たんぽぽ

真花

たんぽぽ

 でも、他に行くところもない。

 最後の小銭をはたいて、この街に戻って来た。夕刻に向かおうとする街はまだ目を見開いていて、僕は胸を張ることが出来ない。僕は大きなノミのようだ。いつ誰に潰されてもおかしくない。いや、もう潰れている。往来では身を隠すことが出来ないから、裏通りを行こうか。だが、歩き慣れていたこの道しか僕は知らない。

 自分の足を見ている。ざ、ざ、と靴の擦れる音がする。幸いにも街は僕に無関心で、商店のある範囲を孤独に抜けることが出来た。小さな街だ。それでも僕の街だった。誰にも声をかけられなかったことに、僕がもう街にとって過去の人物なのだと言うことを突き付けられたみたいで、胸に小さな穴が開く。……もっと大きな穴が隣にある。それでも増えた穴のことが気にかかって、奥歯を噛みしめる。

 住宅地に街はなだらかに変化する。人もまばらになる。だが僕はノミのまま歩く。何度も歩いたこの道にはきっと、僕の足跡が残っている。ずっと永劫残る。その上に隠れるように足を重ねている。道端にたんぽぽが咲いていた。あの人が好きだと言っていた。一輪茎ごとちぎって、胸のポッケに入れた。たんぽぽは折り畳まれて、ポッケの中に蹲った。軽くポッケを叩いてみる。生草の香りがした。

 アパートの前に立つ。何も変わっていない。一歩目が出ない。呼吸を確かめる。鼓動が走っていた。まるで壁にめり込もうとしているかのように進めない。行ってはいけないのだろうか。いや、あの人は命を適切に使えと言った。他に行くところはない。ここしかない。僕は右足を踏み込む。魑魅魍魎に体中を押さえ付けられる感覚、左足も出す。もう一歩。妖怪どもは少しずつ減って、代わりに僕の胸が重くなって、どんどん重くなって行き、気を抜いたら亀のように歩くことになりそうで、全身に力を込める。

 階段を上る。金属の階段は一歩ごとに音が鳴る。気にしたことなんてなかった。僕が重いからなのだろうか。落ちないように、確実に進む。息が苦しい。それでも止まらない。きっと一度止まってしまったらそこで死んでしまう。そんな命の使い方、ない。

 二階建ての二階。奥の角の部屋、205号室、目的のドアの前に至る。あの人はいるのだろうか。魑魅魍魎が追い付いて来て、僕の胸の重さに加わる。僕は中も外も真っ黒になっている。だが、このまま凍り付いて朽ちるのを待つつもりはない。

 ドアのノブを回す。開いた。

 中を見ると、あの人がそこにいた。

 出窓に腰掛けて、タバコの煙をくゆらせている。夕方に入った空から、薄いオレンジの光が部屋に流れ込んでいて、全てのものの陰影を強くしている。逆光であの人の表情は分からない。だが、驚いてはいないようだった。僕は部屋に入り、後手でドアを閉める。閉まるときに大きな音がした。あの人がいる。これまでだって、いつでもそこにいた。

「おかえり」

 あの人の声。間違いない。僕は玄関を抜け、あの人の側に向かう。光の角度が変わって、見えるその顔は懐かしく、でも大きく変わってはいない。僕にだけ美しい。あの人に近付くにつれ、僕の胸の穴が水でいっぱいになっていく。僕はあの人の手前で、立ち竦む。

「ごめん」

 あの人はタバコを咥えて煙を吸い込み、吐き出す。怒っているようでも、悲しんでいるようでもない。昨日も僕と会ったみたいな平静な顔をしている。タバコを消す。

「おいで」

 僕の胸の水が涙になって流れて、僕は縋り付くようにあの人の膝に顔をうずめる。頭を優しく撫でられて、タバコとは違う女の人の匂いがして、僕は涙を吐き出す。

「勇ましかったね。もう帰って来ないって言っていたのにね」

 声は僕に向かって言われているのに、部屋全体に放たれているような響きがあった。僕はその言葉通りのことをのたまって、この部屋を出て行った。

「ごめん」

 僕の声は部屋には響かない。僕にズルい気持ちは全くなく、本当に、ごめん、と思った。あの人はその声を軽く払うように首を振る。そんなことはもうどうでもいい、とでも言わんばかりに。息をする音。

「私の名前をちゃんと覚えている?」

 この声には命が込もっていた。間違えたらこの場で殺される。

りつ

「正解。もう一回、しっかり呼んで」

 僕は顔を上げる。そこには律の顔、僕を覗き込んでいる。まるで鍵を開けるみたいだ。

「律。ごめん」

 律はゆっくりと、大地が動くときみたいにゆっくりと頷く。

「いいよ。おかえり。また一緒に暮らそう」

 陽が沈み、部屋は暗くなる。僕達はまだそのままで、僕はいつしか泣き止んでいて、律は次のタバコに火を付けた。薄暗い中で赤いタバコの火は幽玄な生き物のようだった。僕は胸のポッケにたんぽぽが入っていることを思い出したが、渡すことはやめて、後で捨てることにした。


(了)

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