御同病墓六景

修羅院平太

墓参願

「つまり、暇乞いという訳か」

 平伏する高部杢内の前で、上役の増野は腕を組むとそう結論づけた。

 背中をまた一筋の冷や汗が垂れ落ちるのを感じつつ、意を決して顔を上げる。

いましばらくの休みを頂きたい旨。きのう届所を訪れた旧知の薬売りより、己が縁者を名乗る者が亡くなり、十日ほど前に隣国の寺にて弔われたと聞かされた旨。故に一度足を運んで確かめたい旨。再度の説明をはじめる書役を、思案げな目つきで眺めたまま、寺社奉行の増野一馬は黙然と顎をしごいている。

不意に悟り、杢内は口を閉じた。増野の目は、永の暇乞いと何が違うのかと問うている。

 仕官して日の浅い下役が答えを自得する様を見て取ったか、増野はようやく口を開いた。

「仔細は相分かった。相応の理由とも認められよう。その旨、藩へは届け置く」

 だが、と増野は目元を少し厳しくする。

「年の瀬は既に一度見たな。この時期に勤めを空けるのがどういう事か、理解していよう」

 昨年の末。一年の中で寺社奉行がもっとも忙しくなる時期、杢内はこの小藩へ仕官した。すぐさま空いていた寺社奉行配下の届所書役へ任じられ、ただ一人の奉行である増野と、真冬に草履を何足も履き潰す奉行取次役との間で慌ただしいやり取りを重ねつつ、どうにか大過なく二月を迎えることができた。なお余りに忙しすぎたため一月の記憶はない。

 そんな中、年の瀬を控えたこの時期に今しばらくの暇乞いなど許されるはずもなかった。

 大恩ある上役へ返せる言葉などなく、杢内は黙って畳に額を押し付けるしかない。

 若さに似合わず後れ毛に白の混ざる後頭部へと視線を感じたのち、不意に話題が変わる。

「しかしこの者ら、みな仏の縁者に相違ないのか? 生国も遠く、また浪人とあるが」

 頭を上げれば増野は一枚の紙片へ目を落としている。そこには杢内の名もある筈だった。隣国の宿場で倒れた池田源兵衛が、苦しい息の下でどうにか伝えた己の名と、縁者とする四名の氏名生国がそこには記されている。寺内での簡素な葬いが済んだ後に、唯一その紙だけが残された。昨日杢内を訪ねた旧知の薬売りは、少なくともそのように語った。

 その四名はみな仏の縁者です、ときっぱり断言する杢内に、増野は片眉を上げる。

「お主本人が仏でもなかろうに。すべて縁者であるなどとわかるのか?」

 わかるのです、とあくまでも言い張る杢内に、増野はふたたび紙片へと目を落とした。

「『縁者 上総国浪人 高部次郎杢内』か。――浪々の身の内は、さぞ知合いも多かろう」

 暗に縁者ではないのだろうと告げられ、杢内は表情を硬くする。

 そうか、と改めて思い至る。源兵衛はおれが仕官した事も知らずに死んだのか。

「まあよい。藩より、許しは出よう」

 興味をなくしたように、増野は立ち上がり背を向けた。

高部、と肩越しに投げかけられる声音には、既に僅かな諦念が混ざっている。

「他に良い仕官の口が見つかったのならば、べつだん咎めはせぬ。隠さず正直に申せ」

 違います、と杢内は慌てて立ち上がった。増野は誤解している。

「出世の見込無き代わりに閑職と思えばあの激務よ。仕官を早まったと思うも無理はない」

否定を聞き流すかのように、上役は冬の庭先、葉を喪った木々へと視線を移す。

 枯木のようにやつれ果て、届所より下がる己らの姿を思い出し、杢内は口を噤んだ。

「――当藩へ。仕官の許しを求めに参った時のことを覚えておるか」

 ふいに増野はそんな問いを投げてくる。脳裏には、推挙元からの借り物の古びた裃にてかしこまり、藩庁の一間で諮問を受ける己の姿が浮かぶ。

「その折。親の代より浪人暮らしで、財物はひとつを除き既に手放した、と聞いたな」

 緊張したみすぼらしい浪人者をつつくのは楽しかったか、同席した中老は笑い混じりに、どれ、自慢の道具とやらを見せてみよ、などと言ってきたのを覚えている。

「其方が唯一手元に残した財物とは、父御の形見、という木像であった」

 病床の父が何かに取憑かれたかのように残りの命を振るって削り上げた木像は、しかし素人らしい不格好な出来で、中老を含め一同の笑いを誘った。杢内もお追従の笑い声を響かせた。しかし末席の増野だけが、あのとき笑っていなかった。

 杢内は、犬が腹を見せるようなあの追従笑いによってお歴々に家中と認めて頂き、ようやく仕官叶ったのだろうとずっと考えていたが、本当は違ったのかも知れなかった。

「――見込み違いであった」

 遠ざかる後姿より紙片がひら、と舞い、杢内の前の畳へと落ちた。




 山間の夜明けは足元より訪れる。払暁、星々が彼方へ消える頃、沈む月も昇る陽もいずれも山々に遮られ、その光が差し込む事はない。空の色だけが音もなく移ろい、墨から藍、群青へと変わると、霜に覆われた地表や中空を漂う靄がより白さを増してゆく。ぼんやりと輝く山野は雪明りに照らされるようでもあり、未だ日昇前にも関わらず霧の中へ山道を浮かび上がらせるのだった。

 字を読むには十分に明るい。草鞋と脚絆で固めた足を忙しなく動かしながら、杢内は懐より紙片を取り出した。

 ――讃岐国浪人 池田源兵衛秀勝

 ――縁者 若狭国浪人 吉岡継助監物

 ――縁者 因幡国浪人 棟方六郎左衛門

――縁者 能登国浪人 石山胤弥主計

 ――縁者 上総国浪人 高部次郎杢内

 五人の名前を見下ろして、杢内はほう、と溜息をついた。吐息は丸く霞んで消える。

 源兵衛は縁者などではなかった。そして並ぶ名前も誰一人として、縁者ではなかった。何しろ皆の正式な姓名すらこの紙を見てはじめて知った。連中はかつての浪人仲間、仕官の口やら飯の種を求めさすらう先でいつも出くわす御同病。正式な名乗りなど聞きもしないし例え聞いたところですぐ忘れる、お互いその程度の付き合いでしかなかった。しかし、源兵衛は死に臨んで付き合いの浅いはずの自分達四人を縁者と言い遺した。その事にはきっと意味があるはずで、だから確かめなければならなかった。

あるいは。杢内の考えが正しければ、そこには何の意味もないのかも知れなかった。

 杢内は行く手の霧の上に、源兵衛の豪快な笑顔を思い浮かべようとした。だが、その笑顔は既に霧の向こうに隠れ、二度と見えなくなっているようだった。

 最後に顔を合わせたのがいつだったかを思い出す。あれは、もう数年前か。或る市中への逗留中、たまたま五人が揃って同じ口入屋から受けていた、小半月ほどのきついきつい人足仕事がようやく終わりを迎え、半纏姿で溢れ返る料理屋の飯台で、まとまった金を手にこれからの互いの前途に祝杯をあげた、旅立ち前日の夜だった。

(われらが輝かしい前途に)

 そう言って、赤ら顔で勢いよく盃をぶつけにきた源兵衛の事を思い出す。

 この五人の名前が並んでいる事は、それだけで一つの結末を指し示す。

 顔立ちすらなかなか思い出してくれないような相手をわざわざ縁者と書き遺したのは、浪人の源兵衛にはもう係累など存在しないうえ、ひょっとすると、そんなどうでもいいような付き合いこそが、浪人暮らしで世を渡り続けた源兵衛の生涯にとって最も楽しい思い出で、また最も深い交わりであったという事実を意味するのかも知れなかった。

 杢内は笠を被り直すと、濡れた山道へ力強く一歩を踏み出す。

 上役の不興を買うほど、自らの立場を危うくするほど、価値のある相手ではなかった。

 ただただ、源兵衛があわれだった。

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