本当は恐い、猫

人生

猫好きに刺さるというか、刺しにいく話「不純粋猫批判」




 吾輩は猫である。


 ……などという冒頭で始めると、「そっ閉じ」する人が一定数いそうだ。


 なので、こう書く。


 吾輩は猫が嫌いである。


 そうすると、「まんじゅう恐い」の理屈ニュアンスで、「嫌い嫌い言いつつ好きなところを挙げていくんでしょ?」みたいな感じで読み始める人がいるかもしれないし、ブラウザバックするのかもしれないが。


 マジで嫌いだ、という話をする。


 怒りに任せてブラウザごと閉じる人もいるかもしれない。あらすじと同じ文章が続いたことで適当にスクロールしてそのまま読まない人もいるだろう。そうした以下に続く文章の存在をなんら疑問に思わない、短気な人とはここでおさらばだ。こちらとしても、これでようやく人払いが出来たといったところである。


 じゃあ、吾輩は猫が嫌いだという話を書いていこう。




 ちなみに、まずはっきりさせておきたいのは、ウチは猫を飼っていて、自分の記憶は曖昧だがそれはもう十年以上に及んで、そして現在も存命である、ということ。猫の日などと言われる本日(2月22日)、ヤツはいつになくふてぶてしい態度と表情をしている、ように思う。

 この文章をつづっているのも、あれの存在が少しでも吾輩にとって価値があったのかどうか、それを確かめるためといっても過言ではない。つまり創作のネタになるかどうか、我が人生における飛躍の糧になるかどうか。この文章がなんの成果も生まないなら、やはり吾輩の中における猫の立場というものは低いままだ。まあ、仮にこれが評価されたところで突如これまでの態度を翻し、猫に頭を下げるような卑劣な人間性は有していないが。


 ともあれ、これは単なる根拠のない誹謗中傷ではない。理由のある恨み辛みである。と先に記しておく。




 まず真っ先に思い出される、深く記憶に残っているエピソードは、好きなイラストレーターの画集、その表紙を八つ裂きにされたこと。正確に言えば帯だけだが、なんにしても表紙に傷をつけられたという話。記憶というのは思い出すたびに細部が変化していくもので、どんどんそのイメージは先鋭化、印象だけが具体化していくものなのだ。なので吾輩の記憶の中では本をズタボロにされたという風になっている。


 ……これに関連して、その昔、書籍の付録についていたカードを、幼い弟にハサミで切り刻まれたことを思い出す。まあ、子供のすることだし。でもこっちの方が酷くないか? それに比べれば猫のすることなんて、とか思ってしまいそうになるが。「子どものしたことだ」と「猫のしたことだ」はほとんど同列である。そしてやったことは同罪だ。


 しかしまあ、いつまでも根に持つのもいかがなものか、という自覚はあるし、実際今ではそこまで恨んではいない。しかしそれは時間経過によるものだ。吾輩が大人になっただけだ。それはそれとして、やったことは忘れない。猫は嫌いだ。




 言葉が通じないところが嫌いだ。意思の疎通がとれないのはストレスだ。


 何を喚いているのかこちらから察しなければならないし、察することが出来ない場合がほとんどだ。嫌いだ、と書かれたあらすじを読んでそっ閉じするような人間にはとてもじゃないが難しいだろう。あいつらは何かしら構ってほしいのかもしれないが、それが分からない。こっちから構ってやろうとすれば無反応で眠りこける。嫌そうな顔すらする。なんやねん。


 たまにそういう「猫のツンデレなところが好き」とかいう人がいるらしいが、質の低いツンデレに用はないんだこちとら。ケモ耳は好きだけどそれは猫耳に限った話ではない。というかツンデレはキャラじゃない、物語なんだよ、その文脈なんだ、というパッと思いついた自論などを述べてみる。ツンデレを魅せるのは態度じゃなく、その人物を物語るストーリィなのだ、とか。

 こうした長文を読み切れず適当にスクロールなりして読み飛ばすような人間にツンデレの何がわかるというのか。軽い気持ちで摂取したいならそもそも小説などにかかわらずイラストや漫画の方が良い。一目でわかるツンデレがそこにはあろう。小説のそれはじゅうぶんに理解するには時間がかかる。現代人の価値観にはそぐわないに違いない。どこの馬の骨とも知れない吾輩の書くこのような長文に時間を割くほど現代人は暇ではない。有意義なコンテンツはこの世にごまんと存在する。やはりイラストや漫画が良い。猫について書かれた小説などよりも実物を映した画像や動画の方が圧倒的に需要があるに決まっている。このコンテストは失敗だ。


 しかしまあ、考えてみる。

 あいつら、喚いても人間様に意思が通じないっていう状況、ストレスじゃないのか? とか。してほしいことがやってもらえない、分かってもらえない、ストレス。よくもまあウチにいるよね、とか思うものの、こっちが飼ってるのか、と我に返る。好きでウチにいる訳じゃないのか。人間のエゴがここにある。


 さらに深く考えてみれば、それは人間の子ども、つまり赤ちゃんでもいえることだ。赤ちゃんは好きで生まれてきた訳ではない。そして「お腹すいた」「おしっこした、うんちした」みたいなアピールだと推測できはするけど、急に喚きだすところは変わらない訳だ。


 最近たまに、というか割と頻繁に、親が子どもを死なせる……いやさ、あえて強い言葉を使うなら、「殺した」というニュースをよく耳にする。


 実情は想像するに余りあるが、それらも本質的には意思の疎通がとれないこと、相互不理解からくるストレスに原因があるのではないか。というか、そういう事件を起こす大人は自分の子どものことを「同じ人間」ではなく、「ペット」のようなものだと思っているのではないか。

 そういう事件を起こす大人の子ども時代とか、ペットを飼ったことがあったか、とか、そうしたデータを調べてみたら共通点とかが見つかったりするんじゃないだろうか。


 親に愛されていなかったから親としての接し方がわからない、動物の世話をした経験がないから他者の面倒を見ることが出来ない……みたいな。


 赤ちゃんとペットを同列に見るのはいかがなものか、という批判もありそうだし、実際法律のうえではペットは「器物」、死ねば「ゴミ」として処理される訳だが――言葉は通じずとも、どっちも同じ一つの命な訳で。


 なんなら同じ言語を使っていない外国人は無数にいるし、同じ国内で同じ言葉を使っていても意思の疎通が取れない他人も数多いる訳で。


 猫を「ペット」として一つ格下に見るより、「他人」として接するのが適切なのかもしれない。その方が、お互いストレスがないだろう。猫好きという連中はその点、猫を「猫さま」などと神格化し、それに仕えることを至福としてストレスどころか幸福感を得ているというから、恐ろしい。いくら猫も神さまも意思の疎通がとれない存在だからといって、その二点をイコールにするとは常軌を逸している。そこに猫好きというやつの狂気を垣間見る。ネコと和解せよ? 吾輩は単に嫌いなのではない、不理解がある訳でもない。好きの反対は嫌いではなく無関心、嫌いの行き着く先もまた無関心。吾輩はそもそもかかわりたくないのである。まっとうな人間なら誰しもそう思うはずだ。怪しい宗教とはかかわりあいになりたくない、と。


 しかしまあ、なんにせよ、そういう意味ではペットを飼う、という経験をしておくことは大事なのかもしれない。自分よりも立場の弱い存在と共生する、という経験を積むことはもちろん、意思の疎通がとれない存在に対する態度を学習する、という点においての話だ。社会に出ればそうした理解しがたい人型の生きものともかかわらなければならない。

 とはいえ、仮に将来自分の子どもが「猫を飼いたい」とか言い出しても絶対に賛成しないと思う。どうせお世話しないでしょ、みたいな感じで。ともすれば、猫より犬にしなさい、になるかもしれない。


 そう、吾輩はどちらかといえば「犬派」である。




 猫はツンデレだ、という話を聞く。一方、犬は人間に忠実な印象が強い。


 ツンデレを苦手に感じる人がいる一方、自分の言うことを聞いてくれる相手を嫌う人間はそうそういない。いるとすればそちらの性格にまず問題がある。


 ……絶対、犬の方がいいじゃん?


 仮に吾輩が急病で倒れて、誰にも連絡がとれず家の中で孤独死寸前って状況があったとする。その時、犬がわんわん吠えて近所の人に異変を報せた……、みたいな感動話って割と聞く気がするが、猫のパターンは記憶にない。ともすれば連中、飼い主が目の前で殺されても、殺して相手からエサをもらったりするかもしれないぞ。

 ツンデレの良さなんて欠片もないじゃないか。普段そっけなくても、こういう時に助けてくれるのがツンデレだろうが!


 化け猫はいても、化け犬はいない。化けて出るっていうのは生前の恨み辛みから死後も祟ってやるー的なやつなので、あいつらは養ってもらう身でありながら飼い主に対する一方的な憎悪を募らせているかもしれないのだ。


 その一方、忠犬はいても、忠猫はいない。ちゅうびょう。中二病みたいだし語感もよろしくない。ビョウってなんだ。豹の名残かよ。名残なのか?


 犬は元をたどればオオカミで、人間が家畜化に成功したがゆえに、現在も人間に忠実なのだ――というような話がある。猫はどうか。あいつらはまだ家畜化されていないから、人間にそっけないというのか。野生のプライドなのか。


 ウチの猫の話をしよう。

 あれは昔、放し飼いされていた。つまり、家の外にも自由に出ていた。ネコドアなんて秘密道具はないから、そのたびに「外に出せ」と喚いたりする。ドアを開けさせられる。夜中でも構わず。トイレは基本、外でする。だから庭とかに糞がある。クサいのもあるが、それは本題ではない。


 現在では家の中で飼うようになった。外には出さない。ノミがつくからだ。そのノミ被害も吾輩が猫を嫌う理由の一因だが、それもともかく。


 家の中で飼うようになって、トイレも猫用のものを使うようになった。誰が教えた訳でもなく、ちゃんとそこが自分のトイレだと理解し、利用している。猫にしてはやるじゃないか、と上から目線な考えが抜けきらないのだが、問題はそこだ。


 猫というものは基本的に、用を足したあと、土なり砂なりをかけて糞尿を覆い隠す訳だが――ウチの猫もそうするし、そのための猫砂のあるトイレなのだが。


 ヤツはなぜかトイレから上半身、前足、前肢の部分を出してから、その足で砂をかく。砂をかく、という動作をする。実際にはトイレの周りに敷かれている新聞紙をがさがさするだけで、トイレ内にある糞尿は一切覆い隠せていない。まるで本能だけが空回りしているような有様である。野生の名残。家畜化の末路がこれである。


 お陰でヤツがトイレをすると、家中にその臭いが充満する。いい迷惑である。しかもトイレの間隔が深夜や早朝なものだから、家族の誰もすぐにはその処理をしない。臭いはやがて消えるものの、それまでに家中に広がり、気流の関係なのか、吾輩の部屋とかに襲来する。臭来。夜中ふと目覚めた時に臭い思いをする身にもなってほしい。

 かといって、深夜や早朝に「うんちした! 片付けろ!」と喚かれるのも迷惑な話で。


 猫というやつはとにかくうるさい。そしてそれは我が家の猫に限った話ではない。


 猫には発情期というやつがある。その期間、外からやってきた野良猫がウチの周りで喚きだす。にゃーにゃーぎゃーぎゃー。近所迷惑である。しかも時に、鉢合わせした猫同士が喧嘩などする。近所迷惑甚だしい。


 こちらの猫はウチにいてその騒音の原因ではないのだが、ご近所さんはどう思うだろう。猫の声の違いなど分かるまい。「またあっちの家の猫が喚いてる。うるさい」とかでご近所との関係が悪化していた、という可能性もなきにしもあらずだ。肩身が狭い。




 そんな猫嫌いの吾輩のウチに、どうして猫がいるのか。


 好きで飼っている訳ではない。家族に飼わされているのだ。


 というのも、それは家族がもらってきたからである。親戚の飼っている猫に子どもが産まれ、それを分けてもらったという次第。


 あんたのためにもらってきたのよ、などとウチの母は言う。頼んだ覚えはないし、「自分のため」で何かしらの利益を得た覚えもない。癒し効果がある、などとのたまうが、ストレスばかりが溜まる。まだオカルトグッズの方がマシである。少なくとも、持っていて害はない。少なくともウチの猫は重い。


 猫の手も借りたい、という言葉もあるが、あれって「人間以外の手を借りないといけないほど切羽詰まってる」状況なだけでなく、「働きもしないし仮に働いてもなんの成果もあげられないようなヤツ」の手すらも借りたい、という困窮した状況を表してはいないか。猫は年中寝てばかりで怠惰な生きものだが、あいつらは動物なのでそれが許される、本能に従う生きものだという擁護はしておこう。


 そもそも、癒し効果とは何か?


 可愛いからか? 見た目か?


 しかし、吾輩は思うのだ。あいつらの顔、気持ち悪いなって。なんであんな小さな頭部に眼球二つ、鼻とか耳とか口とかあるの? ずっと見てるとなんだか気味が悪い。嫌そうな表情は分かるが、喜んでいるかどうかは不明だ。つまり嫌なところだけ目に付く生きもの、それが猫。しかしまあ、表情筋の発達は哺乳類、人間の特殊能力のようなもの。母親のおっぱいを吸うために発達し、それが結果的に笑顔をつくる機能を備え、社会性を営める下地になったという。ウチの猫に社会性などない。外から隔離され、家暮らしで一匹なのだから。


 でもそれを言うと、たまに手のひらを太陽に、みたいな感覚で天井の照明に向けて両手を伸ばしてぼうっとしてみるのだが、その時の自分の指、同じようなものがいくつも並んでいる光景を気色悪いと思う。ゲシュタルト崩壊みたいなものなのかもしれない。なんなら人間の顔も気味が悪い。加工したやつとか、人間味がなくて不気味である。あれを可愛いと思う感性がわからない。そういう感性を持った人たちがだいたい猫動画をツイートしている。みんな同じ文章を並べている。


 ……確かに、犬と猫を比べたら、どちらかといえば犬派の吾輩でも「犬よりは猫の方が可愛い」とは思う。外見の話だ。犬はカッコいいという表現が似合う。印象の話だ。小さくて可愛らしいと思う犬もいるにはいるが、そういうのはきゃんきゃんうるさいので嫌いだ。そういう経験、先入観、偏見もあるが、やはり見た目の可愛さでいえば猫の方に軍配が上がるのだろう。


 しかし、世界的に見ればどうだろうか。2月22日が「にゃんにゃんにゃん」で猫の日だという話らしいが、それを言うなら犬は「ワン」だ。1月か11月かは知らないが、猫より機会が多いのは確かだ。そしてワンは英語、つまりグローバル。

 ……英語圏での犬の鳴き声はバウワウ? うん、そうかもしれないが、それでもグローバルで意味が通じるはずだ!


 ……犬派だとか猫派だとか、こういう話はやめておこう。争いの種にしかならない。炎上というのは概ね、嫌いなものについての話を始めるから起こるのだ。そういう意味ではもはや手遅れかもしれないが、吾輩は事前に人払いは済ませておいたはずである。


 たいていの場合、なんらかの主義主張、思想信念を持っている人間というものは恐いものなのだ。そうしたものの対立が戦争を生むのである。こういう改行の少ない長文などを書いて人を攻撃する。猫好きも然りである。猫信仰は特に狂気を孕む。猫吸いとかいう自殺願望でもあるのかと正気を疑うような行為を稀に見る。窒息するぞ。死にたいのか。

 ……あんまりいろいろ書くと刺されるどころか火をつけられそうだが、あえて書かねばならない。なぜなら人間の身体は、その本能は、生殖と闘争を求めるものだからだ。人間とはそのようなケダモノなのだ。政治も宗教も戦争の道具なのだ。道具を使う生物、それが人間なのだ。真に理性的な文明人であらんとするなら、そうした闘争に身を委ねるべきではない。猫でも見ておけ。


 しかし、なんとか派、というのはキノコタケノコ然り、争いの火種である。猫はつまり、争いを生む存在なのだ。癒しとは程遠い。最近だと旧ツイッターに流れてくる猫画像はたいていがボットと呼ばれるものによるものだ。あれはみんな嫌いだろう。何々さんが亡くなったというトレンドに便乗し、この画像を見て癒されようだとか、私はこれが気に入っています、とかで他者の事件事故の報道に絡めて猫画像を載せるのだ。不謹慎極まりないが、これは別に猫のせいではないか。そうか。こういう文脈で何かを「悪」に仕立てあげるのが自称善人のやり口なのでみなさん気を付けましょう。詐欺とかもそういうニャ、ニュアンスでくる。


 しかし、そうした猫動画で人を釣れる、ということを考えている人間が一定数いる意味でも、猫は有害だ。麻薬みたいなものだ。先に述べた猫吸いにもその様子を見ることが出来る。一度やったら抜けられない。猫ミームとか猫動画を見て実質ぼうっとしている時間を有効活用すれば誰だって成功者になれる、と動画サイトでエラそうな成功者がよく語ってるイメージある。つまり猫によって人生をダメにされている人間が一定数存在するということだ。


 というか言われるまでもなく、猫って天敵だろう。みんな大好きミッ〇ーもピ〇チュウもネズミモチーフの存在だ。そういうものを襲う生物、それが猫だぞ? ウチの庭にもネズミや小鳥の死骸が落ちていることがままあった。


 そういうエゲつないことをした口で、ご飯を食べた舌で、毛づくろいをする。とてもじゃないがさわれたものではないだろう。猫はきれい好きだと? とてもそうは思えないなあ! と吾輩は声を大にしたい。要素だけ取り上げるなら、ヤツらは自分の仕留めた獲物の血液で身体を彩っているのだ。やってることは異常犯罪者のそれである。美的感覚が人間とはかけ離れすぎているのだ。


 仮に、猫の見た目が理由で人気があるというなら、それは人間のエゴを表していると言わざるを得ない。つまり、ヒトは見た目で好き嫌いを選ぶ、人種差別と同じ理屈に繋がるからである。第一印象でものを判断する。冒頭だけで読んでこの小説にも低評価を入れるか批判コメントを残す。猫も犬も分け隔てなく愛するべきではないのか。そもそも人間が悪いのか。もうこの話はやめようか。


 じゃあ本質的な話をしよう。以前、こういう話を聞いたことがある。生まれてきた我が子が、実は昔飼っていた猫の生まれ変わりだった、というものだ。ホラーである。いや、冗談じゃなく、実際ジャンルはホラーとして放送されていた。死なせてしまった猫の生まれ変わりなのだ。

 輪廻転生を信じるなら、ウチの猫もそちらの猫も、生前は人間だった可能性がなきにしもあらずである。つまり、どこかの知らないおっさんだったかもしれないのだ。なんなら親の仇だったかもしれない。袖振り合うも他生の縁、というやつである。家に来たからには、生前になんらかの関係があったのかもしれない。吾輩はあいつに殺されたのかもしれない。猫は恐ろしい。それでもあなたは猫を可愛がれるのか。

 



 さて、ウチの猫の話だが。


 その昔、変な声をあげながら帰ってきたことがあった。


 鼻が潰れているようだった。


 何かにぶつかったとは思えない。誰かに蹴られたと考えるのが妥当だろう。


 理由は不明だ。今もって真相は分からないし、もうその痕も残っていないが。


 少し、腹が立った覚えがある。近所の誰かの仕業だろう。そういうことをしそうなおじさんがそれなりにいるような田舎だった。相手からすれば追い払うために多少脅かしたつもりで、危害を加える意図はなかったのかもしれないが。


 とても、嫌な気分になった。


 これは、自分の物を壊された、とかそういう感覚に近いのだろうか。器物損害だ。


 ……たまに、考える。仮にも物書きだ。ドラマなんかでもよくある……家族が殺された復讐に、相手を殺害する、というもの。

 もしも自分の家族が殺されたら、自分はどうするだろう。その時になってみなければ分からない。当然、なってほしくはないものだが。


 なんにしても、怒りは覚える。ともすれば、相手を殺そうとするかもしれない。その機会があれば、やる。かもしれない。やらない、とは言い切れない自分がいる。


 腹が立って、嫌な気分になって。とにかく、近所の人間を嫌いになった。今はもう引っ越したのでなんの縁もゆかりもないが――


 先に述べたように、猫は、ペットは「器物」である。仮に殺されても、器物損害になるのだろう。その報復をしたとすれば、それは正当防衛だとか情状酌量の余地なく、異常者による殺人だと社会では裁かれる。猫好きだからと擁護はされない。それが仮に家族のような存在であっても。猫好きを公言するのは他人から好印象を得るためだけで、困った時の助けにはならないのである。野良猫を抱えすぎてトラブルを起こす迷惑ご近所さんのニュースもたまにある。猫好きなんてロクなものじゃない。




 どうして猫などを飼おうとするのか。


 寂しさを埋めるため?

 寂しさを埋めるほど大きな存在なのか?


 自分が死んだ後、猫はどうなる? というか、自分より先に死ぬかもしれない。そうしたらより大きな喪失感に襲われるのではないか。だったら、飼わない方がいい。新しい猫で補填できるというなら、それはその人の勝手だが。


 たまに、家族とそういう話をする。こいつももう歳だし、と。ぜんぜん元気そうだが。


 そういう話は、あまり好きではない。猫がいると、そういう嫌な気持ちにばかりなる。人間に関してもそうだが、猫の方が寿命は遥かに短いのだから、自然それを意識させられる。


 猫は死ぬ時、飼い主の前からいなくなる、という。

 現在、ウチの猫は家の中で飼っている。一切、外には出していない。

 もしかすると、外に出せばそのまま帰ってこないかもしれない。家の中にいるから、未だに長生きしているのかもしれない。そんなことを思うが、現実的ではない。死ぬ時は死ぬし、気付けば動かなくなって冷たくなっている。ふと触れてそれを実感する瞬間が来るとしたら、それはとても嫌な体験だろうと思う。だからか、身動きしないながらも呼吸していると分かった時にホッとするのは。


 ただ、こうも思う。

 あの連中が毎日眠りこけているのは、あいつらにとって肉体とは一時に住まう、エネルギーを補給するための媒体でしかないのだ。ホームでしかなく、普段は寝ているように見えて、実際は幽体離脱よろしく魂だけで外に出歩いているのだ。だからまあ、死ぬ時もそんな感覚で、家を出ていくのだろうと思う。


 たまに窓から外を眺めている、ウチの猫。最初から外など知らなければ、出ようとも思わなかっただろうに。外の喧騒、よそ猫の気配。そういうものを感じて、家から出られない身分であることを実感する。永遠の孤独である。死ぬまで解放されない。解放イコール永遠の別れになるだろう。一度出てしまえば、もう二度と閉じ込められまいとするはずだからだ。まあ、お腹が空いたら戻ってくるかもしれないが。


 ともあれ、仮にそうしてしばらく会わなくなったら、きっと飼い主のことなど忘れてしまうに違いない。

 ウチのあれは自分の親猫と顔を合わせた時、威嚇するばかりで近付こうともしなかった。よその猫にするのと同じ反応である。自分の親のことすら忘れてしまうのだ。まあ、親の方は覚えているような素振りは見せたが、威嚇されては近づけない。幼い頃に人間のエゴによって引き離されたから、それも仕方ない反応なのかもしれないが。人間だって、そうなるだろうけども、人間よりも猫の記憶力は低いはずだ。きっと忘れる。そっけないのではない、そういう非常な生きもの、それが猫なのである。


 ……こうしていろいろと書いてみると、猫と人間には大差がないように思う。


 そうなると、吾輩が嫌いなのは猫だけにとどまらず、そもそも人間というものが嫌いなのではないか。生きものが嫌いなのではないか。そんな最悪な不時着の可能性が頭をよぎる。どうオチをつけようか。どんなオチをつけようと思って書き始めたのだったのか。もう思い出せない。それが吾輩の記憶力。


 とりあえず言えるのは、猫かわいー、猫飼いたいー、とかいう人たちの気持ちは理解できない、ということ。可愛いと思えるのはよそのウチの子だからで、おじいちゃんおばあちゃんが孫を可愛がるような感覚なのだ。その心の動きに関して、責任を持つ必要がないから、だと人は言う。しかし思うに、恐らくはただの老化だ。生殖という本能が静まり理性的な文明人として後進を可愛がるのだ。それが出来ない人間を世は老害などと言う。猫を可愛いと言えない人間は老害なのか? それは偏見だ! 差別だ! そうして闘争が始まるのである。やはり猫は飼うべきではない。強い主義思想は人生を窮屈にする。そうした人生に生きるのもまたそれはそれで幸せなのかもしれないが、それは他に幸せを知らないがゆえではないか。


 ともあれ、実際飼ってみたら当初のテンションはすぐに失われることだろう。猫可愛い、可愛いアイドルはうんちをしない、猫がうんちをするなんて聞いてない、という理解で世話をしない人間こそ、むしろこの(自分の見たくない情報だけを映さないように出来ている)情報化社会には数多くいそうで恐い。苦労は多い。関係は冷める。世話をしたからといって感謝されるでも、それに報いてくれる訳でもない。だんだんと他の可愛い猫動画を見るようになる。まるで夫婦みたいだ。関係が長続きするとすれば、そこには本当に愛があって、そういう人間こそが猫好きを名乗る資格があるのではないか。名乗る資格というか、猫を飼う資格というべきか。「エサ」ではなく「ご飯」、「ペット」じゃなく「家族」と自然に表現できる人間たちだ。


 その点、吾輩は意識しないと「エサ」と言う。なのでここまで読んだ人がいたとして誤解されると困るのだが、吾輩は決して猫が好きな訳ではないと、ここに強調しておく。好きで飼っている訳ではない。仕方なく面倒を見ているだけである。生まれてくる親やきょうだいを選べないようなものである。こうなってしまった以上は、仕方がない。そして途中で放り出すことも出来ないという、責任感というか罪悪感からくるものだ。それはもう呪いである。猫にかかわると、呪われる。そう易々とお焚き上げできないぶん、オカルトグッズよりタチが悪い。


 安易な気持ちで飼い始めるな。責任を持て。覚悟を決めろ。面倒を見れる自信がないならやめておけ。あれは可愛いペットじゃない。人を癒すために生まれてきた訳でもない。自分の意思を持つ、一つの生きものなのだ。


 可愛いってだけで、飼おうとするな。



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