡くし、大きな墓を建て、それで娘はどこへ行ったのだ。
「存じ上げません」
墨染の無念の表情は、もう答えを告げているようなものだった。
親を亡くして生計の道もなき幼子が、最後に流れ着く場所など知れている。
杢内は無言で踵を返し、走り出した。
源兵衛が倒れたのは門前の宿場町と聞かされていたが、杢内が息を切らしつつ番屋を訪ねたところ、倒れた後に運ばれ臨終を迎えたのはここだ、と町方役人は教えてくれた。
門前町の役人らしく、皺一つない黒紋付を羽織る背筋の伸びた初老の武士は、尋常でない様子で訪れた杢内へも落ち着いた様子で、まずは柄杓に汲んだ水を勧めてきた。
「駈け込み寺なら分かりますが、寺から駈け出してくる方というのはあまり見ませんな」
水を一息に飲み干し杢内は殺風景な板敷の番屋内を見回す。変色した荒菰がいくつも丸めて壁際へ立ててあるのが目についた。ここは大きな街道に程近く、恐らく行き倒れの処理も手慣れたもので、それゆえ源兵衛への聞き取りも間に合ったのかも知れなかった。
番屋へ飛び込んできた人間が息を整えたと見たところで素性を確認してくる役人へ、例の紙片を差し出し、ここに書かれた先日の行き倒れの縁者であると名乗る。役人は紙片を改め、確かにこれは自分が書き取ったものだ、と認めた。
聞けば、源兵衛を看取った後、その場に居合わせた源兵衛の一子を伴って寺へ遺体を運ばせたと言う。
「すぐ目の前で父を亡くしたというに、涙を堪えて。それは健気な男子でした」
おのこ、と杢内は再び大口を開ける羽目になった。つい先ほど寺で聞いた話と違う。
源兵衛には息子も居たのか。しかし娘はどこへ行った。二人子供が居たということか。
胸中に浮かぶ疑問の数々を取りあえず置いておき、役人に事次第の続きを促すも、しかしその先どうなったかまでは、寺うちの事でもありわからないらしい。
そこまで話したところで、杢内は己を窺う視線に気が付いた。気づけば番屋の上がり框、元々は役人と話していたらしい目つきの鋭い男が、杢内を間断なく値踏みしている。明らかに厄介事の種とみなす視線と、腰に下げたにぶく光る十手から、どうやら長居は面倒な事になりそうだと判断し杢内はそれ以上食い下がるのを諦めた。そもそも諸国をさすらう浪人の頃より町方に良い思い出などない。礼を述べそそくさと踵を返すと、視界の端で男が立ち上がるのが見えた。尾けてくる気だ。
手がかりもないまま通りへ出て初冬の陽を浴びると、どうにも寄る辺なき浪人の気分が纏わりついてきて、ここ一年ばかり被ってきた小藩の家中としての仮面が剥がれ落ちる。
杢内はさて困ったぞと呟くと、旅装で略式とは言え羽織袴の恰好のまま、背を丸めだらしなく懐手をして爪を噛みながら歩き始めた。考え事をする時の悪癖である。
そのまま、両袖を風になぶらせながら焦点の定まらぬ上目遣いでゆらゆら往来を歩いてゆくと、目を反らしてすれ違う人波の向こうに何か、見覚えのあるものが掠めた気がした。
杢内は素早く懐手を解き人波をかき分け、それが質屋の店先である事を知った。虫干しか、日向に出された縁台に並ぶ古色蒼然とした道具の数々は、すでに見覚えがあるのを通り越し、忘れていた記憶を脳裏へと叩きつけてくる。
(……うん、これか? これはな、我が曽祖父が戦の折に主君より賜りし逸品よ)
莨をうまそうに呑む源兵衛を見ているといつも、聞いてもいないのに来歴を語り始めて辟易したのを思い出す。源兵衛が工人魂の極致と褒めそやす、その表面に施されていたという金粉蒔絵細工とやらも、それどころか家紋すらとっくの昔に摩耗して消え去っており、ただのみすぼらしい莨入れにしか見えなかったもの。それが、片時も手放す事のなかった主の腰を離れ、傾いだ縁台の上で陽射しを浴びている。見間違いと思おうにも、横に置かれているのはあきらかに源兵衛の差料と脇差だった。署名されているに等しい。
一瞬、まるで故人が荷を置き店の中で休んでいるような錯覚に囚われる。たたらを踏む杢内の目に、いましも暖簾をくぐり店から出てこようとする一人の人間の足元が映った。
ごくりと唾を飲む杢内の前に姿を現したのは、笑顔で揉み手をする店主だった。客が釣れたと思ったらしい。杢内は大きく息をひとつ吐くと、店主の両肩を掴んで押し戻すように店の中へと連れ込んだ。重なる焦りと苛立ちで、振舞いがどんどん荒々しくなってゆく己に気付く。気短で体面も気にしなかった獣のごとき己を思い出し、杢内は顔を顰めた。
そのまま、戸惑う店主へ表の道具類の売り手について尋ねる。店主はしばらく口ごもっていたが、杢内が語気を強めると、呼ばれて寺の中へ品を引き取りに行った事を認めた。
「売り主は若武家の方で。お支払いを渡そうとした処、懐から金包みを取り出した上、同席されていた御寺の方へ二つまとめて一緒に渡してしまわれたのですよ」
わかぶけ、と聞きとがめた杢内がその人相について訊ねると、年のころ十二、三位の前髪だと言う。また知らない人物が出てきた。さらに代金だけではなく持ち金まで寺へ渡したとはどういう事だ。そもそも道具を売り払ったのは源兵衛の娘という話ではなかったか。
鬢をかきむしる杢内へ、ああ、そう言えば、と店主が何か思い出した様子で掌を打った。寺から品を引き上げてきた日の暮れ時、その若武家が店を訪ねてきたのだと言う。
「何か取り戻したい質草でもございましたか、とお訊ねしたところ、この辺りで女を買える場所を知らぬか、なんて思いもかけぬ事を尋ねられたのですよ」
たった今聞いた通り、売り代は持ち金を含めてすべて寺へ納めてしまったという話ではなかったのか。随分と羽振りのよい事だ。ともあれ、源兵衛の道具を売り払った人間が、すぐさま女を買いに走る。息子ではあるまい。ではその若武家というのは一体誰のことだ。
ますます解らなくなった杢内が唸りながら腕を組むと、背中に光が当たった。振り返ると、先程の番屋に居た男が暖簾を上げたままの姿勢でこちらを見ている。
「旦那。お話し中に口を挟んで申訳ございやせんが……」
人を憚るように店の奥まで入ってきた男は、恐縮する店主へ頷きを返すと、十手を示すように手を添えながら話し出した。
この辺りを縄張りとする岡っ引きというその男は、行き倒れ騒ぎのあった日は別件で他行していたという。しかし次の日、峠からの帰り道に寺近くの高台を通りかかったところ、宿場でもよく商売をしている女衒と、見慣れぬ十二、三くらいの前髪が立ち話をしているのを見かけた。女衒がにやにや笑いながら金包みのようなものを相手に手渡しているのを見て、女の身柄でも引き渡したのだろうと考えたらしい。ところが飯盛女と客で溢れ返る宿場へ帰ってみても、新しい女の話などまるで聞こえてこない。さらには翌日、その前髪がたいそう顔色を悪くしながら大きな旅籠へ入っていくのを見た者が居たが、十日以上経つ今も未だに出てきていないらしい。女衒もまた、一仕事終えたいつものように姿を消して久しいという。話の絵図がどうなっているかはさっぱり見えないが、誰かしら、性質の悪い拐しにでも遭っているんじゃないかと見て、ずっと旅籠の周辺を張っていたのだ、と岡っ引きは語った。
話がどんどん複雑に、そしてきな臭くなってきて、杢内は思わず天を仰いだ。源兵衛の子供とやらが面倒に巻き込まれていたら厄介だ。しかしそれ以上に、何が起きているのかがまるでわからない。岡っ引きは店主から今の話をもう一度詳しく聞き取っているが、これと言って目新しい情報もないらしい。
若武家とやらが女衒から金をもらっていたのはどういう事だ。源兵衛の娘を売ったのか。
なのにそいつが道具を処分してまで作った金を、寺へ渡していたのは何故だ。寺まで一枚噛んでいるのか。加えて、女を買う場所など質屋へ訊ね、そして旅籠へ入ったきり出てこないというのはこれまた一体どういう事だ。
そもそも源兵衛の子は男なのか女なのか。誰もまともに話など聞いてはいなかったが、かつて源兵衛は何と言っていたのだったか。
そこまで考えたところで、あ、と杢内は目を見開いた。答えはすべて始めから目の前にあった。こうしてはいられない。何か分かったんで、と振り向く岡っ引きと店主を押し割って、杢内は光さす暖簾の外へと飛び出していく。
制止の声を遠い廊下へ置き去りに、杢内は襖を勢いよく開け放った。宿場で一番大きな旅籠の、埃っぽい奥座敷。生暖かい湿気が蟠る薄暗がりの室内へ真昼の陽光がなだれ込み、部屋のあちこちから呻き声と口汚い罵声が上がる。杢内は躊躇なく大股で踏み込むと、眼を押さえのろのろと上体を起こす飯盛女達の林を抜け、続き間の襖へと手をかけた。
大きな音を立てて開け放たれた襖の先には、果たして、年の頃十二、三と見える前髪の姿があった。痩せ衰えた体を夜具に横たえ、感情のない瞳でこちらを見ている。黴の匂いが鼻をつく。周囲には普段使われないらしい夜具や膳が山と積み重ねられており、一目でここは物置と知れた。
前髪が苦労して夜具を跳ね除け、細い体を緩慢に起こす間に、杢内は寝呆け眼で寝巻の前を合わせる手近な女を捕まえ、この者はなぜこんな物置で寝かされているのかと訊ねた。
そこで寝ているのはなんでも十日程前、旅籠に入ってきていきなり倒れた客だという。普段ならば客間へ運び込み面倒を見るはずが、なぜか旅籠の主人はえらい剣幕で、女どもの寝床の奥にでも放り込んでおけ、誰も構うな、と怒鳴り散らしたため、皆恐れて言う通りにしていたらしい。
主人が後で、あの女衒め、何が変わり種だ、と毒づくのも聞いたという。
おおよその事情を察し、杢内は大きく溜息をついた。夜具へ体を起こす前髪へ向き直る。男らしい鋭さを宿しつつある幼い目鼻立ちへ、思い出せぬ源兵衛の面影を探し、訊ねる。
「源兵衛の……娘か」
無表情ながら杢内の問いかけを味わうように噛みしめているのか。しばらくの沈黙の後、割合しっかりした声で、前髪は言葉を返してきた。
「――じろう」
杢内は驚く。なぜ名前がわかるのだろう。
そのまま夜具をずらし立ち上がろうとふらつくのを、とっさに支えに入る。ふと気づき辺りを見廻せば、無言のまま、部屋中の女達の凝視が杢内たち二人へ集中している。それぞれの姿勢で女達は目を見開き、奇妙に感情の無い、しかし強い視線を突き刺してくる。
居心地の悪さを感じながら、何か言わねば、と杢内は源兵衛の娘を支えつつ頭を下げた。
「……この娘は引き取る。今日まで世話をかけた」
「待ちな」
低い声が飛ぶ。気づけば部屋の入口、開け放った襖に寄りかかり、だらしなく湯帷子を着崩した女の姿があった。
腕を組む女は襖の縁に背を預けたまま、剥き出しの足を柱へ飛ばし、廊下へ出んとする二人の行く手を遮る。
「はん、まるで押し込みだね、こんな表店へ白昼堂々踏み込みやがって。……その賢い女の請け出しなら金を払いな」
ほつれた髪の向こう、隈の浮き出た目元へ凄みを滲ませ、女は吐き捨てた。
ただ難癖を付けに来ただけではなく事情も知っているらしい。杢内ははっきりと答えた。
「……金ならば払う。いや、返す」
苦々しい表情の杢内へまるで感心したように女は顎を引くと、口元に厭らしい笑みを刻んで部屋中の女達を見回した。
「聞いたかい、やっぱり賢いねえこいつは! 客の一人も相手しない内に身請けだとさ!」
女達が笑う。同意半分、追従半分のような半端な笑い声が、部屋の中にこだました。
湯帷子の女は柱へ飛ばした素足をそのままに、行く手を遮られて佇むしかない源兵衛の娘の、そのうつむく顔をにやにやと覗き込む。
「――本当にそれでいいのかい。お前、賢いんじゃないのかい」
「どういう意味だ」
庇うように身を割り込ませると、女は杢内の顔を憎々しげに睨み付けた。
「親を亡くして、あたしらを見て、もうこれから先ろくな事なんて何ひとつありゃしないって。賢いから先に分かっちまったんじゃないのかい」
痩せ細る娘が、病み衰えた心底まで見透かされたかのように、小さく息を呑む。
「だったらこのまま、大好きな親の元へ逝っちまった方が賢いんじゃないのかい、ええ?」
杢内は無言のまま、女の頬を張った。
その後は大騒ぎになったが、すぐに門前町の町方による取り成しが入り、いきりたつ旅籠側を抑える一方で、また金を持っていない杢内を見かねて寺とも話をつけてくれた。
結果としては源兵衛の娘の身請け料として、寺に支払った源兵衛の墓代のおよそ半金を、迷惑料込みで旅籠へ支払う事となった。当然、仕官したばかりに加えただでさえ禄の低い杢内がそんな大金を持っているはずもなく、事の発端でもある寺側が渋々ながら立て替えさせられる運びと相成った。
杢内の身分は伏せられたため藩からのお咎めは心配せずに済んだが、ただしその半金を返すまでは杢内は寺内立入禁断との処置が寺より言い渡された。とは言え、もちろん金を返さず素知らぬふりをすればすぐさま寺より藩へ訴えが行く。仮にそんな事になれば新参者が藩の顔に泥を塗ったと詰め腹を切らされ終わりだろう。どこにも逃げ場などない。
また、宿場で騒ぎを起こしたため、もう日の暮れたこの刻限になってなお、街道沿いに隣の宿場まで二里半ほど歩かなければ宿すら取れぬ。
枯木のように軽いとは言え、それでも新たな荷を背負い暗い道を進むのは気鬱だった。
夕闇から忍び寄る寒気が、菅笠や手甲に覆われた上からも杢内の身を刺し苛む。だが、背負う身体と密着する背や腰はずっと暖かかった。耳裏に押し付けられた額は未だ熱く、首筋に湿った息がかかる。まだ熱があるな、と杢内は足を速めた。
源兵衛の娘は、名を蛍と言った。棒のような身体と、ごく固い手足を持つ子供だった。旅育ちらしく肌は日に焼け、未だ幼さを失わぬ容貌は男子とも女子とも見紛うものだった。そして何より奇妙な事には、髪を元服前の男子の如く前髪に剃り上げ、薄汚れた袴を着けていた。
「――いったいどうしてあんな事になったのだ」
行く手の暗闇へ投げかけられたような問いかけに、蛍が伏せていた顔を上げた。
「……あんな、とは」
蛍は装いだけでなくまるで男のような口を利く。全部だ、と杢内は顎をしゃくった。
夜道に沈黙が落ちると、星々の光が冴え渡るように感じられた。虫の声もとうに去り、辺りに響くは己の足音ひとつきりだった。熱を届けぬ光芒を見つめ、杢内は背中の温もりだけを感じて歩き続けた。
どれだけの刻が過ぎた後か、蛍はわずかな苦笑とともに口を開いた。
「……さて。どこから話したものか」
杢内は一度立ち止まると後腰を跳ね、大人ぶった口を利く小娘の身体を背負い直した。
内心の逡巡を軽い驚きへと変えたらしい蛍へ、全部だ、とふたたび告げる。
夜道を歩き始める。今度の沈黙は、それほど長くはなかった。
「……私は。物心ついた頃より、父上の嘆きを聞いて育った」
声音は熱に掠れ、病床のとりとめもない夢を口走るようでもあった。
「お前が男であれば。男児であれば。幼き日の耳に残る父上の言葉はそればかりだった」
母とは生後間もなく死に別れ、蛍は父の背に負われて育ったのだと言う。
「父上はきっと、家名を残したいのだろう。伝来の道具を継がせたいだろう。そう思った」
杢内は呆れた。お得意の重代の家宝の由来は、幼い娘にまで語っていたらしい。
主を失っていなければ、家禄を保っていれば、浪人の身分でさえなければ、婿を迎え家名を残し家伝を保つ道も選べた。だが浪々の身の上には、背に留まる蛍すら養いかねた。
「だから努めて男らしく振舞い、せめて父上の気に入るような子であろうとした」
身に着ける襤褸の袴は、もともとはずっと昔に亡くなった顔も知らぬ兄の遺品だと言う。
できる事はお互い少なかっただろう、と杢内は不似合な二人の道行を思う。
自慢の道具類を背負って歩く父の後を追いかける、幼い娘。源兵衛とは何度もすれ違ってきた気がするのに、己にはどうしてそんな光景を見た記憶がないのか。
「父上はいつも困ったような顔で見ていたが……私を息子と呼んでくれた日もあったのだ」
それは源兵衛のやさしさだろう。上ずった声に混ざる歓喜とともに、己の首に回された蛍の両手がわずかに熱を帯びる。そんなものがこの娘の喜びであったかと、杢内は背から伝わる狂熱をただ感じている。
「――しかし。私が初めて前髪にしてきた時、父上は幽鬼でも見るような目で私を見た」
しばらくの逗留先が髪結処の空き部屋となった折、手伝いを兼ねて覚えたらしい。
源兵衛は当初は珍しくも嬉しそうに見守っていたが、ある日突然前髪にしてきた娘を見、いきなり血相を変えたという。
「……あれは、まるで。昔の己を見るような。あるいは、亡くなった母上でも目にしたかのような。そんな目だったのを覚えている」
違う、と杢内は思った。おそらく源兵衛はその時はじめて、己が娘にどれだけ残酷な仕打ちをしてきたのか、ようやく気がついたのだ。
「それ以後、父上が戯れにでも私を息子と呼ぶ事は一度たりとて無くなった。幼き頃よりもさらに厳重に、私を人の目より隠して育てるようになった」
父親としてはさぞ面食らった事だろう、と杢内は想像するしかない。しかし、本当に面食らったのは、変わってしまった娘に対してではなく、おそらく何も気づかず平然と過ごしてきた己自身に対してだ。
「……今さら娘のように扱われても、娘のように振る舞う事などできはしなかった。もとより私の心は父の跡を継ぐと、とうの昔に決めていた」
失ってしまったものを取り戻す苦い努力ならば、己にも身に覚えがある。杢内は背の蛍から見えない事を幸いに、顔を歪めた。結局何ひとつこの手に戻りはしなかった。かつて父を弔った遠い海辺に響いていた、波の音を想う。時の流れは、離すまいと固く握りしめた掌からも大切なものを砂のように抜き去ってゆき、そうして二度とは還らない。
「……父上が倒れた時、私は跡を継ぐと。そうはっきりと告げた」
蛍は首に回した手を動かすと、袂より例の紙片を取出し、杢内の顎の下で開いてみせる。
「父上の遺言はな。――本当は、これだけでは無かったのだ」
夜風に乗って響く声は、まるで喪った父を恨むかのような、そんな悲色を帯びていた。
(伝来の道具類はすべて売り払い、我が一子が生活の糧として与えて下され。それがしの亡骸は無縁墓へでも放り込んで下され。後生にござる、後生にござる――)
伝えた己の決意をまるきり無視し、実子の己ではなく、困惑する町方役人の膝に取りすがって泣訴する父を、見ず知らずの他人から情けを貰おうとする父を、そのまま空しくなる父を、蛍はただ愕然と眺めるしかなかったのだという。
「……正気に返ってみれば。私は寺の高台にひとりで立っていた」
高台から望む海の色を見て、蛍は己がなぜここへやって来たか気づいたのだという。
「私は訪れた事は無いが、父上の生国は讃州だと言う。――ちょうど、あの海の向こうだ」
蛍が首を振り向ける先を見遣れば、夜道の両脇に続いていた葦原が途切れ、闇の帳の彼方に弱くまたたく灯火と、その光を映して揺らぐ水面の鏡がいくつも見えた。漁火だ。
「せめて故郷と同じ海の見える場所に、静かに眠れる墓に、父上を葬ってやりたかった」
軽い財布を前に思案にくれたところで、風体のよくない男が寄ってきたのだという。
男は行き倒れの身内へ声を掛け、弔いの費えを世話したり、その後の生計が立つよう世話するのを生業としているなどと調子の良い事を言ってきたらしい。
「……思えばあの男も寺の者達も、私が女である事をひと目で見抜いていた。何故なのか」
眉を顰め目つきを厳しくしているだろう蛍の、その瑞々しい紅唇を思う。杢内は、己を男にしか見えぬと頑なに信じ込んでいるこの娘をひどくあわれに思った。
「むろん、それが身売りである事は重々承知していた。……だがもう、どうでも良かった」
全て始末が付いたら下の町で一番大きな旅籠へ来るように。それだけ告げると、男――女衒は気前良くまとまった金の入った包みを渡し、そのまま笑顔で去っていったという。
「試みに、私がこの金を持って逃げたらどうするのか。と尋ねたら、そんな事になればお父上は弔いもかなわず墓も立たず、浮かばれぬまま彷徨う事になりましょう。と、笑って答えた」
おそらく使い古された手なのだろう。仏を人質に取れば逃げ場などない。死んでしまった者にしてやれる事などもう限られているし、また同時に、いまさら何をしてやったところで遅過ぎた悔恨はつきまとう。
「死してなお父を彷徨わせるは、余りにも惨い――私の行き着く場所は一つしかなかった。道具もすべて質草に出し、得た金もすべて寺へ託した」
有り金全部を差し出して去ろうとする娘に仰天し、行く宛を尋ねて呼び止める僧を振り切るようにして、寺を後にしたのだという。
「……後のことは覚えていない。道を尋ねて歩き、やがて倒れ――気づけば物置の中だ」
蛍は顔を伏せた。杢内の首筋に、汗ばんだ額が貼り付く。
「……あの女は私に死ね、はやく死ねと言った」
杢内は無言を貫いたが、知らず自分の両肩に力が籠もるのを感じた。あの女め。
「はやく死んでしまった方がいい、そう罵りながらたった一人で懸命に看病をしてくれたのだ」
行き場を失った杢内の怒りは、女心という深い闇の奥へと消えてしまったようだった。
「それでも日に日に弱っていき、もう二度と立つ事も叶わぬかと思っていたが……父上の言った通りになった」
杢内が顔を上げると、肩に伏せていた蛍の頭も少し持ち上げられる。
草履の擦れる音だけが闇の中へ響いてゆく。蛍は、何かを躊躇している様子だった。
「――源兵衛の言った通りとは、何だ」
待ちきれなくなった杢内が答えを促すと、蛍はやや迷うように口にした。
「……生前に父上が一度だけ、口にした事がある。もし儂に何かあってお前が一人きりになったならば――たぶん次郎が助けてくれると」
「たぶんとは何だ」
咄嗟に言い返してから、杢内はもっと他に言うべき事が沢山あったのに気づいた。
「父上は言っていた。次郎は、あのような珍妙な木像を後生大事に背負ってずっと旅をしておるのだから、その背に蛍の一人や二人くらい乗せて運ぶはわけもない――と」
「それは……」
反論しようとして、杢内は首を振り仰いだ。結局何も言えずに口を噤む。
違うのだ。
杢内の父が旅先の海辺の町で病床に伏し、残りの命もあと僅かとなった時、父は唐突に小刀を手にすると、何かに取り憑かれたかのように木切れを削り始めた。残る命の灯火を燃やし尽くすようにしてやがて出来上がったのは、どこまでも不格好な木像でしかなかったが、父は満足したように小刀を置き、木像に向かってひとつうなずくと、後は何も語る事なく静かにこの世を去った。杢内は遺言すら残してもらえなかった。後に残されたのはただ、ひどく不出来な木像と、そして年若い息子だけだった。
父の弔いの折、杢内は残された木像を父の亡骸とともに墓穴へ埋めようと考えた。墓堀人夫も優しい目で同意した。しかしできなかった。若い杢内からして見れば、父を喪い、そしてこの不格好な木像を得たようなものだった。父の代わりに手に入れたものを、もう一度喪う事はどうしてもできず、それゆえ父のように共に旅をするしかなかったのだ。
不器用極まりないかつての己の旅路を思い、杢内は皮肉げに唇を曲げた。昔から何一つ変わりはしない。結局、今もこうして出来損ないの人形を背負い、暗い夜道を歩いている。
杢内の沈黙の意味も悟らぬまま、蛍は思い出話を続けている。
「――父上は、よく次郎の話をしていたのだ」
何くれとなく話しかけてきた源兵衛へ、いつも己はどんな答えを返していただろう。
「――あれは腕が立つが関心のないものにまるで気づかぬゆえ隙が多い、とも言っていた。実際、旅先で幾度も顔を合わせているが……やはり父上の身内とは思われていなかったな」
ばつが悪そうに杢内は顔を背けた。関心がなかったのは源兵衛に対しても同様であった。いつだって、つらい昔の事など思い出したくもなかった。父を亡くした後など目を覆わんばかりだ。仕官しなければと焦燥感に追われて旅をしていた頃は、浪人仲間の姿はまるで鏡を見るようであり常に目を背けていた。念願の仕官叶って、家中という身分に己を嵌め込もうと苦闘していた頃も、浪人時代の仲間など忘れたい過去でしかなかった。
「しかしそれでも――父上の言った通りになった。不思議なことだ」
悟るような静かな声音へ、亡き源兵衛の導きだろう、などと安っぽい慰めをかけようかと迷った挙句、杢内はぶっきらぼうな声を放った。
「おい」
なんだ、と身を起こし答える声の辺りを目がけて、後頭部を振るう。
軽い衝撃とともに頬骨の辺りにでも当たったような感触が走り、いたっ、なにをする、と蛍の怒声が響いた。
「……あまり背伸びをするな」
背負われる娘がそれでも気丈に背筋を伸ばしているのでなければ、当たらぬ一撃だった。
熟慮の末に杢内が放った言葉の意味を測りかね、蛍は当惑しているようだった。
「無闇に大人振るな。子供は子供らしくしていろ。…ろくな事にならん」
訥々と言葉を足していくと、蛍は反感をおぼえた様子だった。
「なぜいけない。子が親の手を煩わせず早く大人になれば、誰も苦しまず済むではないか」
背負われている娘は、ずっと己を重荷と捉えていたのか。杢内はかぶりを振る。
「――そんなわけがあるか」
ひたむきに信じていただろうものを言下に否定され、骨張った指が両肩へ食い込む。
杢内はつとめて優しい声を放った。
「……子供のうちに無理をして大人の振りをすると。大人になってから、子供じみた振る舞いをする羽目になるのだ」
思い出す。物心ついた頃より杢内は、父から叩き込まれる学問技芸を疑問なく吸収し、父の教えを守って折り目正しく振る舞ってきた。いつだって父は正しく、それ故に仕官の口がかかる日もそう遠くないと無邪気に信じていた。終わりなき旅に窶れ、みすぼらしい自分達親子を自覚し、その信仰も揺らぐ頃、一度の仕官も叶わぬまま旅先で父は病に倒れ、そしてあっけなく逝った。父の死後、まず杢内を襲ったのは喪失感よりも徒労感と激しい怒りだった。我慢して聞き分けよく過ごしてきた子供時代をまるで取り返すかのように、杢内は父の教えを踏みにじり、身に着けた教養技芸を足蹴にするように、荒々しく獣の如く振る舞った。一箇の暴風のごときその無軌道の季節が終わりを迎え、ようやくに杢内が正気を取り戻したのは、しかし現実という壁にねじ伏せられ、苦い土を噛んだ瞬間でしかなかった。
「――蛍」
はじめて名を呼ぶと、痩せ衰えた身体がまるで裁きを待つかのように小さく震える。
「……もう、無理はしなくてよい」
与えられた言葉をしばらく吟味するような沈黙の後、蛍は再び杢内の背に顔を埋めた。しゅく、しゅくという泣き声とともに肩があたたかく濡れてゆく。
なぜ泣く、と杢内は思った。
夜半にようやく辿り着いた今津宿で数泊すると、蛍はごくあっさりと元気を取り戻した。元々旅に育った娘で、病に罹る事も稀であったという。その間、有り金の殆どを寺にむしられほぼ文無しだった杢内は、自藩が他領内に借りている蔵屋敷へ出向き蔵役人に借財を申し入れ、また株を盛大に下げつつもどうにか路銀を作った。肩を落としながらも溜めていた宿代を清算した杢内は、往来で待つ蛍がじっとこちらを見つめているのに気付いた。
相変わらずの前髪に襤褸の袴を着けた男装のままだが、溌剌さでかなり印象が変わる。と、蛍は不意に近寄ると人の顔を覗き込み、ごどうびょう、と呟いた。
「……そんな顔をした知己を見かけると。父はよく、御同病か、と訊ねて笑っていたのだ」
同病とは何の病か。訊いても教えてくれなんだ、と呟く蛍に、杢内は苦笑するしかない。
それは不治の病であり、大勢が罹患し、症状は財布が軽くなる。金欠病のことである。
「――なに、大した病ではない。大人だけが罹る。子供が気にするようなものでもない」
いなして例の紙片を出すよう告げると、蛍は重代の家宝の如く丁重に胸元より取出した。
顔も似ぬ癖に、このへんだけ源兵衛に似ている、と杢内は温かい紙片を手に唇を曲げる。
「いまさらこれを広げて。一体どうするつもりだ?」
記された五つの姓名を前に唸る杢内に、寝たきりで鈍っていた手足の筋を伸ばしながら蛍が訊ねた。一件落着のようなすっきりした顔をしているが、もう忘れているのだろうか。
「……早急に、金を工面せねばならぬ」
あ、と口に手を当てる蛍に、杢内はぽかりと拳骨をくれた。
「思い出せ。そも、誰の作った借財か」
「次郎であろう?」
こやつ、と杢内が拳を振り上げると、蛍は嬉しそうな顔で逃げた。もうすっかり元気だ。
「やれやれ。さては、浪人相手に父上の墓代をたかろうというのか? 地獄に落ちそうな話だな」
他人事のようにひどく無責任な台詞を口走る蛍に、杢内は呆れつつも違和感を覚える。
「……元はお前の身請け料であろうが」
うめくような渋面を向けると、蛍はけろりとした顔で礼を述べてみせた。
「おお。そうであった。あの苦界より助けてくれてありがとうな、次郎」
杢内は理解した。こいつはからかっているだけだ。まったく子供のような、とそこまで考えたところで、杢内はあえて蛍が子供のような態度を演じている事に気付く。
子供のままで居ろと言ったのはおれだ。蛍はただ、言われた通りにしているだけだ。
「……子供はそんな、もってまわった物言いはせぬぞ」
一応反撃してから、改めて杢内は大人の責任を果たす事にした。蛍にも紙を見せる。
「ともあれ、早く金を返さねばその苦界へ逆戻りだ。この中で、消息を知る者はおらぬか」
人差し指を顎に添えて唸る。と、蛍はそのまま一人の名前を指差した。
「――この者。およそ一年ほど前に隣藩で見かけたな。立派な身なりをし、供を大勢連れ、大きな屋敷より出てくるのを見たが」
まさか、と杢内は驚愕した。あの怠け者のぐうたらの能無しが、うまく仕官にまで漕ぎ着け、その上高禄を食んでいるとでも言うのか。どんな冥加だ。
と、そこで違和感にも気づく。蛍と一緒に居たはずの源兵衛が、仕官に成功した仲間を見かけ、祝いのひとつも述べずに捨て置くというのは余りにも不自然ではないか。
蛍は目を虚空に留めると、父らしからぬ行動の理由を告げた。
「――父上は、そもそもあの者ははじめから浪人ではなかったのだ、と言っていたな」
ああ、と杢内は納得する。
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